SNSによる改革自由民主主義の実現

所得格差が時間の経過につれて拡大するという現在社会の構造上の欠陥を是正するために、民主主義、資本主義を根幹とする現行自由民主主義を改革することが不可欠であると思います。

厚生省の2019年の国民生活基礎調査によると、2018年の世帯所得の中央値は437万円です。世帯所得が437万円以下の世帯が約2,550万世帯、1世帯の人員を約2.4人とすると人口の約半分の6,120万人がこのグループに属します。ここから社会保険料や諸々の税金が引かれるとかなり厳しい生活になります。

国会議員の年収を2千万円とすると、世帯所得が2千万円以上の世帯は1.2%で61万世帯、147万人がこのグループに属します。

人間は様々な価値観を求めて生きているので、所得で人々をグループ分けすることはできませんが、一つの見方として、6,120万人の50%グループ(国民の半数)の代表が一人も参加せず、147万人の1.2%グループ(国民の1.2%)を代表する国会議員のみが議論して社会のルールを決める自由民主主義では所得格差が拡大していくのは当然の成り行きでしょう。

人間性

人間は己の価値観を実現するための行動に生きる充実と喜びを感じるいきものだと思います。

このように生きるために、利己性を生来の性としているのでしょう。

人間は生まれつき社会性も持ち、他人を喜ばせたい、不快にしたくないとの欲求を持っています。

そして、他人の利己性を尊重するという社会性も持っていますが、他人が自分の存在を否定しないことを条件にしています。

従って、例えば、人徳のある国会議員が50%グループに利益をもたらす法律を提案したとしても、1.2%グループの利益を構造的に損なうような法律を自ら進んで提案するとは考えられません。

このような現実を冷静に眺めると、国家の既存体制を50%グループに利益をもたらす構造に改革するためには、50%グループを代表する国会議員を自らの力で選出すること必要です。

50%グループを代表する国会議員の選出

さいわい、日本は自由民主主義です。

例えば、50%グループの有志が、日本全体の経済を発展させる構造と、所得格差の拡大に歯止めを掛ける構造とを両立させる経済・社会構造を具体的に示し、その実現を旗印に50%グループの有志が新政党、謂わば、改革自由民主党を結成し、選挙で勝てばよいのです。

新政党の目標

50%グループは世帯所得が全世帯の中央値より低い世帯に属する人のグループであるので、改革自由民主主義下においても存在します。

従って、現行自由民主主義の改革すべき点を明確に絞るべきであると思います。

創造主は、生きる喜びの多様性を求め、人々に異なる財力、環境、知力、体力、興味、感性、容姿、を与え、個性に応じた己の価値観の実現を目指す人間とともに存在を確認されていると想像します。

してみると、改革すべきは、財力に差があることではなく、(1)格差拡大に歯止めが掛からない構造、(2)生きるのに金銭的に精一杯で充実とか喜びを感じることができない貧困層が存在する構造、だと思います。

(1)の構造は、産業を育てるという己の価値観を実現するとは言いがたい、金だけを目指して投資する投資家を優遇する制度、例えば配当金を高くしないと企業に資金が回らない制度にあるのではないでしょうか。企業収益の配当金、従業員給料、再投資、税金への配分を見直し、配当金の割合を減らして他の部分、特に税金の割合を高くし、国として戦略的な投資を進める必要があると思います。

他にも不要な既得権を保護する制度が多く存在するでしょう。格差拡大の歯止めに有効な規制緩和が必要です。

(2)の構造の解消には、もう一方の50%グループと共同して日本の経済力を強くすること、貧困層を物質的に援助するだけでなく、特に若者に生きる喜びを体感できる場を提供できるシステムの構築が必要だと思います。

新政党の実現に向けて

目標の明確性と運営の明瞭性を堅持した、長い道のりと多くの人々の心を一つにした努力を必要とする活動になるので、組織の明確な新政党の設立が必要になると思います。

富と権力志向の社会より非効率な自己実現と協力志向の社会を目指すためには、隗より始めよ、の通り、先ず新政党内部からでしょう。

協力志向は人間の強い利己性と矛盾しており非効率なものですが、利己性を相互に認め尊重し人間の社会性の中に活かすことが、多様性に富んだ生きる喜びに満ちた自己実現と協力志向の社会を現出する方法だと思います。

新政党結成と運営にSNSを活用することは、自己実現と協力志向に適合するだけでなく、時間と労力と資金の削減に有効であると思います。

寄付型のクラウドファンディングも新政党への参加と協力志向促進に有効な方法でしょう。

活動情報や経理情報のホームページへの詳細掲載は、自己実現と協力志向のベースです。

50%グループの多くの有志が新政党結成に挑戦してオンラインで結ばれ、時には集会し、理想とする社会の姿を描いて制度を作成し、誰にでも理解できるようにやさしく説明して広く発信し、賛同する人達がさらに参加し、選挙で勝つという無血革命とも言える改革自由民主主義の実現を見たいものです。

国民に楽しく生きる環境を提供する国家

先般行われた米中外交トップ会談において、米国側が新疆ウイグル自治区や香港の人権問題を議論したいとしたのに対し、楊政治局委員が「アメリカの人権問題は根深い。この4年の間に浮上したものではなく、黒人への殺りくは昔からある。他国に矛先を向けるべきではない」と反論し、ブリンケン国務長官が「アメリカは国内ではより完全な団結を目指し、不完全さや過ちを認め、開放的に透明性をもって立ち向かってきた。課題から目を背けたり、存在しないように装ったり、隠したりしない」と応酬しました。

両者の応酬に刺激されて個人と社会あるいは国民と国家の関係について、もう一度考えました。

人間の利己性

17世紀のホッブスは、「ヒトはヒトに対してオオカミである。」と比喩し、人間は、本来的に他人の利益より自分の利益を優先させる利己的な存在であるとしています。

創造主は、「無」の対極の「有」である「存在すること」を「身体」と「心」と「知能」で現出することを人間に託されたとすると、人間は先ず身体的に生きることを遺伝子に組み込まれ、自分が行き続けることを最優先するのでしょう。母親が命がけで子を守る行為も自分の遺伝子を繋ぐためとも言われています。

