多様な価値を認め自分の価値を大切に生きる

宮崎駿監督の新作アニメ「君たちはどう生きるか」を鑑賞して、矛盾や不条理に満ちた現世を肯定し、個人の二律背反する多様な価値のバランスを取って他人と共に平和に生きる大切さを共感することが出来ました。

二律背反する価値の選択は、例えば漱石の草枕の書き出し「智に働けば角が立つ情に棹させば流される」とあるように人生の節々で知恵を絞ってバランスよく案配しなければならない古くて新しいテーマのように思います。

アニメは、「理想」を求めすぎることなく「人の弱さや現世欲」も認め他人と協力し誇りを持って幸せに生きてくださいと語りかけている気がしました。

価値の選択において「目的を達成するための手段の価値」を「目的の価値」より高くしてしまって不幸に陥ることが多々起こっています。

例えば技を習得するために「競争に勝つ」ことが「技を習得する」ことより大切になると、競争に勝って全てを失う日大のアメフト部のような不幸を招きます。

「国民が幸せになる」ための「強い国家」の価値を高くし過ぎると、ロシアのウクライナ侵攻のように両国民から日々の幸せを奪い悲惨な生活を強いることになります。

ハマスによるイスラエルへの奇襲攻撃が、「他者への慈愛を説くユダヤ教」に潜在する選民思想をネタニヤフ首相にまざまざと彷彿させ、パレスチナ・ガザ地区からハマス延いてはイスラム教徒を排斥するために、ガザ地区のパレスチナ人民を殺戮し悲惨な状態に陥れる暴挙を行わせている気がします。

首都圏では中学入試が常軌を逸して過酷なようですが、入試に合格するためのテクニックを磨くことに専念させ過ぎると、自分の成したいことを実現するために必要な基礎知識を主体的に学べる実行力に富んだ若者の育成は不可能となるでしょう。

自分の価値観を強い意思で実現することは大きな生きる喜びでありますが、他人の価値観にも謙虚に耳を傾けることを怠ると現世を広く知る機会を失い、あるいは他人の尊厳を傷つけて大切な交友を失う羽目になります。

また、人生の目的を大志として具体的に設定し、その達成に向かって努力することは充実した日々を過ごすうえで有効でしょう。

しかし、大志を例えば「ノーベル賞を受賞する」などと具体的に高く設定し過ぎると、多くの人は年齢を重ねるうちに現実とのギャップから大志を忘れ去り、人生を漫然と送ってしまうことに繋がりかねません。

大志を例えば「多くの人に役に立てる学者になる」などとして曖昧さを残しておくと、大志を達成するための手段を目標として自分の成長段階に合わせて順次設定し、大志を忘れることなく目標達成を楽しみながら充実した人生を送れるような気がします。

創造主の一器官としてのヒト

ヒトは、創造主から付与されたヒト固有の能力を活かし、己の成したいことを現実化することを通して「無と対峙する存在の喜び」を創造主と分かつために、創造主の一器官的なものとして生かされている気がします。

ヒト固有の能力として次のようなものが考えられます。

・己の成したいこと、成りたい姿を自ら決めて脳内に描く目標設定力

目標を現実化する実行力。

・自己制御可能な持続する欲望。

・繊細な違いを判別でき器用に動作可能な高機能身体。

・現象を分析、解明する論理的思考力。

創造主の意思に沿った倫理観。

・欲するものを創り出す創造力。

目標設定能力、実行力、自己制御可能な持続する欲望、高機能な身体は、己の成したいことを現実化するために直接必要な能力です。

創造力、論理的思考力、倫理観は、創造主のものの足元にも及びませんが、それを模したものであり、目標設定能力、実行力、自己制御可能な持続する欲望を支え制御する能力です。

