宗教コンプレックスからの解放策

地球環境の悪化、世界情勢の混迷、政治の貧困、貧富の差の拡大、偏差値偏重、生成AIの普及、SNSなどによる他者依存と自己喪失などにより社会に不安と諦めが充満しています。

これは、実質賃金の失われた30年間の微減傾向、出生率の低下、若者のオンラインカジノ賭博依存症の増加、常識を逸したセクハラ・パワハラの横行、不登校の小中学校児童生徒数の増加などの社会活力の低下として表面化しています。

日々の暮らしに窮し将来が見えない人々に、自分の才能と欲求に合った「何か」を行うことが出来たとき、或いは行って感謝されたきに感じる生きる喜びを繰り返すことが人生の目的ではないでしょうかと問いかけても、うるさいお節介ととられるでしょう。

法然が浄土宗を開いた時代は、現在と同様に困窮や閉塞感が庶民社会に充満していたと思われます。

法然は、南無阿弥陀仏と称えれば誰でも極楽に往生できると説いて、如何ともし難く、声もなく尊厳を踏みにじられた人々に現世での居場所を提供したと考えます。

現代の庶民は、法然が開宗した時代より貧困でなく声を発することが出来ます。

まだ他力に頼るのではなく、より多くの庶民が自力で生きる喜びを楽しむ方策を試行錯誤するときだと思います。

人は太古の昔から必要なことを協力して実現するために役立つ知識や行動を試行錯誤して発見し個人や社会の価値観として共有してきました。

殺生(命を奪う)、偸盗(盗む)、邪淫(性的に乱れる)、妄語(うそ)悪口(中傷)、両舌(他人の仲を裂く)、綺語(へつらう)、貪欲(むさぼりの心)、瞋恚(怒りの心)、邪見(誤った考え)の十悪行は罪になる不善な行為であるとされたお釈迦様の教えも、社会の価値観を明示したものだと考えます。

十悪行をしないことが人生の目的ではありません。

他人と共に生きる喜びを体感するために十悪行を行ってはならないのです。

冒頭で例示した社会の閉塞感の原因を取り除くためには、我々庶民が声を上げ行動を起こさなければなりません。

一部の人に任せている環境保護活動に、より多くの人々が参加することによって地球環境の悪化を防ぐことができます。

政治の貧困を解消するための第一歩は、私たち庶民一人ひとりの行動です。まずは、7月の参議院選挙に多くの庶民が参加することから始めましょう。

功罪両面あるも、その弊害は深刻である偏差値偏重については、SNS等によって社会の一つの価値観として定着されることを阻止し、創造力や非認知能力も重視する社会の価値観に庶民自ら意識改革する必要があると考えます。

生成AIの普及、SNSなどによる他者依存と自己喪失などについては、生成AIやSNSは、自分の才能と欲求に合ったことを行うための道具として使うものであると認識することで解消すると思います。

宗教コンプレックスからの解放

最近、若者の殺傷事件、SNSを悪用した闇バイト事件、聖職者や教職員による性暴力などが頻発し、人々の社会規範を遵守する倫理観が低下しています。

社会規範は、集団を作って存続してきた人類が長い年月をかけて築いた善悪の判断基準です。

倫理観が低下した背景には、はき違えた個人主義や多様性の蔓延、世界中の多くの指導者による社会規範違反、科学の発達により悪行は罰せられるという教えの効力低下、貧富の差の増大など社会の混迷状態があるでしょう。

しかし、それ以外にも宗教上の問題があるように思います。

仏教で罪になる不善な行為は、因果の法則によって悪い結果を生む十悪行であると、悟りを開いたお釈迦様が説いています。

十悪行は、殺生(いのちを奪う)、偸盗(盗む)、邪淫(性的に乱れる)、妄語(うそ)悪口(中傷)、両舌(他人の仲を裂く)、綺語(へつらう)、貪欲(むさぼりの心)、瞋恚(怒りの心)、邪見(誤った考え)です。

キリスト教で罪になる行為は、神の求める義を示す十戒に反する行為です。

十戒は、キリスト教の旧約聖書において神(ヤハウェ)がモーセを通してイスラエルの民に与えた道徳的・宗教的な戒めです。

十戒は、他の神を拝むな、ヤハウェの名前を不敬に使うな、父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、隣人の妻を欲するな、隣人の財産を欲するな、です。