「心」の面でも、自己愛を備えているだけでなく、己の能力や興味に基づいて自らが設定した目標を達成したときに実感する存在意義や喜びを個として生き続けるための糧にしていると思います。

人間の社会性

18世紀のアダム・スミスは、人間は生まれつき社会的であって、他人を喜ばせたい、不快にしたくないとの欲求を有するとしました。

19世紀に、進化論のダーウィンは、人は社会的存在であり、孤独を嫌い、家族の枠を越えて他人との交流を望むものであると述べています。

創造主は、「有」をより強く感受するために、人間が活力のある大きい変化を具現化することを期待し、「心」に社会性を組み込まれたと想像します。

これにより、人間は所属する集団や仲間の役に立ちたいとの価値観を遺伝子に刷り込まれ、集団や仲間の目標に向かって仲間と協力することに大きな喜びを感じるのでしょう。

しかし、人間の社会性本能は、自分が属する集団や友好関係にある集団内では「生きる喜び」の具現化にプラスに働きますが、利害が衝突する集団には及ばず、逆に衝突を激化させるように働くというマイナス面もあります。

人間の存在意義

創造主が、集団を組んで又は組まずに棲息する多種類の動物に加えて、脳内に自分の概念の世界と価値観を自由に構築する人間を宇宙に送り出されたのは、各個人が多様性のある個性に基づいて「生きる喜び」を具現化し「有」を創造主とともに共感するためだと想像します。

「生きる喜び」を具現化するために、目標設定、実現努力、目標達成のサイクルを繰り返しますが、好きなことといえども目標を達成するためには、怠惰、傲慢などの心的な利己性、独占、貪欲などの身体的な利己性を克服しなければなりません。

そして、目標達成に伴って皮肉にも利己性も大きくなりますが、次回は、より大きい努力でより大きい目標を達成することになり、このように人は成長し、より強く、「生きる喜び」を創造主と共に実感するのでしょう。

国民と国家の関係

人間は、生きるために「身体」と「心」に利己性を備えますが、「心」に社会性も組み込まれており、集団で行動すること及びルールによって利害衝突を解決することが大きい利益に繋がるとの経験から社会ひいては国家を形成したと言われています。

したがって、国民が認めた範囲において国家の規則に従うことは本来の姿でありますが、規則に従わない者が出てくるので、規則の遵守を強制するために権力が必要になります。

しかし、国家の決めた規則が国家を構成する特定の集団の価値観に偏向し、他の集団の人々の生命や尊厳を否定するために権力を行使する国家は、創造主が活力ある大きい変化の具現化を期待して人の「心」に組み込まれた社会性を発露できる国家ではありません。

中国について

一集団である共産党の価値観が絶対的であって、ウイグル人や香港人の生命や尊厳を蹂躙する中国は、創造主が期待された集団ではありません。

戦乱を通して権力を手中にした共産党が、国内での権力闘争に勝利して建国した一党独裁国家をその権力で維持することは、戦乱時の権力を平和時に、権力志向に陥った共産党が未だに行使している国家です。勿論、自分の立てた目標に向かって努力し、自分の存在意義を感じている中国人も大勢いると思いますが、今の中国は、国民に広く「生きる喜び」を具現化するための場を提供するものではありません。

コロナ感染対策を強力に推進し、他国に比して高い経済成長を実現できた所以は、種々の人権問題が存在しないように国内外で装ったり、隠したりするなど国民の自由と権利を制限して集団の力を強め、多くの国民の「存在すること」を創造主とともに共感する喜びを犠牲にした結果であると思います。

アメリカについて

アメリカも人種問題や過大な貧富格差など多くの課題を抱えており、国民は望めば誰もが自分の価値観を実現するために努力できる状態にあるとは思いません。

しかし、大人になっても自己中心性を克服できていないトランプ大統領の再選を阻止し、国内に存在する不完全さや過ちを認め、開放的に透明性をもって立ち向かうと言うアメリカの努力に期待したいものです。

日本について

民主主義と経済を両立させたい日本は、米国と中国の狭間で苦悩しています。

経済格差、ジェンダー格差、働き方改革、グリーン社会の実現など多くの国内課題を解決し、大多数の日本人が幸せに生きていることを世界に示すとともに、貧困国への支援、温暖化防止の技術開発、技術支援、文化交流などを積極的に行い、日本は人間の社会性のプラス面を世界に展開する集団であることを広くアピールし、世界の平和に貢献したいものです。

このような国の人徳ある指導者の発言に耳を傾けない国と決別しても国民は清貧に耐えると思います。

民主主義、資本主義の見直しが必要な時期にきており、与野党や学者が現在の問題点を洗い出し、日本発の修正民主主義、修正資本主義を構想するプロジェクトを国として立ち上げる必要があると思います。

富と権力志向の社会から自己実現と協力志向の社会へ

現代においても、中国、ロシア、ミャンマー等では、今の指導者を中心とする支配者層は、国民の命や人権を蹂躙して、支配者層の利益を追求しています。

佐賀県吉野ヶ里遺跡を訪れたときに、国と民との関係に思いを巡らせたことがありましたので、日本における国と民との変遷を概観し、どのような国と民の関係がよいのか模索してみました。

日本の国と民の関係の変遷

旧石器時代は 狩漁や採集で季節ごとに移動しており、狩漁採集に適した小集団で行動していたので、狩漁採集を協力して行う程度の社会活動であり、経験の深い人が親族中心の小集団を先導して移動していたと思います。

縄文時代は、次第に定住生活へと移行し、数多くのムラが生まれました。しかし、富を蓄積するほど生産性は高くなく、各人ができることで他人と協力して食料を得ることがムラに貢献することであり、自然の恵みによって生かされているという価値観で、食べ物を平等に分配し、貧富の差はあまりなかったようです。

弥生時代になると、水稲農耕を主とした生産経済によって富の蓄積が可能になり、貧富や身分の差が生じ、「ムラ」間で土地や水の争いが起こり、「ムラ」が国に統合され、富者がムラ間やムラ内の紛争解決に専念する支配者層になり、農民などの民を支配するようになりました。

