プラトンの理想国家ポリティアに学ぶ

プーチン体制の不正で残虐なウクライナ侵攻を他人事として捉え支持する人が多かったロシア国内において、予備役の部分的動員令が発動され危険が我が身に迫ると、抗議デモや市民の国外脱出で混乱が生じていると報道されています。

このような報道に接し、古代アテナイの哲学者プラトンが描いた理想国家および国民をベースに近代における好ましい国家と国民について考えました。

プラトンの描いた理想国家(ポリティア)は、統治者が理性的な知識で国内外の諸問題を上手く解決し、軍人が勇気をもって国家の安泰を維持し、農工商の産業人が欲望を節制して生産に専念するものです。

国民は、知識、勇気、節制を身に着けて、理想国家実現に資することによって幸福になれるとしています。

アテナイ人にとって、国家は人間の生存基盤であり、非国家的な人間は理想的な人間になることができませんでした。

当時、アテナイでは、後に衆愚政治と揶揄される民主政治が行われており、高い徳も能力もない者が統治者になっていました。

このような病めるアテナイを憂い国家のあるべき姿を描いたものがポリティアです。

統治者、軍人、産業人が夫々の徳を有し各職務に専心すれば、国家の徳である正義が実現されるとしています。

このような最高の徳を身につけた哲人政治家が統治するのであれば、国民も国家の役に立てるように努めるでしょう。

しかし、現実には、徳のない統治者が、名誉や富のために利己的に権力を求め、或いは暴力で権力を取得しようとします。

このような現実下では、プーチンの蛮行を防げない責めはさておき、ロシア人の抗議デモや市民の国外脱出に国家に裏切られた国民の悲哀を感じます。

我が国の現状と理想国家との相違点を洗い出し、相違点を如何にすれば小さくできるか検討することによって国民が幸福で強い日本国をつくる糸口にすることができる気がします。

先ず必要なのは、能力が高く国政に専心できる理想的な政治家の輩出です。

各国民が徳の高い政治家を慎重に選挙で選出する弛まない努力が理想国家に近づく第一歩ではないでしょうか。

現実には哲人政治家は存在しえませんので、選出した政治家の行動を国民が注意深く監視し、利己的な政治活動を諫めなければなりません。

さらに、日本国をよくするために国政に携わることを志す高い能力の人が増えるような土壌も必要です。

現代においてもプーチンのような不正な侵略者が出現する以上、国家の重要な役割は、プラトンの時代と同様に、軍が国民と国土を外敵から守ることです。

自衛隊が国軍として勇気をもって日本国を防衛できる体制を構築しなければなりません。

人間は各自が多様な自己実現能力を発揮してそれぞれの目標を達成し、生きる喜びを創造主とともに共感できると幸福になります。

産業人は、科学、産業、芸術、スポーツ、娯楽などの各分野で、自分の才能や興味に合致した「自分のなりたい姿、社会に貢献できる活動」等を目標として設定し、その目標を達成するための努力と結果に喜びを感じながら国家に貢献します。

現在の日本国とポリティアにおいて国家と国民との関係での大きな相違点は、ポリティアでは産業人は国家のために存在するとしたのに対し、現代の日本では民衆のために国家が存在することではないでしょうか。

哲人政治家が統治するポリティアでは、この相違点が国民に大きな負担を負わすことは無いでしょう。

しかし、徳のないプーチンが統治する全体主義国のロシアでは、国民は不正なウクライナ侵略で命を無意味に落とし、或いは兵役を逃れるために国外に脱出するという不幸を余儀なくされています。

民主主義国の日本においても、民衆が過度に自由を求め、欲望を節制することなく国家の調和を乱す活動を繰り返すと、アテナイで起きたように民主政治から衆愚政治に陥落する不幸に見舞われます。

民衆はプラトンのいうように自分の職務に専念するだけでなく政治に関心を持ち、有能で徳のある政治家を選出し、自分の利益を国政に求めるだけでなく、国家にとって有益な意見を発信し、哲人でありえない政治家をサポートし、理性的な知識をもった統治者に育てる必要があると思います。

民主制をより良くできる人を選ぶ

人の不安や迷いを利用し、キリスト教を隠れ蓑にして、我欲を達成した世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の宗教的詐欺師に、日本の二人の首相と多くの国会議員が取り込まれていた事実に強い憤りを感じました。

