全体主義国家に対する危機管理

21世紀に何故、目を覆いたくなるようなプーチン大統領の愚行が出現したのでしょうか。

民主主義国家の全体主義国家に対する危機管理において、技術を含めた通商面で甘さがあったことが一因であると言われています。

そこで、全体主義国家に対する平時からの危機管理について考察しました。

自分の価値観を化体する理想に沿った目標達成の喜びを創造主と共感することが人生の意義と信じている立場から、民主主義に沿った価値観、理想を正とし、それに反するものを誤とします。

人間は、物と時間から成りたつ物質空間と、コミュニケーションによって他人と共有可能な脳内に築いた心像空間からなる現世に目標を定め、「身体」、「知能」、「心」を使って目標達成の喜びを求め、長くも短くもある一生涯を繰り返すもののように思います。

「身体」は、一生涯の間に、成長、成熟し、老化して消失します。

「知能」は、現在の社会情報、知識、思考力に基づいて心像空間を形成し、各種情報、私欲、思考力に基づいて心像空間に自分の価値観や理想を形成します。

知能の一部である知識は、数百世代にも渡って蓄積された知識を吸収し、その上に現世代の知識を積み上げていくことができます。

このため、科学進歩はめざましく、兵器も殺傷能力を飛躍的に増大していきます。

「心」は、欲求および自己抑制力であり、個人一世代限りのもので、年齢とともに向上し、場合によっては稚拙になります。

マズローの欲求5段階でいうと、1段階目の生命を維持する生理的欲求が原始的で一番強く、5段階目の自分の理想を実現する自己実現欲求が最上位ですが一番弱いでしょう。

これが、総論では理想に賛同し、各論ではパンを優先する人間の性の素であり、反面、理想に沿った目標達成の喜びが大きくなる素だと思います。

自己抑制力は、欲求をコントロールする能力であり、執着力、忍耐力、行動力、自己肯定力、自信、集中力、度胸、協調力、包容力などです。

心の発達は、自分の目標を達成するための動機付けとなる欲求と、他人、集団、環境のために自分の欲求を抑制する自己抑制力とを適切に調整する心や、パンを我慢して理想を求める心に近づくことでしょう。

個人の価値観や理想は、欲求、能力、取得知識、成長過程、現状などの個人情報、および世論、国民の価値観、国状、国の歴史などの祖国情報に基づいて形成されます。

プーチン大統領は、一部の国民の価値観、祖国の歴史や現状、個人の欲求、成長過程や現状などから、多くの人々や現世が望まず、創造主の意思に沿わない自分の価値観を化体したソ連帝国という誤った理想を形成したのでしょう。

ソ連帝国は約70年も昔のことであり、世界状勢は現代と大きく異なり、兵器も知識の積み上げで飛躍的に殺傷能力が高くなっている現在のものと異なります。

ところが、プーチン大統領の自己抑制力は、70年前の指導者より向上せず寧ろ権力欲と加齢で稚拙になっていたのでしょう。

プーチン大統領は、時代錯誤した理想と、稚拙な心と、殺傷能力が飛躍的に高くなった兵器とがミスマッチングした状況下で、多くの人々や現世が望まず、創造主の意思に沿わないソ連帝国という誤った理想の実現に向かって行動を開始したと想像します

このような国家指導者の誤った理想を実現するための行動を阻止するための危機管理が強く望まれます。

危機管理の面から、国家指導者の自己実現欲求に基づく価値観や理想が、多くの人々や現世が望むことか、或いは創造主の意思に沿うものか否か平常時から監視し、必要な対策が講じなければなりません。

例えば、対象国の指導者が持っている価値観や理想が誤ったものである度合いを人工頭脳AIを使って判定し、危険値に応じた対策、例えば最先端技術の輸出禁止などを平常時から講じます。

AIへの入力は、指導者の欲求、成長過程、現状などと、祖国の世論、国民の価値観、国状、歴史などが必須項目です。

全体主義国家では、国民は国家のために存在するものであり、国民の価値観もそのように洗脳されています。

全体主義国民の価値観を具現化することは、自分の存在意義である国家が大きくなることであり、指導者が国民の支持を得るために覇権主義を取ることは必然です。

覇権主義を本質的に備えている全体主義国家が存在する以上、各民主主主義国家は応分の軍事力を備え、覇権の実行を一体となって抑止しなければなりません。

全体主義国家との通商は、その国民の個人主義的価値観の理解度に応じて制限する程度の配慮が必要だと思います。

民主主義国家においても、個人の尊重は理想ですが、パンへの欲求はもっと強いです。

民主主義国民が全体主義国家に対する危機管理から生じる経済的な不利益を我慢し、必要な対策の実行に協力することは当然の責務でしょう。

人間の価値観の形成には長い年月を要し、国民の3割ほどの価値観を変えるには半世紀ほども掛かります。

開発途上国への経済支援においても、パンと個人の尊重とをセットにし、少なくとも50年間危機感をもって続けないと、民主主義を根づかせることはできず全体主義の後塵を拝する恐れがあります。

