どう生きるかはあなたに委ねられている

1.はじめに

7月の投稿で、人間は存在すること、生きることに価値があり、死後の世界は存在しないようにも思われると記載しました。それでは、何のために生きるのかという疑問が生じ考えた結果、人は心の求めることを行って楽しむために生きるのではないかとの我ながらの結論にいたりました。

2.何のために生きるかはその人の自由

おおよそ6万年の間に、約1000億人が証明してきたように、人が生まれるということは、その人が限られた期間を生きるということです。人がその一生をどのように過ごすか、何のために生きるかは、本人が決めることであると考えます。そして、どのような生き方であろうとも、生きることは結果として後生の人に何らかの影響を与え、生きることをつないでいくことだと思います。

他人から言われた通りに生きる方が楽なこともあるかもしれません。しかし、その人が心の求めることを行って生きる方が、その一生を大いに楽しむことができると考えます。心の求めることを行って楽しむためには、努力や苦労も伴うので、無理なくほどほどの楽しみを求める選択をする自由もその人に委ねられています。このことは、漁港近くに単身赴任したときに、料理を学んで美味しい魚料理を楽しむか、インスタント食品で我慢するかの違いに似ています。料理を学んで美味しい魚料理を楽しむのと同じように、心の求めることを行って限られた期間の一生を大いに楽しむのが生きる意義のような気がします。

3.心の求めること

人は生まれながら得意とする能力、生活環境を異にしており、心の求めることも千差万別であると思います。すなわち、得意分野が相違するとともに、幼少時代から家族や、まわりの人々の価値観の影響を受けて、自らの能力、興味、価値観を形成するなかで、心の求めることが定まっていくものと考えます。

幼児は、両親の資質、まわりの人々や生活環境の影響を受けて興味を抱く対象を絞っていくようですが、なに不自由なく育てられ依頼心過剰になった子供には、心の求めることを追い求める強さを教え、恵まれない環境で育てられ独立心過剰になった子供には、人はだれもが、心の求めることを追い求めていることを教えるのも大切だと思います。

4.心の求めることを行うときの楽しさの大きさ

心の求めることを行うときの楽しさの大きさは、心の求めることを成し遂げる困難さ、心が求める強さ、心の求めることを行うときの熱心さ、行う時間の長さ、達成度合いによって異なると思います。人は、その心の求めることについて、何をどの程度求めるかを任されています。したがって、人は、そのときの自分の価値判断、興味、能力、環境などに基づいて心の求めることを定め、追い求めて楽しめばよいように考えます。

5.おわりに

例えば、バイオリンの英才教育は、親が子供のバイオリンの才能を見つけ、音楽環境を整え、子供自らがバイオリンを心の求めることに定めることにより、やっと成功への門戸を開くことができます。しかし、このような幸運な子は極めて稀であります。現在、日本だけでも約100万人の赤ちゃんが毎年生まれており、才能、周りの人々や環境に100万通りの違いがあり、選択の自由なく好ましくない環境に送り出された子もいます。このような子供も、人は心の求めることを行って楽しく生きればよいことを知れば、虐める子や引きこもる子も減るような気がします。

自分の価値観に従って生きるの実践

1.はじめに

先月号で、「自分が決めた価値観に従って真摯に生きていけば創造主と喜びを共感できると思うと、命ある時間を大切にし、多くの人と喜びや苦しみを共有し、日々充足感をもって人生を楽しめるような気がします。」と述べました。言うは易く行うは難しといいますが、自分の価値観に従って生きるという実行の難しい生き方を見事に実践されたのが、樹木希林さんのように思えたので、彼女の語録をたよりに、この生き方の実行方法を考えてみました。

2.自分の価値観に従って生きるの実践

(1)理性で興味のあることを追い求める価値観は、自信を持って何年も実践できると考えます。

「女優、俳優っていうのをこーんなにやっているとは思わなかった。・・・」、「セリフがあまりない役をずーっとやってきたから、自分で存在感を示していくしかなかった。・・・自分で作っていかないとなりたたない人生をおくってきたから。」

芝居に興味があって好きだったのでしょう。しかし、感情的、肉体的に好きなことは、日常生活での一時の味付け、憩いの場にはなるでしょうが、価値を置きすぎると人生を危うくしそうな気がします。

(2)自分の能力で達成できることを追い求める価値観は、達成感と自信という喜びを期待できると考えます。人には生まれながら得意とする能力に違いがあることは周知のことです。

運動が苦手な樹木さんは、小学6年生の水泳大会で、“歩き競争”を選んで、1,2年生を相手に1等賞になって周囲の同級生から軽蔑されながらも賞品をもらったことを回想して、「これで私はきっと味をしめたんだね。いいんだ、これでって。そのまま来ちゃったわね。私の人生。」

