お祈りの言葉の末尾を「励みます」にしました

私は今年から、神社などで祈るときに
「……ようにお願いいたします」に代えて、
「……ように励みます」と祈るようにしました。

超自然体は、自然的法則のもとで変化する宇宙を生成し、
消滅の可能性を抱えながら、
「無」に対峙して「存在」を持続しています。

人間はその宇宙に内包され、
各人が固有の資質を持ち、
自然法則および超自然法則の下で生きています。

一人の人間の願いが、
超自然法則を変えて叶えられることはありません。

だから私は、
超自然体の「存在」の持続に、
自分が「生きる」ことで参加できることに感謝しつつ、
自らの目的を達成するために、
「……ように励みます」と祈ります。

価値観の空洞化

利己的な指導者の横暴、戦争の頻発、
貧富の差の拡大、いじめ等の社会問題が蔓延し、

理想・信念・希望・努力・協調・倫理などの内的価値を示す言葉が
市民に虚しく届く価値観の空洞化が進む社会に向かっている気がします。

この憂慮すべき社会状況の主要な原因は、
欲望が、知性と社会構造によって過剰に増幅され、自己目的化され、
強欲に変貌したことにあります。

本来、目的達成の手段、あるいは褒美として獲得する
富・権力・名声といった外的価値が、欲望の強欲化によって
目的そのものに変化し、高い価値を得るようになりました。

これに伴って、人々あるいは社会は、理想などの内的価値を疎んじ、
富などの外的価値に過度に高い評価を与え、
それらを有する人を、その人格・能力を判断することなく尊敬するという
価値観の空洞化が進みました。

