身体と知能のコラボした生きる喜び

1.はじめに

民主主義国家における富の分配の過度の不平等とポピュリズムの台頭、社会主義国家における支配者層の独裁と腐敗、死者数8千万人とも言われる第2次世界大戦から75年も経っていないときに台頭しつつある覇権争いをやむなしとする気配、国民の生活を蹂躙する地域紛争、宗教・民族対立、銃乱射・弱者虐待など狂気としか思えない行為が、世界中に蔓延しています。

これは集団社会の価値観が、人間が創造主から授かった生来の価値観から許容範囲を超えて乖離し、各人が正しい自分の価値観を間違った集団社会の価値観の影響を受けて間違った自分の価値観に刷りかえつつある結果ではないでしょうか。

2.天地創造

2-1 創造主は「自身の存在」の意義を実感するために、壮大な宇宙を「物質の世界」として創造されたのではないでしょうか。

2-2 そして、無機物から有機物を生成する植物が繁茂する美しいプラネットに地球を環境整備し、「存在すること」の意義と喜びを深く実感するとともに、動物や人間が活動する舞台を用意されたように思います。

2-3有機物を食する身体と生きる本能を備える、人間以外の動物を創造して、「存在すること」の喜びを、「身体の生きる喜び」として「物質の世界」で実感することを動物達に託されたように思います。

2-4創造主は、身体と知能を備える人間を創造して、「存在すること」の喜びを「身体と知能のコラボした喜び」として「物質と概念の共存世界」で一層重厚に実感することを人間に託されたのではないでしょうか。知能は身体の一部である大脳の働きですが、思考、記憶、想像、言語理解などの認知能力だけでなく、協調性、自制心、やり抜く力、感謝する力などの非認知能力も含みます。

人間は、「物質の世界」での出来事、見聞したこと、書物から学んだこと、想像したこと、やりたいこと、なりたい自分の将来像などを知能によって「概念の世界」として大脳内に構築するとともに、「概念の世界」を他人と共有する「概念共有能力」を授かっています。

3.人間の生来の価値観

「存在すること」の喜びを実感するために、人間は生まれたときから次に述べる生来の価値観を創造主から授かっていると思います。

3-1 生きること。人間は概念の世界を形成する大脳を備えると共に、人間以外の動物と同様に、身体と生きる本能を備えているので、身体の生きる喜びを感じる限り生きることが求められる気がします。しかし、大切な自分の価値観に反することをしなければ殺されるような場合は、生きることを自らの手で絶つことを許されるような気もします。

3-2 人の役に立つこと。「概念共有能力」を授かっていることは、人間が集団社会で生存することを意味し、生来、人の役に立って認められると喜びを感じます。子供は、お母さんに喜んでもらうために肩をたたきます。長崎の爆心地の焼き場に立つ少年は、あのような状態でも亡くなった弟を背負っています。

最近スポーツ界で活躍する若いスポーツ選手数人から、観衆に喜んでもらうことを嬉しくありがたく思うとのコメントをテレビでよく聞きます。

3-3 自分の価値観に基づく欲求を実現するために設定した目標を達成する過程や目標達成における喜びや充実感

人間は、知能によって「概念の世界」に描いた例えば、自分のやりたいことや将来像、理想のパーフォーマンスという目標に向かって「物質の世界」の身体を知能によって「物質と概念の共存世界」で行動させる過程や目標達成において「身体と知能のコラボした喜び」を実感すると思います。

4.間違った集団社会の価値観

4-1 他人と比較して全人格を評価すること。

好き嫌い、得手不得手、才能、個性は千差満別であるがゆえに、各人が感じる生きる喜びに多様性があり、創造主は「存在」をより深く実感できるように思います。他人と比較して評価されることにより、人、特に若年層は個性を摩滅され、生きる喜びを消耗します。

他人との比較は、自分の技を他人の技と比較して習得程度を確認することに止めたいです。人格まで評価することは百害あって一利なしです。

4-2 レッテルを貼って分類

ブランド指向は、自分の個性、感性を鈍化させ、価値観の向上を阻害します。これにより、生きる喜びの多様性が損なわれます。特に、人にレッテルを貼る人は、自分のみが正しいと思う傾向があり、調和性、誠実性が少し足りないような気がします。

不得手な分野においてブランドを一応の目安にすることは許されるでしょうが、捕らわれることは、正しい自分の価値観を放棄する一歩となるでしょう。

4-3 結果偏重主義

好きなこと、やりたいことを自分なりの目標を立ててコツコツと続けることによって、大きな結果は伴わなくても、創造主が人間に託された身体と知能のコラボした喜びは得ることができると思います。少年よ大志を抱けを否定するわけではなく多様性の尊重をベースにしたいです。

4-4 拝金主義                                                                                               

お金は価値を計る知能(概念)の世界の存在であり、身体による行動を伴わない場合があります。お金だけを求めても、身体と知能がコラボした喜びを得ることはできません。

4-5 事なかれ主義

集団社会の価値観が間違っていても、人はそれに従う方が安易に生活できる場合が多いでしょう。特に、不況時において間違った集団社会の価値観に支配された国が挑発するとき、戦争を是認する煽動に対して各人が弱さを克服して反対できる集団社会の価値観を確固たるものとしなければなりません。

4-6 貢献心の希薄。

生来の人の役に立ちたい心が、生きることの難しさに押されて、自分のことしか考えられない状況に陥っているのでしょうか。他人の良いところを褒めて後押しするだけでも随分楽しく生きられるようになる気がします。

4-7 自分の属する集団が他の集団より優秀であるとの錯誤。

創造主が「存在」を深く確認するために創造された人間は、身体と知能(概念の世界を築いて共有する能力を含む)を授けられ、集団社会を築いて生きることが生来の性質と思います。

しかし、人類が地球を制覇したときから、複数の集団社会において築かれた各集団社会の価値観について自分の集団社会のものだけが正しく、従って自分の集団は他の集団より優秀であるとの間違った集団社会の価値観を概念共有能力を使って自分の集団社会に形成することが頻発しています。

そして聖戦と称して無意味な戦争を繰り返し、創造主が一人ひとりに託された「生きる」喜びを実感することなく何億もの人々が無念の内に命を絶たれています。創造主の価値観に反して、「生きる」を否定して人を殺す戦争に聖戦などありえません。

5.正しい集団社会の価値観の形成

間違った自分の価値観を持った人が大多数を占める集団社会は、その間違った価値観が集団社会の価値観となり、若年層の自分の価値観の形成に影響を与えるだけでなく、各人が正しい自分の価値観をその間違った集団社会の価値観に刷りかえていくという現象が起こります。

間違った価値観の集団社会においては、良識ある多数の人々が、弱さ、卑欲、無知を克服して正しい自分の価値観を形成して公表し、その多数の人々の持つ正しい自分の価値観を正しい集団社会の価値観にする努力が求められます。香港人の正しい集団社会の価値観を中国政府の価値観に従わせようとする企てに反対して香港でデモをする人々にエールをおくりたいです。

親や教育者は、子どもが正しい自分の価値観を形成することに大きく関わっていることを肝に銘じ、人は何のために生きるか、何のために勉強するかなどの哲学的なことも分かりやすく教える必要があると思います。

