民主主義国家であり続けるために

世界では親近感のあるハンガリーやポーランドで独裁制が進むなど非民主主義国が台頭し、民主主義国が少数派に転落しました。

そして、ミャンマーでは国家秩序を守るとの理由で国軍が国民を銃殺し、中国では国家統一を維持するとの理由で新疆ウイグル自治区の多数のウイグル人を強制収容あるいは虐殺しています。

このような状態を見て国家は何のために存在するか考えていました。

そんなとき、オリンピック2020のソフトボール選手上野由岐子選手が勝利インタビューで、「今日のこの試合、勝てたことは自分にとってもすごく嬉しいですし、チームにとっても大きな勝利だったと思います。」と語りました。

そして、男子サッカーの久保建英選手が、「自分が点を取ってチームも勝ってとても嬉しい。」と喜びました。

男女二人の名選手の言葉から人は、先ず、自分の技量が向上し上手く機能したことに歓喜し、次に、自分の属する社会に貢献できたことを嬉しく思う性状を備えたものであることを再認識しました。

勿論、個人競技でも、各選手は自分の目標達成と表裏一体の心技体の鍛錬向上に努力するのでしょう。

この性状を発露して自分の命、才能、欲望などを自己実現することが人間の根本権利であり、これに適した環境を得るために集団生活を始めたのが、人間社会の原点、意義だと思います。

多様化、高度化した社会の役割を効率的に達成するために、集団は組織化されて集落となり、集落間の紛争を経て国家が形成されました。

外国との紛争や国内の権力闘争に勝つために国家は硬直に組織化され、強い指導者を求め、強い国家に属すること、貢献することが人間本来の目標であると錯覚している人が増えつつあるように感じます。

このような社会は、歴史的にも独裁者出現の温床になります。

独裁制国家では、人間社会の誕生意義に反する国家目標が容易に設定され、国家の存在意義が国民の根本権利に不当に優先され、人間が社会生活することの意義に反することになります。

お国のためにとの目標もありましたが、個性豊かな才能を磨くという自分の目標を達成した証として何かの役に立てて嬉しいという人の本質とは異質なものでしょう。

人間の本質的な性状の発露を阻害する国家権力の行使は、国家の存在意義に悖り、人の根本権利を侵すものであります。

より多くの国民がより質の高い生き甲斐を自由に求め、平等に実現できる自由平等な生きる場を提供することが、本来の国の適正な政治だと思います。

反面、国民は国家に属し、恩恵を被るので、適正な政策に協力しなければなりません。

また、人は誰しも他人の根本権利を侵すことを許されません。

例えば、新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が発令されているときに、路上でビールを飲む人達は、国の政策に違反して他人の根本権利を奪う可能性のある危険な行為を行っているので、法的に取り締まってもよいと思います。

コロナ渦での路上飲酒は、我欲であり、人の根本権利ではないでしょう。

国民に自由平等な生きる場を提供するという国の政治の本来の姿からぶれることなく、ポピュリズムに陥ることなく、十分に理論展開して国民を丁寧に説得し、コロナ渦のような状況下での無責任な行為を取り締まる法整備は行うべきであると思います。

為政者は政治の本来の目的を判断基準の原点に据えて政治を行い、国民は国民のための適正な政治に協力するとともに、政治が本来の姿から離脱しないように監視することが、民主主義国家で有り続けるために必要なことではないでしょうか。

自由と平等

NHKの朝ドラで少女が悩みながら成長していく姿を描いた「おかえりモネ」が放映されています。偉人の生涯ではなく、普通の少女の成長を描いたドラマに価値観の多様性の大切さを再確認しました。

独裁制は、人民の大多数が自らの意思に従って行動できず、多様な価値観を具現化できる政治体制ではありません。

各自が多様な才能を発揮して目標を達成し、生きる喜びを創造主とともに共感することが人間の存在意義であり、「無の世界」に対峙する「有の世界」をより多様により強く実感することです。

人間は多様性と変化のある存在を具現化するために、「心」、「知」、「身体」において千差万別であるので、各人の才能も多種多様であります。

現在は、民主制国家においても、価値観の多様性の容認幅が狭く、多くの人が閉塞感を感じているのではないでしょうか。

自由と平等は民主主義の重要な理念です。

自由は、自らの意思に従って行動する権利です。

平等は、ジョン・ロールズの提唱する、自由および機会を平等に受ける権利だと思います。

自分の自由と平等を主張するとき、多様性を担保するために、他人の自由と平等を侵犯することは許されません。

人間は先ず生きなければならないので、本質的に安全志向です。

人々は安全で生気溢れる社会を築くために、社会の安全や自由と平等を侵犯する行為を制限することは否定しません。

昨今、民主制国家において自由と平等が誤用され、価値観の多様性が阻害されて引きこもり等の要因になっているように思います。

変化の激しい現代においては、安全度を測るために学校、職業、会社等を幅のない価値観でランク付けし、各自が考えることなくそのランク付けで安全を担保しようとする人が増えています。

例えば、親が機会の平等を誤用して子供の才能に適さないランクの学校に入学させた場合、子供は才能を活かして生きる自由を奪われ閉塞感を感じるのではないでしょうか。

情報が溢れる多忙な社会において、自分の頭を使うことなく、社会に形成された浅薄な価値観に従って行動することも価値観の多様性を阻害している一因でしょう。

各人の知力、体力、興味、感性、環境、容姿などの個性を生来、千差万別にすることによって、人々が各自の個性を活かして平等に自らの意思に従って自由に行動することにより、多様性に富んだ生きる喜びを人間と共に実感することが創造主の意思だと思います。

人間は、各自の個性に適合した目標を設定し達成しただけでも、成果の大小に拘わらず喜びを感じる性状を備えています。

幸運にも成果を他人から認められると一層大きな喜びを感じます、

このように人々が平等に自由に行動して個性を発揮し、生きる喜びを享受するためには、民主制国家といえども、人々が個性を活かして日々生活し、社会が自由と平等を尊重する多様性に満ちた風土を維持しなければなりません。自由な人および平等な社会を作るには、家庭、学校、社会での民主教育が大切でしょう。