旧統一教会の設立者が一流の詐欺師であることは、彼が16歳のときに、キリストから再臨主の使命を啓示されたとしながら、人々に何らかの救いも与えることなく、莫大な私財を蓄えて92歳で没したことが示しています。

彼が生前に行ったことは、反社会主義の風潮を目ざとく察知し政治家との関係構築のために行ったまやかしの反共運動、人の悩みや不安に付け入った霊感商法、合同結婚式などです。

これら活動によって迷える子羊を食い物にし、政治家の信頼や力を利用して、低俗な利己的欲望を満たしたに過ぎません。

このような政治家を取り込む詐欺師の活動が、警戒されることなく社会に浸透していた事実を目の当たりにしたとき、人の欲望とその達成方法、いわば人生観は人様々であり、新たに付き合う人や選挙での立候補者の人生観を見極める大切さを再認識しました。

人の人生観を見極めることは至難の業ですが、行動が利己的であるか利他的であるかを判断基準にして人を大別してみました。

人間は、生きる喜びを求めるという利己性とともに、他人や社会に貢献したいという利他性を備えています。

他人の利己性を犠牲にして我欲を追求する人生観は、現代社会に求められている価値観の多様性の範疇外のものでしょう。

1.唯利己主義者

他人を利用し犠牲にして自分の利己的な我欲のみを追求する人を唯利己主義者とします。

カルト宗教家、サイコパス、天才詐欺師などがこれに含まれます。

2.准利己主義者

利他的な活動も行うが、自分の強い欲望を満たすためには他人の利用・犠牲を厭わない人を准利己主義者とします。

例えば、政治家としての地位を保つためにカルト宗教団体と関係を持つ政治家、従業員を食い物にするブラック企業の経営者などがこれに含まれます。

3.貢献願望者

自分の才能や欲望に基づいて設定した目標を達成することによって他人や社会に貢献することに喜びを感じる人が貢献願望者で、大多数の人間がこれに含まれます。

より多くの人が生きる喜びを実感できる社会を協力して築くために、貢献願望者は、唯利己主義者や准利己主義者の利己的な行為に常に注意を払わなければならないと気づかされました。

そして、社会の構築を委託する政治家を選出する選挙では、立候補者の人生観を見極めて投票しなければなりません。

また、政治が家業になると、利己主義的な人間関係も伝承される弊害が生じるので、より多くの人が生きる喜びを実感できる社会を築くという志を持つ貢献願望者が積極的に立候補される必要性を感じました。

4.自己探求者

人や社会との関係より、自分が探求したいことについての知識や技能を高めることに熱心な人で、芸術家、学者、職人などに多いです。

政治や地域社会に関心の薄い貢献願望者も自己探求者に近いでしょう。

民主制は、より多くの人が生きる喜びを求めることができる共生社会を築くための制度として現時点では最良のものだと思います。

自己探求者も立候補者の人生観を見極めて投票し、共生社会を自らの手で築くように心掛けなければならないと感じました。

5.自己喪失者

不安、挫折、恐怖、貧困、虐待などによって利己性より利他性を尊重する自己喪失に陥った人が自己喪失者です。

社会による自己喪失者の救済が不十分である場合、唯利己主義者や准利己主義者が自己喪失者を利用するでしょう。

ロシアのウクライナ侵略において、ロシアの軍人は、プーチンに利用されている犠牲者だと思います。

ウクライナの軍人は、ウクライナを侵略から守るという目標を達成するためにロシア軍と戦いウクライナ国民に貢献することに喜びを感じている貢献願望者でしょう。

人は様々な人生観を有し、他人の人生観を見極めることは難しいですが、社会に貢献することによって生きる喜びを実感するという人生感の貢献願望者を、国民のための政治を行うとともに民主制を改善できる議員に選出し、日頃から活動を注意深く見守ることが必要であると思います。

人間共有の価値観

概念の世界を脳内に築き、これを言葉で他人と共有する能力を備える人間(ホモ・サピエンス)は、約20万年前に誕生したといわれています。

アメリカの学術誌、原子力科学者会報の世界終末時計は、人間滅亡までの残り時間を2022年時点で100秒としています。

人間は、誕生があれば絶滅があることを甘受し、我欲が招く核戦争や気候変動などで生存期間を自ら短くすることなく、世界の人々が各自の価値観を具現化して創造主と喜びを共感できる社会を築くという人間共有の価値観を実現した後に、終焉あるいは次生人類にバトンタッチしたいものです。