テレビ放送作成者には、視聴率至上主義でなく、正しい自分の価値観の形成に資する情報を多くの人々に提供するという観点から、間違いのない事実提供と、公正な啓蒙活動を望みます。

6.おわりに

各人が多様な個性、能力を活かして「物質と概念の共存世界」で行動し、創造主から託された「身体と知能のコラボした生きる喜び」を実感したいものです。

そのためには、自分の価値観ひいては集団社会の価値観を創造主から与えられた生来の価値観に沿うように軌道修正し、各人が自分の価値観に従って設定した目標に向かって身体を知能によって「物質と概念の共存世界」で行動させて、「身体と知能のコラボした喜び」を実感できる社会を築く必要があると思います。

創造主は何故存在するのか

  1. はじめに

私は、創造主は存在するが死後の世界はないと考えます。死後の世界がないとすると、死に対する救いがなくなるだけでなく、懐かしい人に会えなくなる、運の悪い人が救われない、悪人を野放しにするなどの弊害が起こりそうです。

しかし、死後の世界はないと覚悟を決めると、創造主、自分自身、或は世の中のために自分にできる範囲で精一杯活動することができ、限りある人生をより充実して楽しめそうな気がします。

 2. 創造主の存在

どこまでいっても超微粒子もエネルギーも変化も全く何もない「無の世界」を、頭の中で想像することはできます。

しかし、人や宇宙は変化しつつ存在します。想像を絶するほど高度で緻密で雄大であり偶然に存在することなどあり得ない人や宇宙は現に存在します。

してみれば、「存在の世界」は、「無の世界」の対極に実在し、「存在の世界」においてエネルギーや光を構成する量子の素となるような、存在の最も基礎となる、謂わば、物質以前の存在素があるのではないでしょうか。

創造主は、存在素で構成された究極の量子コンピュータのようなものであり、「存在の世界」の存在意義、すなわち創造主の価値観を示すものと想像します。

存在素だけが実在する「存在の世界」では、創造主の価値観も「概念の世界」だけの価値観となり、存在の意義をより強く実感できるようにするために、創造主は存在素から先ず宇宙を創造して「存在の世界」に「物質の世界」を誕生させ、続いて植物、動物、人間を順次創造されたのでしょう。

 3. 人間の創造

創造主は、存在の意義をさらに深く重厚に実感するために、高性能な量子コンピュータのような大脳(概念の世界)と身体(物質の世界)を有する人間を創造して「物質と概念の共存世界」を誕生させたと想像します。

従って、人間は、創造主の価値観を個人の価値観(自分の価値観)や社会の価値観(集団の価値観)に反映させ、創造主の価値観を「物質と概念の共存世界」において具現化したとき、存在すること(生きること)を創造主とともに実感して喜びを感じるのではないでしょうか

人間は、自分の価値観、それに基づく欲求(したいこと、なりたい自分像)、社会の価値観、「物質と概念の共存世界」における出来事、フィクションなどを「概念の世界」に構築し他人と共有するために、大脳と言葉(数字、図を含む)を授かりました。

「概念の世界」に形成した自分の価値観を「物質と概念の共存世界」で実現するために身体を授かり、欲求の達成に設定した目標に向かって身体を行動させるために、脳と身体との間で体性神経系を介して情報交換し、身体が生き続けるために、脳と身体との間で自立神経を介して情報交換するという神秘を備えています。

そして、例えば目標を達成する過程や目標達成において充実感や喜びを生身で実感する心を持っています。大脳は「概念の世界」を築きますが、「物質の世界」の物体でもあり、充実感や喜びを「物質と概念の共存世界」で生き生きと感受する心でもあります。

このように創造された人間は、限られた期間を自分の価値観に従って生きることにより、創造主の価値観を「物質と概念の共存世界」において具現化し、存在することの意義を創造主とともに実感することができれば他に望むものはないと考えます。

 4. 人間の価値観

人間は誕生したとき、新品のコンピュータのシステムプログラムように、創造主の価値観の原理が遺伝子に記憶されているように考えます。例えば、生きたい、知りたい、何々のようになりたい、何々ができるようになりたい、人の役にたちたいなどの欲求と、欲求に向かって行動する充実感と、欲求達成の喜びなどです。

各人は、創造主の価値観の影響を受けながら、自分の興味、能力、環境などに応じて自分の価値観を形成し、自分の価値観に基づく欲求を達成するために、例えば、血圧を下げる、本を読む、医者やサッカー選手になる、毎日練習する、お手伝いするなどの目標を設定して行動します。

しかし、人間は大脳内に「概念の世界」を自由に形成することができるので、場合によっては、創造主の価値観と異なる価値観を大脳に刷り込まれてしまい、自らの存在を否定し、或は他人の喜びを奪ってしまいます。従って、親、学校、社会が子供に創造主の価値観を正しく教育することは、全ての人が喜びを実感して生きるために、極めて重要で、決しておろそかにしてはならないことと考えます。

フィクションやコンピュターゲームなどの「概念の世界」の色合いが濃い作品も、「物質と概念の共存世界」で作成されたものであり、自分の価値観に従って楽しむことができます。しかし、これら作品に洗脳されない、中毒にならないなどの注意が必要です。

人間は、「物質と概念の共存世界」に生きているので、自分の価値観に基づく欲求は、「物質の世界」または「概念の世界」に偏った欲求でなく、両方の世界に跨がる心の求める欲求である方が、欲求達成の充実感や喜びが重厚なものになるでしょう。

 5. 社会の価値観

社会の価値観は、社会を構成する個人の価値観の共通項のようなもので、例えば、創造主の価値観に反しない他人の価値観を尊重すること、他人の価値観の実現を奪う行為に社会が懲罰を与えること、複数の人々の間で各人の価値観に基づく欲求が衝突するとき、欲求の達成度を互いに譲り合うこと、足るを知ること、社会に貢献した人を多くの人が尊敬すること、すばらしい文化、自然遺産を大切にすることなど多数の価値観があります。

社会に貢献した人、各分野で実績を残した人は、本人は死後どこにも存在しませんが、社会の「概念の世界」に存在し続けます。

今はどこにもいない先祖を祀り、先祖が生前に行ったことに思いをはせ、自分が今存在することに感謝することは、「存在の世界」の創造主の価値観に沿うものと思います。

また、社会の価値観が創造主の価値観と異なる価値観とならないためには、人間の弱さを十分認識した上で、各人が正しい自分の価値観を持つことができ、自己肯定感を持って自分の価値観を実現できる社会の仕組みと環境を整えることが必要です。

 6. おわりに

「概念の世界」だけでのすばらしい生き方は、理想ではありますが絵に描いた餅であり、喜びや感動を伴いません。「物質と概念の共存世界」で、自分の価値観に基づく欲求実現に設定した目標を達成する過程や目標達成において生身で実感できる充実感や喜びこそが人間に託された創造主の価値観を具現化したものと思います。限りある人生を、自分の価値観の実現のために自己肯定感を持ってまっとうしたいものです。