民主教育は各人が利益を得るための創造主の意思に沿った教育であり、独裁者が利己的な利益のために思想統一を図る洗脳教育と全く異なります。

大切なことは、次のようなことを幼少時に教育し、自分の夢を自らの手で実現する力を付けることでしょう。

・自分の個性を発揮して目標を達成すると嬉しいこと。

・目標達成から得た成果に対する他人の称賛を次の目標達成の糧にすること。

・他人も自分と同様に自由および平等の権利を有すること。

・基礎知識の習得など将来の目標達成に有利な目標は適齢期に達成すること。

・生きる喜びに満ちた社会の実現の一助となる目標を自分の才能を活かして達成すること。

国家社会の価値観は社会を構成する国民の価値観で形成されます。従って、このような民主教育を幼少時から分かりやすく時間を掛けて実施することによって自由な人々で構成される平等社会の民主国家が存続できるのではないでしょうか。

民主制は独裁制より人民のための政治制度

昨今の経済成長率が民主制のG7より独裁制の中国の方が高いこと、中国のコロナ感染症対策が功を奏していること、G7において経済格差が拡大していること、まん延防止等重点措置実施区域の路上で酒盛りをする日本の若者を見るとき、独裁制もよいのかなとの声を耳にします。

しかし、独裁制は人民を身体的に生きる集団動物化する政治制度であり、民主制は、人民に精神的な生きる喜びを感じる場を与え、人間の存在意義を具現化する政治制度であることを強く再確認する必要があると思います。

民主制

民主制は人民の大多数に生きる喜びを感じ得る場を与える人民による人民のための政治制度と言えるでしょう。

この民主制が成り立つのは、経済が発達し、人々が身体的に生きることを保障され、各人が自己実現などの精神的満足感を求めて生きる環境が整備されたときだと思います。「衣食足りて礼節を知る」とはよく言ったものです。

民主制の弱点

アテネの民主制時代を生きたプラトンは、民主制が崩壊するのは独裁者を宿す人民の知識不足、自由偏愛にあると2400年も前に警告しています。

人民の意思に従って政治が行われる民主制のベースには経済発展がありますが、経済発展に伴って商才のある人民は富裕層になり、富まない人民の大部分は大衆層になります。

当初は人民である富裕層と大衆層が統治しますが、富裕層と大衆層との利害が衝突し大衆層を煽動する独裁者が漁夫の利を得て独裁者になるという悲劇がギリシャ以来歴史上繰り返されています。

アテネの民主制は経済発展を支えた奴隷の犠牲の上に成り立っており、奴隷を含めた大多数の人々に生きる喜びを感じる得る場を提供できるものでなく民主制と言い難い面もあります。

しかし、プラトンの警告は、産業革命による経済発展がもたらした近代民主制にも当てはまると思います。

現代民主制においても、政治に大衆層より富裕層の意思が強く反映する傾向があり、富裕層と大衆層との利害が衝突しています。

そして、富裕層は株式の配当金や売買益などで富みの蓄積を図り、大衆層との間の所得格差を構造的に拡大させています。

大衆層の所得を増やして所得格差の拡大を阻止すると主張する独裁者を許容する気運が醸成されつつある気がします。

独裁制は、人民の大多数が自らの意思に従って行動できす、人間の存在意義を具現化できる政治制度でないことをメディアや有識者が常に声をあげて大衆に語りかける必要があります。

民主制の弱点

富裕層、大衆層が民主制を守るという大局的見地に立って民主制の弱点を補う仕組みを社会制度として取り入れておかなければ、文明の進んだ現代においても独裁制を求める弱さが人間の性にあります。

民主制は人民が政治制度を制定し実行するために権力を設定します。

民主制の理念では、自由を極めて尊重します。

この場合の自由は、福沢諭吉がlibertyを自らをもって由となすと訳したように、自らの意思に従って行動することへの自由あり、自分の才能や環境に適合した目標を設定、達成することに喜びを感じて生きる自由であると思います。

自由には、権力による束縛からの自由という側面もあると言われますので、権力は民主制の実施に必要のものに限定すべきでしょう。

しかし昨今、多くの人が民主制の実施に必要な権力からの自由まで求めている気がします。

民主制は、人民が各人の価値観を相互に尊重しその実現の場を提供する政治制度ですので、例えば、まん延防止等重点措置実施区域の路上で酒盛りをする人に対する罰則規定があっても民主制の理念に反しないと思います。

さらに、民主制が尊重する平等についても、人は生来、知力、体力、興味、感性、容姿、環境などが異なることを無視した悪平等が横行し、却って自らの意思に従って行動する自由を制限している気がします。

経済発展をもたらし近代民主制の産みの親ともいえる資本主義についても自由の尊重が過剰で経済格差をもたらしている気がします。

例えば、企業に高配当を要求し、貴族が自分の荘園から年貢を徴収したように、高配当金を徴収する旧態依然な富裕層の利己的行為を規制することは、民主制のベースとなる自由経済を脅かすものではないと思います。

独裁制

独裁制は、ある一個人、少数者または一党派が絶対的な権力を持って独裁者層を形成し、独裁者層およびその協力者からなる支配者層のための利益を大多数の被支配者層を犠牲にして追求する政治制度いえるでしょう。

戦争、社会の混乱、経済の困窮などの緊急事態時に出現し、緊急事態の消滅した後も支配者層が権力を離さなく存続することが多く見られます。

独裁制が悪い理由

今年5月の全国人民代表大会閉幕後に、李克強首相が、中国には平均月収が1000元(1万5000円)前後の中低所得層が6億人いると述べたように、国民の約半分が貧困層です。

中国では、鄧小平が始めた社会主義市場経済によって経済発展し、人民の一部は独裁者層が立てた政策の実行者になることによって市場経済従事者層化し、他部は貧困者層化したと思われます。

これにより、中国は独裁者層、それに協力する市場経済従事者層、貧困者層から構成されていると思います。

市場経済従事者層の自己目標達成への自由を求める欲求は強くなったと思いますが、残念ながら独裁者層と共存共栄の関係にあり、絶対王制を倒して政府を樹立した民主制国民の自由への希求には質的にも量的にも及ばないでしょう。

そして、独裁者層は、市場経済従事者層から徴収した税の多くを独裁者層で分配し、一部を社会に鬱積する不満解消のために市場経済従事者の低所得層および貧困者層に分配するという構図が見えてきます。

