「善と悪はこうして決まる|“存在の持続”という一つの答え」

私たちは、なぜ生きるのか

なぜ生きるのか。
何が善で、何が悪なのか。

この問いに対して、宗教や文化は多くの答えを与えてきた。
しかし、それらに依らず、より根源的に考えることはできないだろうか。

もし「無」と「存在」だけを出発点にしたなら、
そこから意味や善悪は導き出せるのではないか。

本稿では、「無」「存在」「神的存在」という三つの視点から、
意味と善悪を一つの体系として提示する。

無とは何か

無とは、完全な非存在である。
そこには

・エネルギーがない
・法則の適用対象がない
・関係も構造もない

したがって、
変化は起こらず、何も生まれない。

神的存在とは何か

ここでいう神的存在とは、人格神ではない。

それは、
エネルギーと自然法則、そしてそれらによって生起する
変化・関係・構造をすべて内包する根源的実在である。

さらにこの神的存在は、単なる物理宇宙にとどまらない。
生命体に働く「持続・発展の方向性」をも含んでいる。

すなわち神的存在とは、

・自然法則による秩序的展開
・生命体法則による持続・発展の方向

を同時に内包する、
「存在の持続そのものを成立させる基盤」である。

神的存在と無の関係

無は、何も生まない。何も変化しない。

それに対して神的存在は、
無への消失に抗して、存在を持続し続ける。

ここでいう対峙とは対立ではなく、
消失へ向かう流れに抗う運動である。

なぜ存在は崩れるのか

存在は、構造と関係によって成り立っている。

しかしそれらは放置すれば崩れる。

・エネルギーは分散し
・関係は弱まり
・秩序は失われる

実際、熱力学においても、
エネルギーは分散し秩序は崩壊へ向かう(エントロピー増大)
とされている。

つまり存在は本来、無へと近づく方向を持っている。

それでも存在が持続する理由

それにもかかわらず、なぜ存在は持続しているのか。

そこには二つの働きがある。

・無への消失に抗する根源的方向性(神的存在)
・持続・回復・発展を担う具体的働き(生命体法則)

したがって存在とは、単なる状態ではなく、
無に抗して持続し続ける運動そのものである。

宇宙は終わっても、再び始まるのか

仮に宇宙がエネルギーの分散によって均質化し、
構造を失ったとしても、エネルギー自体は消えない。

もしその極限状態においても、
微小なゆらぎや相互作用の偏りが生じうるならば、

そこから再び構造が生まれ、
別の法則系をもつ宇宙が生成される可能性も否定できない。

このとき神的存在は、「出現するもの」ではなく、

存在を再び立ち上げる方向性そのものとして現れる。

意義の根源

ここで決定的な命題を置く。

無に比して、存在には意義がある。

無には何もない。
しかし存在には、

・エネルギーがあり
・法則に従った変化があり
・関係と構造がある

ゆえに存在は、
それ自体で意義を持つ。

善と悪の定義

この構造から、善悪は次のように定義される。

善=存在の持続(構造・関係・変化)を強めるもの
悪=それらを崩し、無へ近づけるもの

人間の位置

人間は単なる物質ではない。

・法則を認識し
・意味を理解し
・選択を行う

存在である。

そして重要なのは、
人間はその選択によって、
神的存在の運動に参与できるという点である。

人間に働く生命体法則

人間において生命体法則は、
単なる維持にとどまらない。

それは次の方向として現れる。

・深化(理解や意味の拡張)
・複雑化(関係や構造の高度化)
・活性化(エネルギーと変化の増大)