コンピューターゲームはスポーツといえるか

1.はじめに

コンピューターゲームを部活動に取り入れる高校が増加し、高校対抗のコンピューターゲーム全国大会が、全国eスポーツ選手権と銘打って千葉県で8月に開催されます。このような動き、或はコンピュータが生活に役立つ道具としての領域を越えて人の人たる領域を侵犯していくとき、人々が概念の世界のみで生息するように習慣付けされ、「自ら考えた欲しいものを遂に得たときに感じる生身の感動と喜び」を徐々に忘れ去り、人の存在意義を見誤っていくことを危惧します。

2.コンピューターゲームのスポーツ誤認動向

2022年に中国で開催されるアジア競技大会ではコンピューターゲームが正式種目になります。

JOCはコンピューターゲームをスポーツとして正式に認めておらず2022年のアジア競技大会のeスポーツ日本代表選手は、現時点ではJOCが派遣する日本代表ではないとしています。

以前アジア競技大会で囲碁が正式競技として採用された際は、JOCは当時設立された囲碁の団体(全日本囲碁連合)を承認団体として認可していたといいます。囲碁をスポーツとするアジア競技大会の見識を疑います。

IOCは2018年12月8日にコンピューターゲームをオリンピックのメダル種目として採用するという議論は、時期尚早であるとの見解を示しました。IOCは見解で時期尚早とした理由として、ゲームの内容に暴力や差別を含むことなどを挙げましたが、競技性の高いゲームは伝統的スポーツに比肩する身体能力を必要とするとしています。また、日本eスポーツ連盟は、ゲーム遂行の操作を指先だけではなく体の他部位の運動も必要する最新ゲームでは、伝統的なスポーツと同様に身体能力が必要であるとし、IOCへの加盟要件が整ってきたとしています。

千葉国体の開催に合わせて、全国都道府県対抗eスポーツ選手権が千葉県で10月に開催されます。

3.スポーツの定義

3-1. オリンピック憲章では、オリンピズム(オリンピック精神)の根本原則を「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。・・・スポーツをすることは人権の1つである。・・・」とし、スポーツを直接定義していません。しかし、このような記載からオリンピック憲章でのスポーツは、肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させるために資する行為であると理解します。

3-2. スポーツについて、例えば、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典では、「競争と遊戯性をもつ広義の運動競技の総称。激しい身体活動や練習の要素を含む。・・・本来,人間が楽しみと,よりよき生のためにみずから求め自発的に行なう身体活動であり,ルールを設けそのなかで自由な能力の発揮と挑戦を試み,最善を尽くしてフェアプレーに終始することを目標にする。・・・」と定義しています。

3-3. してみれば、スポーツとは、身体を意志、思考、記憶力などの精神活動を活用して鍛え、身体と精神を調和して健全に発展させることによって、楽しみや生きがいを実感できる人生を実現するための一手段であると思います。

4.eスポーツの定義

4-1. 日本eスポーツ連盟によれば、「eスポーツ(esports)」とは、「エレクトロニック・スポーツ」の略で、広義には、電子機器を用いて行う娯楽、競技、スポーツ全般を指す言葉であり、コンピューターゲーム、ビデオゲームを使った対戦をスポーツ競技として捉える際の名称。」としています。すなわち、コンピューターゲーム、ビデオゲームを使った対戦をスポーツ競技として捉えただけのものであり、スポーツであるとは言っていません。

4-2. スポーツでないコンピューターゲームにeスポーツと名称を付けてスポーツと混同させた日本eスポーツ連盟に責任がありますが、コンピューターゲームを語るときにeスポーツと謂ったマスコミも、言霊の宿る言葉で自分の考えを伝えるプロとして反省の余地があるのではないでしょうか。

5.コンピューターゲームがスポーツでない理由

4-1. スポーツは、設定した目標の達成を目指して身体と精神が連動した身体運動で表現する技の実演であります。このため、その技に理想とされる体の動きの理想イメージを脳内に描き、理想イメージを実現できるように身体を鍛錬し、自分固有の身体特徴に合わせて理想イメージを何度も修正し、晴れの舞台で実力を発揮できるように練習を繰り返し、精神的強さも鍛えておかなければなりません。

コンピューターゲームは、ゲーム遂行の操作を指先だけでなく体の他部位を使用したとしても、技を主として身体運動で表現するものではありません。

4-2. スポーツは自分の頭で考えて自分にとって理想的な身体運動のイメージを脳内に築き、それを実現するためにどの筋肉をどのように鍛え、どのように使うか頭を使って工夫する必要があります。技を実演するときにも、状況に合わせて頭を使って身体運動に変化を加えることが求められます。

これに対し、コンピューターゲームは、他人が作成した概念の世界で、決められた動作のイメージを素早く選択するだけであり、頭を使って深く考えていると逆に負けてしまいます。コンピュータ-ゲームは人の考える力を退化させ、正しい判断力を奪っていく虞もあります。

4-3. スポーツには視力が大切です。そのため視力を鍛えることも行われています。

人間の目は水晶体の周囲の「毛様体筋」が緊張したり、ゆるくなったりしてピントを調節しますが、コンピューターゲームのようにスクリーンにピントを合わせた状態が長時間続くと毛様体筋が緊張し続け目が疲れて近視の原因になります。

4-4. スポーツは、身体(物質の世界)と脳(概念の世界)を調和して発展させ、技を身体で表現するものであります。

これに対し、コンピューターゲームは、概念の世界のみにおいて、身体をほとんど使わず脳をフル回転させて競うものであります。これにより、脳はコンピューターゲームに容易に洗脳され、自ら考えることを放棄して中毒症状を呈することが起きると思われます。

4-5. スポーツは、最終とする目標を達成するために、多面的な努力が必要です。例えば、身体を鍛える数段階の目標、理想のイメージを描く目標、自分の理想のイメージに到達するまでの複数段階の目標、精神的弱さを克服する複数の目標などがあります。そして、これらの目標を一つずつ努力して達成したときに得られる多くの喜びと感動が有ります。

これに対し、コンピューターゲームは、一つのコンテンツを長く続ける性格のものではなく、商業的理由や飽きられないために新しいコンテンツを次から次に注ぎ込んで新しい目標を設定するもののようです。

このように、コンピューターゲームでは、大きな目標達成は小さな目標達成の積み重ねの先にあり、これらを一生の間に楽しみながら充実して実践するという「人の心」を育てる場を提供することはできません。

5. おわりに

WHO(世界保健機関)がゲーム障害を、ゲームに熱中し、利用時間などを自分でコントロールできなくなり、日常生活に支障がでる病気として、国際疾病分類に加える見通しとしているときに、コンピューターゲームを高校の部活動に取り入れることは、若者の精神的、肉体的な健全な発育を任務とする教育者が行ってはならないことではないでしょうか。

また、スポーツでないコンピューターゲームをオリンピックのメダル種目に認定することは、目先の利害に惑わされることなく、声を大にして阻止すべきものと思われます。

自己肯定感

1.はじめに

昨年の暮れ、ゲノム編集された双子の赤ちゃんが誕生しました。DNAはその人の体格、性格、能力などの資質を書いた設計図であると言われています。ヒト受精卵は一個の細胞であり、そのDNAに変更を加えられた人は、その存在を原点で否定され、自己肯定感を持てなくなることはないでしょうか。自己肯定感は人が生きることのべースであり、互いに尊重し合うことが社会の基礎ルールであるとき、病気治療に限定するとしても、核兵器の轍を踏まないためにも、ヒト受精卵の遺伝子操作に慎重過ぎることはないと考えます。また、自己肯定感を持てなくてテロやヘイトクライムに走る若者が世界で増えているように感じたので、自己肯定感について考えてみました。