中国独裁者層は、覇権を国家目標に掲げ、人心の統一を図っています。

6億人もの貧困者層に生きる喜びを実現する場を提供することなく、戦争を前提とする覇権争いに人民の目を向けさせている独裁制は、各人が多様性のある個性に基づいて「生きる喜び」を具現化し「存在すること」を創造主とともに共感するという人間の存在意義に悖る政治制度ではないでしょうか。

独裁制は、人民に望まれて出現したとしても、年月が経つと独裁者層が利己的になり人民の権利を蹂躙するのが人間の性であり、歴史的にも証明されています。

人間は先ず肉体的な存在を確保できた後に精神的な生きる喜びを求めるものなので、政治制度と経済活動は分離し難いものです。

従って、政経分離と一見説得力のある言葉で正当化して独裁体制国と長期的な戦略なしに貿易することは慎むべきだと思います。

市場経済従事者層の貿易から得た利益が独裁者層に流れ独裁制の維持に利用されることを考慮しなければならなしでしょう。

近代民主制は、人民の大部分が自らの意思に従って行動し生きる喜びを感じることができる場を整備するために、独裁制など旧来の政治制度に変わって登場したものであり、少なくとも名前の知れた文化人が独裁制を認めるような無見識をメディア等で披露しないで欲しいものです。

SNSによる改革自由民主主義の実現

所得格差が時間の経過につれて拡大するという現在社会の構造上の欠陥を是正するために、民主主義、資本主義を根幹とする現行自由民主主義を改革することが不可欠であると思います。

厚生省の2019年の国民生活基礎調査によると、2018年の世帯所得の中央値は437万円です。世帯所得が437万円以下の世帯が約2,550万世帯、1世帯の人員を約2.4人とすると人口の約半分の6,120万人がこのグループに属します。ここから社会保険料や諸々の税金が引かれるとかなり厳しい生活になります。

国会議員の年収を2千万円とすると、世帯所得が2千万円以上の世帯は1.2%で61万世帯、147万人がこのグループに属します。

人間は様々な価値観を求めて生きているので、所得で人々をグループ分けすることはできませんが、一つの見方として、6,120万人の50%グループ(国民の半数)の代表が一人も参加せず、147万人の1.2%グループ(国民の1.2%)を代表する国会議員のみが議論して社会のルールを決める自由民主主義では所得格差が拡大していくのは当然の成り行きでしょう。

人間性

人間は己の価値観を実現するための行動に生きる充実と喜びを感じるいきものだと思います。

このように生きるために、利己性を生来の性としているのでしょう。

人間は生まれつき社会性も持ち、他人を喜ばせたい、不快にしたくないとの欲求を持っています。

そして、他人の利己性を尊重するという社会性も持っていますが、他人が自分の存在を否定しないことを条件にしています。

従って、例えば、人徳のある国会議員が50%グループに利益をもたらす法律を提案したとしても、1.2%グループの利益を構造的に損なうような法律を自ら進んで提案するとは考えられません。

このような現実を冷静に眺めると、国家の既存体制を50%グループに利益をもたらす構造に改革するためには、50%グループを代表する国会議員を自らの力で選出すること必要です。

50%グループを代表する国会議員の選出

さいわい、日本は自由民主主義です。

例えば、50%グループの有志が、日本全体の経済を発展させる構造と、所得格差の拡大に歯止めを掛ける構造とを両立させる経済・社会構造を具体的に示し、その実現を旗印に50%グループの有志が新政党、謂わば、改革自由民主党を結成し、選挙で勝てばよいのです。

新政党の目標

50%グループは世帯所得が全世帯の中央値より低い世帯に属する人のグループであるので、改革自由民主主義下においても存在します。

従って、現行自由民主主義の改革すべき点を明確に絞るべきであると思います。

創造主は、生きる喜びの多様性を求め、人々に異なる財力、環境、知力、体力、興味、感性、容姿、を与え、個性に応じた己の価値観の実現を目指す人間とともに存在を確認されていると想像します。

してみると、改革すべきは、財力に差があることではなく、(1)格差拡大に歯止めが掛からない構造、(2)生きるのに金銭的に精一杯で充実とか喜びを感じることができない貧困層が存在する構造、だと思います。

(1)の構造は、産業を育てるという己の価値観を実現するとは言いがたい、金だけを目指して投資する投資家を優遇する制度、例えば配当金を高くしないと企業に資金が回らない制度にあるのではないでしょうか。企業収益の配当金、従業員給料、再投資、税金への配分を見直し、配当金の割合を減らして他の部分、特に税金の割合を高くし、国として戦略的な投資を進める必要があると思います。

他にも不要な既得権を保護する制度が多く存在するでしょう。格差拡大の歯止めに有効な規制緩和が必要です。

(2)の構造の解消には、もう一方の50%グループと共同して日本の経済力を強くすること、貧困層を物質的に援助するだけでなく、特に若者に生きる喜びを体感できる場を提供できるシステムの構築が必要だと思います。

新政党の実現に向けて

目標の明確性と運営の明瞭性を堅持した、長い道のりと多くの人々の心を一つにした努力を必要とする活動になるので、組織の明確な新政党の設立が必要になると思います。

富と権力志向の社会より非効率な自己実現と協力志向の社会を目指すためには、隗より始めよ、の通り、先ず新政党内部からでしょう。

協力志向は人間の強い利己性と矛盾しており非効率なものですが、利己性を相互に認め尊重し人間の社会性の中に活かすことが、多様性に富んだ生きる喜びに満ちた自己実現と協力志向の社会を現出する方法だと思います。

新政党結成と運営にSNSを活用することは、自己実現と協力志向に適合するだけでなく、時間と労力と資金の削減に有効であると思います。

寄付型のクラウドファンディングも新政党への参加と協力志向促進に有効な方法でしょう。

活動情報や経理情報のホームページへの詳細掲載は、自己実現と協力志向のベースです。

50%グループの多くの有志が新政党結成に挑戦してオンラインで結ばれ、時には集会し、理想とする社会の姿を描いて制度を作成し、誰にでも理解できるようにやさしく説明して広く発信し、賛同する人達がさらに参加し、選挙で勝つという無血革命とも言える改革自由民主主義の実現を見たいものです。

