生きること

1.はじめに

先回の投稿では、人は自分の能力、個性、興味にマッチした自分の価値観を形成し、その価値観から生じる自己表現欲求の達成感を追い求めることが人生の楽しさと思われますと述べました。しかし、何のために楽しさを追求するのかの疑問が生じましたので、本稿ではそれについて試案を紹介させていただきます。

2. 宇宙の存在

物質も何もない「無」の状態において、或る条件が成立すれば物質が存在する「有」の状態になるという想像が学者の頭の中でなされました。無限に近い量のエネルギーを内蔵する超微粒子が、「無」に近い状態で存在する状態から偶然に爆発が起こって宇宙が誕生したとするビッグバン理論は容易に信じることは難しそうです。現状から既存の法則などを用いて逆算して宇宙の誕生を説明することは、究極の連続しない部分を爆発という偶然の出来事を持ち出してしか説明できなかったように思われます。そもそも、無限に近い量のエネルギーを内蔵する超微粒子が「無」の状態で存在するとすることに疑問を感じます。

逆に、「有」の状態から「無」の状態になることはどうでしょうか。物質はいくら細かくしてもどのように処理しても宇宙のどこかに浮遊し続け、全く消えて無くなってしまうことがないように思えます。しかし、物質が超微細な粒子に分解した後に、振動か何かのエネルギーになって悠久の時間が経過して「無」の状態なることはあり得そうな気もします。

このように考えると、先ず、「無」ありきか「有」ありきかを論じても意味がなく、宇宙は現に存在するという事実があるので、宇宙の法則に従うように創造されて存在すると考える方が自然かもしれません。

3. 創造主の存在

宇宙の存在と同様に創造主も有りきからスタートするのが自然に感じます。また、「無」の状態から宇宙が誕生したとすると、その創造主を認めざるを得ないのではないでしょうか。さらに、生命は40億年ほど前に誕生したと言われていますが、動植物、特に人間は、偶然に発生し進化してできたものであると考えるのは不可能で、創造主の存在を確信させるものではないでしょうか。

創造主は全知全能であるが故に唯一の弱点を有されていると考えます。全ての能力を有し完全であるということは、自己完結し何ら変化する必要が無くなり、存在しない状態と同じになってしまうのではないでしょうか。その弱点をカバーするために創造されたのが、宇宙や人間などであり、人間は古代から変化しながら創造主の価値観に即した価値観を実現したとき喜びや生き甲斐を感じ、創造主と共に存在しているように思われます。

4. 人間の死後の世界

このように人間は存在すること、生きることに価値があり、死後の世界は存在しないようにも思われます。しかし、死後の世界がないとして、創造主の価値観に反する自己表現を行っても人は喜びを感じることはできないでしょう。全ての人は生きることにより、その人が属する集団の価値観に何らかの影響を与え、死後もその影響を良かれ悪しかれ残すのではないでしょうか。例えば、大きな生き方をした西郷どんは、今でも多くの人に愛され皆の心の中で生きています。昔、三輪車を買ってくれた叔父さんは忘れた頃に私の心の中に現れます。このように、例えば、長い年月に渡って、無数の日本人が色々な場所で営々と築いてきたものが、相互作用して作られ続けるものが日本国の慣習であると思われます。ところが、創造主の価値観に反した自己表現は、それを行った人が属する集団の慣習を悪い方向に導くだけでなく、他のメンバーにも迷惑を掛けることとなるでしょう。子孫を残した人は、死後に子孫が存在し続けますが、子孫を残さなかった人も死後にその生き様に応じた影響を自分の属した集団に残すことによって生き続けると思います。ファミリー、職場、国家、人類なども自分の属する集団の一つです。

死後の世界がないとする考えにおいては、限りある時間で何をしたいか、どのように生きたいかについての権限と責任がすべて自分に委ねられることになります。しかし、やがては自然、世間や自分を愛おしく冷静に眺めることができるようになり、自分だけでなく他人の命、価値観や時間を大切に思い、全ての人々が自己表現することを喜びとできるようになると思います。自分が決めた目標を追って生きている間は、流した汗と涙に応じた喜びを味わうことができるでしょう。また、創造主からご加護と試練を賜るかもしれないと考えると救われるような気もします。

5. おわりに

このように考えると、人は創造主と共に生きることに無上の価値と喜びを感じるように思われます。そして、創造主の価値観に反することなく、自分が属する社会の共通の価値観に大きく反しない範囲で、自分の能力、興味、立場等に基づいて自分の価値観を形成し、これに即して立てた目標を達成するための日々の営みの中に喜びと悲しみを織りなし、さらなる喜び、充実感を求め続けることが生きることではないでしょうか。