仏教の一宗派では、人間の根源的に持っている煩悩が悪業の原因であり、人は煩悩を克服できないので念仏して阿弥陀を信じれば救われると説いています。

キリスト教では、人は生まれながら罪を背負っているので十戒を自らでは守れないが、キリストの愛と恵みを信仰する者は守れるとしています。

人間は独立・自律性をこのように全面的に否定されると、自己肯定感が低下し自信を失い、混迷した社会情勢下では社会規範に沿った善悪の判断ができなくなる傾向があると思います。

例えば、十悪行の原因である煩悩あるいは十戒に反する欲望に堪えたときの満足感や成果は悟りの一歩あるいは恵みであるので更に追求せよと説かれると、人間は宗教コンプレックスから解放され本性に従って、他人と争うことなく集団で楽しく生きることができるようになる気がします。

キリスト教と同じ神(ヤハウェ)を信仰するユダヤ教では、救世主は未だに到来していませんが役割はユダヤ人をローマから解放し、地上にユダヤ王国を建てることです。

宗教の対象を選ばれた民族ユダヤ人としていることは容認できませんが、救済を地上での幸福と共同体の繁栄としている点は共鳴できます。

全人類の繁栄と、ひとり一人の生きる喜びを人間の知恵によって実現することが求められています。

ひとり一人が集団の中で個性に応じて目標を達成し生きる喜びを創造主とともに共感することが生きる目的であり、互いに尊重し合うことが社会規範のいの一番であるとする考えが大切だと思います。

人生の意義は生きること

我々は今、異常気象、米中の覇権争い、不当な戦争の頻発、貧富差の増大、SNSによるフェークニュースの拡散、核の脅威など不安や恐怖に満ちた混沌の時代の中で、生きる価値、目的や目標を見失い、何となく落ち着かないニヒリズム的風潮にあります。

20、21世紀は絶対的な価値や生きる目的、目標がなくなるニヒリズムの時代になるとニーチェは予言しました。

ニーチェはニヒリズムの時代においては、人は力を得るために知識を取得し、強者になるために力を増大し、強者になることが自分の力を発揮して楽しみや面白さに繋がるとしています。

道徳は弱者が強者を引きずり降ろすことによって、自己正当化するためのものだと批判しています。

ニヒリズム的風潮を煽動し利用して強い権力を手中にした強者は、自己の利益獲得、権力行使を独断専行して楽しんでいます。

例えば、強大な権力を手中にした米ロ大統領は、ロシアのウクライナ侵攻の米露停戦交渉をウクライナ抜きで始めようとしています。

イーロン・マスク氏は、強大な財力に任せて反道徳行為を世界中にばらまいています。

金正恩委員長は、独裁権力で自国軍人の命をロシアに売っています。

確かに価値観は時代と共に変化する部分もあり、絶対的なものではありません。

しかし、現在を生きる民衆が共有する価値観をその時を生きる人々が大切にしなければならない絶対的な価値観とし、生きる目的、目標のベースにすればよいのではないでしょうか。

さらに、肉体的に存続するための食欲などの生理的欲求と、社会集団での一人として存続するための承認欲求などの精神的欲求に基づいて、日々を平和に暮らし、真善美な目標達成に努力する価値は、創造主がヒトの遺伝子に記した遺伝情報の一つで、時代によって変化するものでないと考えます。

全知全能の創造主は完全無欠であるという唯一の弱点を有されていると考えます。完全無欠であるということは、何ら変化する必要が無くなり、存在しない「無の状態」と同じになってしまうのではないでしょうか。

創造主は「無の状態」に対峙する「有の状態」をより多様により強く実感するために、多種多様な性状と才能を備えたヒトを創られたと考えます。

人が「生きる」絶対的な目的は、「生きていること」によって「有の状態」をしっかりと作り、創造主と「存在」を共有することではないでしょうか。

創造主は人が多様な状態で強く「生きる」ために、目標を達成し、人の役に立ち、あるいは他人と共感できたときなどは、達成感や充実感などの喜びを感じるように遺伝情報に仕掛けられたと考えます。