目標設定能力は、各人が経験や自己観察に論理的思考力を働かせ、自分の能力に適した己の成したいことを見いだすでしょう。

大きい目標を達成すると喜びも大きくなるでしょうが、ヒトが喜びを創造主と絶え間なく分かつためには、より多くの人が個性に応じた目標を達成することが必要です。

数十億人が各自の目標を、例えば毎月一回達成できたとすると、ヒトは一秒間に平均して数百回存在の喜びを想像主と分かつことができます。

立ちはだかる困難を克服し目標を現実化して初めて存在の喜びが生まれます。

この目標を現実化する実行力の中身は、失敗の分析、改良、創意工夫、他人との協調、胆力、自己肯定感、執着心、身体などさまざまです。

ヒトは創造力、論理的思考力を働かせて科学、芸術、競技などを創出し、各人は例えば医学、音楽、サッカーなどにおいて、達成段階毎に新たな目標を設定し、諦めることなく目標達成に努力しているのでしょう。

創造主の意思に沿った倫理観に反する目標は、ヒトの尊厳、役割を否定するものであり、達成しても存在の喜びを想像主と分かつことができず、ヒトを滅亡に導くでしょう。

ヒトは創造主を模した創造力、論理的思考力を有するので、独裁者、原理主義者、利己主義者などは自分を過大評価し、己の成したいことは何でも目標に設定して実行してもよいと勘違いしているようです。

他国を侵略する戦争、国民の主体性を奪う独裁政治、原理主義、貧困などは、創造主の意思に沿った倫理観に反するものであり、多くの人が己の成したいことを達成して創造主と喜びを絶え間なく分かつことを妨げます。

侵略戦争、独裁政治、原理主義や貧困を無くすには、ヒトは生きる喜びを創造主と分かつために創造主の一器官として生かされていることに感謝し、ヒトの能力は創造主の能力の足元にも及ばないことを謙虚に認識し、創造主を心から崇拝する気持ちを人々に広く深めなければならないときだと思います。

戦争を抑止する価値観の多様性

NHKのドキュメンタリー番組 プロフェッショナル 仕事の流儀で、 殺到するグランメゾンの料理人たちの中心で魚をさばいていた、静岡県焼津市にある一見普通の魚屋さんが、魚の味について哲学的な美味しさではなく、各個人が体で感じる美味しさを追い求めていきたいと言っていました。

食通の求めるそれぞれの味を引き出せる魚を届けて堪能してもらうのが嬉しいのだと理解しました。

新鮮な魚を客に届けるために実直に働く年老いた父親の姿が、喧嘩っ早い息子の心の葛藤を、魚屋の情熱に刷新したのでしょうか。

人は、天賦の才能、育った環境、受けた教育、接した人々などの影響を受けながら、自分のものの見方、好き嫌い、延いては価値観を手探りしながら形成します。

自分の価値観を持てた人は、その価値観に合致した目標を達成することによって充実感に満たされ生きる喜びを体感することができます。

しかし、自分の価値観の不確実性ゆえに親や世間の価値観を刷り込まれてしまった人は、自分にマッチしない価値観に基づく目標を達成したとしても、その喜びは希薄なものとなり満足感を心の底から実感することができないでしょう。

また、生きることは存在することであり、高い能力を持つ人間は、他人からその存在を認めて欲しいという欲求を生まれながら備えていると思います。

社会や他人の役に立つこと、協力してことを成すことに喜びを感じる価値観はこの欲求から派生すると考えます。

ところで、8月6日、9日の原爆の日に、被爆の惨状や核抑止力の危うさを知りながら核兵器廃絶の後退が無力感を込めて語られていました。

8月15日の終戦記念日に戦争の不条理、悲惨さを知りながら何故未だに根絶できないか議論されていました。

日本は、原爆の日を被害者の立場で語り、終戦記念日を加害者の立場で語るのではなく、独善的な価値観を持った独裁者層の出現、その価値観の国民への浸透、近視眼的になされる開戦の決断、終戦の難しさと被爆の惨状という、人が知能を持つが故に呪縛される戦争から解放されるための一連の教訓として反面教師的に提供することを考えてもよいのではないでしょうか。