価値観の空洞化を防ぐために何をするのか。

強欲に囚われた国民は、利己的な指導者を選出するのでしょう。

利己的な指導者の意思決定が強い影響を与える社会は、
理想などの内的価値から程遠い社会になります。

それは神的存在の「存在の持続」に参与する人間の社会ではありません。

これを防ぐためには、
欲望を強欲に変貌させないというひとり一人の覚悟が必要です。

我々の意思決定能力が、その覚悟を選択するための一助となることを願い、
欲望が強欲へと変貌するメカニズムを考察しました。

欲望の正体は「エネルギー」である
欲望は悪ではありません。

むしろ、人が行動するための根源的なエネルギーです。
・成長したい
・認められたい
・安定した生活を得たい

これらはすべて、存在の持続をより活性化しようとする力の現れです。

つまり本来、欲望は目的達成のためのエネルギーです。

では、なぜ強欲に変わるのか

問題は、欲望が「方向づけられないとき」に起きる。

人間に働く生命体法則によれば、人は次のような特性を持っています。
・目先の利益に引き寄せられる
・他者との比較で欲望を膨らます
・自分を正当化する

この結果、欲しいものは、
「必要な分」ではなく
「他人より多く」が基準になります。

ここで欲望は、推進力から
奪い合いの力へと変質します。

これが「強欲」です。

もう一つの落とし穴ー「自己目的化」
さらに見落とされがちな危険があります。

それは、手段であるはずの欲望が、目的そのものにすり替わることです。

本来は、
・より良く生きるための収入
・成長するための成果
・誰かに価値を届けるための行動

など手段であったはずが、
・お金を増やすこと自体が目的になる
・勝つことそのものが目的になる
・他人より上に立つことが目的になる

この状態が「自己目的化」です。

そしてここに、極めて重要な視点があります。

「社会の役に立っているか」という軸を失った瞬間、
欲望は自己目的化しやすくなる。

逆に言えば、
・誰かの役に立っているか
・価値を提供しているか

という基準を持ち続けることで、欲望は社会と接続され、
暴走ではなく循環へと変わります。

自己目的化を防ぐ最も本質的な条件は、
欲望を「社会との関係」の中に置き続けることなのです。

分岐点はどこにあるのか
欲望がエネルギーになるか、強欲になるか。
その分岐点はたった一つです。

それは意思決定の質である
欲望をどこに向けるかを決めるのが、意思決定能力です。

・正しく向ければ → エネルギー
・逆に向ければ→強欲

つまり、強欲とは、欲望の問題ではなく、意思決定能力の敗北です。

欲望をエネルギーにする5つの方法
ではどうすれば、欲望に飲まれず、活かせるのか。
答えは、「設計」です。

方向を決める
欲望を目的に接続する。

「もっと欲しい」ではなく、「何のために必要か」を明確にする。

これにより、エネルギーが分散せず、前に進む力になります。

足るラインを決める
「どこまでで十分か」を先に定義する

強欲は、もっと・もっと・・・から生まれる。
だからこそ、ここまででよい、という基準を持つ。

これがブレーキになります。

時間軸を伸ばす
長期で価値があるかを問う

短期的な快楽は、ほぼ確実に強欲へ向かう。
一方で長期視点は、欲望を質の高い行動へ変えます。

社会との関係で確認する
その欲望は誰かを壊していないか

強欲は必ず、どこかに歪みを生む。
自分だけでなく、全体を見られるかどうか。

ここに分岐があります。

ワンテンポ置く
欲望と行動の間に「間」をつくる。

欲望は速く、理性は遅い。
だからこそ一呼吸おく。

それだけで、衝動は意思決定に変わります。

そしてもう一つ「努力」が分岐を決める
ここで重要な現実があります。
欲望をエネルギーに変えるには、必ず努力が必要です。

なぜなら、
・方向を定め続けること
・自己目的化を修正すること
・足るラインを守ること

これらはすべて、意識し続けなければ維持できないからです。

一方で強欲は違います。
・放っておけば自然に膨らむ
・努力なしに加速する

つまり、
・エネルギー化には「努力」が必要
・強欲化には「努力が不要」

この非対称性こそが、
人が強欲に流れやすい本当の理由です。

本質は「抑えること」ではない
多くの人は、欲望を抑えようとします。
しかしそれは本質ではありません。

抑えるのではなく、
使う側に立つこと。

欲望に使われるのではなく、
欲望を使う。

この立場の違いが、社会の質を決めます。

最後に、
欲望は、存在の持続を活性化するエネルギーともなれば、
存在を焼き尽くす強欲ともなり得ます。

違いはただ一つ。
それを設計しているかどうかです。

欲望は抑えるものではありません。
設計するものです。

宗教コンプレックスからの解放

最近、大学教授や公務員による汚職、教職員や高校生による違法写真のSNS拡散などが相次ぎ、社会規範を守る倫理観が弱まっているように見えます。

社会規範とは、人類が集団で生き延びる過程で長い時間をかけて築いてきた善悪の判断基準です。

その低下の背景には、はき違えた個人主義や多様性の拡大、指導者層の規範違反、貧富の格差の拡大など、社会の混迷があるでしょう。

しかしそれに加えて、宗教観そのものが人間の自律性を弱めてきた側面も無視できません。

仏教では煩悩が悪業の原因とされ、人は自力で克服できない存在として救済に委ねられます。これは釈迦の教えに基づく思想です。

またキリスト教でも、人は原罪を背負い、神の恵みなしには戒めを守れない存在とされています。これはイエス・キリストの救済思想に由来します。

こうした思想は、人間の主体的な善悪判断力を育てるよりも、自己否定と依存を強めてきたのではないでしょうか。

もし欲望や衝動を乗り越えたときの達成感を、人間自身の成長として肯定し、それをさらに磨くことこそが善であると教えられていたなら、人は宗教的罪悪感から解放され、他者と調和しながら生きる力を高めていたはずです。