人間は選択を通じて、
この方向に参与する。

喜びの本質

なぜ人は、生きることに喜びを感じるのか。

それは、存在の持続という運動に参与しているからである。

・理解が深まるとき
・関係が広がるとき
・何かが活性化するとき

人は、「存在の持続に参与している感覚」を喜びとして感じる。

参与の質

人間にはもう一つの問いがある。

どのように参与するのか。

自然法則に任せれば崩壊する。
生命体法則に従えば持続する。

したがって人間は、

・短期的な維持か
・長期的な安定か
・調和的な発展か

を選択することになる。

ここで善はさらに精密化される。

善とは、構造と関係を深化・複雑化・活性化しながら、
安定的に持続させることである。

結論

神的存在とは、
無に対峙して存在を持続させる根源的実在である。

存在はそれ自体で意義を持つ。
そして善悪は、その持続に対する作用として定義される。

善とは「存在を持続させる選択」であり、
悪とは「存在を無へ近づける選択」である。

そして人間とは、その選択によって、
宇宙の運動に参与する存在である。

私たちは孤立していない。

無に抗して存在を持続させる、
宇宙そのものの運動の一部である。

そしてその運動に参与できることこそが、
人間の本質であり、喜びの源なのである。

ありのままの人間

人は、生き、役に立ち、喜び、存在を後生へとつないでいく――それこそが人間の本来的であり、明快な営みです。

すなわち人間は、生きることを通して神的存在の「存在」の持続に共鳴し、

世のため人のために資するために、各人に合った能力を努力して身につけ、それを互いに役立て合うことで、「存在」の持続に主体性と協調性、そして多様性を添えて貢献します。

さらに、生きることそのもの、そして自分の力で役に立つことを喜びとして引き受けながら、「存在」の持続に参与します。

加えて、身体や思いを後世へと受け渡すことで、
「存在」の持続に永続性を加えて参画する存在でもあります。

戦争は「存在の持続」のために正当化されるのか

人間は、神的存在の「無」に対峙する
「存在の持続」に参与することに喜びを感じて生きる存在です。

そのような人間が、「存在の持続」に多様性と活性化をもたらす
動物を屠殺しその肉を楽しみながら食してよいのでしょうか。

人間および動物には、「存在の持続」方向に生きると
喜びを感じるという生命体法則が働いています。

この冬に世間を騒がせた熊は、どんぐりだけでなく、
鮭などの動物を食べて命をつないでいます。

それは、他の生命をエネルギーとして取り込み、
自ら生を維持するという本能に則った行動です。

したがって、人間が牛肉を食べて喜びを感じるのも、
生きることに根ざした自然な営みであり、
「存在の持続」に資する行動の一つといえます。

ここで視点を転じます。

人間は、富、宗教、思想、さらには政権維持のために、
人が人の命を奪い合う戦争を行います。

人間以外の動物も同種類で争うことはあります。
しかしそれは、生存や繁殖という明確な目的に基づくものであり、
人間の戦争とは質を異にします。

では、戦争は「存在の持続」のために正当化されるのでしょうか

自己に覚醒した人間は、知性によって観念世界を創出します。

そこには、富、思想、創造などからなる文化と、
それが過剰に増幅され自己目的化した妄想が併存します。

したがって、人間に働く生命体法則は、動物的基盤にとどまらず、
観念世界の形成と変容にも作用します。


そして意思決定能力は、この観念世界の影響下において、
様々な選択を行います。

ここで問題になるのは、観念世界の発達によって、
本来は「存在の持続」に資するはずの欲望が、
過剰に増幅され、自己目的化することです。

富への欲望は強欲へと変わり、
思想は排他性を帯び、
正義は他者を否定する力へと変質します。

このとき人間は、「存在の持続」のためではなく、
観念そのもののために行動するようになります。

人間に働く生命体法則は、このような状況において、
意思決定能力に対し、その選択が
「存在の持続」に資するか否かを問い続けます。

しかし、同時に、意思決定能力は、
観念世界の影響から完全に自由ではありません。

むしろ、社会に共有された観念や価値観によって、
方向づけられ、時に歪められます。

ここで、A指導者の意志決定能力が
B国への軍事攻撃を選択した過程を想定してみます。

知性:
・B国は国際法に違反している。
・B国と紛争中のC国からの支援要請が強い。
・人気が下降しているので選挙に負ける。(妄想)
・攻撃すると人気が上がる。
      ↓
  B国を攻撃する。または C国を説得する。  

理性:
・B国の国際法違反は許せない。(倫理性)
・C国を助ける。(一貫性)
・B国攻撃は国際法上問題になる。(規範との整合)
        ↓
      B国を攻撃する。