創造主はヒトに代わるものを何時でも何処にでも創れるでしょう。

人間はニヒリズムが産んだ強者に利用されることなく、生きる喜びを創造主と共感しながら自信を持って様々な人生を謳歌することが務めだと考えます。

遺伝情報に込められたヒトが存在する意図

ヒトはたった一つの細胞(受精卵)が分裂して形成されます。

細胞は、ヒトをつくる遺伝情報の全容が記されたDNAを内包する核、細胞自体が生きるために必要なエネルギーを生成するためのミトコンドリア、遺伝情報に基づいて人体の各部位に特有なタンパク質を合成し、分裂した細胞を脳、臓器、筋肉、皮膚等を構成する細胞にするリボソーム、細胞内に進入した異物や細胞内の代謝物を消化処理するリンソーム、細胞の表面を覆う細胞膜などから構成されています。

そして、例えば脳細胞の集合体である脳は、肉体的に存続するための食欲などの生理的欲求と、社会集団での一人として存続するための承認欲求などの精神的欲求を生み出します。

一つの細胞が遺伝情報に基づいて分裂してヒトになる神秘、ヒトが遺伝情報に基づいてヒトらしく人生を楽しむ神秘は、到底偶然がもたらせることではありません。

近時医療分野で、悪い遺伝情報の記されたゲノムの一部(悪い遺伝子)を削除し、良い遺伝子に代えるゲノム編集が研究されています。

ゲノムはDNAのヒトをつくる遺伝情報の全容が記された部分です。

ヒトは既存のゲノムの悪い遺伝情報の記された遺伝子を削除することはできますが、ゲノムましてや一つの細胞を一からつくることはできません。

ヒトの細胞にはヒトゲノムがあるように、ヒト以外の例えばマウスの細胞にはマウスをつくる遺伝情報の全容が記されたマウスゲノムがあります。

情報には必ず作成者の意図があります。

ヒトゲノムに記された遺伝情報にはヒトが存在する意図が込められています。

マウスゲノムに記された遺伝情報にはマウスが存在する意図が込められています。

ヒトはマウスなどヒト以外の生き物と明らかに異なる生態を発揮するための遺伝情報をゲノムに記されています。

肉体的に存続するための能力に大きな違いはありませんが、社会集団で他人と協調して存続するための承認欲求を追求することがヒトの遺伝情報に込められた意図のように思います。

承認欲求は、役に立って他人から認められたい、自分の存在価値を自ら認めたいという欲求です。

承認欲求を満たすためにヒトは目標を立て自ら行動し、目標達成したときに欲求を満たすとともに遺伝情報に込められた意図を達成して幸福を感じるのではないでしょうか。

近年、利己的な自己顕示欲を利他的な承認欲求と詐る独裁者が多数の自国民や他国民の命を独裁者の保身のための戦争で奪っている行為は、ヒトの遺伝情報に込められた意図に背く不遜なものであり、人類の存続を否定する万死に値する大罪であります。

ヒトは一つの細胞さえつくれないという事実を認識して謙虚になり、多くの国民が遺伝情報に真摯に耳を傾け、それに込められたヒトの存在意図に従って行動することが、独裁者に国の統治を委ねず、国民自らが国を統治するための重要な基礎であると思います。

人間の多様性

孫からピアノの手ほどきを受けたときに教えられた五線譜に人間の多様性を再確認しました。

音は発生しては消滅し物理的に残存しません。

5本の平行線だけでは何の意味も持ちません。

人は、5線上に書かれた音部記号の書き初め位置を基準音の高さとし、心地よい音の高さを5本の平行線上に示した音符で示すことなどによって、音の芸術である音楽を作曲者の創作時の状態で時間的、空間的に離れた多くの人々の間で共有できる楽譜を創出しました。

楽譜の創出によって音楽世界の表現技術が多様かつ高度に発達し、多くの音楽家が自分の成したいことを音楽に見つけ夢を追い求めて努力しています。

楽譜で音楽の抽象化が進むと実際の楽器では演奏できない音楽を楽譜の中で奏でて楽しんでいる人があるかもしれません。

このようにヒトは基礎となる僅かな約束事の上に無限に広がる深淵な世界を次から次に創り出し、人々は自分の好きな世界の中に成したいことを見つけて楽しく生きることができるもののようです。