(3)自分の置かれた立場で追い求めることができる価値観は、誰を恨むでもなく人生を楽しくしてくれると思います。

「あのね、・・・年をとるっていうのは絶対におもしろい現象がいっぱいあるのよ。だから若い時には当たり前にできていたものが、できなくなること、ひとつずつをおもしろがってほしいのよ。」

(4)自分の決めた価値観を一番尊重し、長い期間、自分を信じて追い続けるこが、新しい発見、苦労の克服、自信、充実感につながるのではないでしょうか。

「他人と比較しない。世間と比較しないこと。比較すると這い上がれないので。挫折するので。」

(5)他人の目、評価を気にすることは、自分ではなく、他人の価値観に従って行動することになると考えます。他人の評価は、自分が己の価値観に従って行動した結果に対し、他人が表す賛同の意ではないでしょうか。自分の志は大切ですが、人生を楽しむことに軸足を少し移すことも必要かもしれません。

「やったことがほんのわずかだもの。やり残したことばっかりでしょう、きっと。一人の人間が生まれてから死ぬまでの間、本当にたわいない人生だから、大仰には考えない。」

(6)共通の価値観を仲間と追いかけることは、楽しさを倍増するかもしれません。

原田映画監督が樹木さんの追悼記で、―樹木さんは「わが母の記」の撮影最終日、棺に横たわる母を撮る段になり「しめっぽいのは嫌ね。」と言いました。私も同感でした。「だったらこういうの、どう?」と樹木さんが話してくれたアイデアを映画ではそのまま使っています。次女が「入れ歯見つかった?」と姉に尋ね、妹は「どこ探しても見つからないのよ」と答えて映画は終わるのです。―と書いています。

価値観を仲間と追いかける目的は、互いの技量を勉強することであり、相手に勝つことではありません。その辺を間違うと、特に、勝負事の場合、勝負にこだわり過ぎて仲間との関係がぎくしゃくするかもしれません。

(7)命ある時間を大切にし、自分の価値観を求め続けることは、白秋、玄冬の理想の生き方のように思います。

「人間も、十分生きて自分を使い切ったと思えることが、人間冥利に尽きるということだと思う。自分の最後だけは、きちんとシンプルに始末することが最終目標。」

(8)創造主と喜びを共感できる価値観は幸せをもたらすでしょう。

「今日、用事があること(きょうよう)を『今日用』と言っているんですけど、神さまがお与えくださった『今日用』に向き合うことが毎日の幸せなのよね。・・・」

3.おわりに

樹木希林さんは、「薬剤師になるつもりが挫折し、スネかじりで居られたので、ある日、戦後初めて研究生を文学座が募集という新聞記事を見てふっと応募したんですよ。新劇は合わなかったですよ。・・・大した役はつかなかったんですけど。」と回想しています。その後、離婚拒否、女優として活躍、左目の失明、癌、老いと色々な各ステージで独自の価値観を築いて実践するなかで成長を続け、目標もだんだん大きくなって魅力的に成熟されたように思います。

自らの興味、能力、立場は自分を形作る主要なものであり、それらに基づく価値観を実行することは、自己実現であり、命のある限り追い求めるのが望ましい姿であります。ところが、昨今、若者の自殺や引きこもりが多いのは、自分の価値観の形成と実行に不自然な力が掛かっているのではないでしょうか。

小さく産んで大きく育てると言います。自分の価値観も自分の成長につれて自然に大きく崇高にしていくものであり、自分の価値観実現の努力と結果に充足感、他人の評価がついてくるものと考えます。自分の価値観を大切にし、仲間と関わりながら命ある限り追い求めれば、創造主の共感を得ることができると思います。

 

 

自分の価値観

はじめに

人は、自らの興味、能力、立場などにもとづいて自分の価値観を築きます。この価値観に従って立てた目標に向かって行動する過程や成果に喜びや悔しさを感じ、生きていることを実感します。これを司るのが人の心ではないでしょうか。そして、心を支えるのが、生命を維持するための身体と、思考や記憶を行うための脳と、他人と情報を交換するための言葉であると思います。人は、自分の人生や行動を支配し、集団社会の価値観に影響を与える自分の価値観をどのように築くのか興味を持ちました。自分の価値観は、どのように生きるかという大きなテーマから、今日のパーティにどの服を着ていくかなどの日常の選択まで千差万別です。

概念の世界(人が脳内に築いた虚構の世界)

今話題のホモ・サピエンスの認知革命において、人は概念の世界をその脳内に築く能力と、この概念の世界を築いて他人に伝えるのに適した新しい言葉を持ちました。これによって、人は、概念の世界を自由に築き、多くの人に伝えて共有し協力して行動することができるようになりました。この概念の世界を築いて共有するという能力は、遺伝子に記憶されたとされています。しかし、人は、概念の世界を中身の深さおよび広さにおいて創造主の制約を受けることなく自由に脳内に築くことを許されたと思います。