国民が一つの独善的な価値観に染まることなく、それぞれの価値観に合致した目標に向かって行動することで生きる喜びに満たされた国が自ら開戦を宣言することはないでしょう。

貴重な経験をした日本は、国民が多様な価値観を尊重し、それぞれの生き甲斐が他人から認められる喜びに満ちた社会を築いて世界に示すことによって、戦争の愚かさを強くアピールして戦争を抑止できるのではないでしょうか。

没頭できる対象を大切に

NHK朝ドラの植物学者・槙野万太郎は、心底植物を愛し、NBLの大谷翔平選手は、大好きな野球に没頭し、藤井聡太棋士は、迷い無く将棋に集中しているのでしょう。

これらの人は、幸運にも幼少の頃に我を忘れて没頭できる対象とめぐり合うことができ、才能を伸ばして没頭する対象を生業にして成功しています。

我を忘れて没頭するので、我欲やへつらいなどの邪念がなく、迷いや恐れなく対象に集中できるのではないでしょうか。

谷川浩司十七世名人は、藤井聡太七冠の強さについて次のように述べています。藤井さんの指し手を観ていると、負けることへの恐怖、自玉が危険にさらされることへの恐れ、あるいは自分の読みが正しいのかという恐れといった躊躇や葛藤がないのではと思えるくらい大胆な一手を指す。勝負への執念という意味では、それほど強いとは感じませんね。彼は棋士になったときから一貫して勝つことよりも強くなること、“将棋の真理”を追求することを言っています。

勝負の世界は厳しく、加齢やAIの出現で勝つのが難しくなっても将棋に没頭できる先輩天才棋士だから観える後輩天才棋士感でしょうか。

しかし、大多数の人は、時間を忘れてハマり込む対象で生計をたてることができないのでしょうか。

サッカーに夢中になっている子供に、プロプレイヤーになれるわけがないから苦手な算数でも勉強しなさいと叱ったとすると、子供は自分の感情、才能を否定され自己肯定感を傷つけられるだけでなく、算数には能力がなく、好きなサッカーを禁じられた憎き対象として算数に拒否感を抱くでしょう。

これに対し、サッカーが好きならいろいろ考えて工夫し、本気で練習して上手になりなさい。算数もサッカーと同じようにコツさえ掴めば上手になるから本気で練習しなさいね。分からないところはお父さんがコーチになって教えるよ。と親子で会話するのも楽しそうです。

生計を立てることは大仕事です。

没頭できる生業に簡単に就けるチャンスは稀です。

自分に与えられた仕事に没頭できるようになるヒントは、谷川十七世名人が抱いた対局中の藤井七冠についての心証 「藤井さんは対局中もネガティブな感情を持たずに、純粋に最善手を探すことだけに集中している。これが強さの秘密の一つだと思います。」や、永世七冠の資格を持つ羽生善治九段の世代の棋士についての印象、「羽生さんの世代が今でもトップクラスで戦っているのは、20代頃の蓄積、今の藤井さんと同じですけど、序盤から1時間、2時間と考えてきた財産が大きいと思います。」 あたりにあるような気がします。

幼少の頃に我を忘れて没頭した対象でなくとも、20代頃に毎日何時間も必死に考えて工夫し少しずつコツを掴んで上達してきた対象に対しても愛着が湧いて没頭できる気がします。