国民は国家のために存在するものであるという価値観を有する全体主義国家の国民も、個人の能力、興味にマッチした各人の価値観を形成し、自分の価値観を化体した理想に沿った目標を達成する喜びを創造主と共感できる世界になることを願います。

平穏な市井生活の喜び

創造主は「無」の対極の「有」を永久に明示し続けるために宇宙を創造されたと想像します。

そして、人間の存在意義は、各自が多様な自己実現能力を発揮して目標を達成し、生きる喜びを創造主とともに共感することではないでしょうか。

人間は、生きる喜び存在を強く現出するために、生存欲、生存するために必要な基礎的な判断基準と学習能力および集団で行動する集団脳、概念の世界を大脳内に構築して他人と共有する概念共有能力などの、謂わば自己実現能力を生誕時に授かっていると思います。

そして、千差万別な生きる喜びを現出するために、自己実現能力は個人毎に生来異なり、生活環境、学習内容、年齢等よって様々な方向に成長し変化するのでしょう。

ロシアの暴挙、中国の独善、独裁国家の増加、核兵器への依存、地球温暖化、格差拡大など人類にとって極めて深刻な問題が地球規模で起こっており、人間は、創造主の意図に反し、その存在意義を薄弱にし、延いては生存を危うくしているように感じます。

例えば、訳ありげな価値観の実現を目標に掲げて自己保全のために侵略行為を行なう独裁者と国家権力は、平穏な市井生活を犠牲にし、人間の生きる喜びを悲しみに暗転しています。

独裁者に惑わされた国民の一部は、自己実現能力を放棄して衆愚に転落しています。

独裁者と国家権力および衆愚だけでなく、権力を自己実現の目標に設定する権力志向者、産業革命後に高度に発達した物質文化を貪欲に追い求める一般市民も、各自に適した目標を達成して歓喜する人生の意義を問い直す必要があると思います。

自己実現能力は、正しい教育によって適正に発達し、各自に適した目標を達成可能にし、生きる喜びを実現します。

反面、自己実現能力は存在を強く現出するための能力ですので、教育を誤ると利己心、権力志向、自己顕示欲、自己保全の過大なものになります。

科学、産業、政治、芸術あるいは運動などの各分野で自己表現能力の高い人は、能力を活かして多くの人々や各分野のために貢献することで大きい喜びを実感することができるでしょう。

このように、権力は社会が社会に貢献した者にさらなる貢献を期待して与える手段であって、個人が自己実現能力を発揮するために設定する目標にはふさわしくありません。

権力志向や物質文化を偏重する風潮が、現在地球規模で起こっている深刻な問題の温床になっている気がします。

例えば、平穏な市井生活、ゴミのない社会を目指すボランティア活動などは、自分の能力を発揮するための立派な目標であると思います。

創造主は「無」の対極の「有」を永久に明示し続けるために、人間が生きる喜びを創造主とともに共感することを期待して、宇宙に人間を存在させたと想像します。

人間が生きる喜びを永久に現出するためには、自ら生存を危うくするようなことがあってはなりません。

各自が多様な自己実現能力を発揮するために設定する様々な目標は、永久に続く営みにおいては同程度の意義を持つでしょう。

しかし、各自の人生は有限ですので、自己実現能力の高い若者には、人間の多様性と、精神文化を尊重する教育を十分行なった上で、自己の能力にふさわしい高い目標を設定するように励ましたいと思います。

ウクライナに勝利を

ウクライナ戦争がウクライナ勝利で早く終結することを希求するなかで、戦争犯罪者に凋落したプーチン独裁者への憤り、人間の弱さに対する虚しさと強さに対する期待、国家権力が国民に与える利害を思いながら、人間が行う行為とその動機について考えました。

人間は生きるための判断基準と学習能力を生まれつき備えています。

例えば、産まれて間もない赤ちゃんも甘いミルクは飲みますが、渋いお茶は吐き出して二度と口にしません。

このことから、行為の動機となる個人の価値観は、生きることに有益な行為は善、有害な行為は悪であるという生来の価値基準が根底にあると思います。

人間は、このような判断基準と学習能力をベースにして自ら行動し、学習し、他人や社会から教えられ、行為に対する自分の価値観を築きます。

人間の行為は、動機によって「行うことを欲する行為」、「行わなければならない行為」、「行ってはならない行為」に区別されると思います。

「行うことを欲する行為」は動機が欲求であるので欲求行為と呼びます。

「行わなければならない行為」は、動機が義務的であるので、義務行為と言えるでしょう。

「行ってはならない行為」は、その行為が有害であるという動機で禁止するので禁止行為とします。

欲求行為は、心理学者アブラハム・マズローの欲求5段階説など種々研究されていますが、自分の能力や興味に基づいて自らが設定した目標に向かって行動し達成したときに実感する存在意義や喜びは、人間の生きることへの動機とも言えるでしょう。

