感謝すること

現実的身体を持たないという不完全性を備えた神的存在は、自然法則のもとで変化する宇宙を内包し、消滅の可能性を抱えながら、「無」に対峙して「存在」を持続しています。

宇宙には、外界に反応する様々な生物(命)が、物理的な自然法則と、生きる方向性のみを示す、不完全で時に理不尽を招く超自然的法則のもと、それぞれに異なる生き様で生息しています。

神的存在は、それら多様な生物が生きること(存在)によって味わう喜びを共有することで、自らの「存在」をより強く確認しています。

とりわけ人間は、現実世界の中で自らの目的を見いだし、その達成の過程で喜びを体感することで、神的存在の不完全性を補いつつ、高度で多様な「存在すること」の喜びを共有する存在です。

そんなわけで、私は就寝前に、今日一日、健康で暮らせたことに感謝します。

「生きたい」という目的を達成し、神的存在の「存在」の持続に参加できたことに、静かな喜びを感じます。

私は、超自然だが万能ではない神的存在と共鳴できます。

あなたは、何に感謝しますか。

たとえば、友の手助けに感謝を伝えるとき、友と共生するという二人の目的達成の喜び、さらに、その喜びを神的存在と共鳴できたことによって、人は深い安心感に満たされるでしょう。

目的の多様性と目標の多層性

私は前に、自分で定めた目的に向かって生き、その各過程で感じる喜びを、神的存在と共感し、共有することが、生きる意義だと述べました。

神的存在は、自然法則のもとで変化する宇宙を内包し、「無」に対峙して「存在」を持続しています。

人間は、その宇宙に存在し、能力や価値観に応じて多様性に富んだ目的を設定し、自然法則および理不尽を招く虞もある超自然的法則のもとで現実世界を生きています。

目的は、現実世界に少なくとも損害を与えないものであればその時点で「やってみたい」と思ったことを設定してよいと思います。

あるいは、「生きること」そのものを目的にしてもよいでしょう。

自分にもっと合うものが後で見つかれば、そのときに変更すればよいのです。

目的を達成するためには、各ステップでその目的を達成するための目標を立て、先ず、その目標を達成した状態にあることが必要です。

各ステップは、意識の深さや時間軸の違いによって、いくつかの層を成しています。

1.即時的な行動の層

その場で取る言動や態度。怒りを抑える、立ち止まる、言葉を選ぶなど。

2.習慣・技能の層

繰り返しによって身につく行動様式。傾聴の習慣、健康管理、学び続ける姿勢など。

3.価値観・判断基準の層

何を優先するか、何を大切にするかという内面的な基準。

4.生き方・目的意識の層

人生全体をどう生きたいかという根本的な方向性。

これらの層は上下関係ではなく、互いに影響し合いながら目的達成を支えています。

大きい目的を達成すれば、たゆまない努力に対する達成感や多くの人々からの称賛など生きる喜びも大きくなります。

しかし、成長段階や老化、病、不運、挫折などしたときは、大きい目的にとっては目標であること、たとえば「言葉を選ぶ」を目的に設定するマイペースが望まれます。

この目的「言葉を選ぶ」を達成するためには、例えば、1.では、「行動する前に一呼吸おく」、2.では、「学び続ける」、3.では、「人間関係を大切にする」、4.では、「他人を大切にする」という目標を達成した状態にあることが必要です。

このような小さい目的でも、人は自分の目的に向かう各過程で生きる喜びを神的存在と分かち合い、同時に神的存在の「存在」の持続に役に立てたという喜びも感じることができます。