身体の世界にも、生存欲、食欲、性欲などについての価値観があり、生存にプラスになることに価値を認めていますが、ここでは概念の世界における価値観について話をすすめます。概念の世界においても、身体の世界の影響を受けること、およびホモ・サピエンスが概念の世界を共有するという能力を授かって互いに協力し生き残ったという事実から、「人類が協力して生き残るのに役に立つこと」に価値があるということを自分の価値観の原点にすると想像します。この原点は創造主の人類についての思いであると思います。

このように、ホモ・サピエンスは、その「弱さ」を補うために概念の世界を与えられ、「協力」して強くなりました。しかし、「協力」は「弱さ」をカバーして「強さ」をもたらしたものですが、「強さ」と「弱さ」を表裏一体に秘めています。協力の強さは、例えば、「人の役に立ちたい」という自分の価値観を持つ人々が協力して「人の役に立つ」ための一つの目標に向かって行動した場合、大きな成果を期待することができるとともに、協力した人々に大きな充足感をもたらすでしょう。協力の弱さは、人は個の弱さゆえに、自分の価値観を犠牲にして集団の価値観に従って集団に協力する傾向があることだと考えます。例えば、集団の価値観が間違っているときに、良識ある人々が集団から排除される怖れから思考停止し、自分の価値観を隠して集団に協力し、悲惨な結果をもたらした多くの事例があります。

間違った価値観

人は、自分の価値観を、自分の興味、趣味、能力、利害、立場、環境に応じて、他人の価値観や集団の価値観の影響を受けながら自由に形成することを許されています。従って、人は、間違った教育によって、あるいは弱さ、私欲や保身に流されて、創造主の意に反して間違った自分の価値観を持つことがあります。間違った教育によって若者が間違った価値観に洗脳される恐ろしさは、日本海軍の特攻隊、ナチスドイツのヒトラー・ユーゲント(青少年組織)、イスラム国の若者、カルト教団の信徒など多くの例があります。

人は、創造主の価値観に反する間違った価値観に基づいて立てた目標に向かって活動したときは、喜びや充足感を得ることはできません。また、自分の価値観に従わずに他人あるいは集団の価値観に盲従して行動することは、保身、責任回避、怠惰などを優先する間違った価値観に従って行動することになります。ましてや、間違った集団の価値観に従って行動した場合は、集団に協力するどころか自分にも集団にも不幸をもたらすことになります。

集団社会においては、集団に属する個人の価値観が地域的に時間的に多数集まって互いに影響を与えながら取捨選択され、集団の価値観として集約されて人々の観念の世界で共有されます。集団社会は、家族、職場、国など大小様々な集団で形成されます。集団(社会)の価値観は、より多くの人が幸せになることを目指して、集団の社会的、文化的、経済的な発展につれて変化してきたと思います。しかし、集団の価値観は、集団が他の集団と反目したとき、天災、疫病などで存続の危機に面したとき、悪い価値観を持った指導者層に支配されたとき、経済的に困窮したときなどに、創造主の価値観に反した間違ったものになる危険を含んでいます。

正しい価値観

人は創造主の価値観に合った正しい自分の価値観を形成し、それを実現するための活動をしたときは、払った努力の質と量および目標の達成度に応じて喜びや充足感、他人の共感を得ることができます。人は概念の世界を脳内に自由に築いていくことを許されているので、人の強さは弱さと表裏一体であることを常に念頭に置き、正しい自分の価値観を自ら学び、あるいは親近者や良き先輩から教えを受けるように心掛ける必要があると考えます。教育によって正しい価値観が築かれる例として、吉田松陰の松下村塾で学んだ多くの門下生、家庭教師のアン・サリヴァンに教えられたヘレン・ケラーなど枚挙にいとまがありません。正しい価値観を学ぶには、偉人の伝記など参考になる本を読む、魅力のある多くの友人、先輩、師と交友する、歴史から学ぶなど色々な方法があります。しかし、正しい自分の価値観は、己の人生の要となる大切なことであるので、己の興味、能力、環境などに基づいて、学んだことを参考にし、自らの心と頭で真剣に考えて形成するしかないと考えます。例えば、小学生のときは、サッカー選手になるために夢中に練習し、中学を卒業する頃にレギュラー選手になれなくて、そのときの興味、能力、環境などに基づいて見直した自分の正しい価値観に従って選んだ職業およびそれに適した学校を選択し、社会にでるときの自分の価値観に基づいて職場を決め、生き方を変えたいとき又は定年時にそのとき再考した自分の価値観に従ってその後の生き方を決めれば、人生の各ステージにおいて自らが決めた正しい自分の価値観に従って充足感を楽しみながら活動できるように思います。

