最近、若者の殺傷事件、SNSを悪用した闇バイト事件、聖職者や教職員による性暴力などが頻発し、人々の社会規範を遵守する倫理観が低下しています。
社会規範は、集団を作って存続してきた人類が長い年月をかけて築いた善悪の判断基準です。
倫理観が低下した背景には、はき違えた個人主義や多様性の蔓延、世界中の多くの指導者による社会規範違反、科学の発達により悪行は罰せられるという教えの効力低下、貧富の差の増大など社会の混迷状態があるでしょう。
しかし、それ以外にも宗教上の問題があるように思います。
仏教で罪になる不善な行為は、因果の法則によって悪い結果を生む十悪行であると、悟りを開いたお釈迦様が説いています。
十悪行は、殺生(いのちを奪う)、偸盗(盗む)、邪淫(性的に乱れる)、妄語(うそ)悪口(中傷)、両舌(他人の仲を裂く)、綺語(へつらう)、貪欲(むさぼりの心)、瞋恚(怒りの心)、邪見(誤った考え)です。
キリスト教で罪になる行為は、神の求める義を示す十戒に反する行為です。
十戒は、キリスト教の旧約聖書において神(ヤハウェ)がモーセを通してイスラエルの民に与えた道徳的・宗教的な戒めです。
十戒は、他の神を拝むな、ヤハウェの名前を不敬に使うな、父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、隣人の妻を欲するな、隣人の財産を欲するな、です。
仏教の一宗派では、人間の根源的に持っている煩悩が悪業の原因であり、人は煩悩を克服できないので念仏して阿弥陀を信じれば救われると説いています。
キリスト教では、人は生まれながら罪を背負っているので十戒を自らでは守れないが、キリストの愛と恵みを信仰する者は守れるとしています。
人間は独立・自律性をこのように全面的に否定されると、自己肯定感が低下し自信を失い、混迷した社会情勢下では社会規範に沿った善悪の判断ができなくなる傾向があると思います。
例えば、十悪行の原因である煩悩あるいは十戒に反する欲望に堪えたときの満足感や成果は悟りの一歩あるいは恵みであるので更に追求せよと説かれると、人間は宗教コンプレックスから解放され本性に従って、他人と争うことなく集団で楽しく生きることができるようになる気がします。
キリスト教と同じ神(ヤハウェ)を信仰するユダヤ教では、救世主は未だに到来していませんが役割はユダヤ人をローマから解放し、地上にユダヤ王国を建てることです。
宗教の対象を選ばれた民族ユダヤ人としていることは容認できませんが、救済を地上での幸福と共同体の繁栄としている点は共鳴できます。
全人類の繁栄と、ひとり一人の生きる喜びを人間の知恵によって実現することが求められています。
ひとり一人が集団の中で個性に応じて目標を達成し生きる喜びを創造主とともに共感することが生きる目的であり、互いに尊重し合うことが社会規範のいの一番であるとする考えが大切だと思います。