これに伴い人々は、「富」と「権力」という欲望に目覚め、富と権力を求めて活動するようになりました。

この富と権力は手中にすると喜びが大きく常習性があるので、人々は満足するところがなく際限なく求めます。さらに、富と権力は、他の欲望に比して他人から奪うものとの性状があり、本質的に自己中心的なものです。

しかし、富と権力に目覚めた日本人は、支配者層の価値観で動く国と被支配者層の民が組織的に富を求め、2万年以上続いた旧石器時代、1万年以上続いた縄文時代に較べて極めて短い2千3百年程の短い期間に今の日本国と国民の関係を築いてきました。

大富豪の大王を中心に多くの「くに」を統合した大和朝廷に始まる天皇中心の時代になると、富の生産量も多くなり、税制も制定され土地と農民は天皇や貴族のものとなって国の財政が安定し、支配者層の支援を受けて武士、僧侶、芸術家などが活動できる国になります。支配者層の価値観から文化や宗教が大切にされましたが、農民を含む人口の大部分を占める民に人権はありませんでした。

争いを武力で解決する専門家である武士の集団が支配する鎌倉から江戸時代になると、戦に強い武家を作るために、主君に仕えることが大切な価値観になります。従って、足軽や農民などの民も、主君に仕えることを第一義に考えなければなりません。

文明開化した明治から昭和初期の日本は、近代化がメインテーマであり、明治維新をリードした元武士の一部を中心とする支配者層の価値観に偏り、民の価値観を実現する政策が執られていたか疑問視する声もあります。

争いを武力で解決する武士が支配する国が終わって10年ほど経過すると、不幸にも、武力第1主義の軍人指導の軍国主義時代に入ります。明治維新を推進した元武士達の価値観に偏った富国強兵政策の申し子でしょうか。

民が生きるための手段として作った国が第一義に存在し、その国に民が命を無条件で捧げるとの非論理性は、軍国主義国家の支配者層の権力志向の極みとしか言えません。

戦後、日本は主権在民を憲法に定め、国民は、物資の生産や製造のみならず、政治、文化活動など自分の能力に適した活動に自分の価値観を定める自由を手にしました。

その中で、日本人は富と権力を求めて努力を重ね、世界が驚く速さで経済大国の地位を獲得しました。

しかし、今、富と権力という欲望を目標に設定し、その目標達成に喜びを感じる生き方に疑問を感じる人々が増えています。

世の中が裕福になり、強い絆の集団に属さなくても生きていける社会になって、自己中心的な富と権力を求めるより、他人と共に喜べる目標達成に努力したいとの価値観が広まってきたのでしょうか。

これからの国と民の関係

上述した日本の国と民の関係の変遷をみると、国民は戦後に、ようやく支配者層から開放されましたが、富と権力の欲望を満たすために走り続けてきた気がします。

昨今の働き方改革、グリーン社会の実現、パワハラ非難、ジェンダー差解消運動などは、富と権力志向の価値観の見直しが始まっていることを示すものだと思います。

富と権力志向の価値観から決別するためには、人々は自分の能力に合わせた「自分のなりたい姿、社会に貢献できる活動」を自己実現の目標として設定し、その目標を達成するための努力と結果に喜びを感じ、国は国民のかかる活動を保障する機関であるとの国と国民全体の強い共通認識を確立することが必要であります。

そのためには、このような価値観を幼少時から教育し、体験させる教育政策が国の大切な役割になります。

縄文人も富と権力を求めませんでしたが、富の量が皆で分けるほどしか得られなかったためであり、現代のような消費社会とは事情が異なります。しかし、1万年も続いたという事実から、皆で協力するためにムラを作り、自然の恵みによって生かされているという価値観の社会は魅力的であった気がします。

富と権力志向の価値観から自己実現と協力志向の価値観に舵を切るとしても、産業が衰退し富が不足すると、民はその時の国を批判し富と権力志向者を歓迎し、国家主義、独裁主義、国粋主義、軍国主義の台頭を許すたことは世界史上の事実です。

このような歴史的な失敗を繰り返さないために、富の生産は人が生きるためのベースであるので、産業政策は人材育成を含めて国の大きな務めになります。自己実現と協力志向時での産業政策は、富と権力志向時より難しいと思いますが、日本が中国やロシアと伍していくためにも働き方改革やコロナ渦でのテレワーク等の先に良い方策を見つけなければなりません。

宇宙は何故存在するのか

創造主は、全く何もない「無」と表裏の関係にある「有」そのものであり、有の世界では全知全能ですが、「無」と背中合わせで「有」であり続けなければならないという唯一の命題をお持ちのように思います。

完全であるということは、何ら変化する必要が無いことであり、変化したとても、不完全な者が完全に向かって努力して変わることとは異なり、全能者が意図した通りに変化するのであれば初めから変化した状態にあるのと同じであると思います

そこで、創造主は、自分の一部として、規則性と不規則性が混在する宇宙を創造し、予測可能に、時には予測不可能に変化する宇宙とともに、「有」であり続けられているように思います。

森羅万象の変化に課されたルール

創造主が「有」であり続けるためには、森羅万象の変化が必要ですが、その変化は、(1)事物が存在し続ける方向への変化であること、(2)創造主の意図した通りの変化でないことが必須条件です。

事物が破壊や消滅する方向への変化は「無」に向かうものであり、「有」に反します。従って、創造主は、「無」に向かう変化を止めるための最低限のルールを事物に暗示されているように思います。

そして、変化が創造主の意図通りになることを防ぐために、創造主は事物に最低限のルールを暗示すること以外は変化を事物に任せることによって、予測不可能な変化を実現されていると思います。

宇宙や動植物の変化

宇宙空間は森羅万象の大舞台であるので変化は緩やかで規則性が高いことが望ましいです。したがって、宇宙空間の変化は、存在し続けることを最優先におき、予測可能性が高いと思います。

しかし、例えば、太陽の表面の偶発的な爆発で不規則な変化を起こし、地球上の動植物の変化に多様性をもたらしているようです。

宇宙の一つの地球では、無機物の世界で、水や空気が山や野を巡り、地形や気候に変化を与え、動植物を育んでいます。最近は、人間の自然破壊に繋がる身勝手な行動に対し温暖化という予測可能な変化で警鐘を鳴らしています。

