自分の目標を達成する喜びを求める生きる方は自己中か

自ら設定した目標達成に夢中になり過ぎて自己中心的と言われている人を見かけます。

人は自分の価値観を具現化する目標達成の喜びを実感するために生きているので、目標達成に夢中になるだけで自己中と言われるのは気の毒な感じもしますが、回りの人の不満を無視し、何らかの埋め合わせをしない場合は、自己中の症状が現れだしたとも言えるでしょう。

自己中とは、謂わば、自分の利益になることにしか関心がなく、回りの人や事物そのものに興味を持てない心の閉鎖状態です。

自己中は、他人や文化、動植物や自然をあるがままに熟視し受入れて自分の興味や関心の対象にできず、生きる喜びを現出することが困難な状態でしょう。

興味のない対象は、記憶を支配する海馬が不必要とし認識し記憶されないそうです。

自己中は、一般的に次のような症状を呈します。

自分は特別な存在だと思っている。

・自分にやさしく他人に厳しい。

・他人のためと言いながら実は自分のため。

・虚勢を張っていて他人からの注意や批判を認めない。

・自分は他人より優位であることを確認したがる。

・自分の利益にならないことに興味や関心が無い。

自己中を治すためには、自己中症状が現れたときに、自分が一番嫌っている自己中に罹っているかもしれないと自己診断するのが第1歩です。

そして、症状と反対の考え方、行動をとるように習慣づけることが有効ではないでしょうか。

人間は、周囲の状況をあるがままに注意深く観察し記憶するとともに、仲間と協調して災難に向かうことが生き残るために不可欠であることを、人類誕生以来、学習し遺伝子に刷り込まれています。

従って、隣人にひょいと会釈するだけでも遺伝子による自然治癒力によって、自分以外への関心が高まり、自己中症状を緩和し、記憶力や人間関係を改善できると思います。

自分の目標達成の喜びを追求する生きる方の根本となる自己肯定感は、謂わば、自分の生き方が正しいと自ら認めることができる心の安定状態です。

自分は正しいと思う点では、自己中に似ていますが、両者は似ても似つかぬ別物です。

自己中は、他者との比較において自分が正しいと妄想している依存状態であるのに対し、自己肯定感は、自分の能力の中に自分の生き方を見つけ出した自立状態であります。

幼少期に、好きなこと、得意なことを上手にこなす経験をさせて、これから生きて行く世の中に、先ず一つでも自分の居場所を根づかせて自己肯定感を持たせることが大切だと思います。

居場所が根づいた安定した状態になると、他人や文化、動植物や自然と深く関わりを持つようになり、記憶力も増大し、自分の居場所を自らの力でどんどん広げていきます。

自分の価値観が自己中であれば自ら設定する目標も自分だけの利益や他人の目ばかり気にした成果を求めるものとなります。

人の役に立ちたいとの願望も人類存続のために遺伝子に刷り込まれているので、自己肯定感のある人の価値観を実現するための目標は他人の役にたつことが大きい比重を占めるものとなるでしょう。

自己中は、幼少期に甘やかされた人が罹りやすい傾向にあります。

自己肯定感は幼少期の教育で根づかせることが大切です。

幼少期の教育の大切さや内容については研究が進み、種々発表されているので、両親、先生や回りの人々が協力し、幼少期に甘やかすことなく、興味のあることを自由にやらせるという二律背反的なことを実現して、喜びに満ちた人生を次世代に受け渡していきたいものです。

生きる喜びに優劣はあるか

創造主は、「無」の対極の「有」である「存在すること」を身体と知能と心で現出することを人間に託されたと思います。

人間による生きる喜びの現出に創造主が直接影響を与えてしまっては、創造主は自らの存在を人間の生きる喜びによって確認することはできません。

人間は、生存する本能(身体)、大脳内に概念の世界を構築し他人と共有する能力(知能)、自分の存在意義を確認できると嬉しいという感情(心)をつの生きる力として授かりました。

そして、必然と偶然が不規則に織り成し絶えず変化する舞台で、人々は生きる喜びを実現するという役割を果たすために何世代にもわたって努力を繰り返しているのではないでしょうか。

生きる喜びの現出は安易なものではなく、各人生は一回限りであり、かつ生老病死の四苦があるなかで、各人が知恵を絞って努力することによって実現できるものであると思います。

各人の生きる喜びの相違

各人の生きる喜びは、各人が自分の才能や環境に適合した自分の目標を小さいものから種々設定し、自分の才能を活かして創意工夫を繰り返し、苦労の末に順次達成することにあると思います。

変化がないこと、同じであることは、「無」と同じであるので、創造主は、各人の才能や環境を、生来、異ならせ、各人の生きる喜びが千差万別になるようにされたと思います。

「存在すること」を身体と知能と心で千差万別に現出するという観点からは、各人の多種多様な生きる喜びは全て同じでしょう。

三つの生きる力は、本来、苦労の末に感受できる生きる喜びを現出するために授かったものであるので、活力旺盛で、さまざまな体様で出現します。

そして、暴走すると、生存する本能は、暴食、色欲、強欲などとして現れ、知能は、虚偽、盲信、思想統一などとして現れ、感情は、嫉妬、憤怒、傲慢などとして現れます。

例えば、多くの人は他人より偉くなること、金持ちになることなどを目標に設定し、結果のみを求めて奮闘しています。

これは、存在を認められると嬉しくなるという本性の発露であり、創造主から委託された生きる喜びの現出の動機付けになるでしょうが、人には自分に適合した目標があることを忘れている気がします。他人との比較に捕らわれた目標の設定では、創造主が求められる生きる喜びを現出できないでしょう。