国民に楽しく生きる環境を提供する国家

先般行われた米中外交トップ会談において、米国側が新疆ウイグル自治区や香港の人権問題を議論したいとしたのに対し、楊政治局委員が「アメリカの人権問題は根深い。この4年の間に浮上したものではなく、黒人への殺りくは昔からある。他国に矛先を向けるべきではない」と反論し、ブリンケン国務長官が「アメリカは国内ではより完全な団結を目指し、不完全さや過ちを認め、開放的に透明性をもって立ち向かってきた。課題から目を背けたり、存在しないように装ったり、隠したりしない」と応酬しました。

両者の応酬に刺激されて個人と社会あるいは国民と国家の関係について、もう一度考えました。

人間の利己性

17世紀のホッブスは、「ヒトはヒトに対してオオカミである。」と比喩し、人間は、本来的に他人の利益より自分の利益を優先させる利己的な存在であるとしています。

創造主は、「無」の対極の「有」である「存在すること」を「身体」と「心」と「知能」で現出することを人間に託されたとすると、人間は先ず身体的に生きることを遺伝子に組み込まれ、自分が行き続けることを最優先するのでしょう。母親が命がけで子を守る行為も自分の遺伝子を繋ぐためとも言われています。

「心」の面でも、自己愛を備えているだけでなく、己の能力や興味に基づいて自らが設定した目標を達成したときに実感する存在意義や喜びを個として生き続けるための糧にしていると思います。

人間の社会性

18世紀のアダム・スミスは、人間は生まれつき社会的であって、他人を喜ばせたい、不快にしたくないとの欲求を有するとしました。

19世紀に、進化論のダーウィンは、人は社会的存在であり、孤独を嫌い、家族の枠を越えて他人との交流を望むものであると述べています。

創造主は、「有」をより強く感受するために、人間が活力のある大きい変化を具現化することを期待し、「心」に社会性を組み込まれたと想像します。

これにより、人間は所属する集団や仲間の役に立ちたいとの価値観を遺伝子に刷り込まれ、集団や仲間の目標に向かって仲間と協力することに大きな喜びを感じるのでしょう。

しかし、人間の社会性本能は、自分が属する集団や友好関係にある集団内では「生きる喜び」の具現化にプラスに働きますが、利害が衝突する集団には及ばず、逆に衝突を激化させるように働くというマイナス面もあります。

人間の存在意義

創造主が、集団を組んで又は組まずに棲息する多種類の動物に加えて、脳内に自分の概念の世界と価値観を自由に構築する人間を宇宙に送り出されたのは、各個人が多様性のある個性に基づいて「生きる喜び」を具現化し「有」を創造主とともに共感するためだと想像します。

「生きる喜び」を具現化するために、目標設定、実現努力、目標達成のサイクルを繰り返しますが、好きなことといえども目標を達成するためには、怠惰、傲慢などの心的な利己性、独占、貪欲などの身体的な利己性を克服しなければなりません。

そして、目標達成に伴って皮肉にも利己性も大きくなりますが、次回は、より大きい努力でより大きい目標を達成することになり、このように人は成長し、より強く、「生きる喜び」を創造主と共に実感するのでしょう。

国民と国家の関係

人間は、生きるために「身体」と「心」に利己性を備えますが、「心」に社会性も組み込まれており、集団で行動すること及びルールによって利害衝突を解決することが大きい利益に繋がるとの経験から社会ひいては国家を形成したと言われています。

したがって、国民が認めた範囲において国家の規則に従うことは本来の姿でありますが、規則に従わない者が出てくるので、規則の遵守を強制するために権力が必要になります。

しかし、国家の決めた規則が国家を構成する特定の集団の価値観に偏向し、他の集団の人々の生命や尊厳を否定するために権力を行使する国家は、創造主が活力ある大きい変化の具現化を期待して人の「心」に組み込まれた社会性を発露できる国家ではありません。

中国について

一集団である共産党の価値観が絶対的であって、ウイグル人や香港人の生命や尊厳を蹂躙する中国は、創造主が期待された集団ではありません。

戦乱を通して権力を手中にした共産党が、国内での権力闘争に勝利して建国した一党独裁国家をその権力で維持することは、戦乱時の権力を平和時に、権力志向に陥った共産党が未だに行使している国家です。勿論、自分の立てた目標に向かって努力し、自分の存在意義を感じている中国人も大勢いると思いますが、今の中国は、国民に広く「生きる喜び」を具現化するための場を提供するものではありません。

コロナ感染対策を強力に推進し、他国に比して高い経済成長を実現できた所以は、種々の人権問題が存在しないように国内外で装ったり、隠したりするなど国民の自由と権利を制限して集団の力を強め、多くの国民の「存在すること」を創造主とともに共感する喜びを犠牲にした結果であると思います。

アメリカについて

アメリカも人種問題や過大な貧富格差など多くの課題を抱えており、国民は望めば誰もが自分の価値観を実現するために努力できる状態にあるとは思いません。

しかし、大人になっても自己中心性を克服できていないトランプ大統領の再選を阻止し、国内に存在する不完全さや過ちを認め、開放的に透明性をもって立ち向かうと言うアメリカの努力に期待したいものです。

日本について

民主主義と経済を両立させたい日本は、米国と中国の狭間で苦悩しています。

経済格差、ジェンダー格差、働き方改革、グリーン社会の実現など多くの国内課題を解決し、大多数の日本人が幸せに生きていることを世界に示すとともに、貧困国への支援、温暖化防止の技術開発、技術支援、文化交流などを積極的に行い、日本は人間の社会性のプラス面を世界に展開する集団であることを広くアピールし、世界の平和に貢献したいものです。

このような国の人徳ある指導者の発言に耳を傾けない国と決別しても国民は清貧に耐えると思います。

民主主義、資本主義の見直しが必要な時期にきており、与野党や学者が現在の問題点を洗い出し、日本発の修正民主主義、修正資本主義を構想するプロジェクトを国として立ち上げる必要があると思います。

富と権力志向の社会から自己実現と協力志向の社会へ

現代においても、中国、ロシア、ミャンマー等では、今の指導者を中心とする支配者層は、国民の命や人権を蹂躙して、支配者層の利益を追求しています。

佐賀県吉野ヶ里遺跡を訪れたときに、国と民との関係に思いを巡らせたことがありましたので、日本における国と民との変遷を概観し、どのような国と民の関係がよいのか模索してみました。