私の人生観

神的存在は、自然法則のもとで変化する宇宙を内包し、消滅の可能性を抱えながら、「無」に対峙して「存在」を持続している。

宇宙には、外界に反応する生物(命)が自然法則および超自然的法則の下で生息する。

これにより、宇宙が高度化、多様化し、神的存在が活性化して安定した存在となる。

自然法則は、例えば万有引力の法則、メンデルの法則である。

超自然的法則は、生物の「存在」を持続させるための方向性を示すものであるが、完全ではない。

とりわけ人間にとっては、遺伝子情報に込められた「道徳感や価値観が生まれうる心の構造」およびそれによってもたらされる様々な生き様への誘導である。ときには、不公平や不自由、不運といった人生の理不尽を招くこともある。

超自然的法則が完全でないのは、もし完全であれば人間の生き様の多様性がなくなり、ひいては神的存在が活性を失い、「存在」の持続が弱体化するからである。

さらに人間は、超自然的法則のもとに生きながらも、その秩序に背いて自らの行為を選び取る意思決定能力を備える存在である。

超自然的法則や意思決定能力によって、各人はその資質や存在環境に応じて多様な道徳観、価値観を持ち、多様性に富み運命を感じるような人生を送る。

このような人間の存在によって、宇宙の「存在」が多様性さらには主体性を持ち、神的存在が強固な「存在」となる。

しかしながら、「存在」は、決して安定したものではない。
神的存在が常に崩壊の可能性を抱えながら、なお「無」に還らず在り続けることには、本質的な厳しさがある。

人間が生きることに苦しさが伴うのは、その厳しさが生の条件として現れているからである。

人間には、自らの目的を見いだすという難題が与えられている。

さらに、超自然的法則によれば、苦しみに耐えて生きる過程の中でこそ、喜びを得る可能性を持っている。

また、人間は、資質や環境によっては、超自然的法則を神的存在の「存在」の持続に反するように解釈し、利己主義者などの背徳者になることがある。

背徳者は、例えば強者が弱者を支配することを当然のように振る舞い、多くの人が喜びへと結びつかない苦しみを強いられる。

しかし、奇跡的な救済は起こらない。

神的存在が内包する超自然的法則に反して背徳者から人を救うことは、法則ひいては神的存在そのものを否定することになり、その結果、神的存在自身が「無」に還ることになる。

それでも希望はある。

宇宙や生物の存在を破滅させるような生き様は、超自然的法則の範疇外にある。
ゆえに、神的存在がそのような背徳者を超自然的法則に従う方向へと修正することがあっても、それによって神的存在自身が「無」に還ることはない。

多くの人が、神的存在の「存在」の持続に参与できることに感謝しつつ、苦しみを引き受けて生き、自らに適した目的を達成していく。
その過程で得られる喜びこそが、神的存在と共鳴しながら生きることである。

畢竟、人は、生き、役に立ち、喜び、存在を後生へとつなぐ存在である。

すなわち、人は、生きることを通して神的存在の「存在」の持続に共鳴し、

世のため人のために資する、自分に合った能力を苦労して身につけ、それを役立てることで、「存在」の持続に主体性と多様性を添えて貢献する。

さらに、生きることそのもの、そして役に立つことを喜びとして引き受けながら、「存在」の連なりに参与していく。

そして身体や思想を後生へと受け渡すことで、「存在」に永続性を加えて参画する存在である。

神的存在と共感して生きる

世界は未完成で、人はその一部

私たちはつい、
「神は万能で、世界は完成に向かっている」
と考えがちです。

しかし、もし世界が完成に向かっているのなら、
なぜ同じような苦しみや不条理がいつまでも繰り返され、
なぜ人は考え、悩み、工夫し続ける必要があるのでしょうか。

このブログでは、
世界は未完成であり、その源にある神的存在も万能ではない
という立場をとります。
神的存在が完成していれば、何もする必要がなく全く変化のない状態となり、無(何もない状態)と同じになります。