植物の世界では、光と水と炭酸ガスを光合成して、動植物の身体をつくるために必要な有機物を生成し、緑で無機質な鉱物の世界を静かに被い、動物の存続を支えています。

動物は、種によってはある程度の知能を有し、上手く餌を手に入れると喜びを顔に出します。創造主は、動物が餓死しても手を差し伸べることはありませんが、餌獲得という生存方向の行為を達成できると快感ホルモンがでるという最低限のルールを動物に仕組まれている気がします。

人間の生きる意義

特に、人間は、高度な認知能力を備え、各自が頭の中に自由に構築可能な概念の世界で起こった出来事を他人に伝えることができます。そして、概念の世界に描いた自分の成りたい姿に向かって行動する中に生き甲斐と成長を感じます。

従って、人間の引き起こす変化は、創造主からの独立性が高く、多様性に富み存在感、延いては「有」を強く主張するものとなります。

しかし、戦争、自然破壊、殺人、虐め、自己中心的な行為などは、「無」に向かう変化であり、これらに対しては嫌悪や恐怖感が生じるように遺伝子に組み込まれている気がします。

目標に向かって努力する、人の役に立つ、共働するなどの行為は、「有」に向かう変化であり、達成感や充実感、賞賛や共感を得られ、生き甲斐を感じるのでしょう。

そして、大きい目標を達成するためには、厳しい努力(努力値が大きい)を長時間続けなければならないので、努力値×時間の努力量(変化、成長)が大きくなり、生き甲斐を強く感じます。しかし、変化後の状態に満足し、努力しなくなると努力量がゼロになり、生き甲斐を無くすでしょう。

各人の千差万別な能力に適した目標に向かう多様性に富んだ努力が、より多くの人々の大きい努力総量を産み出し、「有」が栄えます。

人間は、生きている間は、存在感(成長)を示して生き甲斐を感じ、役目を終えると、木の葉が枯れて新しい葉に順次変わるように無機物に戻ります。そして、地球環境や社会の変化に応じて新しい変化を示すことができる次世代にバトンタッチします。

一人ひとりが存在意義を感じて生きることの大切さ

昨今、自分自身、自分の属する集団、自国の利益のためにのみ権力を乱用し、例えば差別、分断、全体主義、独裁、自然破壊、戦争も肯定しかねないような価値観を持つ指導者が続出し、国民がそれに感化され或いは不本意ながら従わされているケースが世界各地で病巣のように拡散しています。

このような指導者の価値観は、滅亡すなわち「無」に向かう変化を肯定するものであり、「有」に反するものです。

人々は、勇気を持ってこのような「無」に向かう価値観を排斥し、人類が宇宙の癌にならないように、自ら考え行動することが求められています。この努力を怠ると、人類は創造主から「有」であり続けるために存在させておく意義がない、寧ろマイナスであるとして消滅される恐れがあるような気がします。

より多くの人が生きる喜びを感じるために

技術革新と資本主義が進むにつれて、貧富の差が許容範囲を遙かに超えて民主主義を揺るがす格差社会となっています。

新約聖書のマタイ伝に「持てる者はますます富み、持たざる者は更に失う」とあります。しかし、前者と後者の格差の要因は、根本的に異なるところにあると思います。

格差社会は、資本やICT技術が多くの人々から仕事をする喜びを量的、質的に奪った社会の構造変化に基づく問題であるにも拘わらず、社会が個人に責任を転嫁しこれらの人々を精神的、物質的に支援してこなかったことにあると思います。

マタイ伝の言葉は、心の持ち方を教えているのであり、自分を含めた回りの現状を素直に見聞きして受入れ、正すべきは正して生活すれば物心両面で豊かになるが、己の欲に捕らわれた自己中心的な人は精神的に成長せず他人から疎んじられて物心両面で貧しくなると語っているのではないでしょうか。

現代の格差社会

江戸時代、人工の90%以上を占めた平民は、各人が百姓、職人、商人、漁師として自らの仕事を通して物質的、精神的に社会と繋がるとともに、互助精神や仕組みを社会に構築し格差を緩和していたと思います。

しかし、現代は、巨大資本や高度情報通信技術が個人の仕事を量的、質的に奪い取り、仕事を奪った少数派が富を独占し、奪われた多数派が貧困に面するだけでなく、仕事の質的変化によって自己表現する機会を失い、社会に役立つという満足感を奪われたような気がします。

この格差は、カネがカネを生む資本主義、情報がカネを生むICT社会では、構造的に生じるものであり、個人の努力で打破できるものではありません。

世界においても同じように格差が拡大し、人々の社会との繋がりが希薄になり、社会情勢が不安定になっています。

しかし、今まで国家や社会は、働けるのに働こうとしない者に対して新約聖書で述べられている「働かざる者、食うべからず」との価値観を、働きたくても働けない人に押付けて支援するどころか精神的に苦しめてきたような気がします。

「持てる者はますます富み、持たざる者は更に失う」

聖書の言葉は、「生きる喜び」を行動で実感した人はその行動を繰り返して「生きる喜び」をますます感じ、そのように行動しない人は人生に不満を募らせていくことを教えているように思います。

ちなみに、新約聖書には、「与えよ、さらば与えられん」と述べられています。

創造主は存在するが、死後の世界はないと思っている筆者の解釈ですが、個人の力では如何ともしがたい苦境に陥っている人々に社会や個人が手を差し伸べると、創造主は、「困っている人の役に立てて嬉しい」との感情をご褒美として与えてくださると述べているように思います。

仕事を奪われた人々の「生きる喜びの奪還」

(1)各人の価値観の転換

・各人の価値観の原点を「自分の能力に相応しい目標を達成する喜びを求めて生きる」に置くことにあると思います。

・各自に与えられた能力は千差万別です。自分の好きなこと、能力に合ったことを見つけ、各成長ステップの目標を達成して進歩していくことが「生きる喜び」であると思います。

好きで能力に合ったことでも上手くなるためには、多くの困難を克服し、大いなる努力を必要とするので、達成した喜びが小さくなることはないでしょう。人生はそう甘くはありません。