日本の国と民の関係の変遷

旧石器時代は 狩漁や採集で季節ごとに移動しており、狩漁採集に適した小集団で行動していたので、狩漁採集を協力して行う程度の社会活動であり、経験の深い人が親族中心の小集団を先導して移動していたと思います。

縄文時代は、次第に定住生活へと移行し、数多くのムラが生まれました。しかし、富を蓄積するほど生産性は高くなく、各人ができることで他人と協力して食料を得ることがムラに貢献することであり、自然の恵みによって生かされているという価値観で、食べ物を平等に分配し、貧富の差はあまりなかったようです。

弥生時代になると、水稲農耕を主とした生産経済によって富の蓄積が可能になり、貧富や身分の差が生じ、「ムラ」間で土地や水の争いが起こり、「ムラ」が国に統合され、富者がムラ間やムラ内の紛争解決に専念する支配者層になり、農民などの民を支配するようになりました。

これに伴い人々は、「富」と「権力」という欲望に目覚め、富と権力を求めて活動するようになりました。

この富と権力は手中にすると喜びが大きく常習性があるので、人々は満足するところがなく際限なく求めます。さらに、富と権力は、他の欲望に比して他人から奪うものとの性状があり、本質的に自己中心的なものです。

しかし、富と権力に目覚めた日本人は、支配者層の価値観で動く国と被支配者層の民が組織的に富を求め、2万年以上続いた旧石器時代、1万年以上続いた縄文時代に較べて極めて短い2千3百年程の短い期間に今の日本国と国民の関係を築いてきました。

大富豪の大王を中心に多くの「くに」を統合した大和朝廷に始まる天皇中心の時代になると、富の生産量も多くなり、税制も制定され土地と農民は天皇や貴族のものとなって国の財政が安定し、支配者層の支援を受けて武士、僧侶、芸術家などが活動できる国になります。支配者層の価値観から文化や宗教が大切にされましたが、農民を含む人口の大部分を占める民に人権はありませんでした。

争いを武力で解決する専門家である武士の集団が支配する鎌倉から江戸時代になると、戦に強い武家を作るために、主君に仕えることが大切な価値観になります。従って、足軽や農民などの民も、主君に仕えることを第一義に考えなければなりません。

文明開化した明治から昭和初期の日本は、近代化がメインテーマであり、明治維新をリードした元武士の一部を中心とする支配者層の価値観に偏り、民の価値観を実現する政策が執られていたか疑問視する声もあります。

争いを武力で解決する武士が支配する国が終わって10年ほど経過すると、不幸にも、武力第1主義の軍人指導の軍国主義時代に入ります。明治維新を推進した元武士達の価値観に偏った富国強兵政策の申し子でしょうか。

民が生きるための手段として作った国が第一義に存在し、その国に民が命を無条件で捧げるとの非論理性は、軍国主義国家の支配者層の権力志向の極みとしか言えません。

戦後、日本は主権在民を憲法に定め、国民は、物資の生産や製造のみならず、政治、文化活動など自分の能力に適した活動に自分の価値観を定める自由を手にしました。

その中で、日本人は富と権力を求めて努力を重ね、世界が驚く速さで経済大国の地位を獲得しました。

しかし、今、富と権力という欲望を目標に設定し、その目標達成に喜びを感じる生き方に疑問を感じる人々が増えています。

世の中が裕福になり、強い絆の集団に属さなくても生きていける社会になって、自己中心的な富と権力を求めるより、他人と共に喜べる目標達成に努力したいとの価値観が広まってきたのでしょうか。

これからの国と民の関係

上述した日本の国と民の関係の変遷をみると、国民は戦後に、ようやく支配者層から開放されましたが、富と権力の欲望を満たすために走り続けてきた気がします。

昨今の働き方改革、グリーン社会の実現、パワハラ非難、ジェンダー差解消運動などは、富と権力志向の価値観の見直しが始まっていることを示すものだと思います。

富と権力志向の価値観から決別するためには、人々は自分の能力に合わせた「自分のなりたい姿、社会に貢献できる活動」を自己実現の目標として設定し、その目標を達成するための努力と結果に喜びを感じ、国は国民のかかる活動を保障する機関であるとの国と国民全体の強い共通認識を確立することが必要であります。

そのためには、このような価値観を幼少時から教育し、体験させる教育政策が国の大切な役割になります。

縄文人も富と権力を求めませんでしたが、富の量が皆で分けるほどしか得られなかったためであり、現代のような消費社会とは事情が異なります。しかし、1万年も続いたという事実から、皆で協力するためにムラを作り、自然の恵みによって生かされているという価値観の社会は魅力的であった気がします。

富と権力志向の価値観から自己実現と協力志向の価値観に舵を切るとしても、産業が衰退し富が不足すると、民はその時の国を批判し富と権力志向者を歓迎し、国家主義、独裁主義、国粋主義、軍国主義の台頭を許すたことは世界史上の事実です。

このような歴史的な失敗を繰り返さないために、富の生産は人が生きるためのベースであるので、産業政策は人材育成を含めて国の大きな務めになります。自己実現と協力志向時での産業政策は、富と権力志向時より難しいと思いますが、日本が中国やロシアと伍していくためにも働き方改革やコロナ渦でのテレワーク等の先に良い方策を見つけなければなりません。

宇宙は何故存在するのか

創造主は、全く何もない「無」と表裏の関係にある「有」そのものであり、有の世界では全知全能ですが、「無」と背中合わせで「有」であり続けなければならないという唯一の命題をお持ちのように思います。

完全であるということは、何ら変化する必要が無いことであり、変化したとても、不完全な者が完全に向かって努力して変わることとは異なり、全能者が意図した通りに変化するのであれば初めから変化した状態にあるのと同じであると思います

そこで、創造主は、自分の一部として、規則性と不規則性が混在する宇宙を創造し、予測可能に、時には予測不可能に変化する宇宙とともに、「有」であり続けられているように思います。

森羅万象の変化に課されたルール

創造主が「有」であり続けるためには、森羅万象の変化が必要ですが、その変化は、(1)事物が存在し続ける方向への変化であること、(2)創造主の意図した通りの変化でないことが必須条件です。

事物が破壊や消滅する方向への変化は「無」に向かうものであり、「有」に反します。従って、創造主は、「無」に向かう変化を止めるための最低限のルールを事物に暗示されているように思います。