ヒトは物事を表現し多くの人々の間で共有できる言葉を創り、科学、文学、哲学、思想などの分野で自己実現に励んできました。

自然科学の世界では、物の量を表す数を生みだし、広くて深く未だに拡大している数学の世界を創り出し、人々は数学の世界を楽しみながら物質の世界で利用し物質的な生活の向上に役立てています。

また、9×9のマス目上での8種類の駒の動き方などを約束しただけの将棋は、知性に富んだ棋士がスーパーコンピュータまで駆り出して人生を賭けて研究する棋界を作っています。

11人に分かれた二つのチームが一つのボールを相手ゴールに蹴り入れれば得点1となるなどの僅かなルールが決められたサッカーは、世界の競技人口が約2億6,000万人と言われ、世界トップクラスのプロサッカー選手メッシの2023年の年俸は200億円弱と推定されています。

鬼滅の刃「無限列車編」が公開2週目にして全米週末興行ランキング1位を獲得するほど世界で人気の高い日本のアニメーションは、作成者が理想とする生き様を疑似の世界でキャラクターに投影し、鑑賞者がキャラクターの感動的な生き方に共感し勇気づけられるのでしょう。

個性に多様性を秘めたヒトは、多様性をそれぞれ発揮して生きる喜びを享受するために様々な世界を作ってきたように思います。

昨今、民主主義国家では弱者救済あるいは倫理上の観点から多様性を尊重することが求められていますが、多様性は生きる世界を次々に創るヒトの本質のように思います。

全く多様性がなく変化しない「存在」は「無」と同じです。

人は自分に適した世界で独自性を発揮して生きる喜び実感し、「無」に対峙する「存在」を多様性のある変化で具現化するものである気がします。

多様な価値を認め自分の価値を大切に生きる

宮崎駿監督の新作アニメ「君たちはどう生きるか」を鑑賞して、矛盾や不条理に満ちた現世を肯定し、個人の二律背反する多様な価値のバランスを取って他人と共に平和に生きる大切さを共感することが出来ました。

二律背反する価値の選択は、例えば漱石の草枕の書き出し「智に働けば角が立つ情に棹させば流される」とあるように人生の節々で知恵を絞ってバランスよく案配しなければならない古くて新しいテーマのように思います。

アニメは、「理想」を求めすぎることなく「人の弱さや現世欲」も認め他人と協力し誇りを持って幸せに生きてくださいと語りかけている気がしました。

価値の選択において「目的を達成するための手段の価値」を「目的の価値」より高くしてしまって不幸に陥ることが多々起こっています。

例えば技を習得するために「競争に勝つ」ことが「技を習得する」ことより大切になると、競争に勝って全てを失う日大のアメフト部のような不幸を招きます。

「国民が幸せになる」ための「強い国家」の価値を高くし過ぎると、ロシアのウクライナ侵攻のように両国民から日々の幸せを奪い悲惨な生活を強いることになります。

ハマスによるイスラエルへの奇襲攻撃が、「他者への慈愛を説くユダヤ教」に潜在する選民思想をネタニヤフ首相にまざまざと彷彿させ、パレスチナ・ガザ地区からハマス延いてはイスラム教徒を排斥するために、ガザ地区のパレスチナ人民を殺戮し悲惨な状態に陥れる暴挙を行わせている気がします。

首都圏では中学入試が常軌を逸して過酷なようですが、入試に合格するためのテクニックを磨くことに専念させ過ぎると、自分の成したいことを実現するために必要な基礎知識を主体的に学べる実行力に富んだ若者の育成は不可能となるでしょう。

自分の価値観を強い意思で実現することは大きな生きる喜びでありますが、他人の価値観にも謙虚に耳を傾けることを怠ると現世を広く知る機会を失い、あるいは他人の尊厳を傷つけて大切な交友を失う羽目になります。

また、人生の目的を大志として具体的に設定し、その達成に向かって努力することは充実した日々を過ごすうえで有効でしょう。

しかし、大志を例えば「ノーベル賞を受賞する」などと具体的に高く設定し過ぎると、多くの人は年齢を重ねるうちに現実とのギャップから大志を忘れ去り、人生を漫然と送ってしまうことに繋がりかねません。