人は「補う存在」として生まれてきた

神的存在を含む世界が未完成であるなら、
そこには「補う役割」が必要になります。

その役割を担うのが、
身体と精神を持つ人間です。

人は、考え、選び、行動することで、
世界を心身で実感することです。

生きる意義は「喜びを共有すること」

人が生きる意味は、
ただ命令に従うことでも、
苦しみに耐えることでもありません。

自分で定めた目的に向かって生き、
その各過程で感じる喜びを、
神的存在と共感し、共有すること

これが、生きる意義だと考えます。

目的は独りよがりであってはいけない

ただし、目的は何でもよいわけではありません。

その目的は、
世界を、少なくとも損なわないものである必要があります。

そうでなければ、
世界を補うどころか、傷つけてしまうからです。

神的存在とは何か

ここで言う神的存在とは、
人の上に君臨する支配者ではありません。

無(何もない状態)に向き合いながら、
世界の「あること」を支え続ける存在
です。

だから神的存在は、
人とともに世界を生き、
人の喜びによって豊かになります。

人が多様であるほど、世界は豊かになる

人がそれぞれ違う人生を生き、
違う喜びを見つけることで、
世界は一色ではなくなります。

その多様な喜びが、
神的存在にとっての豊かさでもあります。

命は有限だからこそ意味がある

人の命は永遠ではありません。
死後に別の世界があるとも限りません。

だからこそ、
一世代ごとに新しい喜びが生まれ、
それが神的存在と共有されていく
のです。

終わりがあるから、
今を生きる意味が立ち上がります。

生き切ることが、世界に役に立つ

人は自分の目的を生き切ることで、
喜びを神的存在と分かち合い、
同時に「役に立てた」という満足を得ます。

それは、
誰かに評価されるためではなく、
世界にそっと手を添える行為です。

おわりに

世界は未完成です。
だからこそ、人は必要とされています。

生きることそのものが、
神的存在を源とする世界への参加である

私はそう考えています。

戦争は平和の延長線上にある

市井の日常生活を破壊する戦争は絶対悪ですが、平和の延長線上に戦争が起こることは歴史的事実であり、理論的にも納得できます。

平和が続くと国家間に経済力や軍事力の差、利害紛争、国民の価値観の相違などによる緊張が蓄積し、限界点を超すと戦争が起こります。

例えば、ナポレオン戦争後にヨーロッパで続いた平和の約100年間で蓄積,増大された経済・同盟・国威の競争が、バランスを崩して第一次世界大戦をもたらしました。

ヴェルサイユ条約で目論んだ平和は、ドイツの過剰な経済的負担、国民の屈辱を強いるという緊張を取り切れないものであったので、ナチスの台頭を許し、第二次世界大戦に至りました。

平和時に国家間に生じた経済・軍事・技術力の変動や紛争などから不満や緊張が蓄積され、我慢の限界に達した不満国が戦争で現状の打開を図ることは、不満を持つ国の経済的困窮、国民の屈辱など条件が整えば現実に起こりうることです。

反戦運動は、戦争がプレートの衝突や沈み込みで生じる歪みが限界点を超えると発生する地震のような現実の現象であるとの認識をベースにし、国家間の緊張を緩和、除去する日常的な活動に重点を置くのが良いと考えます。

現在の戦争装置は、国家の行政・軍・経済・民間社会を組み込んだ集合体であり、戦争と平和の境界を曖昧にし、民衆が戦争反対を唱えにくい世界構造にしています。

戦争装置は、直接的な軍事衝突だけでなく、民間社会を組み込み、サイバー戦、民間技術の軍事化、経済制裁・情報操作を行います。

このような環境下では、為政者が国際的な不必要な緊張を招くような発言・行動を行わないように、市民が政治に興味を持ち、為政者の資質、行動を常に注意深くチェックし、社会に向けて自分の考えを示す必要があります。

各分野での生身の市民交流が緊張を緩和し、軍事衝突を防止する強力な反戦活動になります。

AI自動翻訳の進歩によって、言語の壁は取り払われつつあります。この環境を生かし、多数の国の市民が、静かで思考的なオンライン空間の中で、考えや感情を交換できる場を広げていくことが重要です。こうした市民的連帯は、一定の規模を持つことで、社会的な力へと転じます。