没頭できる対象めぐり合うものでなく、覚悟を決めて自らが育てるもののようです。

対象物についてあれこれ必死に考えることの原動力は、自己肯定感の強さにあると思います。

多少生意気な子になりますが、自己肯定感は子供の頃から育てる周りの環境が必要でしょう。

また、没頭できる対象を育てられなかったのではなく、育てなかったのではないでしょうか。

住めば都と言うように、毎日無心に工夫して取り組んで自分なりの進歩を楽しむことが没頭できる対象を育てる気がします。

情と愛

先日、少し合理的過ぎる娘に対して妻が、「私は情の人ですからね。」と反論していました。しばらくして、西洋では、この場合の情は愛なのだろうかと話が進みました。

言い得て妙のようですが、情と愛には根本的な違いがあるような気がします。

情は、創造主から身体、知能、心を授けられた生身の人間の心の発露そのものであります。

従って、情は生来の才能や育った環境で形成される個人の性状が色濃く反映するものであり、時に利己的で身勝手なものになってしまいます。

心が個性と社会との間で利害バランスの取れた情を発露して、人が生きる喜びを謳歌するためには、心を身体や知性でバックアップして強靱に鍛えなければならないでしょう。

愛は、人が他を思う心の発露を知能が定義した色合いが強く、知的な傾向があるものです。

極端な例ですが、博愛主義者に愛すべきとの思いで愛された者が、儀礼的に感謝しても、生きる喜びを創造主と共感することはできないと思います。

名古屋城天守閣の木造復元におけるバリアフリー用昇降設備のあり方ついて、小型昇降設備を途中まで設置する大型昇降設備を最上階まで設置する案を中心に議論されています。

小型昇降設備設置案の主要根拠は、史実に忠実に木造城郭建築を再現し入場者に感銘を与えるとともに後世に残すことです。

大型昇降設備設置案の主要根拠は、車椅子利用者が差別なく安全に最上階まで上れるようにすることです。

歩行可能者は、階段をのぼることに支障がないので、歴史的な木造城郭建築に心を惹かれ、小型昇降設備設置案を心情的に支持します。

車椅子利用者の最上階まで階段をのぼることの不安を知的に、体感的に捉えることなく、史実に忠実な木造城郭建築に意味があるとの知的な見解のみから小型昇降設備の途中までの設置を主張してはいないでしょうか。

車椅子利用者は、階段をのぼることに困難が伴うので、最上階まで安全に上ることに心を惹かれ、大型昇降設備設置案を心情的に支持します。

大型昇降設備を最上階まで設置したことによる木造復元名古屋城天守閣の価値毀損の大きさを知的に捉えることなく、車椅子利用者が最上階まで差別無く安全にのぼるという知的な見解のみから大型昇降設備の最上階までの設置を主張してはいないでしょうか。

名古屋城天守閣の木造復元の趣旨は、先ず、木造建築で復元した名古屋城天守閣を多くの生ける人々が訪れ、木造建築の美しさ、感触、香り、音などを体感することでしょう。

そして、史実に忠実な木造城郭建築の名古屋城を名古屋のシンボルとして後世に残すことにも大きな意義があるでしょう。

木造復元された名古屋城天守閣を訪れる目的は、天守閣の最上階に上ることではなく、各階を木造の階段でのぼりながら木造城郭の豪奢なすばらしさを肌で感じることではないでしょうか。

小型昇降設備設置案の支持者は、史実に忠実であることに拘泥することなく、車椅子利用者が木造の階段を安心してのぼりながら木造城郭のすばらしさを肌で感じることができる具体策を示すことが、個性と社会との間で利害バランスの取れた情を発露することだと思います。

大型昇降設備設置案の支持者は、車椅子利用者が最上階に安全に上ることに拘泥することなく、木造の階段を気持ちよくのぼりながら木造建築の豪奢を体感できる具体策を小型昇降設備設置案の支持者とともに考え出すことが、身体や知性で鍛えられた心の発露のように思います。

人間生存の意図

本来生物は、生きるために生きており、存続する以上の目的はないのでしょうか。

生物の一種である人類も、ダーウィンの進化論の自然選択によって進化し、環境に適応するために知能を発達させ過ぎて、自分達の棲家である地球、延いては人類自体をも存続の危機に立たせているのでしょうか。

人間の生存に何ら意図がなく、自然選択によって存続しているだけだとすると、温暖化あるいは放射能に耐性のある子孫の出現を期待するしかないでしょう。

しかし、人間は何らかの意図によって生存しているので、環境問題や国際紛争などを進歩させた感性や知能で克服することを可能にすると思います。

何らかの意図は、創造主の人間を生存させる意思、あるいは人の生きる喜びを感じる心であり、信仰の世界では神や仏の御心と言われるものです。

現在、世界を二分する民主主義と独裁体制の何れにおいても、物質文化やAIなどの科学技術の発達によって人間生存の意図が不明瞭になってきており、人々の生活にうるおい感がなく、生きているだけ感が増えている気がします。