大志を例えば「多くの人に役に立てる学者になる」などとして曖昧さを残しておくと、大志を達成するための手段を目標として自分の成長段階に合わせて順次設定し、大志を忘れることなく目標達成を楽しみながら充実した人生を送れるような気がします。

創造主の一器官としてのヒト

ヒトは、創造主から付与されたヒト固有の能力を活かし、己の成したいことを現実化することを通して「無と対峙する存在の喜び」を創造主と分かつために、創造主の一器官的なものとして生かされている気がします。

ヒト固有の能力として次のようなものが考えられます。

・己の成したいこと、成りたい姿を自ら決めて脳内に描く目標設定力

目標を現実化する実行力。

・自己制御可能な持続する欲望。

・繊細な違いを判別でき器用に動作可能な高機能身体。

・現象を分析、解明する論理的思考力。

創造主の意思に沿った倫理観。

・欲するものを創り出す創造力。

目標設定能力、実行力、自己制御可能な持続する欲望、高機能な身体は、己の成したいことを現実化するために直接必要な能力です。

創造力、論理的思考力、倫理観は、創造主のものの足元にも及びませんが、それを模したものであり、目標設定能力、実行力、自己制御可能な持続する欲望を支え制御する能力です。

目標設定能力は、各人が経験や自己観察に論理的思考力を働かせ、自分の能力に適した己の成したいことを見いだすでしょう。

大きい目標を達成すると喜びも大きくなるでしょうが、ヒトが喜びを創造主と絶え間なく分かつためには、より多くの人が個性に応じた目標を達成することが必要です。

数十億人が各自の目標を、例えば毎月一回達成できたとすると、ヒトは一秒間に平均して数百回存在の喜びを想像主と分かつことができます。

立ちはだかる困難を克服し目標を現実化して初めて存在の喜びが生まれます。

この目標を現実化する実行力の中身は、失敗の分析、改良、創意工夫、他人との協調、胆力、自己肯定感、執着心、身体などさまざまです。

ヒトは創造力、論理的思考力を働かせて科学、芸術、競技などを創出し、各人は例えば医学、音楽、サッカーなどにおいて、達成段階毎に新たな目標を設定し、諦めることなく目標達成に努力しているのでしょう。

創造主の意思に沿った倫理観に反する目標は、ヒトの尊厳、役割を否定するものであり、達成しても存在の喜びを想像主と分かつことができず、ヒトを滅亡に導くでしょう。

ヒトは創造主を模した創造力、論理的思考力を有するので、独裁者、原理主義者、利己主義者などは自分を過大評価し、己の成したいことは何でも目標に設定して実行してもよいと勘違いしているようです。

他国を侵略する戦争、国民の主体性を奪う独裁政治、原理主義、貧困などは、創造主の意思に沿った倫理観に反するものであり、多くの人が己の成したいことを達成して創造主と喜びを絶え間なく分かつことを妨げます。

侵略戦争、独裁政治、原理主義や貧困を無くすには、ヒトは生きる喜びを創造主と分かつために創造主の一器官として生かされていることに感謝し、ヒトの能力は創造主の能力の足元にも及ばないことを謙虚に認識し、創造主を心から崇拝する気持ちを人々に広く深めなければならないときだと思います。

戦争を抑止する価値観の多様性

NHKのドキュメンタリー番組 プロフェッショナル 仕事の流儀で、 殺到するグランメゾンの料理人たちの中心で魚をさばいていた、静岡県焼津市にある一見普通の魚屋さんが、魚の味について哲学的な美味しさではなく、各個人が体で感じる美味しさを追い求めていきたいと言っていました。

食通の求めるそれぞれの味を引き出せる魚を届けて堪能してもらうのが嬉しいのだと理解しました。

新鮮な魚を客に届けるために実直に働く年老いた父親の姿が、喧嘩っ早い息子の心の葛藤を、魚屋の情熱に刷新したのでしょうか。

人は、天賦の才能、育った環境、受けた教育、接した人々などの影響を受けながら、自分のものの見方、好き嫌い、延いては価値観を手探りしながら形成します。

自分の価値観を持てた人は、その価値観に合致した目標を達成することによって充実感に満たされ生きる喜びを体感することができます。

しかし、自分の価値観の不確実性ゆえに親や世間の価値観を刷り込まれてしまった人は、自分にマッチしない価値観に基づく目標を達成したとしても、その喜びは希薄なものとなり満足感を心の底から実感することができないでしょう。