そして、変化が創造主の意図通りになることを防ぐために、創造主は事物に最低限のルールを暗示すること以外は変化を事物に任せることによって、予測不可能な変化を実現されていると思います。

宇宙や動植物の変化

宇宙空間は森羅万象の大舞台であるので変化は緩やかで規則性が高いことが望ましいです。したがって、宇宙空間の変化は、存在し続けることを最優先におき、予測可能性が高いと思います。

しかし、例えば、太陽の表面の偶発的な爆発で不規則な変化を起こし、地球上の動植物の変化に多様性をもたらしているようです。

宇宙の一つの地球では、無機物の世界で、水や空気が山や野を巡り、地形や気候に変化を与え、動植物を育んでいます。最近は、人間の自然破壊に繋がる身勝手な行動に対し温暖化という予測可能な変化で警鐘を鳴らしています。

植物の世界では、光と水と炭酸ガスを光合成して、動植物の身体をつくるために必要な有機物を生成し、緑で無機質な鉱物の世界を静かに被い、動物の存続を支えています。

動物は、種によってはある程度の知能を有し、上手く餌を手に入れると喜びを顔に出します。創造主は、動物が餓死しても手を差し伸べることはありませんが、餌獲得という生存方向の行為を達成できると快感ホルモンがでるという最低限のルールを動物に仕組まれている気がします。

人間の生きる意義

特に、人間は、高度な認知能力を備え、各自が頭の中に自由に構築可能な概念の世界で起こった出来事を他人に伝えることができます。そして、概念の世界に描いた自分の成りたい姿に向かって行動する中に生き甲斐と成長を感じます。

従って、人間の引き起こす変化は、創造主からの独立性が高く、多様性に富み存在感、延いては「有」を強く主張するものとなります。

しかし、戦争、自然破壊、殺人、虐め、自己中心的な行為などは、「無」に向かう変化であり、これらに対しては嫌悪や恐怖感が生じるように遺伝子に組み込まれている気がします。

目標に向かって努力する、人の役に立つ、共働するなどの行為は、「有」に向かう変化であり、達成感や充実感、賞賛や共感を得られ、生き甲斐を感じるのでしょう。

そして、大きい目標を達成するためには、厳しい努力(努力値が大きい)を長時間続けなければならないので、努力値×時間の努力量(変化、成長)が大きくなり、生き甲斐を強く感じます。しかし、変化後の状態に満足し、努力しなくなると努力量がゼロになり、生き甲斐を無くすでしょう。

各人の千差万別な能力に適した目標に向かう多様性に富んだ努力が、より多くの人々の大きい努力総量を産み出し、「有」が栄えます。

人間は、生きている間は、存在感(成長)を示して生き甲斐を感じ、役目を終えると、木の葉が枯れて新しい葉に順次変わるように無機物に戻ります。そして、地球環境や社会の変化に応じて新しい変化を示すことができる次世代にバトンタッチします。

一人ひとりが存在意義を感じて生きることの大切さ

昨今、自分自身、自分の属する集団、自国の利益のためにのみ権力を乱用し、例えば差別、分断、全体主義、独裁、自然破壊、戦争も肯定しかねないような価値観を持つ指導者が続出し、国民がそれに感化され或いは不本意ながら従わされているケースが世界各地で病巣のように拡散しています。

このような指導者の価値観は、滅亡すなわち「無」に向かう変化を肯定するものであり、「有」に反するものです。

人々は、勇気を持ってこのような「無」に向かう価値観を排斥し、人類が宇宙の癌にならないように、自ら考え行動することが求められています。この努力を怠ると、人類は創造主から「有」であり続けるために存在させておく意義がない、寧ろマイナスであるとして消滅される恐れがあるような気がします。

より多くの人が生きる喜びを感じるために

技術革新と資本主義が進むにつれて、貧富の差が許容範囲を遙かに超えて民主主義を揺るがす格差社会となっています。

新約聖書のマタイ伝に「持てる者はますます富み、持たざる者は更に失う」とあります。しかし、前者と後者の格差の要因は、根本的に異なるところにあると思います。

格差社会は、資本やICT技術が多くの人々から仕事をする喜びを量的、質的に奪った社会の構造変化に基づく問題であるにも拘わらず、社会が個人に責任を転嫁しこれらの人々を精神的、物質的に支援してこなかったことにあると思います。

マタイ伝の言葉は、心の持ち方を教えているのであり、自分を含めた回りの現状を素直に見聞きして受入れ、正すべきは正して生活すれば物心両面で豊かになるが、己の欲に捕らわれた自己中心的な人は精神的に成長せず他人から疎んじられて物心両面で貧しくなると語っているのではないでしょうか。

現代の格差社会

江戸時代、人工の90%以上を占めた平民は、各人が百姓、職人、商人、漁師として自らの仕事を通して物質的、精神的に社会と繋がるとともに、互助精神や仕組みを社会に構築し格差を緩和していたと思います。

しかし、現代は、巨大資本や高度情報通信技術が個人の仕事を量的、質的に奪い取り、仕事を奪った少数派が富を独占し、奪われた多数派が貧困に面するだけでなく、仕事の質的変化によって自己表現する機会を失い、社会に役立つという満足感を奪われたような気がします。

この格差は、カネがカネを生む資本主義、情報がカネを生むICT社会では、構造的に生じるものであり、個人の努力で打破できるものではありません。

世界においても同じように格差が拡大し、人々の社会との繋がりが希薄になり、社会情勢が不安定になっています。

しかし、今まで国家や社会は、働けるのに働こうとしない者に対して新約聖書で述べられている「働かざる者、食うべからず」との価値観を、働きたくても働けない人に押付けて支援するどころか精神的に苦しめてきたような気がします。

「持てる者はますます富み、持たざる者は更に失う」

聖書の言葉は、「生きる喜び」を行動で実感した人はその行動を繰り返して「生きる喜び」をますます感じ、そのように行動しない人は人生に不満を募らせていくことを教えているように思います。

ちなみに、新約聖書には、「与えよ、さらば与えられん」と述べられています。

創造主は存在するが、死後の世界はないと思っている筆者の解釈ですが、個人の力では如何ともしがたい苦境に陥っている人々に社会や個人が手を差し伸べると、創造主は、「困っている人の役に立てて嬉しい」との感情をご褒美として与えてくださると述べているように思います。