正しい集団社会の価値観は、集団に属する多くの人々が幸せになることのように考えます。したがって、多くの人が正しい自分の価値観に従って行動する集団の価値観は正しいものになると思います。しかしながら、集団社会の価値観は、集団が存続危機に面したときなど、利己的な価値観を持つ人の影響を受けて間違った価値観になることがあります。このような悲劇を阻止するためには、集団に協力することは弱さを秘めていることを忘れずに、正しい価値観を持つ人々が、保身に走らず、思考停止することなく、集団の価値観が間違った方向に進む過ちを協力して阻止しなければならないと考えます。また、このような過ちを繰り返さないためにも、歴史を正しく記録し、歴史から学ぶことが重要であると思います。

創造主と共に生きる

人は、概念の世界を自らの思いで作るので、概念の世界においては、創造主から独立して生きているといえるでしょう。そして、自分の価値観に従って立てた目標に向かって行動したことにより充足感を覚えると、創造主の共感を得たように思うのではないでしょうか。目標に向かって払った努力の質と量および目標の達成度合いに応じて味の異なる充足感を得るように思います。高い目標に向かって大きな努力している人に、偶然のように創造主の手が差し伸べられたように感じる事例が少なからずあります。このように、人は命のある限り創造主と共に生きるような気がします。

高野山の真言宗においては、人の日常の行為や生活は「身体活動」、「言語活動」、「精神活動」から成り立っており、「真言」を唱えて仏と一体化することが必要であると説いています。真言宗での「身体活動」が身体に、「言語活動」が新言語に、「精神活動」が脳に相当し、「真言」を唱えて仏と一体化することが、自分の価値観に従って行動し充足感を得ることに対応するように思います。

おわりに

自分が決めた価値観に従って真摯に生きていけば創造主と喜びを共感できると思うと、命ある時間を大切にし、多くの人と喜びや苦しみを共有し、日々充足感をもって人生を楽しめるような気がします。

三つの価値観

はじめに

社会の価値観に大きく反しない範囲で、創造主の価値観に反することなく形成した自分の価値観に従って行動することが、生きることではないでしょうかと、問いかけましたので、これら三つの価値観について、それぞれの成り立ち、意味をもう少し考えてみました。

創造主の価値観

NHKスペシャル人類誕生で話題になりましたが、ホモ・サピエンスが地球上で唯一の人類として76億人もが生き残っている理由を、その「弱さ」とそれを補うために進化させた「協力」としています。

ホモ・サピエンスのいとこ筋と言われるネアンデルタールは、言葉も話し、ほぼ互角の知能と屈強な身体を有していたようですが、他人が互いに協力して社会集団を営むための能力を備えていなかったといわれています。

ホモ・サピエンスは、五感で直接感じることができない概念の世界を頭の中に無限に築く能力を遺伝子に授かったように思います。この概念の世界を言葉で共有することによって他人が互いに協力するために必須である相手の心の内を推測し、確認することができます。概念の世界に自分や集団社会の成りたい姿とそれに向かう道程を描いて現実の世界をそれに向かって進歩させてきたのでしょう。これに対しネアンデルタールは、現実の世界における対応能力はホモ・サピエンスより優れていたようですが、概念の世界を築いてそれを相手に言葉で伝える能力が低かったのではないでしょうか。

ところで、ホモ・サピエンスは、概念の世界を築いて他人に伝える能力とともに如何なる価値観を遺伝子に授かったのでしょうか。他人と協力して生きるという価値観のように思われます。

集団社会の価値観

集団社会には、人類社会、国、職場、家族など様々な形態があります。国の価値観は、憲法、法律や慣習で具現されます。慣習は集団社会の昔からの価値観に従って守られてきた掟、決まり事と思われます。家族の価値観は、昔は親父の一言で決まったようですが、今は誰の発言が大きいのでしょうか。

集団社会の価値観は、その集団に属するより多くの人が幸せに生きていけるような社会を作ることがベースにあると思われます。従って、集団社会の価値観は時代、社会を取り巻く外部の環境、内部の状況などによって変化します。

ところで、このような集団社会の価値観は絶対に正しいのでしょうか。例えば、死刑制度は正しい価値観に基づくものでしょうか。より多くの人が幸せに生きていけるような社会を築くことが集団社会の価値判断の要であり、同じ集団社会に属する人達の間には価値観を共有するという暗黙の了解が存在するなかで、同じ集団に属する他人の命を創造主の価値観に反して奪った犯罪者に自らの命で贖罪させる死刑制度は許されるように思われます。

また、戦国大名が戦で多くの首を取った武将に褒賞を与えたことは、創造主の価値観に反しないでしょうか。ホモ・サピエンスの生息数、地域が拡大するにつれて集団社会の数が増え、価値観の異なる集団社会の間で争いが生じるのは当然の成り行きでしょう。価値観の異なる集団社会の間で、戦線を布告した状態で戦が生じたとき、相手の立場に立って考えると、「殺さないと殺される」が相手の心の内と思われます。したがって、戦場という特殊な場所で敵を殺すことは創造主の価値観に反しないと考えます。