また、生きることは存在することであり、高い能力を持つ人間は、他人からその存在を認めて欲しいという欲求を生まれながら備えていると思います。

社会や他人の役に立つこと、協力してことを成すことに喜びを感じる価値観はこの欲求から派生すると考えます。

ところで、8月6日、9日の原爆の日に、被爆の惨状や核抑止力の危うさを知りながら核兵器廃絶の後退が無力感を込めて語られていました。

8月15日の終戦記念日に戦争の不条理、悲惨さを知りながら何故未だに根絶できないか議論されていました。

日本は、原爆の日を被害者の立場で語り、終戦記念日を加害者の立場で語るのではなく、独善的な価値観を持った独裁者層の出現、その価値観の国民への浸透、近視眼的になされる開戦の決断、終戦の難しさと被爆の惨状という、人が知能を持つが故に呪縛される戦争から解放されるための一連の教訓として反面教師的に提供することを考えてもよいのではないでしょうか。

国民が一つの独善的な価値観に染まることなく、それぞれの価値観に合致した目標に向かって行動することで生きる喜びに満たされた国が自ら開戦を宣言することはないでしょう。

貴重な経験をした日本は、国民が多様な価値観を尊重し、それぞれの生き甲斐が他人から認められる喜びに満ちた社会を築いて世界に示すことによって、戦争の愚かさを強くアピールして戦争を抑止できるのではないでしょうか。

没頭できる対象を大切に

NHK朝ドラの植物学者・槙野万太郎は、心底植物を愛し、NBLの大谷翔平選手は、大好きな野球に没頭し、藤井聡太棋士は、迷い無く将棋に集中しているのでしょう。

これらの人は、幸運にも幼少の頃に我を忘れて没頭できる対象とめぐり合うことができ、才能を伸ばして没頭する対象を生業にして成功しています。

我を忘れて没頭するので、我欲やへつらいなどの邪念がなく、迷いや恐れなく対象に集中できるのではないでしょうか。

谷川浩司十七世名人は、藤井聡太七冠の強さについて次のように述べています。藤井さんの指し手を観ていると、負けることへの恐怖、自玉が危険にさらされることへの恐れ、あるいは自分の読みが正しいのかという恐れといった躊躇や葛藤がないのではと思えるくらい大胆な一手を指す。勝負への執念という意味では、それほど強いとは感じませんね。彼は棋士になったときから一貫して勝つことよりも強くなること、“将棋の真理”を追求することを言っています。

勝負の世界は厳しく、加齢やAIの出現で勝つのが難しくなっても将棋に没頭できる先輩天才棋士だから観える後輩天才棋士感でしょうか。

しかし、大多数の人は、時間を忘れてハマり込む対象で生計をたてることができないのでしょうか。

サッカーに夢中になっている子供に、プロプレイヤーになれるわけがないから苦手な算数でも勉強しなさいと叱ったとすると、子供は自分の感情、才能を否定され自己肯定感を傷つけられるだけでなく、算数には能力がなく、好きなサッカーを禁じられた憎き対象として算数に拒否感を抱くでしょう。

これに対し、サッカーが好きならいろいろ考えて工夫し、本気で練習して上手になりなさい。算数もサッカーと同じようにコツさえ掴めば上手になるから本気で練習しなさいね。分からないところはお父さんがコーチになって教えるよ。と親子で会話するのも楽しそうです。

生計を立てることは大仕事です。

没頭できる生業に簡単に就けるチャンスは稀です。

自分に与えられた仕事に没頭できるようになるヒントは、谷川十七世名人が抱いた対局中の藤井七冠についての心証 「藤井さんは対局中もネガティブな感情を持たずに、純粋に最善手を探すことだけに集中している。これが強さの秘密の一つだと思います。」や、永世七冠の資格を持つ羽生善治九段の世代の棋士についての印象、「羽生さんの世代が今でもトップクラスで戦っているのは、20代頃の蓄積、今の藤井さんと同じですけど、序盤から1時間、2時間と考えてきた財産が大きいと思います。」 あたりにあるような気がします。