2.自己肯定感

人の資質は生まれたときから差があります。この差が多様性や変化をもたらし、人類を存在させる創造主の意思と想像します。そして、自己肯定感は、各人がこの差を受入れ、自分の現在の状態を素直な気持ちで把握した上で、自分の現在と将来の存在に意義を感じることだと思います。

2.1 価値観と自己肯定感

人は、自分の価値観をその興味、能力、環境など現在の状態に応じて形成し、それを具現化するために、創造力、努力などその持てる能力を駆使し、些かな成果と自分の進歩を見出したときに、生きる喜びを感じるように思います。

この自分の価値観を形成し具現化する土台が自己肯定感ではないでしょうか。そして、自分の価値観に基づいて目標を設定し、その目標を達成する過程と結果に喜びを感じることを繰り返すうちに自己肯定感を強めていく気がします。

自己肯定感が弱いと、自分の現状を正確に把握することができず、正しい自分の価値観を形成することができません。また、その価値観に基づいて目標を設定したとしても、その目標達成の努力中に小さい困難に会っただけで、設定した目標や努力に迷いを感じ、目標達成を挫折してしまいます。

逆に、自己肯定感が強すぎると、独りよがり、向上心の拒否、自身喪失に繋がり、自分の正しい現状把握ができず目標設定を誤り、場合によっては攻撃の矛先を他人に向けて、いじめ、人種差別などの要因になります。いじめは、被害者の自己肯定感をズタズタにする精神的な殺人であり、加害者もその自己肯定感の歪みを露呈して自分を精神的に殺す二重殺人のようなものです

2.2 自己肯定感を大切にする社会

昨今、記憶力、思考力については、ビッグデータやAIに置き換え可能な領域が増大しています。こんな時代に対応するためにも、人が存在し続けるエネルギーになる「生きることに喜びを感じる」感性を大切にする社会を作ることが求められている気がします。

大好きなことを見つけてそれに集中している人の自己肯定感は強いです。しかし、何かを模索している人の自己肯定感は脆いものです。小さな失敗、他人の批判などによって揺らぎます。人の興味、行いたいことは様々であり、その肯定感の拠り所も千差満別です。従って、資質の異なる多くの人が適切な自己肯定感を持てるように努力し、協力し合い、また、他人の自己肯定感を尊重し、損なわないようにすることが大切だと思います。

人は集団行動動物ですので、他人のために役に立ちたい、他人に認められたいとのゲノム情報がDNAに記録されているようです。従って、他人から褒められると存在を認められたと思い、自己肯定感が強くなり、逆に、他人から批判されると存在を否定されたと感じ自己肯定感が弱くなります。日本では他人をあまり褒めないので、日本人の自己肯定感は弱いと言われています。他人の良いところを褒める習慣を作って皆が生きる喜びを感じる社会を実現したいものです。しかし、誇張した褒め言葉、おべっか、忖度は、相手に強すぎる自己肯定感を持たせることになり、多くの人に迷惑を掛ける可能性があるので注意が必要です。

また、若い人が、その能力を正確に把握するための参考意見を親身になって考え、その人が現在の状態を素直な気持ちで把握して適切な自己肯定感を持つことに協力できる雰囲気が望まれます。

3.おわりに

ビッグデータやAIによって人間の能力の価値が相対的に低下し、SNSなどによって多人数間で情報の共有化が容易になった社会において、適切な自己肯定感を持つことが難しくなってきました。それに対応するために、自己肯定感を大切にする社会の実現、正しい自己肯定感を持つことの大切さを幼少時に教えることが重要と思います。また、「何のために生きるのか」などの哲学的なことを子供の頃から自分の頭で考える社会環境が必要ではないでしょか。

生と死

1.はじめに

神様を信じ死後の世界があるとする人、無神論者、あるいは創造主は存在するが死後の世界はないとする人など様々な人生論があります。私は前にも述べましたように、創造主は存在するが死後の世界はないと考えています。しかし、死後の世界がないと考えたとき、自分の価値観に従って頑なに生きることに疑問を感じましたので、限りある期間を自分らしく生きて喜びを追い求めることの大切さを考えてみました。

2.死後の世界の意義

先ず、死後の世界の存否を証明するものは無いように思います。しかし、私が死後の世界はないと考える理由は以下の通りです。人間は、言葉によって頭の中に自由に世界を築くことができ、その世界を言葉で他人と共有する能力を創造主から授けられていると考えます。死後の世界も共有する人々の間で頭の中に築いた世界ではないでしょうか。したがって、共有する人々の集団が異なれば死後の世界も変わってきます。人はよりよい死後の世界に行くために生きるとすると、今を生きていることを大切に思う気持、感謝の気持が弱くなり、生きる意義を見失うのではないでしょうか。また、死後の世界を現世の救い、或は道徳的に生きるための脅しとみるとき、人の生き方に対する影響が強くなりすぎ、精神の自由を拘束し過ぎるように思います。

3.死後の世界がないとするとき、人は大別すると次の二つの生き方をするように考えます。

一つは、怖いものがなくなったとばかりに自己中心的に或は他人を殺してまで自分の欲を追い求める刹那的な生き方です。

もう一つは、人生は時間が限られているからこそ、物事に取り組む真剣さが増し、目標を達成したときの喜びが深くなることを学び体感して人生を楽しむ生き方です。

刹那的な生き方は、得る楽しみが長続きせず、成功しても人々の賞賛を得ることができません。刹那的に生きている人も、そのような生き方をしたいと初めから望む人はなく、将来の夢が持てないなど何らかの理由でそのような生き方をせざるを得なくなってしまったものと考えます。

これに対し、達成感を求める生き方は、各人が持つ願望に従って、人それぞれに与えられた独創力、記憶力、意志力、体力、環境などを傾注する必要があるだけにそれぞれが立てた目標を達成したときの各自の喜びが深くなり、目標も次から次に出てくるように思います。人生は、時間に限りがあるからこそかえって安易な刹那的な生き方に走らず自分の価値観を貫く困難な生き方に意義があるように思います。とは言っても、夢中になって行なっているだけで楽しいこと、5感に感じるだけで心安らぐこと、比較的に簡単に達成感を味わえることなど多くの楽しみが人生には散りばめられているので、限りある期間にそれらも大いに楽しまなければもったいないように考えます。

4.創造主の存在

死後の世界はないと考える私が、創造主は存在すると考える理由は以下の通りです。人間のような高度な脳力と感情を有する複雑な生き物が偶然に生じたと考えることはできません。そして、その人間でさえ、たった一つの細胞からなる単細胞生物を作ることができません。

存在しないことは、なにも無いことであり、全く変化のない状態であり、その意味では完全な状態と言えるかもしれません。逆に、存在するということは不安定であり、それ故に不完全であり、存在するためには、変化し続ける必要があります。この変化を継続するために創造主は宇宙や人間を創造されたと考えます。壮大ではあるが宇宙の変化だけでは億年単位で見ると変化が小さくなってきて、植物、動物、人間がさらなる変化を求めて創造されてきたように思います。