戦争装置はサイバー戦を駆使するので、情報空間の透明性、正確性を確保する活動は緊張を緩和します。

戦争装置は、恐怖・怒り・欲望などの生存の衝動をエネルギーにして緊張を増大するので、それを共存の衝動のエネルギーとして制御し、国および市民が、他と共に成す喜びを実践して戦争装置がもたらす緊張を緩和することが必要だと考えます。

統治と煩悩

支配者による統治は、約1万年前に農耕が始まり土地と財の所有が発生し、人の煩悩の発露である紛争を解決し秩序を維持する必要が生じたときに始まりました。

ホッブス(17世紀)は、人は自然状態では煩悩に支配され互いに争うので、安全のために権力者ひいては国家に統治を委ねたと言っています。

煩悩は、欲望・怒り・無知といった「生存の衝動」のかたちで現れる、生きようとする意志であり、生存と人間らしく生きるエネルギーとなります。

人が煩悩を制御することなく放任すると、互いに敵対して殺戮を繰り返す「滅亡の衝動」となります。

欲望が理性を超え、怒りが慈悲を忘れ、無知が真理を覆うとき、人は他者を敵とみなし、傷つけ合います。

ところが、人は、煩悩を認めエネルギーとして制御し、自分の成したいことを他人と協力して成すことに喜びを感じる「人間らしく生きる衝動」を備えています。

滅亡の衝動を抑え、人間らしく生きる衝動を安全に発揮して、人の存在意義と繁栄を確保するために、人類は集団社会、国家を形成して国民を統治し、権力、法律、社会慣習で滅亡の衝動を制御しています。

農耕草創期の良識ある紛争裁き役が、国の誕生で王になり、時代が進むにつれて権力を集中し煩悩に囚われて民衆を支配しました。

産業革命によって生産性が飛躍的に向上し、民衆の権利を守ろうとする人民主権がルソーによって提唱され、民主主義国家が誕生しました。

民主主義国家といえども、選出された為政者が煩悩に囚われ、自由・平等・安全という公共の責務を忘れたとき、国家は自国の利益のみを追う利己的な体制へと転落し、国益の名のもとに、戦争という地獄絵を現実に描き出します。

21世紀になっても戦争が絶えることがないのは、煩悩を制御できない為政者が厳しい国難に直面したとき、支配欲・恐怖・無知といった煩悩に支配され、一部の民衆と煩悩を共鳴して国益を守るという名目で戦争を起こし、滅亡の衝動を現実化するためだと思います。

世界中の人々が人間らしく生きる衝動を具現化して人間の存在意義を達成するためには、以下に例示するような戦争抑止の具体策を常に実行しなければならないと考えます。

・民衆が為政者の言動を注意深く監視し、煩悩を制御する能力の低い人を為政者に選出しない。

・戦争は国難時に為政者の支配欲・恐怖・無知といった煩悩に民衆の煩悩が愚かにも共鳴したときに起こるということを、史実も含めて広く国民に継続的に教育する。

・大多数の民衆が、煩悩を正しく認めた上でエネルギーとして制御し、人間らしく生きる衝動を発露して人生を楽しむ。

・煩悩をあるがままに認めたとき、他国の為政者の滅亡の衝動を抑止するための防衛力は必要である。

・民衆による国際的文化交流は為政者の煩悩を凌駕する。

戦争を抑止するには、国民が煩悩を否定せず正しく認めた上でエネルギーとして制御し、人間らしく生きることを楽しんで人間の存在意義を達成することがベースになると考えます。