同じ神を信仰するユダヤ教が、救済を地上的幸福と共同体の繁栄として捉える点は示唆的です。この思想はモーセの律法思想に基づいています。

選民思想には賛同できませんが、救いを現実社会の幸福に結びつける姿勢には学ぶべきものがあります。

これから求められる倫理観は、超越的救済に委ねるものではなく、人間の知恵によって社会の繁栄と個人の喜びを実現していく思想です。

ひとり一人が集団の中で個性を生かし、目標達成の喜びを共有し、互いを尊重し合うこと――それこそが社会規範の原点ではないでしょうか。

忠臣蔵は本当に美しいのか

――「美しさ」に支配されないための意思決定論――

人は、正しさではなく「美しさ」で判断している。
そしてその事実に、ほとんど気づいていない。

忠臣蔵は、その構造を極限まで可視化した物語だ。

主君の無念を晴らすため、命を賭して討ち入りを果たした四十七士。
その姿は「忠義」「覚悟」「美しさ」の象徴として、長く人々に賞賛されてきました。

しかし、ここで一つの問いが生まれます。

私たちは「何を美しいと感じているのか」

忠臣蔵が人の心を打つ理由は明確です。

筋を通している
私利私欲がない
最後まで一貫している

つまり私たちは、

「合理的に正しいか」ではなく
「美しいかどうか」で評価している


のです。

人は、正しさではなく「美しさ」で判断している。
そしてその事実に、ほとんど気づいていない。

忠臣蔵は、その構造を極限まで可視化した物語だ。

価値観は誰がつくるのか

ここで見落とされがちな事実があります。

社会の価値観は、

権力者によって形成される側面
人々によって支持される側面

この両方によって成立します。

たとえば忠臣蔵は、

 主君への忠義を称える物語

 秩序維持に資する価値観

として機能した一方で、

不公平への怒り
弱者への共感
一貫した生き方への憧れ

といった民衆の感情とも強く結びついていました。

なぜ人は“不利でも美しい価値観”に従うのか

ここに、人間の本質があります。

人は単なる合理的な存在ではなく、

意味を求める
承認を求める
一貫性を守る
集団に属したい

という性質を持っています。

そのため、

「得かどうか」よりも
「誇れるかどうか」で選んでしまう

のです。

たとえ不利であっても、

忠義を貫いた
自分を裏切らなかった

という物語は、

人生に強い意味を与える

「美しさ」の危うさ

しかし、この構造には明確なリスクがあります。

それは、

美しさが正しさを上書きしてしまうこと

です。

不必要な自己犠牲
権力への盲従
異論を許さない空気

これらはすべて、

「美しいから」という理由で正当化される

現代にも残る構造

これは過去の話ではありません。

私たちの周りにも、

会社への過剰な忠誠
同調圧力
空気を読む文化

という形で存在しています。

そして気づかないうちに、

「それは正しいか?」ではなく
「それは美しいか?」で判断している

美しさに支配されないために

では、どうすればよいのか。

答えはシンプルです。

美しさを否定するのではなく、相対化すること

具体的には、

その判断の「どこが美しいのか」を言語化する
「生命の持続を深化させるか」を考える
「誰が得をするのか」を考える
長期的に成り立つかを見る
あえて逆の選択肢を検討する