創造主が人間に望まれることは、各自の善い欲求行為を互いに認めて尊重し、協力してより多くの人が楽しく生きることだと思います。

従って、欲求行為でも、例えば、薬物使用や詐欺など自分や他人の善い欲求行為を害する行為は悪い欲求行為でしょう。

人間の知的活動を模して創作されたコンピューターは、出荷時には、学ぶ能力や外部からの要求を取捨する能力を基本ソフトに記憶されているだけですが、学習させることによって、例えば人工知能のように驚くほどの能力を有するようになります。

コンピューターが偶然に出現し得たものではないのと同様に、人類は突然変異で誕生したものではなく、創造主の人間と共に喜びを共感したいという動機から創造されたものであると推測します。

義務行為は、望むか望まないかに拘わらず自分、他人、あるいは集団や国家のために行なわなければならない行為です。

例えば、つらい練習をすること、疲れているときに老人に席を譲ること、当番で掃除をすること、税金を払うことなどが義務行為でしょう。

禁止行為は、例えば悪い欲求行為、脱税、侵略などのように自分、他人、自国あるいは他国にとって有害な行為です。

ロシアのウクライナ侵略は、プーチン独裁者の利己的な行為が4千4百万人強のウクライナ人の善い欲求行為を蹂躙し、創造主の意思に反する禁止行為であることは明々白々です。

ゼレンスキー大統領やウクライナ兵および市民は、独裁者の悪と戦うために行なわなければならない戦闘義務を、愛するウクライナ国を守りたいという善い欲求行為に昇華して勇敢に戦っているように思います。

逆に、ロシア兵は、戦闘義務を独裁者から強要され、禁止行為であるにも拘わらず、創造主の意思に反して戦わなければならないという悲劇に見舞われている気がします。

ウクライナに勝利を

基礎的な学習内容 その2

今回は、学習課目の道徳、体育、芸術や美術、社会や理科における基礎的な学習内容を提案します。

文部科学省は、児童生徒が生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けるために、道徳教育の充実を図っているとしています。

生徒が道徳性を知識として学習することも大切ですが、好きなことの知識や経験を積んで脳内の概念の世界を拡大していく楽しみ、成長段階に応じて設定した目標を達成する喜び、多様性ある人々と協力し物事を成す喜びなどを体験学習することによって道徳性が血肉となるものと思います。

これには、子供が築いた概念の世界の話を聞き、目標設定のアドバイスをし、色々な人と接触する機会を作るなど、多様性ある子供の身体、知能、心を使った個性に応じた実体の世界での活動がベースになると思います。

先祖から引き継いだ生命を大切に思う心は、本能だけでなく、各人の活動から得られる喜びや感動などによって育まれるものと思います。

昨今の権威主義下での弱者の軽視、民主主義下での強者の尊大をみるとき、生きる喜びや感動を創造主と共に共感する生甲斐を若者に体感させたいものです。

体育で学習する対象は、主として身体を目的に合わせて効率的に動作させる能力です。

例えば、徒競走で生徒が早く走っている状態は、「実体の世界」での出来事で、生徒は脚や手などの筋肉を上手く使って疾走します。

しかし、ゴールした後に先生が生徒に、「膝をもう少し上げた方がもっと速く走れるよ。」とアドバイスしたとすると、それは先生の「概念の世界」で生徒が走っているフォームについて述べたものです。

生徒が前より速く走るという目標を立て、先生のアドバイスや自分の概念の世界に蓄積した速く走るための情報に従ってフォームを修正し、実体の世界で練習を繰り返し、次回の徒競走でもっと速く走る喜びを体感することが体育で学習することだと思います。

体育は、身体、知能、心を使って目標設定、実行、達成のサイクルを比較的分かりやすく容易に繰り返すことができるように思います。

芸術で学習する対象は、人が心に抱く思いや感情です。

表現者の思いや感情は、その生死に拘わらず、文芸、美術、音楽、演劇・映画などの媒体を介して鑑賞者の概念の世界に復元されます。

表現者は、自分が抱いた思いや感情を実体の世界で表現して鑑賞者の共感を得るために感性と表現力を磨きます。

鑑賞者は、表現者の思いや感情に共感するため、或いは表現力を学ぶために表現物を鑑賞します。

学習科目の社会では、例えば、多様性ある人々の個性を個人および社会に有効に活かす仕組みなど、個人と社会の関係について考えることが求められます。

また、過去に人間が行ってきたことを歴史として書物や文化遺産などで学習し、各自の概念の世界に復元します。

歴史を学ぶ一つの意義は、独裁政治や戦争などの過去の過ちを繰り返さないためにあると思います。

しかし、歴史は人々の概念の世界に築かれた過去の出来事であるので、利己的な為政者や思想家などに歪曲されないように注意しなければなりません。

理科では、実体の世界の物事の性質を学習し、あるいは発見し、言葉や記号や数式で各自の概念の世界に復元します。

そして、物事の性質を利用し、実体の世界において、例えば産業に役立つ技術や病気を治す医療などを開発します。

生徒が、上述のような学習の出発点のようなことを分かりやすい言葉や例題などによって理解すると、自分の概念の世界を広げていく面白さを知り、興味を持ったことについて主体的に学習するようになると思います。