本能が与えてくれる快楽は、目標達成によって手に入る喜びのように、自信に繋がり、他人に賞賛されることはないでしょう。

身体と心が伴わない知能だけの活動では、理屈ばかりで、熱意と苦労が伴わず、生きる喜びは現出できないでしょう。

自分に適合した目標の達成によって生きる喜びを実感するために

達成した目標が自分に適合していない、目標の達成を他人が評価しない場合など、目標を達成した喜びを実感できない場合もあるでしょう。

目標は自分が成したいことを自分の才能や環境に合わせて自ら設定することによって本気でチャレンジできる気がします。

目標を達成して喜びを実感し、自分の存在を確認するのは、先ず自分ではないでしょうか。この喜びの実感を大切にして自信を深め人生を豊かなものにしたいものです。

人々は、他人の目標達成の結果や努力に感動や謝意を感じたときに、賞賛や信頼を他人に与えます。

目標を如何に設定するか

人間は、創造主から託された生きる喜び(存在の確認)を現出するための知恵を先の世代から受け継ぎ、今の世代で時代に合わせて実践し、後の世代に受け継ぎます。

目標を如何に設定・達成して生きる喜びを現出するかについては、回りの大人や先生が先人の知恵を学び、現代の舞台にアレンジして実践し、それを子供達に躾け、教え、子供の頃からの価値観に定着させる必要があると思います。

これを続けることによって、他人の価値観に左右されることなく、自分の才能や環境に適合した目標を設定、達成することに喜びを感じて生きことを重視する社会の価値観が形成され、人々は自分の生きる場所を見つけ、自信を持って自分の生きる喜びを現出できると思います。

現場情報を国政に反映するシステム

最近、国政と国民の声との乖離が目に付きます。行政におけるイージス・アショア解約問題やアベノマスクの思慮不足・税金の無駄遣い、立法における新型インフルエンザ等対策特別措置法自体およびその改正法の不備、司法における国有地の大幅値引き売却に対する背任や決裁文書改ざん不起訴処分など枚挙に暇がありません。

これは、国会議員や官僚が高い志や現場主義等を放棄し、国民生活の現状や国民の思いを把握していないこと、国民が市井情報や政策案などの発信に消極的で、国政の場に要望事項や政策案などを積極的に提供してこなかったことに起因していると思います。

国民のために働くという志は、国会議員や官僚自らに思い出してもらうことにし、国民が正しく民意を発信し、集約する手段について提案します。

情報技術(IT)が国家の価値観、個人の価値観に与える影響

産業革命が近代民主主義を推進したのと同様に、IT革命は、国際関係、国家戦略、国民生活に大きな変化を与え、国家の価値観、個人の価値観を変えています。

個人の価値観は、人間の価値観を自分に適合させて展開するものですが、集団である国家の価値観の影響を強く受けるので、国家の価値観を生活環境の変動に応じて正しく変化させる必要があります。

国家の価値観は、政府や官僚が決めるものではなく、国民各個人の価値観の共通項あるいは分布であります。

現状は、この活動舞台の大きな変動に対応して国家の価値観、個人の価値観をうまく変化させることができず、戸惑っているように思います。

ITの利用により、人々は自らの五感で体感し、頭で考え、記憶し、身体を動かす地道な努力の末に目標を達成して歓びを感じるという人間の価値観を少しおろそかにしているように感じます。

その現象として、与野党を問わない国政や選挙での失態、SNS上での誹謗中傷や虐め、問題ユーチューバーの愚行、思いつきの一発芸などが世の中に氾濫しています。

産業革命において機械が人間の体力の一部を越したように、IT革命においてITシステムが人間の知能の一部を越しました。

例えば、人間は自動車より速く走れませんが、より速く走るという目標を努力の末に達成して歓びを感じています。

人間は計算や記憶においてITシステムにかないませんが、ITはあくまで課題を解決するための手段であります。

人工知能や超高速通信などだけでは解決できず、人間の独創性、直観、知性、心と身体がITを利用することによって解決できる課題は山積しており、新しい生活環境においても、例えば、環境問題、各種紛争、新型コロナ感染症、ゲーム依存症、生き甲斐喪失、個人の価値観に国家(集団)の価値観が必要以上に影響を与えるなど新しい課題は次から次に発生します。

従って、生きる歓びをより多くの人々が体感するという創造主から託された人間の価値観を再認識し、IT革命後の国家の価値観、個人の価値観を形成しなければならないと思います。

さらに、個人の価値観を広く収集し、集約して国家の価値観を形成することは、ITが高度に発達した現代において初めて可能になったことであり、ITを組み込んだ新しいIT組込み民主制の始まりではないでしょうか。

IT組込み民主制の必要性

日本人の脳にあるセロトニントランスポーターの量は、世界でもいちばん少ない部類に入るため、日本人は、実直で真面目で自己犠牲をいとわない人々だが、不安感が強く、いったん怒ると抑制能力が利きにくいと言われています。

このことは、昨今のSNSでのバッシング、コロナ自粛警察、古くは軍国主義に反対する人々を非国民と非難した風潮など否定しきれない面もあります。

彼を知り己を知れば百戦殆うからずと言いますが、己を知るだけではなく、弱点を補強しておくことが必要です。

平常時に国家の価値観を多くの国民の個人の価値観の共通項あるいは分布として形成し、国民の間で共有しておくことは、日本が強大な危機に面しても国として冷静に対応するために重要のことであります。