戦争は絶対悪

戦争は開戦の理由が何であろうと、一端始まると人間のベースにある自分の生命を維持しようとする生存本能が脅かされる現実が当事国民の面前に現れます。

戦争は、この驚怖が優勢な当事国になくなるまで長期化し、莫大な数の人命が失われ、甚大な物質的、文化的損失をもたらします。

2023年のハマスによるイスラエル奇襲攻撃、2022年のプーチンによるウクライナ侵攻、遡れば1941年の日本海軍による真珠湾攻撃などがもたらした人的、物的被害の大きさと、国民が被る想像し難い心身の苦痛と、核使用の驚怖を考えると、戦争は絶対に始めてはなりません。

人間は他の動物と同様に自分の生命を維持しようとする生存本能を備えています。

仲間と協力して自分の生命を守るために集団を形成します。

自分の生命を脅かすものは、例えば隣人、同国民の他集団であろうとも排除しようとするのが生存本能です。

国の存続を脅かすものは、国民の生存本能を脅かすものとなるので、開戦の動機となります。

動物は自分が深手を負うことが明らかな戦いには本能的に挑みません。

戦争は人間の動物的な生存本能の発露が原点にありますので、国の存続を防衛するために多数の民主国家が同盟を結んで軍事力を強化することは、覇権国家による開戦防止の有効な手段の一つでしょう。

しかし、軍事力で劣勢になった覇権国家が、相手に先攻される恐怖から生存本能に刺激されて開戦に踏み切る危険が残ります。

動物において生存本能の主要な対象は食と生殖です。

農地を争奪する戦争は歴史的に終焉していると考えます。

生殖は個体と個体の争いであり、集団間の争いではありません。

してみると、現代における戦争は、単なる生存本能の発露ではなく、権力集中が進んだ指導者の偏狭な或いは独善的な考えがもたらしていると考えます。

いずれの国でも大多数の民衆は、生来的に戦争を欲していませんが、指導者の考えに煽動され、あるいは相手国の脅威や自国の全体主義的圧力に生存本能を脅かされ戦争に加担させられていくのでしょう。

権力集中は、経済的、政治的に強い国家の実現に役立ちます。

反面、偏狭な或いは独善的な考えを持つ指導者、即ち独裁指向の指導者によって戦争に突入される危険があります。

戦争を阻止するのは、生来的に戦争が嫌いな大多数の国民が、独善的な強い国家になることを求めず、独裁指向の指導者が出現しないように常日頃から監視することだと考えます。

強いアメリカを求め、トランプを大統領に選出した米国民の失敗を他山の石とし、日本経済に悪い影響をあたえるとしても、パレスチナを国家として正式承認できる人を総理大臣にしたいものです。

偏狭、独善な考えは、食に影響を与えるほど経済状態が悪いときに、煽動、ポピュリズムによって国民に拡散します。

SNSやAIの普及によっても国民が煽動される危険性が増しています。

これらの事実を踏まえ、戦争の悲惨さをもっと人目にさらけ出し、人命が偏狭、独善な考えより絶対に大切であることを如何なる煽動にも惑わされることなく即答できる社会環境を維持することが必要です。

独裁指向者は、ポピュリズム、煽動を駆使して独裁体制を徐々に築いていきます。

国民が偏狭、独善な考えに煽動されていくことを防止するために、AIを使って現指導者の独裁者指数を表すプログラムが作成されることを切に願います。

言語観念空間の意義

人間を他の動物から完全に峻別するヒトの能力は、人間が言語観念空間を形成し、言語観念空間に形成した過去、現在、未来の自分を認識できることだと思います。

ここでいう「言語観念空間」とは、他人とのコミュニケーションツールである言葉によって人間が構築する抽象的な思考の領域を指します。

この能力が、言語観念空間の過去の自分と現実空間の自分との違いから何かを学び、求める未来の自分に向かって学びを活かし現実空間の自分に行動を起こさせます。

これによって、例えば、成功や失敗、楽しさや苦しさなどを経験してきた言語観念空間の時々の過去の自分と現実空間の現在の自分とから目標とする未来の自分を言語観念空間に自分の価値観を踏まえて描くことが出来ます。