仕事を奪われた人々の「生きる喜びの奪還」

(1)各人の価値観の転換

・各人の価値観の原点を「自分の能力に相応しい目標を達成する喜びを求めて生きる」に置くことにあると思います。

・各自に与えられた能力は千差万別です。自分の好きなこと、能力に合ったことを見つけ、各成長ステップの目標を達成して進歩していくことが「生きる喜び」であると思います。

好きで能力に合ったことでも上手くなるためには、多くの困難を克服し、大いなる努力を必要とするので、達成した喜びが小さくなることはないでしょう。人生はそう甘くはありません。

・仕事のみに「生きる喜び」を求める考えは古くなりました。多くの仕事は量、質的に変化しています。仕事以外にも社会や人の役に立つ行為(社会貢献活動など)はたくさんあります。

(2)国家の価値観の転換

・社会貢献活動をもっと高く評価する施策をとる必要があると思います。

人は、自分が目標を達成したときに自ら喜びを感じると共に、目標達成の結果に他人が喜ぶと嬉しく思います。仕事以外での社会貢献に社会はもっと謝意を表してもよいでしょう。

・自由競争原理は残したままで、税による富の再分配が必要です。

米国では保有資産で上位0.1%の層が下位90%と同等の富を所有していると言われています。

この現状が続けば民主主義、資本主義は破綻すると考えたのでしょうか、ジョージ・ソロス氏など19人の米大富豪が、「米国は道徳、倫理、経済上から我々の資産へ課税する責任がある」とし、自ら大富豪への増税を訴えています。

・国家の価値観の原点は、国民が楽しく生きる環境を整備することです。そのためには、何万人の役に立つことをできる能力者を育成することが大切であるとともに、数人の役に立つことをできる人が「生きる喜び」を感じられる環境作りも必要です。

・仕事という言葉には、社会への繋がり、集団への帰属意識が伴っています。従って、国家は国民にベーシックインカムを支払うと共に、社会的弱者の保護を考慮した規制緩和など諸策を講じて新しい仕事の創出に努める必要があると思います。

より多くの人々が「生きる喜び」を感じることができる、人権と自由と平和を担保する新民主主義を人々が一致協力しICTを活用して創出しなければなりません。

創造主の価値観、人間の価値観、国家の価値観

世界各国のコロナ対策の違い、トランプ大統領の利己的な振る舞い等を見ていると、人間と国家と創造主との関係を改めて考える良い機会になりました。

経済活動を優先すればコロナウイルス感染者が増加し、コロナウイルス対策を優先すれば経済が悪化し、何れかに偏り過ぎると国民の命を犠牲にするとの二律背反に直面し、国家は国民の命を守るために存在するが、自己中心的な指導者の下では国民の命を守ることができないことを再確認しました。

また、近時、人間は創造主から与えられた価値観と乖離した自己中心的な価値観、例えば経済最優先、競争延いては戦争も肯定しかねない価値観に基づいて行動していることへの警鐘のように思いました。

創造主の価値観

「無」と対峙する「有」である創造主は、自然や人間の営みを無作為に変遷させることによって、「有」を実体として具現化し、存在を実感されているのではないでしょうか。

変化が無いこと又は作為的或いは規則的な変化では、創造主は「有」を確認することができないと想像します。従って、変遷が無作為であることは必須です。しかし、変遷の先に滅亡があっては存在を実感できなくなるので、創造主は自然や人間の営みの中に、存続に必要な基本ルールだけは仕込まれたように思います。

人間の価値観

而して、創造主が人間に仕込まれた基本ルール、換言すれば人の遺伝子に組み込まれた基本的な価値観は、先ず、「生きる喜び」であり、それを達成するための「生きる力を習得する喜び」および「他人と協力する喜び」です。

創造主は、人間に多様性に富んだ大きな変遷を具現化させるために、脳内に自分の概念の世界と価値観を自由に構築する、謂わば、概念形成能力を与えられたと思います。

しかし、人間は、この概念形成能力を我欲のために使用し、基本的な価値観からずれた価値観を追い求めていることが多い気がします。

「生きる喜び」は、自分の価値観に基づく目標に向かって行動することです。自分の目標を我欲や世俗的な価値観に基づいて設定しては、「生きる喜び」を実感することはできません。

生きる力は、身体的能力、知的能力、心的能力であり、「生きる喜び」を実現するための手段です。ところが、生きる力は強いことが望ましいので、「生きる力を習得する喜び」も基本的な価値観になります。

そして、生きる力の強さを計るために、各種能力について他人との比較、競争が行われます。

自分の能力向上の尺度としての競争は良いのですが、最終目標が能力向上ではなく勝つことになると、他人も同じ基本的な価値観を有するということが忘れられ、心的能力である協調性や優しさが弱体化します。

現在の利己中心的な風潮や虐めの根源はこの辺りにありそうな気がします。

他人や集団と協力することは、一人では弱い人間が生き延びるために不可欠なことであり、協力して役に立ちたいとの価値観を遺伝子に刷り込まれ、「他人と協力する喜び」も基本的な価値観になったと思います。

他人に協力して認められると嬉しいものですが、他人と協力することが目標ではありません。各自がそれぞれの価値観に従って立てた同じ目標を達成するために仲間と協力する喜びも、「生きる喜び」を実現するために極めて重要であり、基本的な価値観になったのでしょう。

他人や集団の価値観に従うだけでは、自分の個性に基づいた「生きる喜び」を実感することができず、人々の千差万別な能力で多様性に富んだ生きる喜びを実現するという創造主の意図に反することになります。

国家の価値観

国家の基本的な価値観は、各人が「生きる喜び」を実現するためのベースである命や環境を守ることであります。

しかし、国家も人の命や環境を守るために与えられた権力を誤用し、国家の基本的な価値観からずれた価値観を追い求めているケースが多いような気がします。

多くの民族、慣習、宗教等が存在し、さまざまな理由で近しい人々が集団延いては国家を形成して、国民に「生きる喜び」を実現する場を保障することは、人間に多様性に富んだ大きな変遷を具現化させるという創造主の意図に沿うものです。