政府は2001年にIT戦略本部を立ち上げ、5年以内に世界最先端のIT国家になると宣言しました。しかし、実行が殆ど成されず、今回のコロナ対策での特別定額給付金の給付遅延によって行政デジタル化の遅れが表面化し、日本のIT化が多くの国の後塵を拝していることにやっと気がついたのが実情です。

国民自らが国家の価値観を国民の総意として積極的に形成する必要があります。

IT組込み民主制概要

ITを活用して大衆から市井の情報を収集し国政に反映する民間の非営利の情報提供組合を設立します。

情報提供組合は、IT議員として国会に政策案や意見を提供します。最終的には国会に議席を持ちます。

情報提供組合は、情報技術、政治、経済など各分野の専門家と、例えば数十万人の組合員から構成されます。

情報提供組合は、生活情報、海外情報、課題情報、意見、政策案などの情報を組合員からオンラインで収集し、人工頭脳などを使って分析・集約し、IT議員として国会に提供します。

個人の価値観は集団の価値観の影響を強く受けるので、IT議員が為政者によって操作されないように万全の策を講じなければなりません。AIプログラム、収集した情報などすべて公開が原則です。

これを怠ると、民意を広く募るどころか、IT議員によって思想統一されてしまいます。

国内外の多くの人々が空間を乗り越えてほぼ同じ時間に意思疎通し、同じ課題を解決するために協働可能としたITを手に入れた人間は、ITを争いのために用いることなく平和のために使用し、人間の価値観の実現に役立てたいものです。

人間の価値観と個人の価値観を保障する国家の価値観を

今回のコロナウイルス対策において、ノーベル賞受賞学者、医者、科学者を含む多くの国民がSNSで政策提言されていました。

旧態依然とした国家の価値観から決別するために、国民が国家に期待する政策をSNSなどの情報技術を利用して実名で提案し、各分野の専門家で構成した中立的な組織で集約して国政に反映する仕組み、いわばIT組込み民主制(IT Incorporated Democracy)を作りたいものです。

今回は、その前提となる人間の価値観と個人の価値観と国家の価値観について考えてみました。

人間の価値観

創造主から託された人間の価値観は、生きる歓びをより多くの人々が体感することです。

人間の基本的な価値観である真・善・美は、人間が物質の世界で生きる歓びを体感するための法則です。

創造主は、無の対極にある有(存在)を強く共感するために、個性の異なる多くの人々が真・善・美をいろいろな形で実現し、生きる歓びを体感することを人間に託されたと思います。

真は、嘘偽りのない本当のこと、真理、自然法則などで、存在し続ける或いは生き続けることの根底にある真理です。

善は、人の役に立つ、協力する、他人を尊重する、誠実である、自然を大切にするなど、人々が共存するための道徳的な原則です。

美は、文化や自然において現出される事象の変化や調和で、多くの人に感動、勇気、快感などを与えて、生きることに意欲と魅力を与える原動です。

個人の価値観

個人の価値観は、各個人が人間の価値観を自分に適合させて展開するものです。人間は、各自の能力、興味、環境などで異なる概念の世界を脳内に構築し他人と共有する能力を有するので、それぞれの個性に基づいた個人の価値観を各自の脳内に形成します。

人は、他人や集団から押付けられた目標でなく、自分の価値観を実現するための目標を達成したときに大きな歓びを感じます。

集団の価値観に賛同して個人の価値観とした人々が、この集団の価値観を実現するための目標を共に達成することに大きな歓びを感じることも真実です。

人間の価値観は、多くの人々が生きる歓びを体感することであるので、各人が他人の価値観の実現を妨害すること、或いは他人の存在を否定することは絶対許されないことであります。異質な価値観に賛同する必要はありませんが、その存在を認めることは、人間の価値観が求めることです。

古い国家の価値観

権威主義体制、全体主義体制、民主主義体制など政治体制に様々な試みがなされてきましたが、正解は未だに見つかりません。

大国の野心ある指導者は、ローマ帝国以来、自分への権力集中と利己的な価値観の実現のために、国家の価値観を覇権主義に置き、戦争を前提とする覇権争いを国民の生きる歓びを犠牲にして繰り返してきました。

共産主義国家は、人間の精神的自由を犠牲にしても、国が経済的に発展することによって報酬を平等に分配することを目指しています。

民主主義国家においても、格差の拡大、利己主義の横行、国家機関の硬直化が進んでいます。

このような国民の犠牲の上に成り立つ国家の価値観は、より多くの国民が真、善、美に基づいた個人の価値観ひいては人間の価値観を実現することを保障するという国民の期待する国家の価値観ではありません。

現在の内外の政治家の真理や道義が無く、美学を感じない言動には、社会に与える影響が大きいだけに、国家の価値観が創造主から託された人間の価値観から大きく乖離していく危機感を感じます。

最近、日本においても、民意(国民の価値観)から乖離した政策(国家の価値観)が強行されていることに危惧を感じます。

新しい国家の価値観

経済的に豊かになり、情報技術か高度に発達した近代社会において、国民が国家に委託しなければならない事項は変化し、国家の価値観も社会の変化に応じて変えていかなければなりません。

国民が国家に期待することは、他の国より軍事力で強くなることではありません。強い国の国民であることによって、いわれなき自信を持つことはできるでしょうが、個人にとっては裏付けのあるものではなく、世界に通じる人間の価値観の実現を妨げる妄想にすぎません。

国家に求めるものは、より多くの国民が、個人の能力、興味に応じて活動できる場所と環境を提供することであり、個人の価値観を実現するための生活に必要な収入を得ることができて、各自が目標を達成する歓びを実感できる社会の仕組を考案し、実施することです。