しかし、集団社会の価値観が常に正しいとは限りません。例えば、ナチス・ドイツが行った反ユダヤ政策は、ユダヤ人の生きる権利を奪っただけでなく、ドイツを犯罪国に導き、ドイツ人の心に大きな傷跡を残しました。社会に対する発言力が大きい人が、自己の利益を優先する悪しき価値観に基づいて行動すると、集団社会の価値観を創造主の価値観に反する方向に偏向させる大きな力となります。このような悪しき価値観に基づく行動を糾弾するとともに、多くの人々が、自分が不快に思うことは相手に対して行わないという価値観に基づいて具体的に自己表現すれば、集団社会の価値観が悪しき方向に偏向することを阻止することができると思います。

自分の価値観

ホモ・サピエンスは、概念の世界を築いて他人に伝える能力と、協力して生きるという価値観を授かり、頭の中の世界を他人と共有して互いに協力することを強みにし、6万年ほど前にアフリカを離れて世界中に拡散して生き延びてきました。このような成功体験から、ホモ・サピエンスは帰属する集団社会や仲間の役に立つこと、仲間の喜ぶこと、仲間と協力して物事を成すことにますます価値を認めるようになり、かかる価値観に即して設定した目標を達成したときに大きな喜びを感じるのではないでしょうか。さらには、社会に貢献した人を尊敬し、そのような人になりたいと思うのでしょう。

しかし、概念の世界を築く能力を持ったゆえに、嘘をつく者、役に立つことを行ったように振る舞い、尊敬されることのみを求める者、偽りの世界を作って詐欺を働く者などが出現するようになったと思われます。

人は家族集団から人類集団まで大小いくつかの集団社会に属します。従って、大きい集団の役に立つべき行動を小さい集団のために行うと、利己主義的な行動となり、大勢の仲間から非難され、尊敬と信頼を失うこととなります。地球規模の環境問題や世界の平和に取り組むことなく、自国の選挙情勢に汲々とする米国大統領は、人類の役に立ことを行っておらず尊敬するに値しないばかりでなく、米国延いては人類の価値観を創造主の価値観に反する方向に導いているのではないかと危惧しています。

おわりに

したがって、集団社会の価値観に盲従することなく、自分の価値観をその能力、興味、立場等に基づいて確立し、他人が不快に思わないように心してその価値観に基づいて自己表現すれば、楽しく生きることができるのではないでしょうか。さらに、多くの人が毅然としてこのような生き方を実現することによって集団社会の価値観が悪しき方向に偏向することを阻止することができるように思います。最近の地球規模の異常気象、地震・噴火の多発、自分や自国の利益を優先し過ぎる悪しき価値観を持つ多くの指導者の出現をみるとき、ホモ・サピエンスが創造主から見限られないように、遺伝子に組み込まれた弱者の強さ「協力」を発揮してホモ・サピエンスの価値観に基づいた行動を皆が行うときではないでしょうか。

生きること

1.はじめに

先回の投稿では、人は自分の能力、個性、興味にマッチした自分の価値観を形成し、その価値観から生じる自己表現欲求の達成感を追い求めることが人生の楽しさと思われますと述べました。しかし、何のために楽しさを追求するのかの疑問が生じましたので、本稿ではそれについて試案を紹介させていただきます。

2. 宇宙の存在

物質も何もない「無」の状態において、或る条件が成立すれば物質が存在する「有」の状態になるという想像が学者の頭の中でなされました。無限に近い量のエネルギーを内蔵する超微粒子が、「無」に近い状態で存在する状態から偶然に爆発が起こって宇宙が誕生したとするビッグバン理論は容易に信じることは難しそうです。現状から既存の法則などを用いて逆算して宇宙の誕生を説明することは、究極の連続しない部分を爆発という偶然の出来事を持ち出してしか説明できなかったように思われます。そもそも、無限に近い量のエネルギーを内蔵する超微粒子が「無」の状態で存在するとすることに疑問を感じます。

逆に、「有」の状態から「無」の状態になることはどうでしょうか。物質はいくら細かくしてもどのように処理しても宇宙のどこかに浮遊し続け、全く消えて無くなってしまうことがないように思えます。しかし、物質が超微細な粒子に分解した後に、振動か何かのエネルギーになって悠久の時間が経過して「無」の状態なることはあり得そうな気もします。

このように考えると、先ず、「無」ありきか「有」ありきかを論じても意味がなく、宇宙は現に存在するという事実があるので、宇宙の法則に従うように創造されて存在すると考える方が自然かもしれません。

3. 創造主の存在

宇宙の存在と同様に創造主も有りきからスタートするのが自然に感じます。また、「無」の状態から宇宙が誕生したとすると、その創造主を認めざるを得ないのではないでしょうか。さらに、生命は40億年ほど前に誕生したと言われていますが、動植物、特に人間は、偶然に発生し進化してできたものであると考えるのは不可能で、創造主の存在を確信させるものではないでしょうか。