価値観も言語観念空間に築かれるものですが、現実空間で生命を維持するために大切なことは本能として生まれながら現実空間で遺伝子に書き込まれ、必要時に現実空間で実現されます。

本能以外の価値観は、経験や教育から社会規範を学び、成功や失敗、喜怒哀楽を通して言語観念空間に築かれていくと考えます。

人間は、このような他の動物が持たない能力を備えて地球上に存在することの幸せと喜びを常に新鮮な気持ちで感受し、言語観念空間の意義を考え人間の責任を果たさなければなりません。

想像力を働かせれば困っている人や人間以外の生物の痛みや苦しみを言語観念空間に描いて多くの人と共有することが出来ます。

言語観念空間の意義は、自分や回りの生物の苦痛を取り除き、喜びを与える役目の要になることです。

人間の務めは、自分や回りの生物の苦痛を取り除き、喜びを共有することです。

最近、社会の閉塞感が大きくなり過ぎたためでしょうか、自分らしく生きることを望む人が増えています。

自分らしくは、自分の価値観を大切にすることはよいのですが、「自分らしさ」を優先するあまり、周囲の人の価値観や状況を軽視し、対立あるいは戦争になることがありす。

例えば、プーチンはロシア大国の復活という時代錯誤な独善的な自分の価値観を大切にし、ウクライナ人の価値観や現状を無視しウクライナ侵攻を続けています。

ネタニヤフはハマスを倒すという価値観を優先し過ぎ多くの民間人を犠牲にしてガザ市の制圧を目指しています。

トランプは経済開発と国際的投資の機会としてネタニヤフのガザ市制圧を承認しています。

金正恩は金家の存続のために自国の兵士をウクライナ戦争に派遣しています。

民衆は他者との調和、社会的責任を配慮して自分らしさ求めるとともに、自分らしさを独善的に政治に反映する政治家が選出されることを、候補者が当選したときの姿を言語観念空間に描いて防止し、戦争を問題解決の手段とする指導者が出現することを防がなければなりません。

指導者はじめ世界の人々は、自分らしを強行したときに生じる罪なき被害者の苦痛を想像力を働かせて自分の苦痛として言語観念空間に描いて、言語観念空間を有する人間の行為と対極にある、現実空間の身体を破壊する本能的な行為の戦争を阻止する責任があります。

どのような姿勢で生きるか

人間は欲しいものを探し、見つけては獲得に務め、手に入れることによって味わえる喜びを求めて生きていると思います。

社会を大多数の人が喜びを求めて生きることができる環境にするために、人類は何世代にも渡って試行錯誤を繰り返して社会規律・慣習・法律を築いてきました。

宗教も社会に合わせて漸進あるいは改革し同様の役割を果たそうとしているのでしょう。

社会規律・慣習・法律や宗教の教えは一人一人の価値観の形成に様々な形で影響を与え、全体として社会の秩序維持に役立っています。

個々人も、本能的に「自己保存」と「自己利益」を優先する傾向にありますが、幼少期から各自の生活環境の中でさまざまな経験を繰り返し、欲しいもの、大切なものを探し出して価値観を築いていきます。

各自の生活環境、例えば、属する社会の慣習、幼児教育などが各人の価値観の形成に大きく影響します。

幼少期に欲しいものを見つけ出して熱中し、手に入れた喜びを体験することは、自分の価値観を形成する出発点になります。

幼児は自分中心の視点いわゆる万能感で世界を理解し始め、親や周囲の大人との関わりを通して価値観を形成していきます。

万能感を否定し過ぎると自信喪失や自己否定につながり、認め過ぎると傲慢や挫折に弱い傾向になり、適度に認めながら現実を学ばせると挑戦心・自己肯定感を持ちます。

自分の価値観を土台にして自己確立がなされると、成したいことを他人軸ではなく自分軸で探し出すようになり、達成した喜びや満足感も他人軸に支配されて成した場合に比べて比較にならないほど大きくなり、自己肯定感も強くなります。