多くの国民が個人の価値観を実現する歓びを実感できる国家は、各国民が裏付けのある自己肯定感に満ち、おのずから強い国家になります。

社会の複雑化と組織の硬直化に対抗するために、ITを活用して日本の民主制に直接民主主義的要素を加味し、国民が期待する国家の価値観を実現可能な新しい民主制を模索するときではないでしょうか。

個人と国家と憲法改正

今から2500年も前に孔子が、政治は軍備、経済、いずれよりも信頼が大切であると説いています。しかしながら、最近の政治のなされようをみるとき、国民が信頼をよせうるものか疑問を抱かざるを得ません。

間違った国の政策に従わないといけない恐怖

戦争経験を持つ人は、間違った政策が公権力で行使されることの恐怖や憤りを肌身で感じたと思いますが、戦後に育った我々はそのような恐怖を実感することはあまりありませんでした。

しかし、今回のコロナウイルス対策では、現状把握に不可欠なPCR検査を受けるための要件を厚生労働省の自己都合で設定され、PCR検査数を増やすための方策を迅速に進めることなく時間を徒過しました。

PCR検査を受ける自由を奪われて早期治療を受けられずに亡くなられた方々の無念を思い、また、それが誰にでも起こりかねないと思ったとき、間違った国の政策に従わなければならない状況下での個人の無力さに怖さを感じました。

人間は変わることができないのか

人間が本質的に孔子の教えを忠実に実行できるものであれば、人間社会は争いのない平和なものとなっているでしょう。

しかし、孔子から2500年が経過しても戦争が起こり、多くの国において利己的で誤りを恥じない指導者が闊歩し、多くの人々が自分の目標を目指して楽しく生きる権利を奪われようとしています。

この事実を少し別の角度から見ると、人が生きることは、持って生まれた業を克服して自分の価値観を実現することに意義があることを示唆しているのでしょうか。

そして、人の心の成長は一世代限りであり、本質は世代を経ても変わらないと考えると、人間は、経済、文化、地球環境の変化につれて社会の価値観を変化させ、その中で各人がそれぞれ異なる自分の目標を達成する喜びを感じるために生きている気がします。

さらに、生と死(存在の世界と無の世界)を繰り返すことによって、創造主から託された生きる喜びをより強く実感できるのではないでしょうか。

憲法改正について

人間は、生活環境に合わせて社会の価値観を変化させるものであり、一つの社会の価値観の時代、例えば江戸時代でも265年で終焉し、価値観の全く異なる明治時代に突入しています。

このようなことから、日本国憲法の改正も、世界情勢を含めた社会環境が大きく変わらない時まで有効なものとして、現在社会の価値観をベースにして作成されるのがよいと思います。

感覚的にとはいえ、国家権力に対する個人の力の圧倒的な弱さを感じたとき、国家と国民との基本的な権利義務を定める憲法の大切さを改めて認識しました。

両者の関係の中で大切なものは、国家権力の行使と国民のチェック機能との関係と、生命を国家に捧げる戦争の許容要件であるように思います。

国家権力の行使と国民のチェック機能

公文書改ざん及び政治における隠蔽の阻止、公文書公開を保障できる条文の作成に叡智を結集したいものです。

例えば、参議院の主要な役割を国政調査とし、参議院議員を国務大臣に任命することを禁止するなどして国政をチェックする機能を強化するようなことをしてもよいのではないでしょうか。

衆議院は、国会議員の愚行調査に貴重な時間を浪費すること無く、国民が真に必要とする政策を実現するための立法に専念して欲しいものです。

国会議員の資格に、政策能力を追加し、議員の不正行為や政策能力不足調査を参議院の主任務とし、衆議院の補佐業務を副任務とするなどの改革があってもよいような気がします。

いずれにしても、参議院議員の国政調査権を強化し、政府や国会議員の不正や不適性が、週刊誌に頼ることなく、国民の前に開示される仕組みが必要です。

このような参議院議員は、立法権を常時は有さず、緊急時に限定しておけば、国民の審判を選挙で受けるので、三権分立を犯すことなく、行政を監視し、縦割り行政や黒塗りされた資料開示などの問題も解消されると思います。

戦争許容要件

戦争は国民の楽しく生きる権利を奪うものであり、決して許されるものではありません。

ましてや、世界で5000万~8000万人の死者を出した第2次世界大戦から75年しか経っておらず、唯一の被爆国である日本において、戦争を許容する価値観は日本国民にはありません。

しかし、人類の歴史、本質らしきところから考えると、戦争対策を備えない憲法は、現在の米国、中国、ロシアの覇権争い、北朝鮮、シリア問題などの国際情勢、および現在の世界の価値観からみても、非現実的なものと言わざるをえないでしょう。

この大きな二律背反に上手く対処することが、日本国と国民に大きな繁栄と歓びをもたらすことも真実のように思われます。

戦争放棄を明言できるような国際情勢でない現時点では、戦争を許容する厳しい要件を憲法に如何に明記するかに叡智を結集しなければなりません。

各国が平和を維持するためには、各人が自分の目標を達成するために他人との協力が必要であるのと同じように、各国が他国と協力することは不可欠です。

日本が同盟国の協力を得て戦争を回避しながら、同盟国の戦争回避に協力しない日本国は現在の日本国民の価値観からしても望む姿ではないでしょう。

日本は、自分から戦争を開始することはなく、戦争が起きる前に相手と何処までも話し合うとの前提のもとで、例えば、日本或は同盟国に向かって攻撃が開始された瞬間に相手国に攻撃可能な条項はいかがでしょうか。