感情:
・私は特別な人だ。
・選挙に負けたくない。(恐れ)
・C国を助けたい。
       ↓
   感情が理性を後押し。

意志:
・心の葛藤も殆どなく攻撃を選択した。

身体:
・A指導者が軍にB国への攻撃命令を出した。

この重大な意思決定にあたり、A指導者が、
国際社会への影響の大きさ、識者の見解、歴史からの教訓などを、
知性に基づき十分に検討したのかは、なお問われるべきです。

そして、選挙で選ばれたA指導者が、
このような利己的理由で攻撃を開始できることに
戦慄と驚怖を覚えます。

富や思想への欲望が、
知性と社会構造によって過剰に増幅され自己目的化・妄想化したとき、

そうした妄想に囚われた国民が選出した
利己的な指導者の意思決定能力は、
存在の持続に反する選択へと傾く傾向があるのでしょう。

そのような攻撃に国民が晒されているB国の応戦は、
国際法違反の有無とは別に、

必要性と比例性を満たす限り国際法上あるいは
「存在の持続」のために正当化されるでしょう。

しかし、それが報復や観念的正当化に傾くとき、
もはや「存在の持続」に資するものでなくなります。

人間に働く生命体法則の方向性

人間は時々の行動を、
その意思決定能力を使い、自分の価値観に基づき、

倫理観、社会規範・通念などを参酌し、
複数の選択肢の中から選択することを繰り返し生き続けています。

この選択が生命体法則に則ったものであるとき、
生き生きと行動し、生存の持続への参与を実感します。

生命体法則の方向性は、
生命体が「存在の持続」をより確実にする方向へと
選択・行動・深化することであります。

生命体法則は、
生命体の性状や進化段階に応じて

階層的に現れ方が異なり、
次のような階層構成として現れます。

1 生命体全般に働く生命体法則

すべての生命体に共通する
「存在の持続」を実現する基本法則で、
生存、繁殖、適応です。

2 植物に働く生命体法則

固着性に対応し光合成など、
環境に適応しながら存在を持続します。

3 動物に働く生命体法則

感覚や運動、捕食など、
行動によって存在を持続します。

4 人間に働く生命体法則

人間は自分の存在を自覚し、
意思決定能力によって自らの行動を選択し
「存在の持続」に参与します。

また、人間は、動物でもあるので、
意志決定能力による選択が
動物に働く生命体法則にも則っている必要があります。

その選択が動物に働く生命体法則から乖離せず、
それを拡張・深化するものであれば、
神的存在の内在的方向性と整合します。

一方で、動物に働く生命体法則から乖離し、それを損なうものであれば、
生存および繁殖の基盤を弱体化させ、
長期的には存在の持続を低下させます。

従って、人間に働く生命体法則は、
意志決定能力に、その選択が存在の持続に資するか否か
判断する力も与えています。

学校や社会でのいじめ問題、
世界各地での貧富の差の拡大、戦争の頻発を見るとき、

現代社会での価値観、倫理観、社会規範・通念などの中に
生命体法則から乖離する部分があるような気がします。

例えば、動物におけるいじめに似た攻撃や排除は、
存在を持続させるために、秩序を維持するという機能を持ちます。

しかし、人間におけるいじめは、
知性と社会構造によって歪められた価値観に基づくもので、
生命体法則から乖離し、存在の持続を弱体化させます。

貧富の差の拡大、戦争の頻発なども、
人間の意思決定能力が、存在の持続に沿わない社会の価値観や倫理観などに惑わされ判断を誤った結果として理解できます。

今後、存在の持続に沿わない社会の価値観や倫理観などを検討したいと考えています。

意志決定能力

人間は生命体法則に従って、
自分の存在を自覚する生命体に進化しました。

すなわち人間は、存在を自分自身のこととして認識し、
その存在の持続を実現しようとする存在です。

存在の持続を実現するためには、複数の選択肢の中から、
目的や価値に基づいて行動を選ぶ意思決定能力が必要です。

そこで人間は自分の選択を自覚し、評価し、修正できる
意志決定能力を取得しました。

この意志決定能力は、人間に存在の持続を深化し多様で活性化した姿で
実現することを可能にしました。

反面、人は生命体法則に反する選択肢を選ぶ自由も手に入れました。

これにより、生命体法則において「存在の持続」を人が実現するために備わった心理状態や欲望も、意思決定能力が誤った方向に発露すると、キリスト教で戒められる七つの大罪へと変貌します。