民主主義国家においても個人主義を履き違え、己の権利を主張し物欲や権力欲などを満たすことが人生の意義であると考える人が多くなっているのではないでしょうか。

このように人々が己の権利を主張し、人間生存の意図が希薄になった社会では、さまざまな価値観が乱立し善悪の区分すら曖昧になってしまいます。

人間が生存し続けるためには、人間の生存を賛美する価値観が人類で共有されることが必要です。

創造主の人間を生存させる意思は、生存に有効な身体と知能と心を人に授けられたことが示しています。

人の心は、目標を達成し社会や人の役に立てたとき、生きる喜びを感じるでしょう。

御心は汝殺すなかれと教えます。

民主主義といえども、人間生存の意図は個人の権利より尊重されるべきものであることを前提にして個人主義や自由、平等が主張されるべきだと考えます。

独裁体制国家でも、一部の独裁支配者層が人間生存の意図を理解し、被支配者層の生きる喜びを侵害しない限り問題はないと思います。

しかし、独裁体制は歴史が示すように時の経過につれて腐敗が進み独裁者層存続の意図に支配されてしまいます。

各独裁体制国家の独裁体制が人間生存の意図より独裁者層存続の意図を重視する警戒度合い、独裁的なリーダーの独裁指向度合いなどを、人間の知能の産物でありながら人間生存の意図を不明瞭にしているAIを使って顕出し、独裁体制が人間生存の意図を侵害することを防止したいものです。

達成の喜びを想像しうる目標

日常生活を保ちつつ、我が才能と相談して設定した目標を達成して創造主と喜びを共感する人々が、創造主の意図した苦闘する人類だと思います。

自分の成したいことのみを追い求めて日々生活できる人は、科学、芸術、スポーツなどの各分野において天賦の才能に恵まれた数少ないギフテッドで、創造主が人類に示した道標ではないでしょうか。

無分別な若者が特殊詐欺や闇バイト強盗に加担させらされ、人生を台無しにしています。

文部科学省の昨年10月の発表によると、小・中・高等学校及び特別支援学校における「いじめ」の認知件数は61万5千件強で、前年度に比べ19%増加しています。

不登校児童生徒数は24万5千人弱で、9年連続で増加し、過去最多となりました。

国連のSDSNが各国民へのアンケート等に基づいて国民が感じている幸福度を総合的に測り、幸福度の高い国別ランキングを発表しています。

最近公表された世界幸福度報告書2023年版によると、北欧諸国が上位を占め、日本はG7でイタリア33位についで最も低い47位でした。韓国、中国、ロシアは、57位、64位、70位で、最下位はアフガニスタンの137位です。

報告書は、日本と上位の国々を比べると、健康寿命では日本が上回り、1人あたりGDPでも上位と大きな差がないものの、人生の選択の自由度や寛容さに課題があるとしています。

若い人達が子供をつくりたがらず、2022年に生まれた赤ちゃんは80万人を割り込んで少子化が進んでいます。

このような好ましくない社会状況は、日本社会における価値観の均質性とその押しつけに起因しているのではないでしょうか。

ほぼ全員が苦闘する人類である日本国民が、ギフテッドのようになること或いは良い学校、会社、地位等につくという表面的な目標を自分、他人、子供に無知の善意で押しつけている風土があるような気がします。