国民の幸福度が低く、国力の相対的低下が危惧される日本において、親や社会の価値観を押付けることなく、子供が持っている興味や才能を気づかせる教育をすることによって、各自の個性に応じた豊かな概念の世界を築き、チャレンジ精神や幸福度の高い国民が増加するのではないでしょうか。

基礎的な学習内容

今月は、先月投稿した共生主義日本国の教育システムを通して、若い人が学ぶと人生をより楽しむことができると思われる基礎的な学習内容を提案します。

例えば、母親が娘に留守番を頼むときに、「あなたの側にいる実体の母は出かけるけれど、あなたの頭の中にはあなたが覚えた母の顔や臭いが概念の世界の母としているから、淋しくなると思い出して我慢してね。」、「あなたと兄さんの頭の中にいる二人の母さんは、似ていると思うけど、どれ位違うのかな。」等の会話を通して概念の世界を幼い子供に徐々に理解させていくことができる気がします。

幼い子供が概念の世界を理解することは難しいと思いますが、様々な工夫と経験を活かして時間をかけて理解させることが必要と思います。

人間が他の動物と大きく異なる点は、5感で感じた「実体の世界」での物事を記憶し、脳内に「概念の世界」を構築し、各自の概念の世界を言葉、絵図、音などを使って他人と共有することができることです。

人は身体、知能、心の三要素から成りたち、個々に相違する三要素に基づいた個性を有します。

そして、個人の成長段階での個性に適合した目標を設定し、この目標達成に喜びを実感しながら、三要素の総合力を成長させていくことが人の生きる意義の大きな一つであり、そのことを人はより若い時に知ることで人生をより楽しくできると思います。

生徒は学校で、国語、算数、理科、社会、体育、音楽、美術など多くの科目を学習します。

各科目で学習する対象の大まかな特徴と学習した対象をどのように利用するかについて知ると、生徒は主体的に学習するようになると思います。

人間は実体の世界における物事、例えば物、物の状態や動き、人の感情などを記憶し、記憶した物事で自分の概念の世界を構築します。

言葉は、先ず自分と他人とが同時に見聞きすることができる実体の世界における物事を表現する符号として自分と他人との間で共有されます。

そして、自分と他人は、言葉を仲介にして自分の概念の世界の物事A1と他人の概念の世界の物事A2が実体の世界における物事Aに対応するものであると認識します。

このようにして言葉は、各自がその概念の世界に記憶した現実の世界での物事や自分が創作した小説や思想などの創作物を他人の概念世界に持ち込んで共有することを可能にします。

しかし、自分と他人では同じ物事Aでも理解や興味が異なるので、自分の概念の世界の物事A1と他人の概念の世界の物事A2は同一にはなりません。

国語は、物事を約束に従って言葉で表現することを学ぶ科目ですので、理論的な面もあります。しかし、国語の対象である言葉は変化する社会の出来事や微妙な人間の感情などを表現するために変化し矛盾を内包せざるをえなくなることもあり、国語は非理論的な面もあるのでしょうか。

言葉は、現実の出来事だけでなく心の産物である感情を他人と共有するための大きな手段ですので、国語では、言葉の使い方だけでなく、他人を思いやる気持、志に向かう勇気など人の心も併せて学習できるようにするとよいのではないでしょうか。

算数で学習する対象は、概念の世界において数を約束に従って理論的に取り扱うことです。

数も実体の世界での物の個数、長さ、重さ、時間などの量を表現する言葉の一つとして各自の概念の世界に形成されるものです。四則演算も実体の世界での「加える」、「減じる」、「同じ量を複数回加える」、「一つの量を等分割する」を概念の世界において数字と符号+,-,×,÷を使って形成したものです。

概念の世界で「10進数」、「0」、「負の数」、「四則演算」、「関数」などが創作され、その後、これらと理論的に矛盾を生じない新しい考え方が次々に創作されました。

各自が概念の世界に構築した数に関する考え方や法則は、実体の世界でグラフや式として紙等に記載することによって他人の概念の世界に容易に取り込むことができます。

また、数は実体の世界で物の個数、長さ、重さ、時間などの量を示すだけでなく、異なる種類の量から別種類の量を算出し、或いは異なる種類の量の関連性を表すことができます。

例えば、数は、物体が移動した距離を表す数を移動に要した時間を表す数で割った数によって物体の移動速度を表すことができます。

今回は紙面の都合上これまでとし、主として身体を学習の対象にする体育、心を対象にする音楽や美術、実体と概念の世界の物事を対象とする理科や社会については次号に回します。

共生主義日本国の学習システム

国の学習システムは国家の根幹を成すものであり、各国ともより優れた学習システムを模索して試行錯誤を繰り返しています。

国力は、国の経済、政治、軍事、文化、福祉などの総合力です。

従って、学習システムにおいて国家の実益を優先し過ぎると短期的には国力が高揚しますが、長期的には国民が疲弊し幸福感が低下して国力が低下すると思います。

共生主義日本国の学習システムは、各国民が自分の目標達成に喜びを感じて生きるための能力を習得するとともに、日本の国力高揚におおいに資するものでなければなりません。

学習システムには、家庭・学校・社会での教育、自己学習、社会風土からの示唆などがあります。

人間が誕生後最初に受ける教育は、家庭教育です。

両親の深い愛情と後ろ姿は、人の生きる大きな力になります。

さらに、両親が躾、生まれ持った才能を活かして生きることの喜び、忍耐力、自他個性の尊重などの基礎能力を子供に授けることは、国民育成の基礎であるとの社会通念を醸成する必要があると思います。