ところが、次に述べるような場合は、国家の基本的な価値観に基づいた政治が行われていないと思います。

・国家が国民の思想統一を計る。

例えば、中国のように十数億の人々が国家という一つの価値観をもった有機体になることは、生きる喜びの十数億の多様性を期待する創造主の意図に反します。

社会秩序や地球環境などを、「生きる喜び」を具現化する良い場に維持できない。

例えば、地球温暖化対策に消極的なトランプ大統領は、国家や人間の基本的な価値観に無知であり、指導者の資格がないでしょう。また、一部の米国民は銃で自分の命を守ることを誇りとするのではなく恥とし、暴力排除を国家に委託できる社会を築くことに注力して欲しいです。

・戦争を肯定し武力を背景に国家間の紛争解決を図る。

人の命を守るために形成した国家がその権力で殺し合いを強要し人類を滅亡に導くことは、「生きる喜び」を具現化して「有」を創造主とともに実感するという人間の根本を否定するものであり、許しがたい矛盾です。

・「生きる喜び」を実現できない貧困層が存在するほど国家財政が悪い、或いは、国民間に経済格差がある。

自分の価値観に従って生きるためには、最低生活の保障は必要です。

・指導者が利己的に国家権力を使う。

多くの人は、権力や富を手に入れると利己的になるので、国民は政治に関心を持って発言する必要があると思います。

・国民が質の高い教育を受けられない。

各国民が人間の基本的な価値観に基づく行動を繰り返すことによって成長することを学び、実行することが強い国家の基礎です。

人々が、国家に命や生活環境の保護を委託し、各人が生きる力を習得し、他人や集団と協力して、「生きる喜び」を具現化できる社会を築きたいものです。

個人の価値観と集団の価値観

個人と集団は、一方の存在なくして他方が存在しえない濃密な関係にあります。

個人が利己的な価値観に従って行動すれば集団の価値観に反する利己主義者として非難されます。

人々が属する集団の価値観に盲従し、その集団が一部の権力者層の利己的な価値観に従って行動すればその集団は他の多くの集団から利己主義集団として排斥されます。

どのような個人の価値観や集団の価値観が利己的であるのでしょうか。

どのような個人の価値観や集団の価値観を形成すれば、人々は有意義な人生を楽しく生きることができるのでしょうか。

個人の価値観

人間は脳内に構築した各自の世界に各個人の価値観を自分の能力、興味、環境に応じて自由に形成します。

各個人は、自分の価値観に即した目標を努力して達成すること、換言すれば自分の価値観を具現化することに喜びと生き甲斐を感じ、畢竟、そのように生きることを人生の目的とし、個人の究極的な価値観としているように思います。

このとき、各個人は身体的、知的、心的に異なる特性を有しているので、自分の価値観を自分の特性に適合したものに設定することが大切です。

他人も自分と同じように個人の目標を達成するために生きることを究極的な価値観としていることを忘れてはなりません。

自分がその価値観を具現化するための行動が、他人がその価値観を具現化するための行動を正当な理由なしに阻害することは、多様な生き方すなわち様々な存在を求める創造主の意思に反することであり許されません。

例えば、個人が他人と同様な目標達成のためにフェアに競争することは、正当な理由になります。

従って、パワハラ、各種差別、行き過ぎた格差社会、権利乱用、独裁政治などに繋がる価値観は利己的な価値観と非難されるでしょう。

人間の存在意義は、「物質と概念の共存世界」において個人の価値観を具現化することに喜びを感じて「生きていること」即ち無の対極の有である「存在すること」を創造主とともに実感することにあると思います。

従って、人類の存続を阻害する価値観、例えば戦争、核兵器保有、殺人、虐め、公害、地球温暖化などに繋がる価値観は利己的な価値観であります。

集団の価値観

集団の価値観は、集団のメリットになることを可とし、デメリットになることを不可とする判断基準です。

個人は集団に属することによって多くのメリットを得るので、個人の価値観は、集団の価値観の影響を強く受け、集団の役に立つことを重要な要素の一つにします。

個人が属する集団には、家族、自治会、クラブ、学校、会社、公共団体、国家、人類など目的、構成員数、加入・脱退の自由の有無など特性の異なる様々な集団があります。

集団の価値観は、大多数の人々の欲することに価値を認めている間は問題ありませんが、権力者層の利己的な価値観に染まり出すと、各個人が生きるための手段として人々が形成した集団が目的化し、集団のために個人が存在するという価値観に変貌していきます。

個人の価値観と集団の価値観との関係

「自分のために働くより社会のために働く方が有意義である。」、「仲間と協力して勝ち取ったチームの勝利は嬉しさがひとしおである。」などとよく言われますが、人は個人の価値観より社会の価値観を具現化したときの方が大きい喜びを感じるのでしょうか。

一人で生きられない人間は、互恵的に人の役に立ちたいとの価値観を遺伝子に刷り込まれているので、集団の目標に向かって仲間と協力することに大きな喜びを感じるのでしょう。

しかし、集団の価値観は、現存する独裁国家、極端な思想集団や歴史的な悲劇から明らかなように集団の支配者層の利己的な価値観に染まる場合があります。

しかし、集団が実現しようとする目標が利己的なものか否かを個人の価値観で判断し、利己的なものである場合は集団にくみしない勇気をもつことが必要でしょう。

「集団の役に立つ」との価値観も個人の願望であれば個人の価値観です。

したがって、各個人は、集団の価値観より個人の価値観に従って行動すべきではないでしょうか。

家庭、学校教育や社会における教育によって、個人が利己的でない価値観を形成し、その個人の価値観で社会の価値観を常に監視することが大切であると思います。

人々が各個人の価値観に従って生きるためには、最低生活費を保障する制度、例えばベーシック インカムの導入が必要であると思います。

生活が保障されていれば働かない人が増えるとの意見もありますが、自分の価値観の具現化が生きる喜びであることを教育され、自分の価値観に基づいて立てた目標を達成する喜びを体験した人が最低生活費を貰って働かなくなるとの心配は無用でしょう。

個人の利己的でない価値観と集団の利己的な価値観とが齟齬をきたす場合があります。

その価値観が個人にとって大切なものであり、集団への加入・脱退が自由な場合、集団から離脱する選択も可能です。

しかし、集団への加入・脱退が自由でない場合には、悲劇がもたらされる危惧があります。このような悲劇が起きない自由で、多様性を認めながら、利己的でなく、格差が大きくなり過ぎない平和な社会を築くために、多くの人々が生きることの喜びや自分の成したいことを自ら考えることを日常化するとともに、子供達に幼少時から教育し、体感させることが必要であると思います。