人が「存在の持続」を実現するために必要でありながら、意思決定能力が方向を誤ると七つの大罪へと変貌するおそれのある心理状態や欲望は、

自信、競争、積極、休息、所有欲、食欲、性欲です。

意思決定能力が、これらの心理状態や欲望を誤った方向に発露させたときに生じる七つの大罪は、

傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲です。

例えば、練習成果を熱心に自信に満ちて発表すると観衆と喜びを共有できます。
しかし、聴かせてやると言わんばかりに傲慢に発表すると不快を呼びます。

互いに競争して切磋琢磨すると、人は成長し深化します。
自分が負けることを許せず嫉妬すると、劣等感などが強くなり、精神的な安定を失いやすくなります。

日曜日にゆっくり休息することは明日への意欲に繋がります。
日曜日に怠惰をむさぼると明日も休みたくなります。

競技において、積極的な激しい攻撃が勝利につながる場合が多いです。
しかし、自分の思い通りにならないことへの憤怒から激しい攻撃をすると、敗北につながることが多いです。

人は所有欲を満たすために働き、富を得て安定した生活を送ることができます。
強欲は、富や物を必要以上に求め続け、不正や搾取につながります。

生命体の身体を維持するために食欲は不可欠です。
暴食は欲に駆られた食欲で、身体の破壊につながります。

人は、子孫を残し「存在の持続」を実現するために性欲を持っています。
しかし、性欲は快楽を目的として過度に追い求めると色欲になります。

このように、人は、さまざまな選択肢の中から生命体法則に則ったものを選ばなければ、「存在の持続」に参与することができず、生きる喜びも実感することができない存在です。