日本の学校教育は、2020年教育改革で思考力重視の方針が出されていますが、まだまだ道半ばの状態ではないでしょうか。

何のために生きるか、勉強するのか、言葉(数字を含む)によって頭の中に構築し言葉によって他人と共有する概念の世界と現実の世界との関係について考えるなど、若い時に自分の頭で考えて論理立てする思考力を鍛えることは、国民が生まれ持った才能を活かして楽しく生きる能力を習得すると共に、国家が科学技術、産業、政治、文化など全ての面で国力を向上するのに有効であると思います。

また、例えば、図工が95点で、国語、算数が40点のA生徒より、図工、国語、算数が60点のB生徒の方が、成績を上位とするような順位付けには弊害がないでしょうか。

A生徒の方がB生徒より劣っていると受け止めかねない評価をすることは、人間の才能は生来多様であることを忘却した人格無視の気がします。

A生徒については、図工においてトップクラスと評価し、国語、算数については社会常識として必要な程度の知識は身につけましょうとコメントすることで、A生徒は、自分の才能で力強く生きる能力を伸ばし、国家に貢献する国民に育つと考えます。

自己学習は、生まれ持った才能を活かして成し遂げたい目標を達成するという欲望を工夫と努力で追い求めるうちに学習することだと思います。

学校教育として、ドイツのように小学校卒業時に、就職を前提とする基幹学校、実務的な職業教育を受けるための実科学校、大学進学のためのギムナジウムから一つを選択する3分岐型教育は、10才で自分の才能を見極めることの困難さ、早くから進路を振り分けることで教育格差、ひいては所得格差が拡大するなどの弊害が生じているようです。

これらを踏まえて共生主義日本国では、中学校に自分の才能、成したいことを見極めるためのカリキュラムを用意し、進路を自ら決定した生徒は、成したいことに応じて選択した例えば、科学、職人、芸術、スポーツなどのコースで学習するというような、個人の生甲斐および国益に供する教育制度の創設が望まれます。

コース選択の誤りに気付いた場合、学生時代はコース変更を可能とし、社会に出た後は選択し直したコースで学習できる福祉政策と関連づけることも必要だと思います。

個人は社会風土からも多くのことを示唆され、自分の価値観の形成に大きな影響を受けます。

現在日本の社会風土は、多様性より均質性を志向する傾向が強いように感じます。

しかし、人間の素質や生活環境は生まれつき個人差があり、各人の成したいことは多種多様です。

自分の成したいことを目標に定め、生まれ持った才能を活かして目標達成に努力することは、社会的評価に関係なく、自分にとっては工夫と喜びの詰まった生きた証になると思います。

勿論、目標達成の成果が他人や社会に貢献し、感謝や称賛を受ければ、喜びは一層大きなものとなるでしょう。

また、安全志向で保守的な国民性からでしょうか。日本社会では、失敗を怖れて冒険しない、敗者復活が困難であると一般的に言われています。

このような日本社会の弱点も多様性を尊重する教育を受けた人々によって改善されていくと思います。

各国民が生まれ持った才能を活かして能動的に生きる国家は、経済的、文化的に豊かで堅牢な国家になると確信します。

共生主義日本国と国民との関係

共生主義日本国を描くために人間の個性および国家の原点および共生主義日本国における国民と国家の権利、義務について考えました。

人は、生後に習得する取得情報と生前から遺伝子に組み込まれた遺伝子情報を有します。

遺伝子情報には、個々に異なる素質と、創造主が遺伝子に組み込まれた人間本性があると思います。

素質は、例えば感受性、創造力、音感、記憶力、運動神経、免疫力、認知能力などで、生まれつき備わった能力です。これらは鍛錬によって向上できますが、生まれつき個人差があります。

取得情報は、社会経験や学習して接する情報を個人の素質で濾過して取得した情報であり、生活環境、家族やまわりの人々からも大きい影響を受けます。

個性は、人間本性、個々の素質および取得情報に基づいて形成される各人の特性で、得意分野、嗜好などにおいて千差万別です。

人間本性は、人間に共通して与えられた特質で、集団の中で個性を発露し合い、共感あるいは競い合うとともに、肉体的または心的に共生することに喜びを感じる生命力だと思います。

集団社会は個性を発露するために不可欠であるとともに、安全の確保、経済活動や社会保障に有効であるので、親族、ムラ、国、国家へと規模が大きくなってきたのでしょう。

国家と国民の関係の原点は、国家は、国民が生きるために必要な集団であるとともに、国民の個性の発露、安全、経済活動、福祉などを担保するための国家政策を実行する義務があります。

