創造主は、全く何もない「無」と表裏の関係にある「有」そのものであり、有の世界では全知全能ですが、「無」と背中合わせで「有」であり続けなければならないという唯一の命題をお持ちのように思います。
完全であるということは、何ら変化する必要が無いことであり、変化したとても、不完全な者が完全に向かって努力して変わることとは異なり、全能者が意図した通りに変化するのであれば初めから変化した状態にあるのと同じであると思います
そこで、創造主は、自分の一部として、規則性と不規則性が混在する宇宙を創造し、予測可能に、時には予測不可能に変化する宇宙とともに、「有」であり続けられているように思います。
森羅万象の変化に課されたルール
創造主が「有」であり続けるためには、森羅万象の変化が必要ですが、その変化は、(1)事物が存在し続ける方向への変化であること、(2)創造主の意図した通りの変化でないことが必須条件です。
事物が破壊や消滅する方向への変化は「無」に向かうものであり、「有」に反します。従って、創造主は、「無」に向かう変化を止めるための最低限のルールを事物に暗示されているように思います。
そして、変化が創造主の意図通りになることを防ぐために、創造主は事物に最低限のルールを暗示すること以外は変化を事物に任せることによって、予測不可能な変化を実現されていると思います。
宇宙や動植物の変化
宇宙空間は森羅万象の大舞台であるので変化は緩やかで規則性が高いことが望ましいです。したがって、宇宙空間の変化は、存在し続けることを最優先におき、予測可能性が高いと思います。
しかし、例えば、太陽の表面の偶発的な爆発で不規則な変化を起こし、地球上の動植物の変化に多様性をもたらしているようです。
宇宙の一つの地球では、無機物の世界で、水や空気が山や野を巡り、地形や気候に変化を与え、動植物を育んでいます。最近は、人間の自然破壊に繋がる身勝手な行動に対し温暖化という予測可能な変化で警鐘を鳴らしています。
植物の世界では、光と水と炭酸ガスを光合成して、動植物の身体をつくるために必要な有機物を生成し、緑で無機質な鉱物の世界を静かに被い、動物の存続を支えています。
動物は、種によってはある程度の知能を有し、上手く餌を手に入れると喜びを顔に出します。創造主は、動物が餓死しても手を差し伸べることはありませんが、餌獲得という生存方向の行為を達成できると快感ホルモンがでるという最低限のルールを動物に仕組まれている気がします。
人間の生きる意義
特に、人間は、高度な認知能力を備え、各自が頭の中に自由に構築可能な概念の世界で起こった出来事を他人に伝えることができます。そして、概念の世界に描いた自分の成りたい姿に向かって行動する中に生き甲斐と成長を感じます。
従って、人間の引き起こす変化は、創造主からの独立性が高く、多様性に富み存在感、延いては「有」を強く主張するものとなります。
しかし、戦争、自然破壊、殺人、虐め、自己中心的な行為などは、「無」に向かう変化であり、これらに対しては嫌悪や恐怖感が生じるように遺伝子に組み込まれている気がします。
目標に向かって努力する、人の役に立つ、共働するなどの行為は、「有」に向かう変化であり、達成感や充実感、賞賛や共感を得られ、生き甲斐を感じるのでしょう。
そして、大きい目標を達成するためには、厳しい努力(努力値が大きい)を長時間続けなければならないので、努力値×時間の努力量(変化、成長)が大きくなり、生き甲斐を強く感じます。しかし、変化後の状態に満足し、努力しなくなると努力量がゼロになり、生き甲斐を無くすでしょう。
各人の千差万別な能力に適した目標に向かう多様性に富んだ努力が、より多くの人々の大きい努力総量を産み出し、「有」が栄えます。
人間は、生きている間は、存在感(成長)を示して生き甲斐を感じ、役目を終えると、木の葉が枯れて新しい葉に順次変わるように無機物に戻ります。そして、地球環境や社会の変化に応じて新しい変化を示すことができる次世代にバトンタッチします。
一人ひとりが存在意義を感じて生きることの大切さ
昨今、自分自身、自分の属する集団、自国の利益のためにのみ権力を乱用し、例えば差別、分断、全体主義、独裁、自然破壊、戦争も肯定しかねないような価値観を持つ指導者が続出し、国民がそれに感化され或いは不本意ながら従わされているケースが世界各地で病巣のように拡散しています。
このような指導者の価値観は、滅亡すなわち「無」に向かう変化を肯定するものであり、「有」に反するものです。
人々は、勇気を持ってこのような「無」に向かう価値観を排斥し、人類が宇宙の癌にならないように、自ら考え行動することが求められています。この努力を怠ると、人類は創造主から「有」であり続けるために存在させておく意義がない、寧ろマイナスであるとして消滅される恐れがあるような気がします。