皆を幸せにする世論

近年、ドナルド トランプ、習近平、ウラジミール プーチンらに象徴される「強いリーダー像」が世界政治の前面に立っています。

そこでは、制度的抑制よりも個人の決断力が強調され、熟議よりも即断が、複雑な問題の調整よりも単純な対立軸が前景化しやすくなっています。

その影響は政治領域にとどまらず、長い年月を経て培われてきた文化的慣習や倫理観の軽視というかたちでも現れています。

一般に、個人が大望を成就するためには、完成した姿を具体的に描き、その目的を見失わないことが重要だと言われています。

同様に、社会の進む方向もまた、無数の個人が抱く目的の総和――いわば世論の向かう先――によって形づくられます。

多くの個人が抱く目的が人類の滅亡に向かうものであれば、世論の向かう先もまた、滅亡へと傾くでしょう。

したがって、各人の目的の多様性を尊重しながらも、その方向性を緩やかに制約する何らかの基準が必要になります。

その基準が、単なる経験の積み重ねにのみ依拠するならば、時代の空気や多数派の感情によって容易に揺らぎます。

ゆえに、その基準は経験主義を超えた、より根源的な説明に支えられるものであることが望まれます。

それは、言わば「超自然的法則」と呼びうるものです。

次回は、この超自然的法則について、さらに詳しく考えてみたいと思います。

エネルギーと法則を内包する神的存在

ここで登場するのが神的存在で、
エネルギーと自然法則および生命体法則を内包し、

「無」に対峙して「存在の持続」を実現しています。
 
この神的存在は、「存在の持続」をより深化した構造で実現しようとする
内在的方向性も有します。

生命体は、生命体法則に従って複雑化、多様化し、
「存在の持続」に参与し、それを安定化させます。

特に人間は、高度・複雑化し、生命体法則を自覚するだけでなく、
自ら意思決定する能力を与えられました。

人は自分に適した目的をこの意思決定能力で設定し追求することで、
より大きい喜びを感じます。

これによって「存在の持続」に深く参与し、それを活性化、強化します。

ところが、意思決定能力は、
生命体法則に大きい矛盾を内在させることになりました。

たとえば、自分の成したいことを成すという生命体法則を誤解し、
利己的な目的達成のために他人を利用する利己主義者が現れました。

また、人間は、協力するために集団を作るという生命体法則に反し、
利害で集団化し、集団間で争っています。

人は存在の持続のために世代をつなぎますが、
欲情のためにエプスタイン事件や盗撮事件を起こします。

このような行動は、「存在の持続」に参与するものでなく、
むしろ消滅の可能性を増大します。

人は内なる生命体法則に静かに耳を傾け、
歴史や社会規範を帰納法的に精査、検討し、

生命体法則に従って生きることで不安や迷いを抱くことなく、
強い自己肯定感を持って生き生きと活動することができます。

これによって、
生命体法則に内在させることとなった矛盾を解消することができ、
「存在の持続」を安定化することができます。

これは、「存在の持続」をより深化した構造で実現しようとする
神的存在の内在的方向性に沿うものとなります。

多くの人が死亡し都市を破壊する戦争は避けたいという
生命体法則に反する武力紛争は、「存在の持続」を弱体化します。

ところが、神的存在が開戦指示者を死亡させるようなことはできません。
神的存在が生命体法則で人間に意思決定能力を与えたからです。

戦争は避けたいという生命体法則をより多くの人が神的存在と共有し、
戦争反対を強く念じ意思表示することで、

各国民の戦争に反対する生命体法則が共鳴し、
戦争防止に大きく貢献できると信じます。

「存在の持続」をめぐる法則ーー生命体はなぜ生まれたのか

自然法則と生命体法則

自然法則とは、物質の「存在の持続」に関する根本的な情報です。

星が生まれ、元素が結びつき、宇宙が構造を保つ。
それらはすべて、エネルギーが自然法則に従って物質へと転換し、秩序を形成した結果です。

宇宙は無秩序ではありません。
法則に従い、構造を保ちながら持続しています。

しかし生命体には、もう一段深い「存在の持続」があります。

それは単なる物質の安定ではありません。
自己を維持し、継承し、変化し続ける持続です。

この階層的深化を、ここでは「生命体法則」と呼びます。

自然法則は物質と生命体に作用し  
 生命体法則は生命体に作用する

科学が明らかにしてきたこと

生命体の材料であるアミノ酸や脂質は、炭素や水素などの無機分子から
自然エネルギーによって生成され得ることが示されています。

その代表例が、
ミラー・ユーリーの実験です。

さらに科学は、

・脂質膜による区画化
・自己複製可能な情報分子
・エネルギー変換を行う代謝ネットワーク

が相互に結びつくことで、自己維持と継承が可能になった状態を
「生命」と説明します。

ここまでは、自然法則の枠内で理解できます。

それでも残る問い

しかし、なお問いは残ります。

特定の分子配列が選ばれ、自己複製が安定し、偶然と選別が繰り返された結果、
主体性や意図性をもつ細胞が生まれた。

この説明は十分でしょうか。

物理化学的相互作用は確かに必要条件であります。

だが、
なぜ「その構造」が選ばれ続けるのか
なぜ持続は複雑化へ向かう傾向を持つのか

という方向性そのものは、なお開かれた問いです。

生命体法則という視点

ここで想定されるのが、

生命体の「存在の持続」に関わる情報的秩序原理
――「生命体法則」です。

これは自然法則と対立するものではありません。
むしろ自然法則が可能にした物質的秩序の内部から現れる、
自己維持と深化へ向かう持続原理です。

物質の持続が「構造の安定」だとすれば、
生命体の持続は「自己の維持と更新」です。

生命体は、物質的身体を通して、
この階層的法則を具体化する存在であります。

進化の流れをどう見るか

植物は光を固定し、環境を変え、持続の基盤を拡張しました。
動物は運動と感覚を獲得し、協調という持続の形を生みました。
そして人間は、「存在の持続」を自覚する存在として現れました。