各国民は、他の国民の生命力を尊重するとともに、適正な国家政策の実施に対する義務と責任を果たさなければなりません。

集団が国家へと大きくなるにつれて両者の関係の原点が忘れられ、国家(為政者)の価値観が国民の価値観と乖離すると革命や戦争が勃発します。

なお、学術、芸術、スポーツなど多くの分野では、分野別の集団が国境を越えて形成されますが、安全、経済活動、福祉などは担保されません。

このような人間の個性および国家と国民との関係を前提にし、共生民主主義では現行民主主義を次のような点で改良する必要あるのではないでしょうか。

民主主義の重要な理念である自由と平等も、昨今の格差社会の免罪に使われている面もあるので、人間の素質や生活環境は生まれつき個人差があり、多様性ある個性の発露が創造主の意思であることを踏まえて意味づけし直さなければならないと思います。

自由は、他人の個性およびその発露を阻害せず、国家政策に悖らない範囲で自分の個性を制約されることなく表現する権利とします。

平等は、人間は多様性ある個性を差別されることなく表現できる権利とします。

さらに、人権は、すべての人々が生命と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利とされていますが、昨今の風潮として自分の人権(個性)を利己的に主張するだけで、人権を行使(個性を発露)する場である集団社会に対する責任に欠ける行為が国民や為政者に広がっているように思われます。

社会構造の変革は、歴史的にみて技術革新による富みの生産量増大にともなって起きています。

共生主義日本国においては、国民が従来の納税、勤労、教育の義務を果たして国の財源、国力、人的能力を向上するとともに、情報技術(IT)を活用し、富の生産・分配効率、情報の伝達・利用効率を向上させる必要があります。

戦争は国家が国民に命の供出を求めるものであり、共生主義日本国は戦争する権利を有するか否か大きな問題です。

世界は地域によって変化の時間軸が異なり、異なる時間軸の現在の状態が同時に存在するので、価値観の異なる非民主主義国家が存在します。

民主主義国家においても価値観は時代と共に変化してきた経緯があるので、現在における非民主主義国家を全面的に否定することはできず、非民主主義国家の産業振興や人材育成に協力し、民主主義国家の基盤整備に協力することが非民主主義国家の民主化に役立つ方策だと思います。

ところが、例えば独裁体制国家が独裁者の野心で共生主義日本国を軍事力で侵略する危惧がある現状では、日本国民は国家の軍事行動に参加して軍事力で共生主義および国民の命と人権を防衛する確固たる覚悟を持っていることを内外に示しておく必要があると思います。

しかし、戦争はいずれの国家の多くの国民の命と人権を奪うものであり、共生主義日本国を軍事攻撃から防衛する場合にのみ容認されると思います。

従って、自衛隊を日本国自衛軍とすることは許されますが、日本国軍と称してはならないと思います。

共生主義日本国の軍事力は、侵略を断固許さない程度に強力なものとする必要はあります。

核兵器は、人類の滅亡に繋がり、無の対極の有を創造主とともに実感するという人間の存在意義を否定するものであり、保有すべきでありません。

これにより、日本国憲法第9条を次のように改正します。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するが、他国の武力による我が国への侵略行為に対しては日本国自衛軍の武力を行使する。

② 前項の目的を達するため、核兵器は保有しない。

共生主義国家の実現に向けて

国民が、個性の性状で差別されることなく経済的に拘束されることなく、各自の価値観に基づいて自己表現可能な理想社会を実現する共生主義国家について先回投稿しました。

共生主義国家において、国民が多様性の尊重と共生の権利を行使し、義務を果たして、より多くの国民が生きる喜びを享受できるようにするためには、従来の納税、勤労、教育の権利をより確実に行使し、義務を果たして国の財源、国力、人的能力を向上する必要があります。

共生主義国家の実現に向けて、例えば国政選挙の比例代表ブロックにジェッンダーブロック、身障者ブロックなどを追加するなど政治体系の一部を提案します。

野党も政権交代可能な政党になると叫ぶだけでなく、理想とする政治体系をもっと具体的に提示し、その実現に向けて現状の制度をどのように変えていくのかを丁寧に説明するべきだと思います。

象徴天皇制

戦後、日本国民の精神的な統合を図るために象徴天皇制が採用されました。

イギリスにおいても、17世紀に国王を処刑して共和政が誕生しましたが、混乱が続き、新しい国王を迎えて立憲君主制にしました。

共和制国家においては、直接選挙で選出された大統領が国家の象徴になっています。

国民が国家としてまとまるためには、国家の象徴になる人物が必要であることは歴史が証明しています。

日本の象徴が二人になると内紛の元になるので、現行の象徴天皇制、議院内閣制が適していると思います。

選挙制度

18世紀に入ってイギリスでは、「国王は君臨すれども統治せず」という状態になり、選挙に勝利した多数党が内閣を組織し、議会に対して責任を持って国政を担当するという議員内閣制が確立しました。