人間は、古来、各自の価値観とは別に、人間全体に役立つ、いわば人間共有の価値観を築いて互いに協力し生き延びてきたように想像します。

現在、民主主義国家と独裁国家との間で、それぞれの人間共有価値観が異なり、核戦争さえ危惧されています。

科学技術の発達により各国の距離感が短くなったことによる、経済的、軍事的な利害衝突頻度が増大した現代において、全世界に通用する人間共有価値観が希求されています。

古代においては、狩猟や採集などで生計を立てており、人間共有の価値観は、協力して狩猟や採集を行い食物を獲得することであったと想像します。

農耕、牧畜などの生産経済に移行すると人々は集落を形成し、富や権益の争奪戦を勝ち抜いて多くの集落を国に統合した王様の価値観を人間共有の価値観にしていったと思います。

以降現在に至るまで、地球上で無敵の能力を持つ人間は、天分を忘れ、国の間の戦争を人間の歴史のように繰り返しています。

18世紀末には欧米で、市民が決起して王の価値観に反逆し、自由と平等を求めて自ら政治を行うことを人間共有の価値観として民主主義国家を設立しました。

ところが、民主主義と相性がよく、産業革命で確立した資本主義の発達にともなって帝国主義が出現し、強い国家を形成することを人間共有の価値観にしました。

20世紀にはソ連、中国で、資本主義での貧富の差を解消するために社会主義が提唱され、生産手段を個人で所有せず社会で共有して平等な社会を実現することを人間共有の価値観にする社会主義国家が誕生しました。

しかし、経済活動を国家が管理することは、官僚の汚職、国民の不満・意欲低下などを招き、ソ連は崩壊しました。

中国では共産主義こそ人間共有の価値観であると固執し権力の魔力に捕らわれた中国共産党が政治面で一党独裁を固守し、経済面では共産主義と矛盾する市場経済を導入しました。

民主主義も共産主義も創案者の価値観は、人々の貧富など格差社会の解消であり、これは現世界の人間共有価値観として認められるでしょう。

古代の獲得経済では、権力闘争もなく人々が協力して狩猟や採集を行い、食物を獲得して分配し生計を立てていたので、貧富の格差が小さい社会を築いていました。

人間の歴史は戦争の歴史だと反省しながらも戦争を繰り返しているのは、人間共有の価値観の歴史から分かるように、国が形成され支配者層が出現し、国内外で権力闘争が生じるようになってからのことです。

農耕、牧畜などから発達した生産経済では、食物は豊富に生産されますが、平等に分配されずに格差社会が世界中に蔓延するのは、各自が夫々自分の価値観を持つことを相互に尊重するという心の食物が、教育や啓蒙の不足あるいは支配者層の思惑から人々に平等に分配されていないという精神的格差から生じるように思います。

国の権力者は権力志向で利己的になる傾向があるので、能力に応じた各自の価値観を実現するために人々が互いに協力する国を築くことを、権力者に頼ることなく、弱いホモ・サピエンスが協力して生き延びてきたように、各国の市民みずからが協力して人間共有の価値観にすることが必要ではないでしょうか。

ロシアや中国などの独裁者の利己的行為に対抗するために、民主主義国家の戦争に対応する政策は対処療法として進めざるを得ないと思いますが、精神的格差を解消するという戦争を無くすための根本療法を世界レベルでの市民運動として興隆させることが急務だと思います。

バウマン著 退行の時代を読んで

2017年没のジグムント・バウマンは、著書「退行の時代を生きる」において、ナチスのホロコーストを念頭に置いて人間の内部に潜む残虐性は、文明化の過程でうわべを取り繕ったものの根絶も矯正もされていなく、人間の本性から消えたわけではなかったとしています。

独ソ戦は、残虐性をあらわにした二人の人格破綻者、ヒットラーとスターリンが強迫観念に駆られて繰り広げた殺戮戦であり、勝利国ソ連では、1100万人強の軍人が戦死、行方不明になり、全体では3100万人強の軍人、市民の命が失われました。

