私の人生観

神的存在は、自然法則のもとで変化する宇宙を内包し、消滅の可能性を抱えながら、「無」に対峙して「存在」を持続している。

宇宙には、外界に反応する生物(命)が自然法則および超自然的法則の下で生息する。

これにより、宇宙が高度化、多様化し、神的存在が活性化して安定した存在となる。

自然法則は、例えば万有引力の法則、メンデルの法則である。

超自然的法則は、生物の「存在」を持続させるための方向性を示すものであるが、完全ではない。

とりわけ人間にとっては、遺伝子情報に込められた「道徳感や価値観が生まれうる心の構造」およびそれによってもたらされる様々な生き様への誘導である。ときには、不公平や不自由、不運といった人生の理不尽を招くこともある。

超自然的法則が完全でないのは、もし完全であれば人間の生き様の多様性がなくなり、ひいては神的存在が活性を失い、「存在」の持続が弱体化するからである。

さらに人間は、超自然的法則のもとに生きながらも、その秩序に背いて自らの行為を選び取る意思決定能力を備える存在である。

超自然的法則や意思決定能力によって、各人はその資質や存在環境に応じて多様な道徳観、価値観を持ち、多様性に富み運命を感じるような人生を送る。

このような人間の存在によって、宇宙の「存在」が多様性さらには主体性を持ち、神的存在が強固な「存在」となる。

しかしながら、「存在」は、決して安定したものではない。
神的存在が常に崩壊の可能性を抱えながら、なお「無」に還らず在り続けることには、本質的な厳しさがある。

人間が生きることに苦しさが伴うのは、その厳しさが生の条件として現れているからである。

人間には、自らの目的を見いだすという難題が与えられている。

さらに、超自然的法則によれば、苦しみに耐えて生きる過程の中でこそ、喜びを得る可能性を持っている。

また、人間は、資質や環境によっては、超自然的法則を神的存在の「存在」の持続に反するように解釈し、利己主義者などの背徳者になることがある。

背徳者は、例えば強者が弱者を支配することを当然のように振る舞い、多くの人が喜びへと結びつかない苦しみを強いられる。

しかし、奇跡的な救済は起こらない。

神的存在が内包する超自然的法則に反して背徳者から人を救うことは、法則ひいては神的存在そのものを否定することになり、その結果、神的存在自身が「無」に還ることになる。

それでも希望はある。

宇宙や生物の存在を破滅させるような生き様は、超自然的法則の範疇外にある。
ゆえに、神的存在がそのような背徳者を超自然的法則に従う方向へと修正することがあっても、それによって神的存在自身が「無」に還ることはない。

多くの人が、神的存在の「存在」の持続に参与できることに感謝しつつ、苦しみを引き受けて生き、自らに適した目的を達成していく。
その過程で得られる喜びこそが、神的存在と共鳴しながら生きることである。

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