世界の経済情勢が世界平和に強力な影響を与えることは、第2次世界大戦や今回の世界的なコロナウイルス感染からも明白な真実であります。

日本国憲法前文に記載された平和主義を世界で実現するために、平和主義国の自立的な経済活動を可能にするような国際的な経済協力の推進を目指す条項も意義があるように思います。

新しい価値観をめざして

人間は、農耕革命、産業革命などによって価値観を大きく変化させてきましたが、現在IT革命によって価値観を変えようとしています。

日本は、今一度奮起して、例えば、ミサイルの発射を素早く察知して堕とせるような技術開発によって核兵器の無力化を図り、価値観の大変革を起こしたいものです。

情報革命が急展開する世界で、情報を秘匿したい人々の影響下で国政の情報革命に消極的な日本の価値観がガラパゴス化しないためにも、国民がSNSなどで政策を提案し、国政に反映できる仕組みの作成が急務であると思います。

自分の目標を達成するために

多くの人々を眺めるとき、自分の目標設定、実現努力、目標達成の喜びのサイクルを繰り返して生きている人は、 目標が世俗的に小さなことであっても、 いきいきと楽しく生活されています。

これには、自分の価値観を設定する能力、目標を設定する能力、目標を達成する能力が必要です。

このことから、人の生きる目的は、自分の目標を一つ一つ達成する喜びを感じることであるとともに、自分の目標達成に必要な能力を得るために生きているとも言えそうです。

自分の目標設定

人間は社会的な生きものであり、社会目標が達成されることに喜びを感じるでしょう。しかし、これは人間性の一面ではありますが、人は、他から押付けられた目標でなく、自分の価値観を実現する目標の達成により大きな喜びを感じることも真実でしょう。

各人が自分の目標を実現するためには、他人の目標を尊重する信念と、社会の目標達成に協力することがベースにあります。

この関係は、自分の目標、他人の目標、社会の目標が正しいものであることを前提にして成り立つもので、自分と他人および社会との基本関係のように思います。

自分の目標を達成する各人の努力を互いに尊重することが正義の最低条件だと思います。

自らの目標を設定する能力

達成の喜びを自らが感じうる目標設定には、自分の価値観の確立が必要でしょう。自分の価値観の確立には、自分を認識する能力の一つである自己肯定感が基礎になると思います。

確かな自己肯定感によって自分以上でもなく以下でもない自分の欲望、能力を認識し、自分を活かすためには何を大切にするかの自分の価値観を確立できるものと思います。

自分を認識する能力は、自分の感情をコントロールする能力とも謂われます。虚栄心や自分の過小評価を抑制し、冷静に客観的に自分を観察する能力を得ることも大きい目標です。

そして、自分の価値観に基づいて自分のしたいこと、成りたい姿を目標に設定し、この目標から様々な目標が網の目のように拡散し、目標を一つずつ達成してより大きな目標を達成していくのが生きることではないでしょうか。

さらに、知能(知識、思考力)を使って自分の欲望、能力、社会状況に適合した目標を設定する能力も大切でしょう。

目標を達成する能力

目標達成には、各目標に応じた身体的能力、知的能力、心的能力が必要です。

身体的能力は、目標を物質の世界で具体的に実現するための能力です。特に、スポーツや演芸のように目標を身体で実現するものは、目標を身体で実現するための技能を身体的能力として鍛錬する必要があります。

知的能力は、知識、知的労働力や思考力です。

知識は代々伝承することができ、長い世代に渡って累積していくことができるものであり、現代人の知識は、古代や中世に比べ質的、量的に高度で膨大です。これら知識を記憶や調査によって利用する能力が求められます。

知的労働能力は、自らの知識によって社会に貢献する能力です。各種業界で働くための能力は、目標達成に不可欠です。

思考力は、目標の設定、実現過程でフル活動し、自分を世界でオンリーワンにしてくれるでしょう。

心は、自分を認識する能力(自己肯定力・使命感・感受性)、目標の達成能力(忍耐力・自己抑制・意志)、他者との協働能力(社交性・敬意・思いやり)です。

心は、目標を達成する能力の要を担っているにも拘わらず、一世代限りでご破算になってしまいます。したがって、この能力は、世代毎に自ら学んで入手していかなければなりません。

目標は、大きくなるにつれてますます、強い意志、時には使命感をもって困難に耐え、微細な変化に敏感ながら自信を失わず、かつ他人の助けがあってはじめて達成することができるものでしょう。

能力アップサイクル

自分の力、好きなこと、個性に相応しい目標を達成して自分を褒め、喜び、或は目標達成できないことに涙し、自省することを繰り返すうちに必要な能力を高めていくのでしょう。

必要な能力を得ることによって、さらに高い目標を行動で実現できるようになり、嬉しさも倍増していくのではないでしょうか。

各児童に相応しい目標の設定、必要な能力の洗い出しと習得、目標達成の行動のサイクルを経験させる教育を学校、家庭で実践されることを切望します。

二律背反が示唆すること

カントは、四つの二律背反を人間の理性で理解できないこととしています。

一 時間、空間は有限か、無限か

二 物体はどこまでも細かく分割できるか、できないか。

三 人間は自由意志で風習から独立できるか、できないか。

四 創造主は存在するか、しないか。

人は二律背反の両者と上手くつき合うことによって成長できるということも、人生において大きな二律背反のようです。

何事にも焦らず、怠けず、諦めず。

自分の能力にとって狭すぎず広すぎない舞台で、焦らず、怠けず、諦めずに自分の価値観を追い求めることができればすばらしいと思います。自分の志に向かって一歩一歩、各ステップでの身近な目標を達成できた喜びを味わいながら、楽しい人生を若い時から実感できるのではないでしょうか。死後に無限の幸せを永久に手に入れるとの思いは想像できません。