最後に

忠臣蔵は、間違った物語なのでしょうか。

そうではありません。

あれは、

人間がどれほど「美しさ」に動かされる存在か

を示した物語です。

そして同時に、

その美しさが、私たちをどこへ導くのか

を問いかけています。

内向き化が進む世界の中で、
愛国心という「美しさ」は時に異論を封じ、
市民の声を静かに沈黙させてしまう。

だからこそ私たちは、
感情に流されない意思決定のために、
知性・理性・意志を鍛える必要があります。

結論

私たちはこれからも、

美しい選択
誇れる生き方

に惹かれ続けるでしょう。

しかし重要なのは、

「美しいからやる」のか
「必要だからやる」のか

この順番を見失わないことです。

美しさは、人を高める。
しかし同時に、人を縛る。

その両方を知った上で選ぶこと。
それが、これからの意思決定に求められる姿勢なのだと思います。

個性・目標・尊重は、なぜ両立しないのか

―― ひとり一人が活きる集団の条件 ――

「個性を大事にしよう」
「目標を達成しよう」
「お互いを尊重しよう」

——この3つ、同時に成立しないと感じたことはありませんか。

学校でも、職場でも、社会でも、
私たちはこう願います。

ひとり一人が個性を発揮し、
目標を達成する喜びを共有し、
互いに尊重し合える集団でありたい。

しかし現実には、

  • 個性を尊重すればバラバラになり
  • 目標を優先すれば個性が抑えられ
  • 尊重を重視すれば遠慮や停滞が生まれる

理想は、なぜ崩れるのか。

その原因は、リーダーの不在だけではありません。
もっと根本的な「構造」にあります。

1. 個性は「自由」にするだけでは機能しない

見落とされがちな前提があります。

個性は、放置しても活きない。

個性とは単なる「違い」ではありません。
集団の中で意味を持ったとき、初めて価値になります。

たとえば、

  • 行動力のある人
  • 慎重な人
  • 論理的に考える人
  • 共感的に支える人

これらは性格の違いではなく、
本来は「役割」になり得るものです。

しかし役割がなければ、

  • 行動力は「独断」に
  • 慎重さは「消極性」に
  • 論理性は「批判」に
  • 共感性は「迎合」に

変わってしまう。

つまり、

個性が活きる条件は一つ。
「自分は何を担う存在か」が明確であること。

個性は「自由」ではなく、
役割と結びついたときに初めて力になるのです。

2. 喜びは「達成」ではなく「貢献」から生まれる

多くの人は、
喜びは「結果」にあると思っています。

しかし本質は違います。

人が本当に満たされる瞬間は、

「自分の行動が全体に意味を持った」と感じたとき

です。

どれだけ大きな成果でも、
関わった実感がなければ、喜びは生まれません。

逆に、

小さな役割でも、
全体に寄与していると感じられれば、
人は深い満足を得ます。

だから必要なのは、

  • 行動が全体にどうつながったかを言語化すること
  • 成果だけでなくプロセスを共有すること

喜びは結果の共有ではなく、
意味の共有から生まれるのです。

3. 尊重とは「優しさ」ではなく「理解」である

「互いを尊重する」とは何か。

ここで重要なのは、
尊重を「優しさ」や「配慮」と捉えないことです。

本質はもっと構造的です。

尊重とは、「違いを機能として理解すること」である。

人はそれぞれ異なる前提で意思決定しています。

  • リスクを避ける人
  • 挑戦を優先する人
  • 論理を重んじる人
  • 感情を大切にする人

これらは対立ではなく、
本来は集団を成立させるための「異なる機能」です。

しかし、

「正しい/間違っている」で見れば対立が生まれる。

一方で、

「役割の違い」として捉えれば、
互いに必要な存在として認識できる。

尊重とは感情ではなく、認識の問題。
理解の構造が整ったときに自然に生まれるものなのです。

4. すべてをつなぐ「一つの条件」

ここまで見てきた

  • 個性
  • 目標
  • 尊重

この3つを同時に成立させる条件は、
実は一つしかありません。

共通の「目的」が、個人の内側とつながっていること

ここで明確にしておきます。

目標は人を動かす。
しかし、動かされた人はいつか疲れる。

目的は人をつなぐ。
つながった人は、自ら動き続ける。

目的は「なぜそれをするのか」という存在理由。
目標は「そのために何を達成するか」という通過点です。

たとえば、

  • 目的:野球が上手くなる
  • 目標:地域リーグ優勝

目的が曖昧なら、個性はバラバラになる。
目的が強制なら、個性は抑圧される。

重要なのは、

「自分のためにやっていることが、結果として全体に貢献している」

という状態です。

このとき初めて、

  • 個性は役割として機能し
  • 貢献が喜びとなり
  • 違いが尊重へと変わる

すべてが一つの流れとしてつながります。

5. 実践のための4つの要素

この状態をつくるために必要なのは、次の4つです。

  1. 個性の可視化(強み・価値観の言語化)
  2. 役割の明確化(何を担うかの設定)
  3. 目的の共有(なぜそれを行うのか)
  4. 貢献の言語化(どう全体に寄与したか)

