1.はじめに
7月の投稿で、人間は存在すること、生きることに価値があり、死後の世界は存在しないようにも思われると記載しました。それでは、何のために生きるのかという疑問が生じ考えた結果、人は心の求めることを行って楽しむために生きるのではないかとの我ながらの結論にいたりました。
2.何のために生きるかはその人の自由
おおよそ6万年の間に、約1000億人が証明してきたように、人が生まれるということは、その人が限られた期間を生きるということです。人がその一生をどのように過ごすか、何のために生きるかは、本人が決めることであると考えます。そして、どのような生き方であろうとも、生きることは結果として後生の人に何らかの影響を与え、生きることをつないでいくことだと思います。
他人から言われた通りに生きる方が楽なこともあるかもしれません。しかし、その人が心の求めることを行って生きる方が、その一生を大いに楽しむことができると考えます。心の求めることを行って楽しむためには、努力や苦労も伴うので、無理なくほどほどの楽しみを求める選択をする自由もその人に委ねられています。このことは、漁港近くに単身赴任したときに、料理を学んで美味しい魚料理を楽しむか、インスタント食品で我慢するかの違いに似ています。料理を学んで美味しい魚料理を楽しむのと同じように、心の求めることを行って限られた期間の一生を大いに楽しむのが生きる意義のような気がします。
3.心の求めること
人は生まれながら得意とする能力、生活環境を異にしており、心の求めることも千差万別であると思います。すなわち、得意分野が相違するとともに、幼少時代から家族や、まわりの人々の価値観の影響を受けて、自らの能力、興味、価値観を形成するなかで、心の求めることが定まっていくものと考えます。
幼児は、両親の資質、まわりの人々や生活環境の影響を受けて興味を抱く対象を絞っていくようですが、なに不自由なく育てられ依頼心過剰になった子供には、心の求めることを追い求める強さを教え、恵まれない環境で育てられ独立心過剰になった子供には、人はだれもが、心の求めることを追い求めていることを教えるのも大切だと思います。
4.心の求めることを行うときの楽しさの大きさ
心の求めることを行うときの楽しさの大きさは、心の求めることを成し遂げる困難さ、心が求める強さ、心の求めることを行うときの熱心さ、行う時間の長さ、達成度合いによって異なると思います。人は、その心の求めることについて、何をどの程度求めるかを任されています。したがって、人は、そのときの自分の価値判断、興味、能力、環境などに基づいて心の求めることを定め、追い求めて楽しめばよいように考えます。
5.おわりに
例えば、バイオリンの英才教育は、親が子供のバイオリンの才能を見つけ、音楽環境を整え、子供自らがバイオリンを心の求めることに定めることにより、やっと成功への門戸を開くことができます。しかし、このような幸運な子は極めて稀であります。現在、日本だけでも約100万人の赤ちゃんが毎年生まれており、才能、周りの人々や環境に100万通りの違いがあり、選択の自由なく好ましくない環境に送り出された子もいます。このような子供も、人は心の求めることを行って楽しく生きればよいことを知れば、虐める子や引きこもる子も減るような気がします。