達成不可能な目標を押しつけられると、苦闘する人類は喜ぶ機会を失い自己否定に陥り、苦闘して生きる意欲を失うのではないでしょうか。

苦闘する人類の能力の種類は、各分野において更に微細化され、高さにおいてもギフテッドに向かって際限なく多層化されているでしょう。

目標は、努力次第で達成することができ、果たしたときの自分の進歩した能力、姿を具体的にイメージできる、達成の喜びを想像しうるものでなければならないと思います。

若い人は各分野でこのような目標達成を繰り返して能力を向上し、人々の生活を豊かにする成果を実現して欲しいものです。

私は高齢者にふさわしい新しい目標を設定し、今まで気づかったことを発見しつつ、ささやかな目標を頑張って達成し生きる喜びを感じています。

自分の個性や才能に応じて設定した目標を苦闘しながら達成することに喜びを感じることが人生の意義であるとして尊重する社会風土を日本国民が醸成し、人生の選択の自由度や寛容さを高めることが日本の社会状況の改善に役立つように思います。

国民のための国家でなければならない

文明が高度に発達した現代社会において、プーチンが大義なきウクライナ侵攻を続行し、虚偽の自己弁明を厚顔無恥に繰り返していることに憤懣やるかたなく、ロシアに絶対勝たせてはいけないと思います。

人々が小集団のムラを結成した一次的な理由は、互いに協力してより豊かな生活を得るためでした。

克服目標が自然災害である場合、ムラの住民は全く協力して目標達成に協力することができます。

多くのムラが紛争を経て統合された国がさらに統合され、国民の役割が細分化された国家では,様々な価値観を有する集団が多数存在し利害が交錯する状態になります。

克服目標が政権の大義なき侵略であっても、政権打倒行動は不成功のときは国家への反逆となり、利害が交錯する多数の集団が存在するなかで、多くの集団が政権打倒に躊躇無く協力できるとは思いません。

長い年月を掛けてプーチン支持者で固められた現政権下において、プーチンの狂行を自分や家族の危険を顧みずにロシア国内で公然と批判できるロシア人がほとんどいないことを強く非難できない気もします。

克服目標が個人、集団、国家間の紛争である場合は、生活の場の確保、アイデンティティー、誇りや恐怖など様々な利害や感情が錯綜するので、小さな理不尽は当初は見逃されがちであり、それが時間の経過とともに成長し、気がついたときには独裁者プーチンのような大きい理不尽に成長し、対策が困難な状態になってしまうのでしょう。

人間は己の力で様々な目標を達成して多様な喜び感創造主と共感することが存在意義であると思います。

そのために、人はそれぞれの存在意義を尊重しながら他人と協力して各自の目標を達成するために集団ひいては国家を形成したのでしょう。

人は国家のために存在するものではなく、国家によって生存させてもらっているものでもありません。

国民が国のために働きたいと思うのは、人の欲や愛が化体した目標を達成するためでしょう。

ウクライナをロシアの一部と主張するプーチンがウクライナ市民の生命や日常を奪うことは国民より国家に重きを置く国家主義の発露であり、断じて許される行為ではありません。

プーチンのウクライナ侵攻を成功させて国家主義に弾みをつけさせることは、日本の子孫の生きる喜びにとっても大きな禍根を残すことになると思います。

必死で戦うウクライナの人々を他人事ではないとの思いも込めて何らかの形で激励し続けたいと思います。

人類の存在意義

人類の存在意義は何なのでしょうか。

「最先端の生命化学を私たちは何も知らない」吉村 保著を読んで、オールマイティの創造主の存在と人類の存在意義を再考させられました。

同著によれば、細胞は、各種タンパク質や各種機能をもった細胞小器官等を内蔵した階層構造の生命の基本単位です。人間は、種々な働きを行う多種類の約37兆個の細胞で構成されています。

各細胞の細胞小器官の一つである核には、人ひとりつくるのに必要な情報であるゲノムを示すDNA鎖が内蔵されています。

各細胞は、人体の臓器や組織に必要な機能や形状を持つように生成され、必要な場所に配置されるようにゲノムに基づいて一つの受精卵から分裂して生成されます。

このような緻密で雄大な生命の仕組み、これを解明していく人類の英知をみるとき、創造主の存在を確信するとともに、人類は突然変異によってではなく、創造主の一部機関として誕生したものであるとの推論に達しました。