数字の1は、物体ではありませんが、どこまでも細かく分割できます。観念の世界は無責任で気楽です。

カントの没年は1084年であり、核分裂の発見は1938年ですので、カントも原子の核は想像できなかったでしょうが、生物の細胞は顕微鏡で見ていたかもしれません。現代、物質を構成する最小の単位とされている素粒子も将来さらに分割され、創造主の世界にたどりつくような気がします。

究極的に、自分の価値観を優先するのか、集団の価値観を優先するのか。

人間は肉体的にも、精神的にも集団に属してしか生きられず、集団を統治する何らかの体制がないと争いを止められない集団動物であることは、長い人類史からみて真実のようです。これは、何にも負けないように戦って生き続けることを宿命として創造主から授かった性の副産物であり甘受しなければならないでしょう。

こんななかで、君主のために生きる。市民の総意を価値観にする。宗教の教えが正しい。国のために生きる。政党の価値観が絶対だ。基本的人権が最優先する。など様々な試みがなされてきました。未だに正解は見つからず模索が続くのでしょう。

多くの人々の生き方を眺めるとき、自分のしたいことの実現に向かって努力し、結果を出している人は、結果が世俗的に小さなことであっても、いきいきと楽しく生活されています。これも帰納法的に真実のようです。

世界の現状、指導者を一望するとき、不適格な指導者の価値観が強く反映する集団の価値観に従う国民の多くが、不満足な生活を強いられているように感じます。

集団の価値観が個人の価値観に大きい影響を与えることも事実です。集団や他人の役に立つこと、認められることを成したいと欲するのは自然な欲望です。

争い、利己心、嫉妬、嘘などが、生き続けるための性の負の面として現れることも真実として受け止めなければならないでしょう。

これらを考えると、集団のためにではなく、人が生き続けるために役に立つと思える自分のしたいことを目標に定め、達成する喜びを感じることが、宿命を果たしたときに創造主から授かるご褒美ではないでしょうか。

この褒美をもらう各人の権利が、いかなる他人も、集団も奪うことができない基本的人権のように思います。

人々が楽しく生き続けるためには、自分の目標を追い求める各人の生き方を認め合い、助け合い、人類の存続を脅かす敵に対しては協力して戦うことがベースになるのではないでしょうか。

創造主は、存在を身体と知能と心で表現し実感することを人間に託されたと推察しますので、創造主は存在されるのではないかと思います。

苦労が大きいほど、成長できて喜びも大きくなるという真実も、我慢とご褒美の二律背反でしょうか。

人が生き続けることとは

心理学者アブラハム・マズローの欲求5段階説によると、人間の持つ5つの欲求を、生命を維持する生理的欲求から、安全に生きる安全欲求集団に帰属する社会的欲求、他人に認められる承認欲求自分の理想を実現する自己実現欲求へと、生き続ける上で基礎的な欲求から高尚な欲求に向かって順位けしているように思います。

しかし、このように欲求を順位付けすることは、人々が「心」を躍動させて生きる喜びを謳歌することの障壁になっているような気がします。

人間は一生の間、5つの欲求を順位付けすることなくずっと持ち続けています。

寧ろ、生きるために大切な欲求という観点では優先順位が逆転します。そこで、欲求5段階は、生命を維持する欲求から自分の理想を実現する欲求へと、生き続ける上で必要性の高い方から低い方に順位付けしたものと考えると「心」の負担が軽くなると思います。

生命を維持する欲求

人間は生き続けること(「無」の対極の「有」である存在)を創造主から委託されていると思います。

したがって、生きるベースである生命を維持する生理的欲求は人にとって一番大切なものではないでしょうか。また、人間は世代を繋いて生き続けるものですので、子孫を残す欲求も自然なことと思います。

人が他人の生命を奪うことは、他人が自分と同様に一番大切にしている欲求の実現を奪うことであり、さらには、人類の存続を否定することにつながり、絶対に許されることではありません。

安全に生きる安全欲求

人間は存在を具現化するために多様性と変化を備えて生き続ける生きものです。生き続けるためには安全な環境が不可欠であり、人間は安全欲求を生まれながら備え、本能と知能で安全か危険かを察知することにより安全欲求を満たしていると思います。

戦争や貧困状態は安全な環境を破壊し、安全欲求を拒否して多くの人々の生命を奪い、人間の存在意義を根底から否定します。このような劣悪状態の解消を、後述する承認欲求を満たすための重要テーマとしてとらえ、多くの人々が「知」と「心」と「身体」を駆使して協力し弛まぬ努力で徐々にでも解決していきたいものです。

戦争や貧困などで安全欲求すら満たされない状態で生命を奪われた極めて多くの人々の無念を思うとき、我が現状に感謝して生き続けたいです。

集団に帰属する社会的欲求

人は両親はじめ多くの人々のサポートがあって生き続けることができるものであり、集団に帰属する欲求を遺伝子に刷り込まれています。

虐めの常套手段である仲間外しや無視は、人間にとって3番目に大切な集団に帰属する欲求の実現を妨害し、最悪の場合は人の生命を奪う行為であります。仲間外しや無視は、戦争同様に罪深いことであり、人として絶対に許されない行為だと思います。

他人に認められたい承認欲求

人間は両親はじめ多くの人のサポートなしでは生きることができない社会的動物ですので、生来、人の役に立って認められると喜びを感じる承認欲求を持っています。承認欲求を満たす能力と実現する状況に運良く恵まれた人々が社会に貢献し、社会が人の貢献を認める共存関係を築くことによって人間は豊かに生活できるようになってきたと思います。