幼児遊びを制限して親の価値観を押しつけ、あるいは自己保存と自己利益に反して虐待まがいなことを行うと、自己確立どころか自己否定するようになり、脳の発達や人間関係にトラブルをもたらします。

大人になるにつれ、幼少期に培った価値観の通りに欲しいものを手に入れることは難しくなります。

望みが叶わないと自信を失い、劣等感を抱いて無気力になり、自己肯定感が低下する傾向があります。

挑戦に敗れ自信を失ったときにどのように対処すればよいか、どのような姿勢で生きるかを上述の内容を含め心理学的見識も含めて学生に分かりやすく教える必要があると思います。

時には、今までにしたことを振り返り、それをしたのは、自分が欲したのか、流行っていたからか、親のプレッシャーからかなどと自問すると自分の人生の楽しみ度を自己評価できるでしょう。

場合によっては、コンプレックスからその原因を見つけ出して解放されるかもしれません。

宗教コンプレックスからの解放(その2)

地球環境の悪化、世界情勢の混迷、政治の貧困、貧富の差の拡大、偏差値偏重、生成AIの普及、SNSなどによる他者依存と自己喪失などにより社会に不安と諦めが充満しています。

これは、実質賃金の失われた30年間の微減傾向、出生率の低下、若者のオンラインカジノ賭博依存症の増加、常識を逸したセクハラ・パワハラの横行、不登校の小中学校児童生徒数の増加などの社会活力の低下として表面化しています。

日々の暮らしに窮し将来が見えない人々に、自分の才能と欲求に合った「何か」を行うことが出来たとき、或いは行って感謝されたきに感じる生きる喜びを繰り返すことが人生の目的ではないでしょうかと問いかけても、うるさいお節介ととられるでしょう。

法然が浄土宗を開いた時代は、現在と同様に困窮や閉塞感が庶民社会に充満していたと思われます。

法然は、南無阿弥陀仏と称えれば誰でも極楽に往生できると説いて、如何ともし難く、声もなく尊厳を踏みにじられた人々に現世での居場所を提供したと考えます。

現代の庶民は、法然が開宗した時代より貧困でなく声を発することが出来ます。

まだ他力に頼るのではなく、より多くの庶民が自力で生きる喜びを楽しむ方策を試行錯誤するときだと思います。

人は太古の昔から必要なことを協力して実現するために役立つ知識や行動を試行錯誤して発見し個人や社会の価値観として共有してきました。

殺生(命を奪う)、偸盗(盗む)、邪淫(性的に乱れる)、妄語(うそ)悪口(中傷)、両舌(他人の仲を裂く)、綺語(へつらう)、貪欲(むさぼりの心)、瞋恚(怒りの心)、邪見(誤った考え)の十悪行は罪になる不善な行為であるとされたお釈迦様の教えも、社会の価値観を明示したものだと考えます。

十悪行をしないことが人生の目的ではありません。

他人と共に生きる喜びを体感するために十悪行を行ってはならないのです。

冒頭で例示した社会の閉塞感の原因を取り除くためには、我々庶民が声を上げ行動を起こさなければなりません。

一部の人に任せている環境保護活動に、より多くの人々が参加することによって地球環境の悪化を防ぐことができます。

政治の貧困を解消するための第一歩は、私たち庶民一人ひとりの行動です。まずは、7月の参議院選挙に多くの庶民が参加することから始めましょう。

功罪両面あるも、その弊害は深刻である偏差値偏重については、SNS等によって社会の一つの価値観として定着されることを阻止し、創造力や非認知能力も重視する社会の価値観に庶民自ら意識改革する必要があると考えます。

生成AIの普及、SNSなどによる他者依存と自己喪失などについては、生成AIやSNSは、自分の才能と欲求に合ったことを行うための道具として使うものであると認識することで解消すると思います。