幼少の頃に我を忘れて没頭した対象でなくとも、20代頃に毎日何時間も必死に考えて工夫し少しずつコツを掴んで上達してきた対象に対しても愛着が湧いて没頭できる気がします。

没頭できる対象めぐり合うものでなく、覚悟を決めて自らが育てるもののようです。

対象物についてあれこれ必死に考えることの原動力は、自己肯定感の強さにあると思います。

多少生意気な子になりますが、自己肯定感は子供の頃から育てる周りの環境が必要でしょう。

また、没頭できる対象を育てられなかったのではなく、育てなかったのではないでしょうか。

住めば都と言うように、毎日無心に工夫して取り組んで自分なりの進歩を楽しむことが没頭できる対象を育てる気がします。

情と愛

先日、少し合理的過ぎる娘に対して妻が、「私は情の人ですからね。」と反論していました。しばらくして、西洋では、この場合の情は愛なのだろうかと話が進みました。

言い得て妙のようですが、情と愛には根本的な違いがあるような気がします。

情は、創造主から身体、知能、心を授けられた生身の人間の心の発露そのものであります。

従って、情は生来の才能や育った環境で形成される個人の性状が色濃く反映するものであり、時に利己的で身勝手なものになってしまいます。

心が個性と社会との間で利害バランスの取れた情を発露して、人が生きる喜びを謳歌するためには、心を身体や知性でバックアップして強靱に鍛えなければならないでしょう。

愛は、人が他を思う心の発露を知能が定義した色合いが強く、知的な傾向があるものです。

極端な例ですが、博愛主義者に愛すべきとの思いで愛された者が、儀礼的に感謝しても、生きる喜びを創造主と共感することはできないと思います。

名古屋城天守閣の木造復元におけるバリアフリー用昇降設備のあり方ついて、小型昇降設備を途中まで設置する大型昇降設備を最上階まで設置する案を中心に議論されています。

小型昇降設備設置案の主要根拠は、史実に忠実に木造城郭建築を再現し入場者に感銘を与えるとともに後世に残すことです。

大型昇降設備設置案の主要根拠は、車椅子利用者が差別なく安全に最上階まで上れるようにすることです。

歩行可能者は、階段をのぼることに支障がないので、歴史的な木造城郭建築に心を惹かれ、小型昇降設備設置案を心情的に支持します。

車椅子利用者の最上階まで階段をのぼることの不安を知的に、体感的に捉えることなく、史実に忠実な木造城郭建築に意味があるとの知的な見解のみから小型昇降設備の途中までの設置を主張してはいないでしょうか。

車椅子利用者は、階段をのぼることに困難が伴うので、最上階まで安全に上ることに心を惹かれ、大型昇降設備設置案を心情的に支持します。

大型昇降設備を最上階まで設置したことによる木造復元名古屋城天守閣の価値毀損の大きさを知的に捉えることなく、車椅子利用者が最上階まで差別無く安全にのぼるという知的な見解のみから大型昇降設備の最上階までの設置を主張してはいないでしょうか。

名古屋城天守閣の木造復元の趣旨は、先ず、木造建築で復元した名古屋城天守閣を多くの生ける人々が訪れ、木造建築の美しさ、感触、香り、音などを体感することでしょう。

そして、史実に忠実な木造城郭建築の名古屋城を名古屋のシンボルとして後世に残すことにも大きな意義があるでしょう。

木造復元された名古屋城天守閣を訪れる目的は、天守閣の最上階に上ることではなく、各階を木造の階段でのぼりながら木造城郭の豪奢なすばらしさを肌で感じることではないでしょうか。

小型昇降設備設置案の支持者は、史実に忠実であることに拘泥することなく、車椅子利用者が木造の階段を安心してのぼりながら木造城郭のすばらしさを肌で感じることができる具体策を示すことが、個性と社会との間で利害バランスの取れた情を発露することだと思います。

大型昇降設備設置案の支持者は、車椅子利用者が最上階に安全に上ることに拘泥することなく、木造の階段を気持ちよくのぼりながら木造建築の豪奢を体感できる具体策を小型昇降設備設置案の支持者とともに考え出すことが、身体や知性で鍛えられた心の発露のように思います。