従って、人間も限られた期間を変化して存在する不完全なもの、人類全体としては創造主の意志で生を授かっていると考えます。人の生きる目的は創造主の永続的な存在の一翼を担うものであるので、永続的なものに繋がることが求められます。このことから、人間は刹那的な生き方でなく、熱情と時間を注いだ永続的な生き方により多くの価値と喜びを見いだすのではないでしょうか。そして、この役目を効率的に果たせる期間として寿命があり、何かできたときは喜びを味わい、苦しいときは、時には創造主にお祈りしながら役割を果たし、枯れ葉が落ちるように死んでいくように思います。より多くの人が幸せに生きることで、存在することの喜びの総和が大きくなり、創造主により大きなエネルギーをもたらすのではないでしょうか。この観点から、より多くの人が誇りをもって自由に活動できる社会を築くことが求められている気がします。これと反対に、人を殺すこと、多くの人を殺す戦争は創造主の心に背く行為であり、人々に喜びをもたらすどころか人類の存在を否定する自虐行為に過ぎません。

5.おわりに

自分の立てた目標に向かって行動し、目標を達成した喜びをバネに次の目標に向かって挑戦することを、成功、失敗を経験しながら繰り返し、自分の価値観に従ったより高い目標に向かって行動できるように変わっていくことを根幹におき、人生に散りばめられた楽しみも味わいながら、限られた期間を有効に生きることができれば、人生を幸せに生きたと言えるような気がします。

何を求めて生きるか

1.はじめに

人は行動するとき、意識してか無意識かに拘わらず、何らかの成果を求めています。生きることは、この行動することの連続です。各行動は、行動しているときの充実感、行動を終えたときの満足感が違い、この違いは、行動する者の成果への欲求度合い、行動の困難性、社会への貢献と社会からの評価などが関係するように思います。生まれてから死ぬまでの限りある期間であり、成長、成熟、老化と身体が変化する一生の中で、行わなければならない時期に、如何なる成果を求めて、どのような行動を行えば、生き甲斐のある人生を送ることができるのかに興味を持ちましたので、若い人が若い内に考えられるとよいと思って投稿しました。

2.何かを求める行動の種類

(1) 基礎生活をするための行動

基礎生活をするためには、例えば、立つ、座る、歩く、手を動かす等の行動が不可欠です。健康時には、無意識に行動しており、この行動に満足感を味わうことはほとんどありません。しかし、病気や怪我をすると、歩けるようになること、手を動かせるようになることが求める成果となり、この同じ行動に喜びを感じます。

(2) 肉体的快感を得るための行動

美食、嗜好物、スリル、セックス、物等から得られる快感という成果を求める行動も楽しい行動の一つです。しかし、快感は、変化が少なく、受動的で精神的高揚も少ないので、マンネリ化します。快楽主義に陥ると、人生でもっと大切なものを見失ってしまう危険性があります。また、社会への貢献はほとんどないでしょう。

(3) 精神的満足を得るための行動

芸術鑑賞、旅行、読書等から得られる、知識、精神的高揚、心のやすらぎ等の成果を求める行動です。受動的ですが、得られた成果を他の行動に活かすことができます。読書等は、自分の志を達成するための行動の一環として行われることもあります。

(4) 他人の承認を求める行動

他人から認められるという成果を求める行動です。他人に認められたい、尊敬されたいという欲求は、人間誰もが本来もっている欲望であると考えます。しかし、他人に認められることを主目的とした行動は他人の喜びを願ってする行動ではありません。自分の志を達成することを主目的とし、成果が他人に喜びをもたらして感謝された行動とは、たとえ他人の評価を意識していたとしても、雲泥の差があると思います。

(5) 愛情を求める行動

他人または動物から愛情を注がれるという成果を求める行動です。この欲望は人間誰もが本来もっていると考えます。犬を抱くと、お返しに頬を舐めてくれます。世の中、ギブアンドテイクが原則です。

(6) 愛情を注ぎたい行動

人間社会にアガペーの愛はあるのでしょうか。例えば、命の危険をかえりみずに、愛する者を助ける行動は、たとえ二次的な気持があったとしても、愛情を注ぐという行動だと思います。

(7) 志の実現を求める行動

人は、社会に貢献するために成したいこと、成りたい人を志として持ち、志の実現という成果を求めて行動します。行動する者は、成果達成への熱意、行動の困難性、社会への貢献と社会からの評価が高い程、行動や成果に対してより大きい充足感や喜びを感じるのではないでしょうか。

人生には生涯を掛けて求める成果だけでなく、人の役に立つという成果あるいは趣味的に求める価値ある成果が沢山あります。これらの成果も達成するまでに要する苦労、時間、必要な能力、他人からの感謝の気持などに応じて成果達成に対する満足感や嬉しさが異なります。

(8) 創造主の褒美を求める行動

如何なる成果を求めるかは各人に委ねられていますが、成果達成への熱意、行動の困難性、成果の社会や他人への貢献と社会からの評価、他人からの感謝によって、達成感、満足感の質、大きさに違いがあります。この違いが創造主からの褒美の差のように思います。

3.生涯のどの時期に如何なる成果を求めて行動するのか

(1)人生プラン

生涯のどの時期に如何なる成果を求めて行動するかは、人生をより実りある楽しいものにするために大切な人生プランだと思います。人は、何を成果として求めて行動するかを任されていますので、自分の価値判断、興味、能力、環境などに基づいて、社会に貢献するために自分が人生で成したいこと、成りたい人を志として心に描き、その志を実現するために人生の各ステージで成すべきこと、得るべきことを、各ステージでの求める成果として行動することは有効であると思います。

この志を実現するための行動に、人の役に立つという成果あるいは趣味的に求める価値ある成果を達成するための行動を適当に散りばめて行えば、人生をより充実して楽しく過ごすことができるような気がします。

古代中国では、人生を四つの季節に区分し、青春では勉学に励み、朱夏では志の実現を目指しながら社会や家族のために働き、白秋では前の二つの季節で学んだことを活かして自分の内面を芳醇させ、玄冬では終活するとしています。各季節に年齢をあてはめることは個人差、時代差があり、あまり意味がないと思いますが、適当な時期に適切な行動をする大切さを教えています。特に、若い時に色々なことを学んで実り多い人生の準備をすることを説くのは古代から変わらない教えです。今回のテーマのようなことを、若いときに学校または家庭で教わることも、実り多い人生を実現するための一助になると考えます。

(2)人生プランの路線変更

志を持って大いに努力をしたが成果が得られない場合はあります。しかし、最初から志を小さくする必要はないと考えます。自分の価値基準、興味、能力、環境などを勘案して、最善と思われる志をたて、腹を括って努力し行動すれば、欲しい成果を手中にできるでしょう。しかし、それでも報われなかったときは、そのステージで、その時点での自分の価値基準、興味、能力、環境などを再構築し志を変更し、覚悟を決めて努力し行動すれば、自分に適した成果を手中にできると考えます。人生は、限りある期間の中で如何に多くの喜び、充実感を手に入れるかを主要な目的としていると考えますので、先の志を達成できなかったことを引きずるような時間的余裕は無く、新しい志を目指して達成感を楽しめばよいでしょう。