人は、自分に適した目的を追求する過程に喜びを感じます。

それは単なる快楽ではなく、
存在の持続に参与しているという感覚ではないでしょうか。

存在の持続だけではない

しかし生命体法則は、
単に「存在が持続すればよい」としているわけではないように見えます。

そこには、

・存在の深まり
・多様性の拡張
・主体的な参与

といった方向が含まれています。

生命体法則とは、
生命体が自らをより豊かにしながら存在を持続しようとする
深化と多様化の方向性を示す原理なのかもしれません。

次回は、この生命体の「存在の持続」における
深まりと多様性の意味について考えてみたいと考えています。

間違った選択をしないために

人は、完璧と思われる自然法則の下だけでなく、完璧性を抑えることで不公平や不自由、不運といった人生の理不尽が避けられない超自然的法則の下でも生活しています。

さらに人は、選択することができる存在であると同時に、選択せざるを得ない存在として意思決定能力を備えています。

そのため、さまざまな場面で選択を迫られ、何を頼りに決めればよいのか悩むことになります。

天才ピアニストと称される角野隼斗氏ですら、ピアニストとして生計を立てられるのかという現実的な不安に、死ぬほど悩んだとNHKのインタビューで述べていました。

このことは、どれほど才能があっても、人が選択に迷わずにはいられない存在であることを示しています。

人間は、宇宙の「存在」に多様性と主体性を与えることで、宇宙を内包する神的存在が「無」に対峙して「存在」を持続する営みを、より強固なものにするために存在する宿命を背負っています。

したがって、人の進む方向とは、神的存在の「存在」の持続に参加することにあります。

すなわち、人の「生きたい」「人の役に立ちたい」「楽しみたい」という願いは、人の進む方向として、長い人類史の中で社会慣習として根付いてきました。

この願いを具体的に実現するために、人は超自然的法則に反しない範囲で、自分の能力に適した好きなことを「成したいこと」として目的に設定し、目的達成の過程でも楽しみます。

そして、この目的を達成する過程で生じる選択においては、超自然的法則に反しない範囲で「その目的を達成するために何が大切か」が重要な判断基準となります。

目的が定まらない間は、生きることそのものを目的にしてもよいでしょう。

敵対関係にある団体間、国家間で利害が絡むと選択は一層複雑になりますが、人類の存続を否定する選択をした集団は、超自然的法則の枠外にあるため、存続に共鳴する人々の思いによって次第に打ち消されていくでしょう。

人類は、神的存在の「存在」の持続に参加できることに感謝し、喜びを感じる存在だからです。

人はなぜ苦しむのか

人はなぜ、苦しみながら生きるのでしょうか。

それは罰でも偶然でもなく、宇宙のあり方そのものに由来します。

神的存在は、自然法則のもとで変化する宇宙を内包し、消滅の可能性を抱えながら、「無」に対峙して「存在」を持続しています。

人間は、その宇宙に存在し、各人が固有の資質を持ち、自然法則および超自然的法則のもとで現実世界を生きています。

そして、超自然的法則に従って生きるよう誘引されながらも、その法則に背く行為を選び得る自由意思を持ちます。

神的存在が「存在」している状態は、決して安定した状態ではありません。「無」に還らず、常に在り続けることには、本質的な厳しさがあります。

人間が生きることに苦しみが伴うのは、その厳しさが生の条件として現れているからです。

とりわけ、現実世界の中で自由意思を行使して自らの目的を見いだすという難題が与えられています。

目的を定め、苦しみに耐えて目的を達成する過程に喜びを感じること、それ自体も超自然的法則のもとで行われます。

この法則は、「存在」を持続させる方向性を示すだけで、完全ではなく不条理を招くことがあります。

完全であれば現実世界での多様性ひいては人間の存在意義がなくなります。
これにより、神的存在が活性を失い、「存在」の持続が弱体化するからです。

現実世界において、利己主義者は、本来は「苦労が喜びへと結びつく」という超自然的法則を、他者の苦しみを自らの利益に転化する方向へと歪めます。

強者が弱者を支配することを当然のように振る舞い、多くの人が、喜びへと結びつかない苦しみを強いられています。

奇跡的な救済は起こりません。

超自然的法則に反して人を救うことは、法則そのものを否定し、超自然的法則を内包する神的存在を「無」へ還すことになるからです。

それでも希望はあります。

多くの人が自らの目的を見いだし、苦労を引き受け、その中で喜びを得るとき、利己主義者の目論みは力を失います。

人が苦しむのは、神的存在がその「存在」を持続するためです。

そして人が喜びを得るのは、その厳しさを引き受け、自覚的に生きた証なのです。