創造主は全知全能であるが故に唯一の弱点を有されていると考えます。全ての能力を有し完全であるということは、自己完結し何ら変化する必要が無くなり、存在しない状態と同じになってしまうのではないでしょうか。その弱点をカバーするために創造されたのが、宇宙や人間などであり、人間は古代から変化しながら創造主の価値観に即した価値観を実現したとき喜びや生き甲斐を感じ、創造主と共に存在しているように思われます。

4. 人間の死後の世界

このように人間は存在すること、生きることに価値があり、死後の世界は存在しないようにも思われます。しかし、死後の世界がないとして、創造主の価値観に反する自己表現を行っても人は喜びを感じることはできないでしょう。全ての人は生きることにより、その人が属する集団の価値観に何らかの影響を与え、死後もその影響を良かれ悪しかれ残すのではないでしょうか。例えば、大きな生き方をした西郷どんは、今でも多くの人に愛され皆の心の中で生きています。昔、三輪車を買ってくれた叔父さんは忘れた頃に私の心の中に現れます。このように、例えば、長い年月に渡って、無数の日本人が色々な場所で営々と築いてきたものが、相互作用して作られ続けるものが日本国の慣習であると思われます。ところが、創造主の価値観に反した自己表現は、それを行った人が属する集団の慣習を悪い方向に導くだけでなく、他のメンバーにも迷惑を掛けることとなるでしょう。子孫を残した人は、死後に子孫が存在し続けますが、子孫を残さなかった人も死後にその生き様に応じた影響を自分の属した集団に残すことによって生き続けると思います。ファミリー、職場、国家、人類なども自分の属する集団の一つです。

死後の世界がないとする考えにおいては、限りある時間で何をしたいか、どのように生きたいかについての権限と責任がすべて自分に委ねられることになります。しかし、やがては自然、世間や自分を愛おしく冷静に眺めることができるようになり、自分だけでなく他人の命、価値観や時間を大切に思い、全ての人々が自己表現することを喜びとできるようになると思います。自分が決めた目標を追って生きている間は、流した汗と涙に応じた喜びを味わうことができるでしょう。また、創造主からご加護と試練を賜るかもしれないと考えると救われるような気もします。

5. おわりに

このように考えると、人は創造主と共に生きることに無上の価値と喜びを感じるように思われます。そして、創造主の価値観に反することなく、自分が属する社会の共通の価値観に大きく反しない範囲で、自分の能力、興味、立場等に基づいて自分の価値観を形成し、これに即して立てた目標を達成するための日々の営みの中に喜びと悲しみを織りなし、さらなる喜び、充実感を求め続けることが生きることではないでしょうか。

自分の価値観を大切に

1. はじめに
昨今の森村学園、加計学園、日大などの一連の騒動において、責任ある人々が虚偽と思われる妄言を恥じることなく吐いているさまを見て、日本国民が長い年月をかけて築いてきた美しい伝統、慣習が損なわれていく方向に動くのではないかと危惧を抱きました。そこで、伝統、慣習延いては人の価値観の形成について興味を持ち、考えついた思いを紹介させていただきます。

2. 生まれながら持っている力
人は生まれながら、生きる欲求、生きる力を持っています。生きる欲求を実現するために、生きる力として五感、記憶力、思考力などの学習能力と創作力を具えています。肉体的な生きる欲求が生命力であり、精神的な生きる欲求が自己実現力ではないでしょうか。生命力は体力の影響を受けるように、自己実現力は感情によって大きく左右されます。感情は、欲求の達成に応じて発せられる心の表現と思われます。肉体的な生きる欲求を満たすために、例えば赤ちゃんはお腹がすき、或いはオムツが濡れて気持ちが悪いと泣きます。授乳し、オムツを替えて欲求を満たすとご機嫌になり笑います。このことから、人間は、肉体的な生きる欲求を満たすと快とし、満たされないと不快とする原始的な価値観を具えています。生命力は食欲、安住欲、性欲など肉体を維持する欲求と考えます。
この原始的な価値観から派生して、人は精神的な生きる欲求が満たされると快となり、自己実現力が高揚して楽しく生きることができると思われます。また、他人から認められたいという価値観は、多くの人と価値観を共有した方が生きて行き易いという原始的なものではないでしょうか。価値観とは、種々の欲求について人が満たすことを求める思いと言えるでしょう。

3. 共通の価値観
人は生きている時の共通の価値観を教育、慣習、経験、生活環境などから学習能力によって学んで形成するものと考えます。従って、真偽、 善悪、美醜についての一般的な価値観も学んで作っていきます。真偽の基準については、例えば、嘘も方便を認める程度は住む世界によって多少異なるように感じます。善悪については、例えば、人を殺すことは絶対に悪いは、切捨御免の時代から大きく変わってきています。美醜についても、平安時代の美人と現在の美人とでは違うような気がします。
人は赤ちゃんのときから両親や周りの人々から社会の一般的な共通の価値観を教えられるとともに、肉体的にも精神的にも大勢で生きる方が楽しいことを知るなかで、社会の慣習や生活環境などに合わせて自分の価値観を形成していくと考えます。