4.おわりに

人生は時間に限りがあり、死は万人に訪れます。しかし、死を忌み嫌っているだけでは、実り多い楽しい人生をプランして実現することは難しいと考えます。若い時に、死を直視し、限りある期間に何を求めて生きるかということを学び考えることが、今、求められているような気がします。さらに、人生には志の実現という成果だけではなく、求める価値のある魅力的な成果が山ほどあります。これらの成果も、限りある期間に適当に散りばめて求めれば、人生を幸せ感に満ちたものにできるのではないでしょうか。

国という集団社会の正しい価値観の脆さ

1.はじめに

英国のEU離脱、トランプ大統領が進める一国行動主義、ヨーロッパ各国で台頭する民族ナショナリズムを見るとき、国という集団社会の正しい価値観の脆さを痛感します。集団社会、特に国の価値観は、国が危機に面したとき、混乱状態に陥ったときなど、野心家の影響を受けて間違った価値観になり、戦争に至ることさえあります。このような悲劇を阻止するためには、正しい価値観を持った国民が、協力して国の価値観が間違った方向に進むことを阻止しなければなりません。そのときにベースになる、正しい国の価値観とは何か、国の価値観は、どのようなときに、どのようにして変容されるか、正しい国の価値観を維持するために何が必要か、について考えてみました。

2.国の正しい価値観

国の正しい価値観の主要な項目は、主権在民、人権尊重、我が国のアイデンティティを明確にした国際協調主義、自衛軍保持ではないかと考えます。国の体制は資本主義が最善とは考えませんが、支配層が固定する可能性の高い社会主義等では、人間の性としてエゴと腐敗が起きるのは必然であり、国民の人権尊重が永続的には保証されないと考えます。主権在民で国の政治を行い、国民が共有する我が国のアイデンティティを大切にしながら国際協調して国際問題を解決するなかで、我が国の主権を侵害する国に誇りをもって対抗するために自衛軍を持つことは、現在の世界情勢から見て正しい国の価値観ではないでしょうか。

3.国の価値観は如何なるときに、如何にして変容されるか

(1)国が危機(外敵、内敵、経済的)に面したときに、ときの支配者層が変容。

例えば、日本の明治維新は、外国の脅威に対抗するために、徳川主権から天皇主権に移行し、国の価値観のベースとなる明治憲法を制定しました。しかし、国民は天皇の民とされ、権利や自由は法律の範囲内において保障されたが、不十分なものが多かったと思われます。

(2)戦勝国の価値観を敗戦国に導入

第2次世界大戦後に、天皇主権から人民主権に移行し、全国民が国の価値観の形成に参加できるようになったと考えます。苦い歴史も直視し正しい国の価値観形成に活かすという個人の価値観は正しいように思います。

(3)支配体制の抑圧に反発して被支配者層が変容

例えば、フランス革命では、財政危機に陥ったフランスにおいて市民や農民が中心になって王政を廃止し共和制を樹立しました。ナポレオン、毛沢東、スターリンのように革命家が独裁者に変身する例が多いことは、正しい国の価値観を維持するためには、不断の努力が必要であるとの警鐘でしょうか。

(4)煽動者、野心家が権力を得て変容

例えば、ヒットラーは、不景気に喘ぐ議会制民主主義のヴァイマル共和国で、社会経済的に低い階層の民衆の迷い、感情、恐れ、偏見、無知に訴えて権力を取得し、民主主義を一極集中独裁指導体制変容しました。

(5)科学的、文化的な変化が起きたとき、その変化に対応して国民が変容

例えば、臓器移植技術の進歩により、脳死で臓器移植が可能になりました。命の尊厳に伴い死刑廃止の国が増加しました。社会的弱者の声を反映した多様性を尊重するなかで、LGBTの権利が尊重されました。生死観の変化に対応して一定条件下での安楽死が容認される可能性もあると考えます。

4.正しい国の価値観を維持するために何が必要か

(1)主権在民、人権尊重を求める以上、各国民が正しい自分の価値観を確立し、変容されようとする国の価値観に関する情報を取得して自ら考察し、変容の良否を判断して表明すべきではないかと考えます。少なくとも日本を良くしたいと考えている人々が、このような態度をとることによって日本が悪しき価値観に支配されることを防止できるのではないでしょうか。

(2)迷い、不安、無関心は、情報不足から生じる場合が多く、政策等に関する情報開示、マスコミの良識は、正しい国の価値観を確立・維持するための根幹と思います。

(3)権力の一局集中が国の価値観を悪しき方向に導くことは、歴史的に多くの事例が証明しているので、絶対に防がなければならないと考えます。

(4)国という集団社会の価値観を正しく維持するためには、各国民が正しい自分の価値観を持つことが必須であります。そのためには、自ら考える力や他人を思いやる心を身につけるとともに、教養、得意分野を延ばす若者教育がきわめて大切であることを、確固たる国の価値観として確立し、真に実行することが不可欠と考えます。

5.おわりに

昨今、国際情勢が複雑化するなかで、世界各地で起こっている出来事を見るとき、何が正しい国の価値観であるかを判断すること、正しい国の価値観を維持することの難しさを感じます。歴史上、国が悪しき価値観を持つに至った背景には、多くの国民の消極的な賛同、あるいな迷いが根底にあったとも言われています。このような歴史的教訓からも、正しい国の価値観を維持するためには、各人が自分の価値観を確立した上で、集団社会の価値観に従うことの安息観や目先の利益を求める欲を自制し、変容されようとする国の価値観について、自らの頭で考察して判断し、その見解を表明する必要があるように思います。多くの人々の自分の価値観が相互作用する多様性が正当性を見つけて収斂し、時代に合った正しい国の価値観を形成すると考えます。

どう生きるかはあなたに委ねられている

1.はじめに

7月の投稿で、人間は存在すること、生きることに価値があり、死後の世界は存在しないようにも思われると記載しました。それでは、何のために生きるのかという疑問が生じ考えた結果、人は心の求めることを行って楽しむために生きるのではないかとの我ながらの結論にいたりました。

2.何のために生きるかはその人の自由

おおよそ6万年の間に、約1000億人が証明してきたように、人が生まれるということは、その人が限られた期間を生きるということです。人がその一生をどのように過ごすか、何のために生きるかは、本人が決めることであると考えます。そして、どのような生き方であろうとも、生きることは結果として後生の人に何らかの影響を与え、生きることをつないでいくことだと思います。

他人から言われた通りに生きる方が楽なこともあるかもしれません。しかし、その人が心の求めることを行って生きる方が、その一生を大いに楽しむことができると考えます。心の求めることを行って楽しむためには、努力や苦労も伴うので、無理なくほどほどの楽しみを求める選択をする自由もその人に委ねられています。このことは、漁港近くに単身赴任したときに、料理を学んで美味しい魚料理を楽しむか、インスタント食品で我慢するかの違いに似ています。料理を学んで美味しい魚料理を楽しむのと同じように、心の求めることを行って限られた期間の一生を大いに楽しむのが生きる意義のような気がします。

3.心の求めること

人は生まれながら得意とする能力、生活環境を異にしており、心の求めることも千差万別であると思います。すなわち、得意分野が相違するとともに、幼少時代から家族や、まわりの人々の価値観の影響を受けて、自らの能力、興味、価値観を形成するなかで、心の求めることが定まっていくものと考えます。