しかし、例えば社会に迷惑を掛ける行動の動画をSNSに投稿して承認欲求を満たそうとするような未熟者の行為を無くすためには、他人あるいは社会が人を認めて尊敬するのは、その人が習得した能力で他者に貢献したときに限られ、かかる貢献を認められると人は嬉しく感じるということを子供の頃にしっかり教える必要があります。

昨今、病巣のように世界中に拡散している、自分の利益のために権力を乱用する指導者は、社会に貢献することなく自分の存在を誇示する未熟者と同じような行為を行っているのではないでしょうか。

自分の理想を実現する自己実現欲求

幸運にも前述の各欲求を満たすことができ、自ら望む場合は、人は自分の能力、個性、興味にマッチした自分の価値観を形成し、その価値観に基づいて設定した目標を達成する過程と結果に存在意義と喜びを感じるように思います。

自分の価値観は、人間が遠い未来に亘って生き続けるために役立つことに価値を認め、他人の価値観も尊重するものでなければなりません。

人間は多様性と変化のある存在を具現化するために「心」、「知」、「身体」において千差万別であるので、各人の目標も多種多様であります。

そして、自分の理想を実現した結果が人の役に立ち、人々から感謝され認められると、さらなる喜びを感じると思います。

既成の価値観を逆転の発想で少し観点を変えて見るだけで随分気が楽になったように感じるのは私だけでしょうか。

社会の変化につれて変わる価値観と変わらない価値観

人は、「知」によって道具、言葉、農業、人文科学、自然科学を進展させ、社会制度、物質世界を変化させてきました。物質世界の変化は、人の「体」に心地よい世界をもたらすと共に、地球温暖化、核戦争という人の「心」を不安にする世界をもたらしました。

社会制度や物質世界の変化は、人が心、知、体を使って生きる舞台である社会を変化させ、舞台の変化に応じて社会の価値観、個人の価値観を変えてきました。

人は各自の価値観を実現して喜びを感じるために生きていますが、社会に不安や不満が満ちている状態では人々の「心」は退行し、独立性を失って社会に依存する傾向が強まります。

人々の心が退行するのに乗じて利己的な支配者層が台頭し、社会をさらなる混乱に導き、地球温暖化あるいは核戦争によって人類を滅亡させる事態が生じないとも限りません。

このようなときこそ、社会の変化につれて変わる価値観と変わらない価値観を峻別し、変わらない価値観を大切にして各人が自分の価値観を確立し、各人の価値観の共通項である社会の価値観が歪められることを防がなければならないと思います。

変わらない価値観

創造主の価値観である永続的な存在を具現化するために、人間に託された変わらない価値観は、 先ず生きること、そして 人類が生き続けるために役立つことを目標にして行動し、その過程と結果に喜びを感じることではないでしょうか。

変わる価値観

各時代を生きる人々が、自ら設定する自分の価値観は、変わらない価値観に反しない範囲内にあっても、その時代の社会によって変わります。

例えば、戦乱時代は、民主主義という社会制度を見出す以前の君主主義社会であったため、君主とともに戦いに勝つことが、その国民(人類)が生き続けるために有益な集団の価値観であり、国民の価値観も勝つために敵人を殺すことに置かれたのでしょう。

しかし、ある人にとっては、戦いに勝つことより大切なことがあり、敵人を殺すことに迷いがあったかもしれませんが、集団の価値観に圧倒されて戦いに勝つことが自分の価値観であると自らを盲信させていたのでしょう。

自然科学の発達によって社会が物質的に豊かになると、この集団の価値観の盲信を疑う心から民主主義が誕生したように思います。民主主義では、変わらない価値観をベースにして個人の特性に応じて利己的でない自分の価値観を自らが設定し、自分の価値観の実現のために楽しみながら行動し、望外の結果として「ありがとう」と誰かに認められることに喜びを感じることができます。

社会の進歩と退行

社会の進歩は、変わらない価値観をベースにして自分の価値観を自らが設定し、その実現のために行動をできる人の数がより多くなることではないでしょうか。

社会の退行は、自分の価値観を自ら考えて設定することを放棄し、社会の価値観に迎合させる人の数が増加することのように思います。

進歩する社会の各人の価値観の共通項である社会の価値観が利己的な支配者層によって歪められないためにも、各人は自分の価値観をしっかり確立し大切にしなければならないと思います。

集団の支配者層の価値観は、その集団の少なくとも過半数の人の役にたつことを実行することにありますが、利己的な支配者層の価値観は、変わらない価値観に反して、自分と利益を共有する集団のごく一部のみに役立つように行動することにあると思います。

現代社会の退行は阻止しなければならない

社会に不安や不満が満ちている状態では人々の「心」は退行し、独立性を失って社会に依存する傾向が強まると言われています。人々の「心」が退行すると社会も退行します。

人類は、狩猟、農耕、工業、高度情報化の各社会を生き続け、平和と戦争を繰り返してきました。高度情報化社会が進行する現代は、各国において社会に不安や不満が充満し、人々が自己中心的になっているような気がします。人々の「心」の退行を防ぐためには、不安や不満の要因を解消することが必要であると思います。