この4つが揃ったとき、集団は

単なる集合から「機能体」へ

と変わります。

6. それでも最後に必要なのは「リーダー」である

ここまでの構造が整えば、
理想の集団は成立するように見えます。

しかし現実には、

  • 不平
  • 誤解
  • 疲れ
  • 環境の変化

時間とともに、必ず歪みが生まれます。

そのときに必要になるのがリーダーです。

リーダーとは、「目的と個人を接続し続ける役割」である。

人間には、

  • 個性を活かし
  • 他者を尊重し
  • 貢献に喜びを感じる

という方向性があります。

しかし同時に、

  • 楽な方へ流れる
  • 自己中心に傾く

という側面も持っています。

だからこそリーダーは、

  • 集団の方向性を示し
  • 役割を整え
  • 意味を言語化し

メンバーが

「自分はこの集団の持続に参与している」

と感じられる状態を維持し続けなければなりません。

そして最も重要なのは、

個性・貢献・尊重が循環する“空気”をつくることです。

結び:集団は“生きた存在”になれる

人は本来、

「存在の持続に参与している」と感じたときに喜びを得る存在

です。

その欲求を、

集団の持続を活性化する方向へと整流できたとき、

  • 個性
  • 目標
  • 尊重

は対立ではなく、
一つの流れとして統合されていきます。

そしてそのとき、

集団ははじめて「生きた存在」になるのです。

「善と悪はこうして決まる|“存在の持続”という一つの答え」

私たちは、なぜ生きるのか

なぜ生きるのか。
何が善で、何が悪なのか。

この問いに対して、宗教や文化は多くの答えを与えてきた。
しかし、それらに依らず、より根源的に考えることはできないだろうか。

もし「無」と「存在」だけを出発点にしたなら、
そこから意味や善悪は導き出せるのではないか。

本稿では、「無」「存在」「神的存在」という三つの視点から、
意味と善悪を一つの体系として提示する。

無とは何か

無とは、完全な非存在である。
そこには

・エネルギーがない
・法則の適用対象がない
・関係も構造もない

したがって、
変化は起こらず、何も生まれない。

神的存在とは何か

ここでいう神的存在とは、人格神ではない。

それは、
エネルギーと自然法則、そしてそれらによって生起する
変化・関係・構造をすべて内包する根源的実在である。

さらにこの神的存在は、単なる物理宇宙にとどまらない。
生命体に働く「持続・発展の方向性」をも含んでいる。

すなわち神的存在とは、

・自然法則による秩序的展開
・生命体法則による持続・発展の方向

を同時に内包する、
「存在の持続そのものを成立させる基盤」である。

神的存在と無の関係

無は、何も生まない。何も変化しない。

それに対して神的存在は、
無への消失に抗して、存在を持続し続ける。

ここでいう対峙とは対立ではなく、
消失へ向かう流れに抗う運動である。

なぜ存在は崩れるのか

存在は、構造と関係によって成り立っている。

しかしそれらは放置すれば崩れる。

・エネルギーは分散し
・関係は弱まり
・秩序は失われる

実際、熱力学においても、
エネルギーは分散し秩序は崩壊へ向かう(エントロピー増大)
とされている。

つまり存在は本来、無へと近づく方向を持っている。

それでも存在が持続する理由

それにもかかわらず、なぜ存在は持続しているのか。

そこには二つの働きがある。

・無への消失に抗する根源的方向性(神的存在)
・持続・回復・発展を担う具体的働き(生命体法則)