独ソ戦勝利を誇るロシア国民には、国のためには自国民および他国民の命を犠牲にしても厭わないとの価値観が根付いているのでしょうか。

その後90年も経たないうちに、スターリンに憧れるプーチンはウクライナを侵攻し、残虐で邪悪な行為を繰り広げています。

人間は、最下層の身体層の上に知能層と心層が重ねられたもので、残虐性は身体層の性状で人間の本性ではないでしょう。

知能層は、コミュニケーションによって他人と共有可能な心像空間を過去の記憶や経験などから脳内に形成し、心像空間に自分の価値観や理想を形成します。

最上層の心層は、残虐性や利己性などの身体層の欲求を抑え、他人への貢献や共存共栄を目的とする種々の目標を達成するために鍛錬しなければならない精神力、例えば、自己肯定力、忍耐力、包容力、集中力、度胸などです。

ヒットラー、スターリン、プーチンは、幼少期に受けた父親からの虐待によって心層に大きな傷を負い、成長期に矯正されることもなく、残虐性をコントロールできずに人間の尊厳を冒瀆しているのでしょう。

人間の存在意義は、各人が多様な才能を発揮して目標を達成し、生きる喜びを創造主とともに共感することだと思います。

同著では、人間は、その残虐性に満ちた自然状態に秩序をもたらすために国家を形成したと述べています。

人間は、有史以来、さまざまな形態の国家を経験する中で、各人が知能層や心層を十分に発育させて存在意義をより高めることができる国家の形態を模索してきました。

現在の民主主義国家は、ジェンダー平等、多様性の尊重などが唱えられ、人間の存在意義を具体化するためによい社会を形成することができると思います。

これに対し、国家の価値観に国民を洗脳する独裁体制国家は、各人が多様な才能を発揮して生きる喜びを体感するという創造主の意思に反するものでしょう。

民主主義国家の国民は、高い知能と成熟した心を働かせ、強い団結と協力でウクライナ支援を継続し、ロシアの残虐行為を阻止すると思います。

今回のロシアのウクライナ侵攻は、ソ連崩壊後再び西側諸国に追い詰められたロシアが、心を病んだプーチン指導者の下で全盛期のソ連に退行を試みた気がします。

ロシアは今回の残虐行為を反省させられることになると思いますが、勝者にも敗者の尊厳を守る対応が求められるでしょう。

バウマンは、民主主義国家は、政治を地方に移譲した結果、地方で同族主義への回帰が進んでいるとしています。同族主義は、国家から個人を解放するものではなく、同じ考え方をする人々が同族集団を作るという思想です。

同族集団は他の集団の考え方を頭から否定するので、よりよい折衷案を生み出す余地がなくなる面があります。

ウクライナ支援に対しても様々な同族集団が現れるでしょうが、民主主義国家は、人間の存在意義を強い心で守り抜くことができると思います。

バウマンは、1980年代から盛んになった新自由主義下では、国家権力を縮小し、自由競争を奨励したことにより、民主主義国家において貧困者が増大するなどの残虐性が増加していると述べています。

民主主義国家において自由競争を唯一無二の政策とすることなく、創造主の意思でもある多様性の尊重を念頭において、自己責任論を多様な価値観の一つとして位置づけ、不平等への回帰を避けなければなりません。

自由競争に疲弊し、同族主義にも癒やされない人々が、自分自身のために生きるという自己への回帰を防止するために、多様な価値観を尊重する政策の実行と社会風土の醸成が望まれます。

全体主義国家に対する危機管理

21世紀に何故、目を覆いたくなるようなプーチン大統領の愚行が出現したのでしょうか。

民主主義国家の全体主義国家に対する危機管理において、技術を含めた通商面で甘さがあったことが一因であると言われています。

そこで、全体主義国家に対する平時からの危機管理について考察しました。

自分の価値観を化体する理想に沿った目標達成の喜びを創造主と共感することが人生の意義と信じている立場から、民主主義に沿った価値観、理想を正とし、それに反するものを誤とします。

人間は、物と時間から成りたつ物質空間と、コミュニケーションによって他人と共有可能な脳内に築いた心像空間からなる現世に目標を定め、「身体」、「知能」、「心」を使って目標達成の喜びを求め、長くも短くもある一生涯を繰り返すもののように思います。