幼児は、両親の資質、まわりの人々や生活環境の影響を受けて興味を抱く対象を絞っていくようですが、なに不自由なく育てられ依頼心過剰になった子供には、心の求めることを追い求める強さを教え、恵まれない環境で育てられ独立心過剰になった子供には、人はだれもが、心の求めることを追い求めていることを教えるのも大切だと思います。

4.心の求めることを行うときの楽しさの大きさ

心の求めることを行うときの楽しさの大きさは、心の求めることを成し遂げる困難さ、心が求める強さ、心の求めることを行うときの熱心さ、行う時間の長さ、達成度合いによって異なると思います。人は、その心の求めることについて、何をどの程度求めるかを任されています。したがって、人は、そのときの自分の価値判断、興味、能力、環境などに基づいて心の求めることを定め、追い求めて楽しめばよいように考えます。

5.おわりに

例えば、バイオリンの英才教育は、親が子供のバイオリンの才能を見つけ、音楽環境を整え、子供自らがバイオリンを心の求めることに定めることにより、やっと成功への門戸を開くことができます。しかし、このような幸運な子は極めて稀であります。現在、日本だけでも約100万人の赤ちゃんが毎年生まれており、才能、周りの人々や環境に100万通りの違いがあり、選択の自由なく好ましくない環境に送り出された子もいます。このような子供も、人は心の求めることを行って楽しく生きればよいことを知れば、虐める子や引きこもる子も減るような気がします。

自分の価値観に従って生きるの実践

1.はじめに

先月号で、「自分が決めた価値観に従って真摯に生きていけば創造主と喜びを共感できると思うと、命ある時間を大切にし、多くの人と喜びや苦しみを共有し、日々充足感をもって人生を楽しめるような気がします。」と述べました。言うは易く行うは難しといいますが、自分の価値観に従って生きるという実行の難しい生き方を見事に実践されたのが、樹木希林さんのように思えたので、彼女の語録をたよりに、この生き方の実行方法を考えてみました。

2.自分の価値観に従って生きるの実践

(1)理性で興味のあることを追い求める価値観は、自信を持って何年も実践できると考えます。

「女優、俳優っていうのをこーんなにやっているとは思わなかった。・・・」、「セリフがあまりない役をずーっとやってきたから、自分で存在感を示していくしかなかった。・・・自分で作っていかないとなりたたない人生をおくってきたから。」

芝居に興味があって好きだったのでしょう。しかし、感情的、肉体的に好きなことは、日常生活での一時の味付け、憩いの場にはなるでしょうが、価値を置きすぎると人生を危うくしそうな気がします。

(2)自分の能力で達成できることを追い求める価値観は、達成感と自信という喜びを期待できると考えます。人には生まれながら得意とする能力に違いがあることは周知のことです。

運動が苦手な樹木さんは、小学6年生の水泳大会で、“歩き競争”を選んで、1,2年生を相手に1等賞になって周囲の同級生から軽蔑されながらも賞品をもらったことを回想して、「これで私はきっと味をしめたんだね。いいんだ、これでって。そのまま来ちゃったわね。私の人生。」

(3)自分の置かれた立場で追い求めることができる価値観は、誰を恨むでもなく人生を楽しくしてくれると思います。

「あのね、・・・年をとるっていうのは絶対におもしろい現象がいっぱいあるのよ。だから若い時には当たり前にできていたものが、できなくなること、ひとつずつをおもしろがってほしいのよ。」

(4)自分の決めた価値観を一番尊重し、長い期間、自分を信じて追い続けるこが、新しい発見、苦労の克服、自信、充実感につながるのではないでしょうか。

「他人と比較しない。世間と比較しないこと。比較すると這い上がれないので。挫折するので。」

(5)他人の目、評価を気にすることは、自分ではなく、他人の価値観に従って行動することになると考えます。他人の評価は、自分が己の価値観に従って行動した結果に対し、他人が表す賛同の意ではないでしょうか。自分の志は大切ですが、人生を楽しむことに軸足を少し移すことも必要かもしれません。

「やったことがほんのわずかだもの。やり残したことばっかりでしょう、きっと。一人の人間が生まれてから死ぬまでの間、本当にたわいない人生だから、大仰には考えない。」

(6)共通の価値観を仲間と追いかけることは、楽しさを倍増するかもしれません。

原田映画監督が樹木さんの追悼記で、―樹木さんは「わが母の記」の撮影最終日、棺に横たわる母を撮る段になり「しめっぽいのは嫌ね。」と言いました。私も同感でした。「だったらこういうの、どう?」と樹木さんが話してくれたアイデアを映画ではそのまま使っています。次女が「入れ歯見つかった?」と姉に尋ね、妹は「どこ探しても見つからないのよ」と答えて映画は終わるのです。―と書いています。

価値観を仲間と追いかける目的は、互いの技量を勉強することであり、相手に勝つことではありません。その辺を間違うと、特に、勝負事の場合、勝負にこだわり過ぎて仲間との関係がぎくしゃくするかもしれません。

(7)命ある時間を大切にし、自分の価値観を求め続けることは、白秋、玄冬の理想の生き方のように思います。

「人間も、十分生きて自分を使い切ったと思えることが、人間冥利に尽きるということだと思う。自分の最後だけは、きちんとシンプルに始末することが最終目標。」

(8)創造主と喜びを共感できる価値観は幸せをもたらすでしょう。

「今日、用事があること(きょうよう)を『今日用』と言っているんですけど、神さまがお与えくださった『今日用』に向き合うことが毎日の幸せなのよね。・・・」

3.おわりに

樹木希林さんは、「薬剤師になるつもりが挫折し、スネかじりで居られたので、ある日、戦後初めて研究生を文学座が募集という新聞記事を見てふっと応募したんですよ。新劇は合わなかったですよ。・・・大した役はつかなかったんですけど。」と回想しています。その後、離婚拒否、女優として活躍、左目の失明、癌、老いと色々な各ステージで独自の価値観を築いて実践するなかで成長を続け、目標もだんだん大きくなって魅力的に成熟されたように思います。

自らの興味、能力、立場は自分を形作る主要なものであり、それらに基づく価値観を実行することは、自己実現であり、命のある限り追い求めるのが望ましい姿であります。ところが、昨今、若者の自殺や引きこもりが多いのは、自分の価値観の形成と実行に不自然な力が掛かっているのではないでしょうか。

小さく産んで大きく育てると言います。自分の価値観も自分の成長につれて自然に大きく崇高にしていくものであり、自分の価値観実現の努力と結果に充足感、他人の評価がついてくるものと考えます。自分の価値観を大切にし、仲間と関わりながら命ある限り追い求めれば、創造主の共感を得ることができると思います。

 

 

自分の価値観

はじめに

人は、自らの興味、能力、立場などにもとづいて自分の価値観を築きます。この価値観に従って立てた目標に向かって行動する過程や成果に喜びや悔しさを感じ、生きていることを実感します。これを司るのが人の心ではないでしょうか。そして、心を支えるのが、生命を維持するための身体と、思考や記憶を行うための脳と、他人と情報を交換するための言葉であると思います。人は、自分の人生や行動を支配し、集団社会の価値観に影響を与える自分の価値観をどのように築くのか興味を持ちました。自分の価値観は、どのように生きるかという大きなテーマから、今日のパーティにどの服を着ていくかなどの日常の選択まで千差万別です。