したがって存在とは、単なる状態ではなく、
無に抗して持続し続ける運動そのものである。

宇宙は終わっても、再び始まるのか

仮に宇宙がエネルギーの分散によって均質化し、
構造を失ったとしても、エネルギー自体は消えない。

もしその極限状態においても、
微小なゆらぎや相互作用の偏りが生じうるならば、

そこから再び構造が生まれ、
別の法則系をもつ宇宙が生成される可能性も否定できない。

このとき神的存在は、「出現するもの」ではなく、

存在を再び立ち上げる方向性そのものとして現れる。

意義の根源

ここで決定的な命題を置く。

無に比して、存在には意義がある。

無には何もない。
しかし存在には、

・エネルギーがあり
・法則に従った変化があり
・関係と構造がある

ゆえに存在は、
それ自体で意義を持つ。

善と悪の定義

この構造から、善悪は次のように定義される。

善=存在の持続(構造・関係・変化)を強めるもの
悪=それらを崩し、無へ近づけるもの

人間の位置

人間は単なる物質ではない。

・法則を認識し
・意味を理解し
・選択を行う

存在である。

そして重要なのは、
人間はその選択によって、
神的存在の運動に参与できるという点である。

人間に働く生命体法則

人間において生命体法則は、
単なる維持にとどまらない。

それは次の方向として現れる。

・深化(理解や意味の拡張)
・複雑化(関係や構造の高度化)
・活性化(エネルギーと変化の増大)

人間は選択を通じて、
この方向に参与する。

喜びの本質

なぜ人は、生きることに喜びを感じるのか。

それは、存在の持続という運動に参与しているからである。

・理解が深まるとき
・関係が広がるとき
・何かが活性化するとき

人は、「存在の持続に参与している感覚」を喜びとして感じる。

参与の質

人間にはもう一つの問いがある。

どのように参与するのか。

自然法則に任せれば崩壊する。
生命体法則に従えば持続する。

したがって人間は、

・短期的な維持か
・長期的な安定か
・調和的な発展か

を選択することになる。

ここで善はさらに精密化される。

善とは、構造と関係を深化・複雑化・活性化しながら、
安定的に持続させることである。

結論

神的存在とは、
無に対峙して存在を持続させる根源的実在である。

存在はそれ自体で意義を持つ。
そして善悪は、その持続に対する作用として定義される。

善とは「存在を持続させる選択」であり、
悪とは「存在を無へ近づける選択」である。

そして人間とは、その選択によって、
宇宙の運動に参与する存在である。

私たちは孤立していない。

無に抗して存在を持続させる、
宇宙そのものの運動の一部である。

そしてその運動に参与できることこそが、
人間の本質であり、喜びの源なのである。

ありのままの人間

人は、生き、役に立ち、喜び、存在を後生へとつないでいく――それこそが人間の本来的であり、明快な営みです。

すなわち人間は、生きることを通して神的存在の「存在」の持続に共鳴し、

世のため人のために資するために、各人に合った能力を努力して身につけ、それを互いに役立て合うことで、「存在」の持続に主体性と協調性、そして多様性を添えて貢献します。