・仕事のみに「生きる喜び」を求める考えは古くなりました。多くの仕事は量、質的に変化しています。仕事以外にも社会や人の役に立つ行為(社会貢献活動など)はたくさんあります。

(2)国家の価値観の転換

・社会貢献活動をもっと高く評価する施策をとる必要があると思います。

人は、自分が目標を達成したときに自ら喜びを感じると共に、目標達成の結果に他人が喜ぶと嬉しく思います。仕事以外での社会貢献に社会はもっと謝意を表してもよいでしょう。

・自由競争原理は残したままで、税による富の再分配が必要です。

米国では保有資産で上位0.1%の層が下位90%と同等の富を所有していると言われています。

この現状が続けば民主主義、資本主義は破綻すると考えたのでしょうか、ジョージ・ソロス氏など19人の米大富豪が、「米国は道徳、倫理、経済上から我々の資産へ課税する責任がある」とし、自ら大富豪への増税を訴えています。

・国家の価値観の原点は、国民が楽しく生きる環境を整備することです。そのためには、何万人の役に立つことをできる能力者を育成することが大切であるとともに、数人の役に立つことをできる人が「生きる喜び」を感じられる環境作りも必要です。

・仕事という言葉には、社会への繋がり、集団への帰属意識が伴っています。従って、国家は国民にベーシックインカムを支払うと共に、社会的弱者の保護を考慮した規制緩和など諸策を講じて新しい仕事の創出に努める必要があると思います。

より多くの人々が「生きる喜び」を感じることができる、人権と自由と平和を担保する新民主主義を人々が一致協力しICTを活用して創出しなければなりません。

創造主の価値観、人間の価値観、国家の価値観

世界各国のコロナ対策の違い、トランプ大統領の利己的な振る舞い等を見ていると、人間と国家と創造主との関係を改めて考える良い機会になりました。

経済活動を優先すればコロナウイルス感染者が増加し、コロナウイルス対策を優先すれば経済が悪化し、何れかに偏り過ぎると国民の命を犠牲にするとの二律背反に直面し、国家は国民の命を守るために存在するが、自己中心的な指導者の下では国民の命を守ることができないことを再確認しました。

また、近時、人間は創造主から与えられた価値観と乖離した自己中心的な価値観、例えば経済最優先、競争延いては戦争も肯定しかねない価値観に基づいて行動していることへの警鐘のように思いました。

創造主の価値観

「無」と対峙する「有」である創造主は、自然や人間の営みを無作為に変遷させることによって、「有」を実体として具現化し、存在を実感されているのではないでしょうか。

変化が無いこと又は作為的或いは規則的な変化では、創造主は「有」を確認することができないと想像します。従って、変遷が無作為であることは必須です。しかし、変遷の先に滅亡があっては存在を実感できなくなるので、創造主は自然や人間の営みの中に、存続に必要な基本ルールだけは仕込まれたように思います。

人間の価値観

而して、創造主が人間に仕込まれた基本ルール、換言すれば人の遺伝子に組み込まれた基本的な価値観は、先ず、「生きる喜び」であり、それを達成するための「生きる力を習得する喜び」および「他人と協力する喜び」です。

創造主は、人間に多様性に富んだ大きな変遷を具現化させるために、脳内に自分の概念の世界と価値観を自由に構築する、謂わば、概念形成能力を与えられたと思います。

しかし、人間は、この概念形成能力を我欲のために使用し、基本的な価値観からずれた価値観を追い求めていることが多い気がします。

「生きる喜び」は、自分の価値観に基づく目標に向かって行動することです。自分の目標を我欲や世俗的な価値観に基づいて設定しては、「生きる喜び」を実感することはできません。

生きる力は、身体的能力、知的能力、心的能力であり、「生きる喜び」を実現するための手段です。ところが、生きる力は強いことが望ましいので、「生きる力を習得する喜び」も基本的な価値観になります。

そして、生きる力の強さを計るために、各種能力について他人との比較、競争が行われます。

自分の能力向上の尺度としての競争は良いのですが、最終目標が能力向上ではなく勝つことになると、他人も同じ基本的な価値観を有するということが忘れられ、心的能力である協調性や優しさが弱体化します。

現在の利己中心的な風潮や虐めの根源はこの辺りにありそうな気がします。

他人や集団と協力することは、一人では弱い人間が生き延びるために不可欠なことであり、協力して役に立ちたいとの価値観を遺伝子に刷り込まれ、「他人と協力する喜び」も基本的な価値観になったと思います。

他人に協力して認められると嬉しいものですが、他人と協力することが目標ではありません。各自がそれぞれの価値観に従って立てた同じ目標を達成するために仲間と協力する喜びも、「生きる喜び」を実現するために極めて重要であり、基本的な価値観になったのでしょう。

他人や集団の価値観に従うだけでは、自分の個性に基づいた「生きる喜び」を実感することができず、人々の千差万別な能力で多様性に富んだ生きる喜びを実現するという創造主の意図に反することになります。

国家の価値観

国家の基本的な価値観は、各人が「生きる喜び」を実現するためのベースである命や環境を守ることであります。

しかし、国家も人の命や環境を守るために与えられた権力を誤用し、国家の基本的な価値観からずれた価値観を追い求めているケースが多いような気がします。

多くの民族、慣習、宗教等が存在し、さまざまな理由で近しい人々が集団延いては国家を形成して、国民に「生きる喜び」を実現する場を保障することは、人間に多様性に富んだ大きな変遷を具現化させるという創造主の意図に沿うものです。

ところが、次に述べるような場合は、国家の基本的な価値観に基づいた政治が行われていないと思います。

・国家が国民の思想統一を計る。

例えば、中国のように十数億の人々が国家という一つの価値観をもった有機体になることは、生きる喜びの十数億の多様性を期待する創造主の意図に反します。

社会秩序や地球環境などを、「生きる喜び」を具現化する良い場に維持できない。

例えば、地球温暖化対策に消極的なトランプ大統領は、国家や人間の基本的な価値観に無知であり、指導者の資格がないでしょう。また、一部の米国民は銃で自分の命を守ることを誇りとするのではなく恥とし、暴力排除を国家に委託できる社会を築くことに注力して欲しいです。