「身体」は、一生涯の間に、成長、成熟し、老化して消失します。

「知能」は、現在の社会情報、知識、思考力に基づいて心像空間を形成し、各種情報、私欲、思考力に基づいて心像空間に自分の価値観や理想を形成します。

知能の一部である知識は、数百世代にも渡って蓄積された知識を吸収し、その上に現世代の知識を積み上げていくことができます。

このため、科学進歩はめざましく、兵器も殺傷能力を飛躍的に増大していきます。

「心」は、欲求および自己抑制力であり、個人一世代限りのもので、年齢とともに向上し、場合によっては稚拙になります。

マズローの欲求5段階でいうと、1段階目の生命を維持する生理的欲求が原始的で一番強く、5段階目の自分の理想を実現する自己実現欲求が最上位ですが一番弱いでしょう。

これが、総論では理想に賛同し、各論ではパンを優先する人間の性の素であり、反面、理想に沿った目標達成の喜びが大きくなる素だと思います。

自己抑制力は、欲求をコントロールする能力であり、執着力、忍耐力、行動力、自己肯定力、自信、集中力、度胸、協調力、包容力などです。

心の発達は、自分の目標を達成するための動機付けとなる欲求と、他人、集団、環境のために自分の欲求を抑制する自己抑制力とを適切に調整する心や、パンを我慢して理想を求める心に近づくことでしょう。

個人の価値観や理想は、欲求、能力、取得知識、成長過程、現状などの個人情報、および世論、国民の価値観、国状、国の歴史などの祖国情報に基づいて形成されます。

プーチン大統領は、一部の国民の価値観、祖国の歴史や現状、個人の欲求、成長過程や現状などから、多くの人々や現世が望まず、創造主の意思に沿わない自分の価値観を化体したソ連帝国という誤った理想を形成したのでしょう。

ソ連帝国は約70年も昔のことであり、世界状勢は現代と大きく異なり、兵器も知識の積み上げで飛躍的に殺傷能力が高くなっている現在のものと異なります。

ところが、プーチン大統領の自己抑制力は、70年前の指導者より向上せず寧ろ権力欲と加齢で稚拙になっていたのでしょう。

プーチン大統領は、時代錯誤した理想と、稚拙な心と、殺傷能力が飛躍的に高くなった兵器とがミスマッチングした状況下で、多くの人々や現世が望まず、創造主の意思に沿わないソ連帝国という誤った理想の実現に向かって行動を開始したと想像します

このような国家指導者の誤った理想を実現するための行動を阻止するための危機管理が強く望まれます。

危機管理の面から、国家指導者の自己実現欲求に基づく価値観や理想が、多くの人々や現世が望むことか、或いは創造主の意思に沿うものか否か平常時から監視し、必要な対策が講じなければなりません。

例えば、対象国の指導者が持っている価値観や理想が誤ったものである度合いを人工頭脳AIを使って判定し、危険値に応じた対策、例えば最先端技術の輸出禁止などを平常時から講じます。

AIへの入力は、指導者の欲求、成長過程、現状などと、祖国の世論、国民の価値観、国状、歴史などが必須項目です。

全体主義国家では、国民は国家のために存在するものであり、国民の価値観もそのように洗脳されています。

全体主義国民の価値観を具現化することは、自分の存在意義である国家が大きくなることであり、指導者が国民の支持を得るために覇権主義を取ることは必然です。

覇権主義を本質的に備えている全体主義国家が存在する以上、各民主主主義国家は応分の軍事力を備え、覇権の実行を一体となって抑止しなければなりません。

全体主義国家との通商は、その国民の個人主義的価値観の理解度に応じて制限する程度の配慮が必要だと思います。

民主主義国家においても、個人の尊重は理想ですが、パンへの欲求はもっと強いです。

民主主義国民が全体主義国家に対する危機管理から生じる経済的な不利益を我慢し、必要な対策の実行に協力することは当然の責務でしょう。

人間の価値観の形成には長い年月を要し、国民の3割ほどの価値観を変えるには半世紀ほども掛かります。

開発途上国への経済支援においても、パンと個人の尊重とをセットにし、少なくとも50年間危機感をもって続けないと、民主主義を根づかせることはできず全体主義の後塵を拝する恐れがあります。

国民は国家のために存在するものであるという価値観を有する全体主義国家の国民も、個人の能力、興味にマッチした各人の価値観を形成し、自分の価値観を化体した理想に沿った目標を達成する喜びを創造主と共感できる世界になることを願います。