さらに、生きることそのもの、そして自分の力で役に立つことを喜びとして引き受けながら、「存在」の持続に参与します。

加えて、身体や思いを後世へと受け渡すことで、
「存在」の持続に永続性を加えて参画する存在でもあります。

戦争は「存在の持続」のために正当化されるのか

人間は、神的存在の「無」に対峙する
「存在の持続」に参与することに喜びを感じて生きる存在です。

そのような人間が、「存在の持続」に多様性と活性化をもたらす
動物を屠殺しその肉を楽しみながら食してよいのでしょうか。

人間および動物には、「存在の持続」方向に生きると
喜びを感じるという生命体法則が働いています。

この冬に世間を騒がせた熊は、どんぐりだけでなく、
鮭などの動物を食べて命をつないでいます。

それは、他の生命をエネルギーとして取り込み、
自ら生を維持するという本能に則った行動です。

したがって、人間が牛肉を食べて喜びを感じるのも、
生きることに根ざした自然な営みであり、
「存在の持続」に資する行動の一つといえます。

ここで視点を転じます。

人間は、富、宗教、思想、さらには政権維持のために、
人が人の命を奪い合う戦争を行います。

人間以外の動物も同種類で争うことはあります。
しかしそれは、生存や繁殖という明確な目的に基づくものであり、
人間の戦争とは質を異にします。

では、戦争は「存在の持続」のために正当化されるのでしょうか

自己に覚醒した人間は、知性によって観念世界を創出します。

そこには、富、思想、創造などからなる文化と、
それが過剰に増幅され自己目的化した妄想が併存します。

したがって、人間に働く生命体法則は、動物的基盤にとどまらず、
観念世界の形成と変容にも作用します。


そして意思決定能力は、この観念世界の影響下において、
様々な選択を行います。

ここで問題になるのは、観念世界の発達によって、
本来は「存在の持続」に資するはずの欲望が、
過剰に増幅され、自己目的化することです。

富への欲望は強欲へと変わり、
思想は排他性を帯び、
正義は他者を否定する力へと変質します。

このとき人間は、「存在の持続」のためではなく、
観念そのもののために行動するようになります。

人間に働く生命体法則は、このような状況において、
意思決定能力に対し、その選択が
「存在の持続」に資するか否かを問い続けます。

しかし、同時に、意思決定能力は、
観念世界の影響から完全に自由ではありません。

むしろ、社会に共有された観念や価値観によって、
方向づけられ、時に歪められます。

ここで、A指導者の意志決定能力が
B国への軍事攻撃を選択した過程を想定してみます。

知性:
・B国は国際法に違反している。
・B国と紛争中のC国からの支援要請が強い。
・人気が下降しているので選挙に負ける。(妄想)
・攻撃すると人気が上がる。
      ↓
  B国を攻撃する。または C国を説得する。  

理性:
・B国の国際法違反は許せない。(倫理性)
・C国を助ける。(一貫性)
・B国攻撃は国際法上問題になる。(規範との整合)
        ↓
      B国を攻撃する。