・戦争を肯定し武力を背景に国家間の紛争解決を図る。

人の命を守るために形成した国家がその権力で殺し合いを強要し人類を滅亡に導くことは、「生きる喜び」を具現化して「有」を創造主とともに実感するという人間の根本を否定するものであり、許しがたい矛盾です。

・「生きる喜び」を実現できない貧困層が存在するほど国家財政が悪い、或いは、国民間に経済格差がある。

自分の価値観に従って生きるためには、最低生活の保障は必要です。

・指導者が利己的に国家権力を使う。

多くの人は、権力や富を手に入れると利己的になるので、国民は政治に関心を持って発言する必要があると思います。

・国民が質の高い教育を受けられない。

各国民が人間の基本的な価値観に基づく行動を繰り返すことによって成長することを学び、実行することが強い国家の基礎です。

人々が、国家に命や生活環境の保護を委託し、各人が生きる力を習得し、他人や集団と協力して、「生きる喜び」を具現化できる社会を築きたいものです。

個人の価値観と集団の価値観

個人と集団は、一方の存在なくして他方が存在しえない濃密な関係にあります。

個人が利己的な価値観に従って行動すれば集団の価値観に反する利己主義者として非難されます。

人々が属する集団の価値観に盲従し、その集団が一部の権力者層の利己的な価値観に従って行動すればその集団は他の多くの集団から利己主義集団として排斥されます。

どのような個人の価値観や集団の価値観が利己的であるのでしょうか。

どのような個人の価値観や集団の価値観を形成すれば、人々は有意義な人生を楽しく生きることができるのでしょうか。

個人の価値観

人間は脳内に構築した各自の世界に各個人の価値観を自分の能力、興味、環境に応じて自由に形成します。

各個人は、自分の価値観に即した目標を努力して達成すること、換言すれば自分の価値観を具現化することに喜びと生き甲斐を感じ、畢竟、そのように生きることを人生の目的とし、個人の究極的な価値観としているように思います。

このとき、各個人は身体的、知的、心的に異なる特性を有しているので、自分の価値観を自分の特性に適合したものに設定することが大切です。

他人も自分と同じように個人の目標を達成するために生きることを究極的な価値観としていることを忘れてはなりません。

自分がその価値観を具現化するための行動が、他人がその価値観を具現化するための行動を正当な理由なしに阻害することは、多様な生き方すなわち様々な存在を求める創造主の意思に反することであり許されません。

例えば、個人が他人と同様な目標達成のためにフェアに競争することは、正当な理由になります。

従って、パワハラ、各種差別、行き過ぎた格差社会、権利乱用、独裁政治などに繋がる価値観は利己的な価値観と非難されるでしょう。

人間の存在意義は、「物質と概念の共存世界」において個人の価値観を具現化することに喜びを感じて「生きていること」即ち無の対極の有である「存在すること」を創造主とともに実感することにあると思います。

従って、人類の存続を阻害する価値観、例えば戦争、核兵器保有、殺人、虐め、公害、地球温暖化などに繋がる価値観は利己的な価値観であります。

集団の価値観

集団の価値観は、集団のメリットになることを可とし、デメリットになることを不可とする判断基準です。

個人は集団に属することによって多くのメリットを得るので、個人の価値観は、集団の価値観の影響を強く受け、集団の役に立つことを重要な要素の一つにします。

個人が属する集団には、家族、自治会、クラブ、学校、会社、公共団体、国家、人類など目的、構成員数、加入・脱退の自由の有無など特性の異なる様々な集団があります。

集団の価値観は、大多数の人々の欲することに価値を認めている間は問題ありませんが、権力者層の利己的な価値観に染まり出すと、各個人が生きるための手段として人々が形成した集団が目的化し、集団のために個人が存在するという価値観に変貌していきます。

個人の価値観と集団の価値観との関係

「自分のために働くより社会のために働く方が有意義である。」、「仲間と協力して勝ち取ったチームの勝利は嬉しさがひとしおである。」などとよく言われますが、人は個人の価値観より社会の価値観を具現化したときの方が大きい喜びを感じるのでしょうか。

一人で生きられない人間は、互恵的に人の役に立ちたいとの価値観を遺伝子に刷り込まれているので、集団の目標に向かって仲間と協力することに大きな喜びを感じるのでしょう。

しかし、集団の価値観は、現存する独裁国家、極端な思想集団や歴史的な悲劇から明らかなように集団の支配者層の利己的な価値観に染まる場合があります。

しかし、集団が実現しようとする目標が利己的なものか否かを個人の価値観で判断し、利己的なものである場合は集団にくみしない勇気をもつことが必要でしょう。

「集団の役に立つ」との価値観も個人の願望であれば個人の価値観です。

したがって、各個人は、集団の価値観より個人の価値観に従って行動すべきではないでしょうか。

家庭、学校教育や社会における教育によって、個人が利己的でない価値観を形成し、その個人の価値観で社会の価値観を常に監視することが大切であると思います。

人々が各個人の価値観に従って生きるためには、最低生活費を保障する制度、例えばベーシック インカムの導入が必要であると思います。

生活が保障されていれば働かない人が増えるとの意見もありますが、自分の価値観の具現化が生きる喜びであることを教育され、自分の価値観に基づいて立てた目標を達成する喜びを体験した人が最低生活費を貰って働かなくなるとの心配は無用でしょう。

個人の利己的でない価値観と集団の利己的な価値観とが齟齬をきたす場合があります。

その価値観が個人にとって大切なものであり、集団への加入・脱退が自由な場合、集団から離脱する選択も可能です。

しかし、集団への加入・脱退が自由でない場合には、悲劇がもたらされる危惧があります。このような悲劇が起きない自由で、多様性を認めながら、利己的でなく、格差が大きくなり過ぎない平和な社会を築くために、多くの人々が生きることの喜びや自分の成したいことを自ら考えることを日常化するとともに、子供達に幼少時から教育し、体感させることが必要であると思います。