その後、選挙制度の改正が繰り返され参政権の範囲が拡大されてきました。

日本の国政選挙は、地域および人口に基づいて区分けされた選挙区毎に定数の国会議員を選出するものです。

国民の参政に重要な選挙区においても権力と利権構造の固定化が進み、多くの弱者層を真に代表する議員を選出することが困難な状況になっています。

そこで、比例代表制のブロックに加えて、例えば、ジェッンダーブロック(女性およびLGBTの人口割合に応じた定数)、身障者ブロック(身障者の人口割合に応じた定数)、若者ブロック(30才以下の人口割合に応じた定数)などを新設します。比例代表名簿には、ブロック区割り対象の候補者を搭載します。

若者ブロックの人口割合は未成年者の一定割合も含めたものとし、日本の将来を担う未成年者の間接的な政治参加を可能とします。

社会保障制度

福祉政策と税制を関連させてベーシックインカムを採用します。

2019年の厚生労働省の国民生活基礎調査によると、2018年の日本の世帯数は5,099万世帯、平均世帯人数は2.44、相対貧困率は15.4%、貧困世帯の等価可処分所得は127万円ですので、貧困世帯の可処分所得は、概略127×√2.44=198万円、一人当たりの所得は198÷2.44=81万円です。

ベーシックインカムを一人月額7万円にすると、貧困世帯の可処分所得は、7万円/人・月×12ヶ月×2.44人=205万円となり、貧困から脱却します。ベーシックインカムに必要な歳出は、貧困世帯用に205万円×5,099万×0.154=16兆円になります。

所得税の納税者にはベーシックインカム分だけ所得税を控除し、高所得者には所得税を控除しないなどの給付付き税額控除を行うなどの工夫をして歳出を極力抑えます。

日本は格差が拡大し、かつ高齢化、少子化が極めて深刻な社会問題であること。

より多くの国民が生存することを保障され、欲することを行って社会貢献することが総合的に国力高揚に繋がること。

国民が多様性の尊重と共生の権利を行使し、義務を果たし、より多くの人が生きる喜びを体感することが創造主の意思であること。

日本の相対貧困率は、G7(米、独、伊、カナダでベーシックインカムの実証実験がすでに行われている。)のうち、米国に次いで2番目に高いこと。

などを考慮すると、共生主義国家日本の社会保障制度の根幹は、ベーシックインカムが適していると思います。

思想・科学技術の進歩、マイナンバー制を活用した徴税制度、規制緩和、有償ボランティアの活用など多様性ある人々の知恵と協力でベーシックインカム制度を実現したいものです。

なお、外交、軍事、教育、地方問題などについても追々提案します。

多様性尊重と共生主義

昨今、自由と平等を謳う民主主義国家において、権力、利権構造の固定化および経済格差の拡大にともなって人々の幸福感が減少し、閉塞感が増大しています。

その対策として、多様性を尊重するとともに、様々な人々が協力して社会をつくる共生主義をベースにする国家が模索されています。

社会は有史以来、人間がさまざまな苦難に打勝って生きていくために強者が弱者を経済、倫理、武力的に支配する有形無形の階級が時間の経過とともに幾重にも形成され、大多数の弱者層が強者層に正当な権力や利権を要求することが困難な状況になっています。

自由、平等、友愛を標榜しブルジョア民主主義を手に入れたフランス革命も、一人の絶対君主のファミリーと、14万人の聖職者(第1身分)と、40万人の貴族(第2身分)、2600万人の平民(第3身分)の代表であるブルジョアジーとの間の泥臭い権力、利権闘争であり、経済的に弱者であった平民の大部分の農民が獲得した成果はブルジョアジーからのお零れ程度でした。

ブルジョアジーは、平民に属し商業や工業の経営に成功して経済的に強者になった新興勢力です。

フランス革命にみられるように、社会体制の変革は、現体制の亀裂や財政難、新勢力の台頭、新しい思想の出現、技術革新、外国からの干渉のいくつかが同時に発生したときに起きています。

フランス革命前に平等主義や自由主義の研究が盛んに行われて理論武装が行われたように、現代社会において、多様性の尊重や共生主義の思想的裏付けが望まれます。

理想社会を提案する東京パラリンピックでは、社会的弱者と言われる身障者、LGBT、高齢者が健常者と協力して大会を運営しました。

そして、障がいの種類や程度でクラス分けされた選手は、各自の能力に適した目標に向けた努力を結実させたパーフォーマンスを演じて歓喜し、観衆を感動させました。

創造主は「無の世界」に対峙する「有の世界」をより多様により強く実感するために、人間に多種多様な性状と才能を天賦されていると思います。

したがって、人間は各自の性状と才能に基づいて設定した価値観を具現化して自己表現することによって生きる喜びを創造主とともに共感することが存在意義だと思います。

音楽の神童と言われるモーツアルトは、音楽では強者でしたが、経済的には弱者であり、身分や財力で強者であった聖職者や貴族が好むピアノ演奏や作曲を行い、奇行のなかにむなしさを隠していたのでしょうか。

