個人の価値観と集団の価値観

個人と集団は、一方の存在なくして他方が存在しえない濃密な関係にあります。

個人が利己的な価値観に従って行動すれば集団の価値観に反する利己主義者として非難されます。

人々が属する集団の価値観に盲従し、その集団が一部の権力者層の利己的な価値観に従って行動すればその集団は他の多くの集団から利己主義集団として排斥されます。

どのような個人の価値観や集団の価値観が利己的であるのでしょうか。

どのような個人の価値観や集団の価値観を形成すれば、人々は有意義な人生を楽しく生きることができるのでしょうか。

個人の価値観

人間は脳内に構築した各自の世界に各個人の価値観を自分の能力、興味、環境に応じて自由に形成します。

各個人は、自分の価値観に即した目標を努力して達成すること、換言すれば自分の価値観を具現化することに喜びと生き甲斐を感じ、畢竟、そのように生きることを人生の目的とし、個人の究極的な価値観としているように思います。

このとき、各個人は身体的、知的、心的に異なる特性を有しているので、自分の価値観を自分の特性に適合したものに設定することが大切です。

他人も自分と同じように個人の目標を達成するために生きることを究極的な価値観としていることを忘れてはなりません。

自分がその価値観を具現化するための行動が、他人がその価値観を具現化するための行動を正当な理由なしに阻害することは、多様な生き方すなわち様々な存在を求める創造主の意思に反することであり許されません。

例えば、個人が他人と同様な目標達成のためにフェアに競争することは、正当な理由になります。

従って、パワハラ、各種差別、行き過ぎた格差社会、権利乱用、独裁政治などに繋がる価値観は利己的な価値観と非難されるでしょう。

人間の存在意義は、「物質と概念の共存世界」において個人の価値観を具現化することに喜びを感じて「生きていること」即ち無の対極の有である「存在すること」を創造主とともに実感することにあると思います。

従って、人類の存続を阻害する価値観、例えば戦争、核兵器保有、殺人、虐め、公害、地球温暖化などに繋がる価値観は利己的な価値観であります。

集団の価値観

集団の価値観は、集団のメリットになることを可とし、デメリットになることを不可とする判断基準です。

個人は集団に属することによって多くのメリットを得るので、個人の価値観は、集団の価値観の影響を強く受け、集団の役に立つことを重要な要素の一つにします。

個人が属する集団には、家族、自治会、クラブ、学校、会社、公共団体、国家、人類など目的、構成員数、加入・脱退の自由の有無など特性の異なる様々な集団があります。

集団の価値観は、大多数の人々の欲することに価値を認めている間は問題ありませんが、権力者層の利己的な価値観に染まり出すと、各個人が生きるための手段として人々が形成した集団が目的化し、集団のために個人が存在するという価値観に変貌していきます。

個人の価値観と集団の価値観との関係

「自分のために働くより社会のために働く方が有意義である。」、「仲間と協力して勝ち取ったチームの勝利は嬉しさがひとしおである。」などとよく言われますが、人は個人の価値観より社会の価値観を具現化したときの方が大きい喜びを感じるのでしょうか。

一人で生きられない人間は、互恵的に人の役に立ちたいとの価値観を遺伝子に刷り込まれているので、集団の目標に向かって仲間と協力することに大きな喜びを感じるのでしょう。

しかし、集団の価値観は、現存する独裁国家、極端な思想集団や歴史的な悲劇から明らかなように集団の支配者層の利己的な価値観に染まる場合があります。

しかし、集団が実現しようとする目標が利己的なものか否かを個人の価値観で判断し、利己的なものである場合は集団にくみしない勇気をもつことが必要でしょう。

「集団の役に立つ」との価値観も個人の願望であれば個人の価値観です。

したがって、各個人は、集団の価値観より個人の価値観に従って行動すべきではないでしょうか。

家庭、学校教育や社会における教育によって、個人が利己的でない価値観を形成し、その個人の価値観で社会の価値観を常に監視することが大切であると思います。

人々が各個人の価値観に従って生きるためには、最低生活費を保障する制度、例えばベーシック インカムの導入が必要であると思います。

生活が保障されていれば働かない人が増えるとの意見もありますが、自分の価値観の具現化が生きる喜びであることを教育され、自分の価値観に基づいて立てた目標を達成する喜びを体験した人が最低生活費を貰って働かなくなるとの心配は無用でしょう。

個人の利己的でない価値観と集団の利己的な価値観とが齟齬をきたす場合があります。

その価値観が個人にとって大切なものであり、集団への加入・脱退が自由な場合、集団から離脱する選択も可能です。

しかし、集団への加入・脱退が自由でない場合には、悲劇がもたらされる危惧があります。このような悲劇が起きない自由で、多様性を認めながら、利己的でなく、格差が大きくなり過ぎない平和な社会を築くために、多くの人々が生きることの喜びや自分の成したいことを自ら考えることを日常化するとともに、子供達に幼少時から教育し、体感させることが必要であると思います。