「無」と対峙するオールマイティの創造主は、ひとり一人が自らの意思で自由に行動する人類を必要最低限の仕掛けを組み込んで誕生させたと想像します。

そして、創造主は、このような人類のひとり一人が感じる存在観に共感することによって自分の存在を客観的に確認されているのではないでしょうか。

最低限の仕掛けとして、自ら生きる」、「生存を喜ぶ」、「変化する」の能力を人類のDNA鎖に書き込まれたと想像します。

「生きる」は生命欲であり、心身に備わっています。

人は、自分の立てた目標を達成したことに「生存の喜び」を感じます。

全く変化しないことは「無」と同じです。

人類は、DNA鎖に書かれた三つの仕掛けに従いながら環境の転変に対応して変化あるいは進化してきたのではないでしょうか。。

人々の能力、性格、身体、欲望の多様性、および個の生老病死も「変化する」の発露だと思います。

1匹の蜜蜂が生涯で集める蜜の量はティースプーン1杯ですが、世界の年間生産量は200リットル入りドラム缶約600万個にもなるそうです。

人類もひとり一人が個性に応じて活動し、生きる喜びを感じながら変化し、創造主と存在観を共有することに存在意義であると思います。

少人数の人々の存在観では不十分であっても、膨大な数の人々の存在観によれば創造主も自分の存在観を実感できるのではないでしょうか。

戦争は、「生きる」、「生存を喜ぶ」に反して多くの死、悲しみをもたらし、人類をご自身の一部機関として創造された創造主の意思あるいは人類を冒涜するものであります。

絶対主義国家は、一国家の存続、強い国家、独占体制の維持を求めるものであり、国民ひとり一人が生きる喜びを感じつつ変化し生きることによって創造主と存在観を共有するという人類の存在意義に悖るものであります。

各国の為政者は、人類の存在意義を熟考し、我欲追求に汲々とするのではなく、国民ひとり一人が個性を活かし生きる喜びを感じて生活できる場を提供することを政治目標に設定し、高い理想と誇りをもって政治活動に精励して欲しいものです。

余談ですが、例えば、舌の味細胞を一つの受精卵から分裂して舌の特定位置にどのようにして配置するのか不思議に思い、解明済みかもしれませんが、同著の一節「仮説と検証が化学の基本」に従って仮説を立ててみました。

癌細胞は無限に増殖するが、正常な細胞は約37兆個になると増殖が止まると記載されているので、各細胞は何回目の分裂によってできた細胞か認識し記憶していると推測します。

受精卵の背番号を1とすると、1回目の分裂後の2個の細胞は、自分の背番号を1,1+2=2と認識し記憶します。2回目の分裂後の4個の各細胞は、分裂前の2個の細胞の背番号1,2を受け継いだ細胞と、分裂前の細胞の背番号1,2に、分裂回数2から1を引いた回数だけ2を乗算した数(22-1=2)を加えた1+2,2+2の背番号の細胞となります。

同様に、n回目の分裂後の2個の細胞は、分裂前の2n-1個の細胞の背番号を受け継いだ細胞と分裂前の細胞の背番号にn-1を加算した背番号の細胞になり、各細胞は自分の背番号を認識し記憶します。なお、一つの細胞が分裂できなかった場合、隣の細胞が2回分裂するなどの校正情報もDNA鎖に記載されていそうです。

分裂した背番号Aの細胞は、内蔵したDNA鎖に記載された背番号Aの細胞に必要なタンパク質や細胞小器官等を受精卵から備わっているタンパク質や細胞小器官で作成し、その位置に必要な種類の細胞になります。

例えば、舌の味細胞でない背番号Aの細胞から分裂した味細胞になるべき細胞は、ゲノムに基づいてその背番号の味細胞に必要なタンパク質、細胞小器官や形状等を自ら生成し所定位置、所定形状の味細胞になるのではないでしょうか。