自分の目標を達成する喜びを求める生きる方は自己中か

自ら設定した目標達成に夢中になり過ぎて自己中心的と言われている人を見かけます。

人は自分の価値観を具現化する目標達成の喜びを実感するために生きているので、目標達成に夢中になるだけで自己中と言われるのは気の毒な感じもしますが、回りの人の不満を無視し、何らかの埋め合わせをしない場合は、自己中の症状が現れだしたとも言えるでしょう。

自己中とは、謂わば、自分の利益になることにしか関心がなく、回りの人や事物そのものに興味を持てない心の閉鎖状態です。

自己中は、他人や文化、動植物や自然をあるがままに熟視し受入れて自分の興味や関心の対象にできず、生きる喜びを現出することが困難な状態でしょう。

興味のない対象は、記憶を支配する海馬が不必要とし認識し記憶されないそうです。

自己中は、一般的に次のような症状を呈します。

自分は特別な存在だと思っている。

・自分にやさしく他人に厳しい。

・他人のためと言いながら実は自分のため。

・虚勢を張っていて他人からの注意や批判を認めない。

・自分は他人より優位であることを確認したがる。

・自分の利益にならないことに興味や関心が無い。

自己中を治すためには、自己中症状が現れたときに、自分が一番嫌っている自己中に罹っているかもしれないと自己診断するのが第1歩です。

そして、症状と反対の考え方、行動をとるように習慣づけることが有効ではないでしょうか。

人間は、周囲の状況をあるがままに注意深く観察し記憶するとともに、仲間と協調して災難に向かうことが生き残るために不可欠であることを、人類誕生以来、学習し遺伝子に刷り込まれています。

従って、隣人にひょいと会釈するだけでも遺伝子による自然治癒力によって、自分以外への関心が高まり、自己中症状を緩和し、記憶力や人間関係を改善できると思います。

自分の目標達成の喜びを追求する生きる方の根本となる自己肯定感は、謂わば、自分の生き方が正しいと自ら認めることができる心の安定状態です。

自分は正しいと思う点では、自己中に似ていますが、両者は似ても似つかぬ別物です。

自己中は、他者との比較において自分が正しいと妄想している依存状態であるのに対し、自己肯定感は、自分の能力の中に自分の生き方を見つけ出した自立状態であります。

幼少期に、好きなこと、得意なことを上手にこなす経験をさせて、これから生きて行く世の中に、先ず一つでも自分の居場所を根づかせて自己肯定感を持たせることが大切だと思います。

居場所が根づいた安定した状態になると、他人や文化、動植物や自然と深く関わりを持つようになり、記憶力も増大し、自分の居場所を自らの力でどんどん広げていきます。

自分の価値観が自己中であれば自ら設定する目標も自分だけの利益や他人の目ばかり気にした成果を求めるものとなります。

人の役に立ちたいとの願望も人類存続のために遺伝子に刷り込まれているので、自己肯定感のある人の価値観を実現するための目標は他人の役にたつことが大きい比重を占めるものとなるでしょう。

自己中は、幼少期に甘やかされた人が罹りやすい傾向にあります。

自己肯定感は幼少期の教育で根づかせることが大切です。

幼少期の教育の大切さや内容については研究が進み、種々発表されているので、両親、先生や回りの人々が協力し、幼少期に甘やかすことなく、興味のあることを自由にやらせるという二律背反的なことを実現して、喜びに満ちた人生を次世代に受け渡していきたいものです。

生きる喜びに優劣はあるか

創造主は、「無」の対極の「有」である「存在すること」を身体と知能と心で現出することを人間に託されたと思います。

人間による生きる喜びの現出に創造主が直接影響を与えてしまっては、創造主は自らの存在を人間の生きる喜びによって確認することはできません。

人間は、生存する本能(身体)、大脳内に概念の世界を構築し他人と共有する能力(知能)、自分の存在意義を確認できると嬉しいという感情(心)をつの生きる力として授かりました。

そして、必然と偶然が不規則に織り成し絶えず変化する舞台で、人々は生きる喜びを実現するという役割を果たすために何世代にもわたって努力を繰り返しているのではないでしょうか。

生きる喜びの現出は安易なものではなく、各人生は一回限りであり、かつ生老病死の四苦があるなかで、各人が知恵を絞って努力することによって実現できるものであると思います。

各人の生きる喜びの相違

各人の生きる喜びは、各人が自分の才能や環境に適合した自分の目標を小さいものから種々設定し、自分の才能を活かして創意工夫を繰り返し、苦労の末に順次達成することにあると思います。

変化がないこと、同じであることは、「無」と同じであるので、創造主は、各人の才能や環境を、生来、異ならせ、各人の生きる喜びが千差万別になるようにされたと思います。

「存在すること」を身体と知能と心で千差万別に現出するという観点からは、各人の多種多様な生きる喜びは全て同じでしょう。

三つの生きる力は、本来、苦労の末に感受できる生きる喜びを現出するために授かったものであるので、活力旺盛で、さまざまな体様で出現します。

そして、暴走すると、生存する本能は、暴食、色欲、強欲などとして現れ、知能は、虚偽、盲信、思想統一などとして現れ、感情は、嫉妬、憤怒、傲慢などとして現れます。

例えば、多くの人は他人より偉くなること、金持ちになることなどを目標に設定し、結果のみを求めて奮闘しています。

これは、存在を認められると嬉しくなるという本性の発露であり、創造主から委託された生きる喜びの現出の動機付けになるでしょうが、人には自分に適合した目標があることを忘れている気がします。他人との比較に捕らわれた目標の設定では、創造主が求められる生きる喜びを現出できないでしょう。

本能が与えてくれる快楽は、目標達成によって手に入る喜びのように、自信に繋がり、他人に賞賛されることはないでしょう。

身体と心が伴わない知能だけの活動では、理屈ばかりで、熱意と苦労が伴わず、生きる喜びは現出できないでしょう。

自分に適合した目標の達成によって生きる喜びを実感するために

達成した目標が自分に適合していない、目標の達成を他人が評価しない場合など、目標を達成した喜びを実感できない場合もあるでしょう。

目標は自分が成したいことを自分の才能や環境に合わせて自ら設定することによって本気でチャレンジできる気がします。

目標を達成して喜びを実感し、自分の存在を確認するのは、先ず自分ではないでしょうか。この喜びの実感を大切にして自信を深め人生を豊かなものにしたいものです。

人々は、他人の目標達成の結果や努力に感動や謝意を感じたときに、賞賛や信頼を他人に与えます。

目標を如何に設定するか

人間は、創造主から託された生きる喜び(存在の確認)を現出するための知恵を先の世代から受け継ぎ、今の世代で時代に合わせて実践し、後の世代に受け継ぎます。

目標を如何に設定・達成して生きる喜びを現出するかについては、回りの大人や先生が先人の知恵を学び、現代の舞台にアレンジして実践し、それを子供達に躾け、教え、子供の頃からの価値観に定着させる必要があると思います。