しかし、大司教と決別した後は自分の価値観を自己表現する作曲を行い、貧しいなかにも生きる喜びを体感したような気がします。

若くして亡くなる3年前の手紙で、「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だったころから、・・・目隠しをされて演奏させられたこともありますし、・・・僕が幸運に恵まれていることは認めますが、・・・作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです。」と語っています。

共生主義は、東京パラリンピックで提示されましたが、まだ著作や研究が散見される程度であり、国家体制としてどのように具体化していくかの試行錯誤が続くでしょう。

現代の民主主義は、フランスのブルジャジー民主主義より社会的弱者の所有権、参政権、人権等が確立しているので、共生主義は現代民主制の延長線上にあると思います。

しかし、現代民主主義が標榜する自由と平等は、現在の経済活動にマッチした才能に長けた現在の強者に有利に働き、解釈によっては弱者を自己責任として切り捨てる道具にもなり得ます。

共生主義では、自由は、自分の性状と才能に基づいて設定した価値観を具現化する自己表現を経済的に拘束されることなく追求できることであり、平等は、各自の性状と才能で差別されることなく自己表現できることでしょうか。

多種多様な性状と才能を天賦された人間が、天賦の才能を努力で研鑽し自己表現して生きる喜びを実感することが創造主の意思だと思います。

現代民主主義国家において、多くの国民は多様性を尊重し、さまざまな人々が協力し、夢を抱いて生活できる国家を望んでいます。

技術革新の面では、超情報化社会の到来によって人間の能力の一部が、ビッグデータやAI、ロボット等に置き換えられ、人間にしか発揮できない多種多様な能力が求められるようになってきました。

このような状況下で、現代民主主義国家から共生主義国家に、創造主の意図する多様性の尊重を啓蒙し、東京パラリンピック、テレワーク、ベーシックインカムや働き方改革、コロナ渦での教訓などを活かし、日々進歩する情報技術を用いて変革させたいものです。

国の多様性

現在の世界には、日本が過去に経験してきた種々の状態や政治体制をとっている多くの国が現存しています

例えば、ミャンマーの軍事政権は、幕府に見られる武家政権、アラブ首長国連邦の首長達の連邦最高評議会は、平安時代の貴族政治、シリア、アフガニスタン等の内戦は戊辰戦争、南スーダン等での貧困は天保の飢饉、アフガニスタンやパキスタン等での女性の権利制限は、江戸時代の男尊女卑、インドのカースト制は、江戸時代の身分制度、イラン、パレスチナ等の国教であるイスラム教は、明治時代の国家神道、中国での共産党は、戦前の大政翼賛会、サウジアラビア王国は、明治天皇統治下の大日本帝国などです。

日本では、過去の体制より、それに続いた体制の方がよいと判断して現代の民主制に変化してきたのだと思います。

今回、アメリカはアフガニスタンからの米軍撤退で、必然性が弱い中で他国の体制を移行させることは不可能に近いことを20年かけて証明しました。

日本においても、旧体制から新体制に移行するときに、国民は多大なエネルギーと犠牲を払わなければなりませんでした。しかし、体制移行は、社会状態の変化の中で民衆も望んでいたと想像します。

一つの国において、体制移行が成立するのは、その国の国民に影響をあたえる経済、文化、環境、国外情勢などの様々な状況変化が体制移行に必然性を与え、国民が体制移行を自ら望み、勝ち取ろうと立ち上がるときに限られると思います。

現在の中国、シリア、アフガニスタン、イラン等においても、自分の個性を活かした目標達成に生きる喜びを感じている多くの国民が存在するでしょう。

このようなことを勘案すると、世界は地域によって変化の時間軸が異なり、異なる時間軸の現在の状態が同時に存在することは、地球上に多様性をもたらしていると考えられないこともありません。

各国において、時の流れの中で体制移行の条件が整っていくでしょう。

独裁制国家は、権力者が陥ってしまう傲慢さから利己的になり、国内外において国際ルールを無視します。民主制国家は協力して断固反対の意思表明を繰り返すことによって、独裁制国家内に体制移行の必然性を醸成するでしょう。

再生可能エネルギーによって石油の需要が減少すると、アラブの首長の収入も減少し、何らかの変化が生じるでしょう。

人間は本質的に権力に拘束されない自由を求めるものであり、自由を前提とする民主制が国民にとって好ましい制度であることを高い代償を払って知ることができた日本人が、遅れた時間軸の国の人々に対してできることはないのでしょうか。

18世紀末のフランス革命なども17~18世紀にヨーロッパで広まった啓蒙主義の延長線上にあると言われています。民主主義は、誰もが権力から開放され、機会を平等に受けることができ、ジェンダー平等を目指しているなどを弛まずSNSなどで世界に発信することが求められていると思います。

貧困国に食物を提供するだけでなく、経済的自立を支援する援助が大切でしょう。

自国に自由と平等を奪われて避難せざるを得なくなった難民を広く受入れることは当然のことと思います。

日本の民主制を、相互尊重精神の徹底、所得格差の適正化、個性を伸ばすチャレンジ精神の尊重など自由と平等をより具現化可能なものに改革し、生き生きした日本の経済、文化活動を世界に発信したいものです。