4. 自分の価値観
人は命ある証として自己表現欲求を具えていると思います。従って、自己表現のベースとなる自分の価値観を独自に形成することを求めます。自己表現欲求は大きく、達成したときの喜びは充足感に満ちたものと考えます。この自分の価値観に即した欲求を満たすことが人生を楽しくするキーポイントではないでしょうか。自分の価値観を実現し、他人から褒められたとき、自分の価値観および原始的な価値観に即した欲求が満たされ、喜びも倍増することでしょう。
共通の価値観は各人の能力、個性、興味にマッチしたものではありません。全ての人がノーベル賞やオリンピックの金メダルを狙える才能を具えているわけではなく、自分の能力、個性、興味にマッチした自分の価値観を、共通の価値観に大きく反しない範囲で形成し、自分の価値観に即した欲求を満たしたときに快と感じることが人生の原点、すばらしさと思われます。自分の価値観に従って目標を達成し欲求を満たしたときに達成感を味わい、さらなる快を求めて次の目標に向かうのでしょうか。従って、共通の価値観に縛られていては、自分の価値観に即した欲求を満たすことができず、楽しく生きることはできそうにありません。自分の命は自分だけのものであり、命の証としての自己表現の欲求は自分固有のものであます。例えば、少年野球でサードのレギュラーになりたい、自分に似合う服の色を見つけたいなどが自分の価値観に根ざした欲求ではないでしょうか。他人は人が自分の価値観を実現するために努力する姿勢、なしたことが感動するものであれば賞賛を与えて応援します。お父さん、お母さん、身近に起きた感動に鈍感になっていませんか。もし、子供が興味を持ってカブトムシを飼っているような場合、黒光りして強そうだねと褒めてあげると、子供の自己実現力は高揚し、生きる力が満ちてくることでしょう。

5. おわりに
このように各人が自分の価値観を築いて行動することが、周りの人々に影響を与え、皆が賛同すれば新しい共通の価値観に加えられ、新しい慣習となっていきます。数え切れないほど多くの人々の営々とした営みによって、より多くの人が幸せに生きることができるようにするために共通の価値観、慣習は徐々に変えられていくものと考えます。
ところが、昨今の責任ある人々の妄言は、より多くの人が幸せに生きるためのものでなく、自分の利益を守るためだけのものと感じられます。影響力の大きい人々の妄言は、共通の価値観を悪い方向に偏向させる大きな力となります。このようなときこそ、多くの人々が自分の価値観の品格を堅持して声をあげれば、共通の価値観が悪しき方向に偏向することを阻止することができるのではないかと考えます。

若いときに知る方が人生を楽しめる ー人間が理想に向かうときー

文系と理系の交差点に立てる人にこそ大きな価値がある。これはポラロイド社創業者のエドウィン・ハーバード・ランド氏の言葉ですが、アップル社創業者スティーブ・ジョブズ氏は、「そう言う人間になろうと思った。人文科学と自然科学の感覚を備えた個性の独創性が革新技術、ヒット商品を生む。」と語っています。人々が納得する一文は、作者が込めた意義に含まれると考える状況を読者が付加することによって、その意義の範囲を拡大していく場合があると思います。高僧の教えも弟子のそのような行為によって経典に纏まった場合、あるいは新しい宗派になった場合があるのではないでしょうか。もの事には種々のレベルがあることをわきまえた上で、慣習や道徳に反しない範囲内において、ランド氏の言葉に一つの解釈を加えさせていただきます。文系とは、人間社会の曖昧な法則を研究する分野、理系とはものの一定の法則を研究する分野と解釈します。したがって、文系と理系の交差点は、曖昧な法則を内在する心理と一定の法則を内在する論理の交差点となります。
人々の生活にマッチした商品は、売れる商品になります。インスタントカメラを開発したランド氏、iPhoneを発想したジョブ氏は、当時の人間社会と技術水準の交差点に立って思考し、売れる商品を生み出したと思われます。特に、多くの人々が瞬時に情報交換可能なインターネット化した社会では、多くの人々の生活に直結する情報を取り扱う商品のニーズが多くなります。例えばAI, IoT, 自動運転車など情報を活用する商品の開発には、情報を使う人々の生活と、この商品を実現するための技術との両方を見通すことが求められます。
政治の世界にランド氏の言葉をあてはめてみると、政治家は、政策をフィクサー的に調整して実現するのではなく、得意分野で深い専門知識を有し、社会の曖昧な実情をしっかり把握した上で、政策を実行したときの結果を論理的にシミュレーションして効果的な政策を選択実行して欲しいものです。社会の曖昧な実情をしっかり把握することなく、特定の人のために政策を選択し、或いは虚偽を真実と主張する非論理性は論外ではないでしょうか。また、原因を理論的に把握するには時間を要するので、政治家が早急に論理側に振れすぎて、現場で働く人々の気持ちを傷つけるような行為も慎むべきと思います。
文学、美術、音楽の世界において、作者は技能的に精巧な文章、造形物、音譜を作成する能力を有するだけでなく、己の心のときめきを作品に表現できなければ名作を作ることはできません。また、演芸、スポーツにおいても、プレイヤーの熱い心と磨かれた技がなければ人々を感動させるパーホーマンスを行うことはできないでしょう。
以上ランド氏の言葉をいろいろな分野に敷衍してみましたが、逆に、我々がいろいろな分野で活動するときに心掛けなければならないことは、人間は感性と理性を備えた生き物であることをしっかり認識することでしょうか。自然法則で支配された地球上に築かれた曖昧な法則に従って動く人間社会において、感性と理性を有する人間が品格を備えて楽しく行動するためには、心理と論理の交差点に立つことは、人間が理想に向かうときの立ち位置と考えます。