これを続けることによって、他人の価値観に左右されることなく、自分の才能や環境に適合した目標を設定、達成することに喜びを感じて生きことを重視する社会の価値観が形成され、人々は自分の生きる場所を見つけ、自信を持って自分の生きる喜びを現出できると思います。

現場情報を国政に反映するシステム

最近、国政と国民の声との乖離が目に付きます。行政におけるイージス・アショア解約問題やアベノマスクの思慮不足・税金の無駄遣い、立法における新型インフルエンザ等対策特別措置法自体およびその改正法の不備、司法における国有地の大幅値引き売却に対する背任や決裁文書改ざん不起訴処分など枚挙に暇がありません。

これは、国会議員や官僚が高い志や現場主義等を放棄し、国民生活の現状や国民の思いを把握していないこと、国民が市井情報や政策案などの発信に消極的で、国政の場に要望事項や政策案などを積極的に提供してこなかったことに起因していると思います。

国民のために働くという志は、国会議員や官僚自らに思い出してもらうことにし、国民が正しく民意を発信し、集約する手段について提案します。

情報技術(IT)が国家の価値観、個人の価値観に与える影響

産業革命が近代民主主義を推進したのと同様に、IT革命は、国際関係、国家戦略、国民生活に大きな変化を与え、国家の価値観、個人の価値観を変えています。

個人の価値観は、人間の価値観を自分に適合させて展開するものですが、集団である国家の価値観の影響を強く受けるので、国家の価値観を生活環境の変動に応じて正しく変化させる必要があります。

国家の価値観は、政府や官僚が決めるものではなく、国民各個人の価値観の共通項あるいは分布であります。

現状は、この活動舞台の大きな変動に対応して国家の価値観、個人の価値観をうまく変化させることができず、戸惑っているように思います。

ITの利用により、人々は自らの五感で体感し、頭で考え、記憶し、身体を動かす地道な努力の末に目標を達成して歓びを感じるという人間の価値観を少しおろそかにしているように感じます。

その現象として、与野党を問わない国政や選挙での失態、SNS上での誹謗中傷や虐め、問題ユーチューバーの愚行、思いつきの一発芸などが世の中に氾濫しています。

産業革命において機械が人間の体力の一部を越したように、IT革命においてITシステムが人間の知能の一部を越しました。

例えば、人間は自動車より速く走れませんが、より速く走るという目標を努力の末に達成して歓びを感じています。

人間は計算や記憶においてITシステムにかないませんが、ITはあくまで課題を解決するための手段であります。

人工知能や超高速通信などだけでは解決できず、人間の独創性、直観、知性、心と身体がITを利用することによって解決できる課題は山積しており、新しい生活環境においても、例えば、環境問題、各種紛争、新型コロナ感染症、ゲーム依存症、生き甲斐喪失、個人の価値観に国家(集団)の価値観が必要以上に影響を与えるなど新しい課題は次から次に発生します。

従って、生きる歓びをより多くの人々が体感するという創造主から託された人間の価値観を再認識し、IT革命後の国家の価値観、個人の価値観を形成しなければならないと思います。

さらに、個人の価値観を広く収集し、集約して国家の価値観を形成することは、ITが高度に発達した現代において初めて可能になったことであり、ITを組み込んだ新しいIT組込み民主制の始まりではないでしょうか。

IT組込み民主制の必要性

日本人の脳にあるセロトニントランスポーターの量は、世界でもいちばん少ない部類に入るため、日本人は、実直で真面目で自己犠牲をいとわない人々だが、不安感が強く、いったん怒ると抑制能力が利きにくいと言われています。

このことは、昨今のSNSでのバッシング、コロナ自粛警察、古くは軍国主義に反対する人々を非国民と非難した風潮など否定しきれない面もあります。

彼を知り己を知れば百戦殆うからずと言いますが、己を知るだけではなく、弱点を補強しておくことが必要です。

平常時に国家の価値観を多くの国民の個人の価値観の共通項あるいは分布として形成し、国民の間で共有しておくことは、日本が強大な危機に面しても国として冷静に対応するために重要のことであります。

政府は2001年にIT戦略本部を立ち上げ、5年以内に世界最先端のIT国家になると宣言しました。しかし、実行が殆ど成されず、今回のコロナ対策での特別定額給付金の給付遅延によって行政デジタル化の遅れが表面化し、日本のIT化が多くの国の後塵を拝していることにやっと気がついたのが実情です。

国民自らが国家の価値観を国民の総意として積極的に形成する必要があります。

IT組込み民主制概要

ITを活用して大衆から市井の情報を収集し国政に反映する民間の非営利の情報提供組合を設立します。

情報提供組合は、IT議員として国会に政策案や意見を提供します。最終的には国会に議席を持ちます。

情報提供組合は、情報技術、政治、経済など各分野の専門家と、例えば数十万人の組合員から構成されます。

情報提供組合は、生活情報、海外情報、課題情報、意見、政策案などの情報を組合員からオンラインで収集し、人工頭脳などを使って分析・集約し、IT議員として国会に提供します。

個人の価値観は集団の価値観の影響を強く受けるので、IT議員が為政者によって操作されないように万全の策を講じなければなりません。AIプログラム、収集した情報などすべて公開が原則です。

これを怠ると、民意を広く募るどころか、IT議員によって思想統一されてしまいます。

国内外の多くの人々が空間を乗り越えてほぼ同じ時間に意思疎通し、同じ課題を解決するために協働可能としたITを手に入れた人間は、ITを争いのために用いることなく平和のために使用し、人間の価値観の実現に役立てたいものです。