このようにして人体を臓器、組織を含めて約37兆個の背番号の付いた細胞で構成することができます。

人間共有の価値観

概念の世界を脳内に築き、これを言葉で他人と共有する能力を備える人間(ホモ・サピエンス)は、約20万年前に誕生したといわれています。

アメリカの学術誌、原子力科学者会報の世界終末時計は、人間滅亡までの残り時間を2022年時点で100秒としています。

人間は、誕生があれば絶滅があることを甘受し、我欲が招く核戦争や気候変動などで生存期間を自ら短くすることなく、世界の人々が各自の価値観を具現化して創造主と喜びを共感できる社会を築くという人間共有の価値観を実現した後に、終焉あるいは次生人類にバトンタッチしたいものです。

人間は、古来、各自の価値観とは別に、人間全体に役立つ、いわば人間共有の価値観を築いて互いに協力し生き延びてきたように想像します。

現在、民主主義国家と独裁国家との間で、それぞれの人間共有価値観が異なり、核戦争さえ危惧されています。

科学技術の発達により各国の距離感が短くなったことによる、経済的、軍事的な利害衝突頻度が増大した現代において、全世界に通用する人間共有価値観が希求されています。

古代においては、狩猟や採集などで生計を立てており、人間共有の価値観は、協力して狩猟や採集を行い食物を獲得することであったと想像します。

農耕、牧畜などの生産経済に移行すると人々は集落を形成し、富や権益の争奪戦を勝ち抜いて多くの集落を国に統合した王様の価値観を人間共有の価値観にしていったと思います。

以降現在に至るまで、地球上で無敵の能力を持つ人間は、天分を忘れ、国の間の戦争を人間の歴史のように繰り返しています。

18世紀末には欧米で、市民が決起して王の価値観に反逆し、自由と平等を求めて自ら政治を行うことを人間共有の価値観として民主主義国家を設立しました。

ところが、民主主義と相性がよく、産業革命で確立した資本主義の発達にともなって帝国主義が出現し、強い国家を形成することを人間共有の価値観にしました。

20世紀にはソ連、中国で、資本主義での貧富の差を解消するために社会主義が提唱され、生産手段を個人で所有せず社会で共有して平等な社会を実現することを人間共有の価値観にする社会主義国家が誕生しました。

しかし、経済活動を国家が管理することは、官僚の汚職、国民の不満・意欲低下などを招き、ソ連は崩壊しました。

中国では共産主義こそ人間共有の価値観であると固執し権力の魔力に捕らわれた中国共産党が政治面で一党独裁を固守し、経済面では共産主義と矛盾する市場経済を導入しました。

民主主義も共産主義も創案者の価値観は、人々の貧富など格差社会の解消であり、これは現世界の人間共有価値観として認められるでしょう。

古代の獲得経済では、権力闘争もなく人々が協力して狩猟や採集を行い、食物を獲得して分配し生計を立てていたので、貧富の格差が小さい社会を築いていました。

人間の歴史は戦争の歴史だと反省しながらも戦争を繰り返しているのは、人間共有の価値観の歴史から分かるように、国が形成され支配者層が出現し、国内外で権力闘争が生じるようになってからのことです。

農耕、牧畜などから発達した生産経済では、食物は豊富に生産されますが、平等に分配されずに格差社会が世界中に蔓延するのは、各自が夫々自分の価値観を持つことを相互に尊重するという心の食物が、教育や啓蒙の不足あるいは支配者層の思惑から人々に平等に分配されていないという精神的格差から生じるように思います。

国の権力者は権力志向で利己的になる傾向があるので、能力に応じた各自の価値観を実現するために人々が互いに協力する国を築くことを、権力者に頼ることなく、弱いホモ・サピエンスが協力して生き延びてきたように、各国の市民みずからが協力して人間共有の価値観にすることが必要ではないでしょうか。

ロシアや中国などの独裁者の利己的行為に対抗するために、民主主義国家の戦争に対応する政策は対処療法として進めざるを得ないと思いますが、精神的格差を解消するという戦争を無くすための根本療法を世界レベルでの市民運動として興隆させることが急務だと思います。