若いときに知る方が人生を楽しめる

人間は現実の世界で活動し、現実の出来事をとらえ、心に感じ、頭の中に取り込んで記憶し、頭の中に現実の出来事を概念の世界として築きます。さらに、人は頭の中に理論、音楽、各種ルール、ゲームなどを概念の世界で作り、また他の人から頭の中の世界を伝えられて概念の世界を無限に広げていきます。人間は概念の世界を構築し、あるいは他人に伝えるために、言葉、数、記号、音階、ルールなどの約束事を共有して使用します。
人間の大きな特徴は、多数の人間の間で同様の意味を持つ約束事を記憶して共有し、この約束事の意味を多数の人間がそれぞれ同様に理解する能力を、授かっていることではないでしょうか。
約束事によって人間は、本人が理解し、創作し、あるいは感じた様々なことを他人に伝え、この他人も同様に理解し、感じることができます。このように人間は約束事によって、情報交換し、共感し、情報を共有することによって、各人の頭の中に多くの人が共有できる世界を作りながら、また作ることを目的に活動し、望むものを手に入れて喜びや充実感をえます。人間は多くの人と情報や感動を共有することに生きがいを感じる生き物で、一人では生きていけないのではないでしょうか。
言葉は、例えば、木になる赤い果物を「リンゴ」と言い、バナナを食べているお猿さんを見て「嬉しそう」と誰もが理解するために人間が作った約束事です。人は幼少の頃から言葉を幾度となく繰り返して覚えることにより、言葉という多くの人と人との間で共通の道具を獲得します。
新聞記事、史記などの場合、言葉は現実の世界の出来事を表現し、各人の頭の中に同様の概念の世界を築きます。フィクション小説、詩などの場合、作者は頭の中で創作した概念の世界を言葉で表現し、読者は同様の概念の世界を言葉を介して頭の中に築きます。
音階は音の高さを表す約束事ですが、これによって作曲家は音楽を作り、多くの人がこの音楽を歌い、演奏し、共に感動することができます。
数は、現実の世界の物の量を表すために作られた約束事です。例えば、1は、状態(★)の星の量を表す数であり、2は、状態(★★)の星の量を表す数です。数はある状態における「もの」の量を表す言葉の一種です。数学の加減算、乗除算、微積分などは、数(1,2・・・)という言葉をベースに、人の頭の中に作られた約束事の世界です。例えば、足し算(1+2=3)は、状態(★)と状態(★★)とを合わせた(+)状態(★★★)の星(もの)の数を求める(=)との約束です。基本となる約束事を、何をどう約束したかを正確に理解して覚えることにより、頭の中の数学の世界をやさしくどんどん広げることができます。
人間は、現実の世界において、例えば、ある物の量を表す数(x)と別の物の量を表す数(y)とを足すといつも決まった数Aになるという一定の関係を見つけ出すと、この現実の関係を概念の世界で、法則 x+y=A(決まった数)とします。逆に、概念の世界において、数(x)と数(y)との理想的な関係を見つけ出し、現実の世界において、ある物の量を表す数(x)と別の物の量を表す数(y)とが理想的な関係になるようにコントロールすることも行います。このように、人の頭の中に築いた数学という概念の世界は、現実の世界で便利な道具として利用できます。道具として使うときは、例えば、数(x)は距離(長さの量を表す数)を表し、数(t)は時間(出発した時点から時が経過した量を表す数)を表すなどの関係づけを、各人の頭の中の世界でしっかり約束する必要があります。
概念の世界は、約束事を介して過去から現在、将来に渡って人々の頭の中に構築され、他人に伝達されていくものであり、人は約束事によって頭の中の世界を無限に広げて、心を豊かにし、多くの人と共感し、感動を分かち合って人生を楽しむために生きるのでしょうか。