概念の世界(人が脳内に築いた虚構の世界)

今話題のホモ・サピエンスの認知革命において、人は概念の世界をその脳内に築く能力と、この概念の世界を築いて他人に伝えるのに適した新しい言葉を持ちました。これによって、人は、概念の世界を自由に築き、多くの人に伝えて共有し協力して行動することができるようになりました。この概念の世界を築いて共有するという能力は、遺伝子に記憶されたとされています。しかし、人は、概念の世界を中身の深さおよび広さにおいて創造主の制約を受けることなく自由に脳内に築くことを許されたと思います。

身体の世界にも、生存欲、食欲、性欲などについての価値観があり、生存にプラスになることに価値を認めていますが、ここでは概念の世界における価値観について話をすすめます。概念の世界においても、身体の世界の影響を受けること、およびホモ・サピエンスが概念の世界を共有するという能力を授かって互いに協力し生き残ったという事実から、「人類が協力して生き残るのに役に立つこと」に価値があるということを自分の価値観の原点にすると想像します。この原点は創造主の人類についての思いであると思います。

このように、ホモ・サピエンスは、その「弱さ」を補うために概念の世界を与えられ、「協力」して強くなりました。しかし、「協力」は「弱さ」をカバーして「強さ」をもたらしたものですが、「強さ」と「弱さ」を表裏一体に秘めています。協力の強さは、例えば、「人の役に立ちたい」という自分の価値観を持つ人々が協力して「人の役に立つ」ための一つの目標に向かって行動した場合、大きな成果を期待することができるとともに、協力した人々に大きな充足感をもたらすでしょう。協力の弱さは、人は個の弱さゆえに、自分の価値観を犠牲にして集団の価値観に従って集団に協力する傾向があることだと考えます。例えば、集団の価値観が間違っているときに、良識ある人々が集団から排除される怖れから思考停止し、自分の価値観を隠して集団に協力し、悲惨な結果をもたらした多くの事例があります。

間違った価値観

人は、自分の価値観を、自分の興味、趣味、能力、利害、立場、環境に応じて、他人の価値観や集団の価値観の影響を受けながら自由に形成することを許されています。従って、人は、間違った教育によって、あるいは弱さ、私欲や保身に流されて、創造主の意に反して間違った自分の価値観を持つことがあります。間違った教育によって若者が間違った価値観に洗脳される恐ろしさは、日本海軍の特攻隊、ナチスドイツのヒトラー・ユーゲント(青少年組織)、イスラム国の若者、カルト教団の信徒など多くの例があります。

人は、創造主の価値観に反する間違った価値観に基づいて立てた目標に向かって活動したときは、喜びや充足感を得ることはできません。また、自分の価値観に従わずに他人あるいは集団の価値観に盲従して行動することは、保身、責任回避、怠惰などを優先する間違った価値観に従って行動することになります。ましてや、間違った集団の価値観に従って行動した場合は、集団に協力するどころか自分にも集団にも不幸をもたらすことになります。

集団社会においては、集団に属する個人の価値観が地域的に時間的に多数集まって互いに影響を与えながら取捨選択され、集団の価値観として集約されて人々の観念の世界で共有されます。集団社会は、家族、職場、国など大小様々な集団で形成されます。集団(社会)の価値観は、より多くの人が幸せになることを目指して、集団の社会的、文化的、経済的な発展につれて変化してきたと思います。しかし、集団の価値観は、集団が他の集団と反目したとき、天災、疫病などで存続の危機に面したとき、悪い価値観を持った指導者層に支配されたとき、経済的に困窮したときなどに、創造主の価値観に反した間違ったものになる危険を含んでいます。

正しい価値観

人は創造主の価値観に合った正しい自分の価値観を形成し、それを実現するための活動をしたときは、払った努力の質と量および目標の達成度に応じて喜びや充足感、他人の共感を得ることができます。人は概念の世界を脳内に自由に築いていくことを許されているので、人の強さは弱さと表裏一体であることを常に念頭に置き、正しい自分の価値観を自ら学び、あるいは親近者や良き先輩から教えを受けるように心掛ける必要があると考えます。教育によって正しい価値観が築かれる例として、吉田松陰の松下村塾で学んだ多くの門下生、家庭教師のアン・サリヴァンに教えられたヘレン・ケラーなど枚挙にいとまがありません。正しい価値観を学ぶには、偉人の伝記など参考になる本を読む、魅力のある多くの友人、先輩、師と交友する、歴史から学ぶなど色々な方法があります。しかし、正しい自分の価値観は、己の人生の要となる大切なことであるので、己の興味、能力、環境などに基づいて、学んだことを参考にし、自らの心と頭で真剣に考えて形成するしかないと考えます。例えば、小学生のときは、サッカー選手になるために夢中に練習し、中学を卒業する頃にレギュラー選手になれなくて、そのときの興味、能力、環境などに基づいて見直した自分の正しい価値観に従って選んだ職業およびそれに適した学校を選択し、社会にでるときの自分の価値観に基づいて職場を決め、生き方を変えたいとき又は定年時にそのとき再考した自分の価値観に従ってその後の生き方を決めれば、人生の各ステージにおいて自らが決めた正しい自分の価値観に従って充足感を楽しみながら活動できるように思います。

正しい集団社会の価値観は、集団に属する多くの人々が幸せになることのように考えます。したがって、多くの人が正しい自分の価値観に従って行動する集団の価値観は正しいものになると思います。しかしながら、集団社会の価値観は、集団が存続危機に面したときなど、利己的な価値観を持つ人の影響を受けて間違った価値観になることがあります。このような悲劇を阻止するためには、集団に協力することは弱さを秘めていることを忘れずに、正しい価値観を持つ人々が、保身に走らず、思考停止することなく、集団の価値観が間違った方向に進む過ちを協力して阻止しなければならないと考えます。また、このような過ちを繰り返さないためにも、歴史を正しく記録し、歴史から学ぶことが重要であると思います。

創造主と共に生きる

人は、概念の世界を自らの思いで作るので、概念の世界においては、創造主から独立して生きているといえるでしょう。そして、自分の価値観に従って立てた目標に向かって行動したことにより充足感を覚えると、創造主の共感を得たように思うのではないでしょうか。目標に向かって払った努力の質と量および目標の達成度合いに応じて味の異なる充足感を得るように思います。高い目標に向かって大きな努力している人に、偶然のように創造主の手が差し伸べられたように感じる事例が少なからずあります。このように、人は命のある限り創造主と共に生きるような気がします。

高野山の真言宗においては、人の日常の行為や生活は「身体活動」、「言語活動」、「精神活動」から成り立っており、「真言」を唱えて仏と一体化することが必要であると説いています。真言宗での「身体活動」が身体に、「言語活動」が新言語に、「精神活動」が脳に相当し、「真言」を唱えて仏と一体化することが、自分の価値観に従って行動し充足感を得ることに対応するように思います。

おわりに

自分が決めた価値観に従って真摯に生きていけば創造主と喜びを共感できると思うと、命ある時間を大切にし、多くの人と喜びや苦しみを共有し、日々充足感をもって人生を楽しめるような気がします。