現代社会に充満している不安や不満の要因として、以下のようなものがあります。

・地球温暖化

・核戦争の可能性

・格差社会の拡大

・米国の相対的国力の低下に伴う覇権主義の台頭

・高度情報化による人の権利、能力侵害

・グローバリゼーションのマイナス面

・人文科学、自然科学の発達に対応できていない宗教の無力化

・民主主義を誤解した利己的な個人主義

・人の生き方についての幼少時からの教育不足

人類が社会の退行を続けて核戦争や地球温暖化などで自ら滅亡することは、創造主の価値観に反することであり、大多数の人が望まず、絶対に起こしてはなりません。人類の存在は、誕生があったことから無限ではないでしょうが、終焉は創造主の意思に従いたいものです。

各人が利己的な「心」を抑え、自分の価値観を自らの意思で設定し実行することによって、現代社会の価値観を、武力ではなく知力によって、世界中の人々が「心」を躍動させて生きる喜びを謳歌できる社会の実現に向けることができると思います。

さらに、自己中心的な指導者の出現を阻止し、社会の価値観が創造主の価値観に反したものになることを防ぐことができます。

現代社会の不安や不満の要因の多くは、2千5百年前においても論語などで行われていた「心」の教育がなおざりにされていることから生じている気がします。「人は何のためにどのように生きるのか」などの「心」の教育を社会全体で行うことの必要性を痛感します。

人は何故いつまでたってもかわれないのか

1.はじめに

心には、喜び、誠実さ、目標への情熱、思いやり、自己肯定感などのプラス面と、悲しみ、嘘、怠惰、利己、悲観などのマイナス面があります。

マイナス面の心は、喜びを感じながら「生きる」と言う欲求が満たされないときにプラス面の心が屈曲して出るもので、強い生命力が逆説的に表現されたものでしょう。

今の社会、マイナス面の心の発露が多く、いつまでたっても紛争を戦争で解決しようとする人々、利己的な社会の指導者、格差、弱者虐待、ひきこもり等の蔓延を見ていると、人はいつまでたっても変われないものなのかなと、なかば諦めそうになります。

否否、核戦争や地球温暖化など現世代の人々の心の未成熟で人類が滅亡の方向に進むことは断じて阻止し、対策を講じなければなりません。人々が心のプラス面を成熟させて生きる喜びを謳歌することが人類の存在意義ではないでしょうか。

2.心を成熟させることが人生の目標

人は、「体」、「知」、「心」の各能力を備えて誕生します。生まれた時は、身体は小さく、何も知らず、生まれたことに感動することもありませんが、全能力とも強い生命力を持っています。

体は、一世で生、老、病、死を経験します。そして、老いた体は若い体より生命力が弱くなります。

知は、前の一世の知識、思考を土台に積み上げていくことができるものであり、特に科学技術は、ここ何世代かに渡って急速に進歩してきました。

18世紀後半にイギリスの鉱山で使用されていた馬車鉄道が、250年ほど後に東京名古屋間で疾走するリニア新幹線までに進化することは、知識が何世代かに渡って急速に積み重ねられた結果だと思います。

知は心の発露に従って自分の価値観を実現するための一つの道具であります。科学技術の進歩につれて生活が便利かつ忙しくなってきましたが、多忙感の中に何か大切なものを置き忘れてきたような気がします。

心は、一世毎に白紙状態からプラス面を伸ばして成長を繰り返すもので、前の一世の心の成熟は参考にはできますが、その上に積み重ねて進歩することはできません。

孔子は、「・・・吾れ十有五にして学に志し、・・・」と言いましたが、2550年ほど経った現在でも、心を「15才で何かに志す状態」まで成長させている若者が如何ほどいるでしょうか。

心は自分の価値観を実現して人から喜ばれることにより琢磨され、これによって自分を信じ、人から信頼される状態まで成熟し、さらなる努力によって維持向上できるものと思います。このように、各人が心の成熟を目標にしてそれぞれ異なる道を歩み、ときに喜びを感じることが、まさしく各自の生きざまのような気がします。

2-1 心と知のバランス

産業革命以降に何世代に渡って急速に積み重ねられた知の結晶であるハイテク社会に一世毎の心の成長で対応するためには、幼少時から心の教育を家庭や社会で行って心の成長を促進する必要があると思います。

人は真、善、美を識別する潜在能力を備えて生まれてきますが、真、善、美を具体的に感受し表現する能力である心は、学習によって成長していくものであると思います。

しかし、今、何のためにどのように生きるのか、愛情や信頼や志とは何かなどの心に関する教育が十分になされていない気がします。

幼児教育・保育の無償化だけでなく、幼少時から心の教育を家庭や社会で行うことが必要だと思います。

心を鍛錬して成功した実業家、芸術家、スポーツ選手など各界の成功者が各地の小学校などで心について講演する仕組みを作ると、多くの親子が聴講して心の大切さを親子で素直に認識することができるようになると思います。

社会の価値観を権力、経済、勝利至上主義から協調、芸術、フェアウェイ精神に少しシフトすることも有効ではないでしょうか。

また、民主主義や子供の心の教育に百害あって一利なしの利己的で不誠実な政治家を選出しないことも必要でしょう。

2-2 心と体のバランス

体の状態は一世中に変化します。

心の発露に従ってそのときの体の状態に応じた目標を設定して活動することが、体とバランスした心の成長であると思います。

3.おわりに   

スウェーデンの16歳の少女グレタ・トゥンベリは、子どもの未来を地球温暖化で奪わないでくださいと呼びかけています。ノーベル平和賞受賞の女性活動家マララ・ユスフザイは、少女に教育を与える運動を続けています。

日本のスポーツ界などでも若い選手が心を鍛錬して活躍するケースが増えています。心の大切さを啓蒙、認識する機会を増やして、老若男女を問わず多くの人々が心の成熟を目標にして自分の価値観の実現のために行動するようになれば、生きる喜びに満ちた社会を永続できるでしょう。