感情:
・私は特別な人だ。
・選挙に負けたくない。(恐れ)
・C国を助けたい。
       ↓
   感情が理性を後押し。

意志:
・心の葛藤も殆どなく攻撃を選択した。

身体:
・A指導者が軍にB国への攻撃命令を出した。

この重大な意思決定にあたり、A指導者が、
国際社会への影響の大きさ、識者の見解、歴史からの教訓などを、
知性に基づき十分に検討したのかは、なお問われるべきです。

そして、選挙で選ばれたA指導者が、
このような利己的理由で攻撃を開始できることに
戦慄と驚怖を覚えます。

富や思想への欲望が、
知性と社会構造によって過剰に増幅され自己目的化・妄想化したとき、

そうした妄想に囚われた国民が選出した
利己的な指導者の意思決定能力は、
存在の持続に反する選択へと傾く傾向があるのでしょう。

そのような攻撃に国民が晒されているB国の応戦は、
国際法違反の有無とは別に、

必要性と比例性を満たす限り国際法上あるいは
「存在の持続」のために正当化されるでしょう。

しかし、それが報復や観念的正当化に傾くとき、
もはや「存在の持続」に資するものでなくなります。

人間に働く生命体法則の方向性

人間は時々の行動を、
その意思決定能力を使い、自分の価値観に基づき、

倫理観、社会規範・通念などを参酌し、
複数の選択肢の中から選択することを繰り返し生き続けています。

この選択が生命体法則に則ったものであるとき、
生き生きと行動し、生存の持続への参与を実感します。

生命体法則の方向性は、
生命体が「存在の持続」をより確実にする方向へと
選択・行動・深化することであります。

生命体法則は、
生命体の性状や進化段階に応じて

階層的に現れ方が異なり、
次のような階層構成として現れます。

1 生命体全般に働く生命体法則

すべての生命体に共通する
「存在の持続」を実現する基本法則で、
生存、繁殖、適応です。

2 植物に働く生命体法則

固着性に対応し光合成など、
環境に適応しながら存在を持続します。

3 動物に働く生命体法則

感覚や運動、捕食など、
行動によって存在を持続します。

4 人間に働く生命体法則

人間は自分の存在を自覚し、
意思決定能力によって自らの行動を選択し
「存在の持続」に参与します。

また、人間は、動物でもあるので、
意志決定能力による選択が
動物に働く生命体法則にも則っている必要があります。

その選択が動物に働く生命体法則から乖離せず、
それを拡張・深化するものであれば、
神的存在の内在的方向性と整合します。

一方で、動物に働く生命体法則から乖離し、それを損なうものであれば、
生存および繁殖の基盤を弱体化させ、
長期的には存在の持続を低下させます。

従って、人間に働く生命体法則は、
意志決定能力に、その選択が存在の持続に資するか否か
判断する力も与えています。

学校や社会でのいじめ問題、
世界各地での貧富の差の拡大、戦争の頻発を見るとき、

現代社会での価値観、倫理観、社会規範・通念などの中に
生命体法則から乖離する部分があるような気がします。

例えば、動物におけるいじめに似た攻撃や排除は、
存在を持続させるために、秩序を維持するという機能を持ちます。

しかし、人間におけるいじめは、
知性と社会構造によって歪められた価値観に基づくもので、
生命体法則から乖離し、存在の持続を弱体化させます。

貧富の差の拡大、戦争の頻発なども、
人間の意思決定能力が、存在の持続に沿わない社会の価値観や倫理観などに惑わされ判断を誤った結果として理解できます。

今後、存在の持続に沿わない社会の価値観や倫理観などを検討したいと考えています。

意志決定能力

人間は生命体法則に従って、
自分の存在を自覚する生命体に進化しました。

すなわち人間は、存在を自分自身のこととして認識し、
その存在の持続を実現しようとする存在です。

存在の持続を実現するためには、複数の選択肢の中から、
目的や価値に基づいて行動を選ぶ意思決定能力が必要です。

そこで人間は自分の選択を自覚し、評価し、修正できる
意志決定能力を取得しました。

この意志決定能力は、人間に存在の持続を深化し多様で活性化した姿で
実現することを可能にしました。

反面、人は生命体法則に反する選択肢を選ぶ自由も手に入れました。

これにより、生命体法則において「存在の持続」を人が実現するために備わった心理状態や欲望も、意思決定能力が誤った方向に発露すると、キリスト教で戒められる七つの大罪へと変貌します。

人が「存在の持続」を実現するために必要でありながら、意思決定能力が方向を誤ると七つの大罪へと変貌するおそれのある心理状態や欲望は、

自信、競争、積極、休息、所有欲、食欲、性欲です。

意思決定能力が、これらの心理状態や欲望を誤った方向に発露させたときに生じる七つの大罪は、

傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲です。

例えば、練習成果を熱心に自信に満ちて発表すると観衆と喜びを共有できます。
しかし、聴かせてやると言わんばかりに傲慢に発表すると不快を呼びます。

互いに競争して切磋琢磨すると、人は成長し深化します。
自分が負けることを許せず嫉妬すると、劣等感などが強くなり、精神的な安定を失いやすくなります。

日曜日にゆっくり休息することは明日への意欲に繋がります。
日曜日に怠惰をむさぼると明日も休みたくなります。

競技において、積極的な激しい攻撃が勝利につながる場合が多いです。
しかし、自分の思い通りにならないことへの憤怒から激しい攻撃をすると、敗北につながることが多いです。

人は所有欲を満たすために働き、富を得て安定した生活を送ることができます。
強欲は、富や物を必要以上に求め続け、不正や搾取につながります。

生命体の身体を維持するために食欲は不可欠です。
暴食は欲に駆られた食欲で、身体の破壊につながります。

人は、子孫を残し「存在の持続」を実現するために性欲を持っています。
しかし、性欲は快楽を目的として過度に追い求めると色欲になります。

このように、人は、さまざまな選択肢の中から生命体法則に則ったものを選ばなければ、「存在の持続」に参与することができず、生きる喜びも実感することができない存在です。