平穏な市井生活の喜び

創造主は「無」の対極の「有」を永久に明示し続けるために宇宙を創造されたと想像します。

そして、人間の存在意義は、各自が多様な自己実現能力を発揮して目標を達成し、生きる喜びを創造主とともに共感することではないでしょうか。

人間は、生きる喜び存在を強く現出するために、生存欲、生存するために必要な基礎的な判断基準と学習能力および集団で行動する集団脳、概念の世界を大脳内に構築して他人と共有する概念共有能力などの、謂わば自己実現能力を生誕時に授かっていると思います。

そして、千差万別な生きる喜びを現出するために、自己実現能力は個人毎に生来異なり、生活環境、学習内容、年齢等よって様々な方向に成長し変化するのでしょう。

ロシアの暴挙、中国の独善、独裁国家の増加、核兵器への依存、地球温暖化、格差拡大など人類にとって極めて深刻な問題が地球規模で起こっており、人間は、創造主の意図に反し、その存在意義を薄弱にし、延いては生存を危うくしているように感じます。

例えば、訳ありげな価値観の実現を目標に掲げて自己保全のために侵略行為を行なう独裁者と国家権力は、平穏な市井生活を犠牲にし、人間の生きる喜びを悲しみに暗転しています。

独裁者に惑わされた国民の一部は、自己実現能力を放棄して衆愚に転落しています。

独裁者と国家権力および衆愚だけでなく、権力を自己実現の目標に設定する権力志向者、産業革命後に高度に発達した物質文化を貪欲に追い求める一般市民も、各自に適した目標を達成して歓喜する人生の意義を問い直す必要があると思います。

自己実現能力は、正しい教育によって適正に発達し、各自に適した目標を達成可能にし、生きる喜びを実現します。

反面、自己実現能力は存在を強く現出するための能力ですので、教育を誤ると利己心、権力志向、自己顕示欲、自己保全の過大なものになります。

科学、産業、政治、芸術あるいは運動などの各分野で自己表現能力の高い人は、能力を活かして多くの人々や各分野のために貢献することで大きい喜びを実感することができるでしょう。

このように、権力は社会が社会に貢献した者にさらなる貢献を期待して与える手段であって、個人が自己実現能力を発揮するために設定する目標にはふさわしくありません。

権力志向や物質文化を偏重する風潮が、現在地球規模で起こっている深刻な問題の温床になっている気がします。

例えば、平穏な市井生活、ゴミのない社会を目指すボランティア活動などは、自分の能力を発揮するための立派な目標であると思います。

創造主は「無」の対極の「有」を永久に明示し続けるために、人間が生きる喜びを創造主とともに共感することを期待して、宇宙に人間を存在させたと想像します。

人間が生きる喜びを永久に現出するためには、自ら生存を危うくするようなことがあってはなりません。

各自が多様な自己実現能力を発揮するために設定する様々な目標は、永久に続く営みにおいては同程度の意義を持つでしょう。

しかし、各自の人生は有限ですので、自己実現能力の高い若者には、人間の多様性と、精神文化を尊重する教育を十分行なった上で、自己の能力にふさわしい高い目標を設定するように励ましたいと思います。

ウクライナに勝利を

ウクライナ戦争がウクライナ勝利で早く終結することを希求するなかで、戦争犯罪者に凋落したプーチン独裁者への憤り、人間の弱さに対する虚しさと強さに対する期待、国家権力が国民に与える利害を思いながら、人間が行う行為とその動機について考えました。

人間は生きるための判断基準と学習能力を生まれつき備えています。

例えば、産まれて間もない赤ちゃんも甘いミルクは飲みますが、渋いお茶は吐き出して二度と口にしません。

このことから、行為の動機となる個人の価値観は、生きることに有益な行為は善、有害な行為は悪であるという生来の価値基準が根底にあると思います。

人間は、このような判断基準と学習能力をベースにして自ら行動し、学習し、他人や社会から教えられ、行為に対する自分の価値観を築きます。

人間の行為は、動機によって「行うことを欲する行為」、「行わなければならない行為」、「行ってはならない行為」に区別されると思います。

「行うことを欲する行為」は動機が欲求であるので欲求行為と呼びます。

「行わなければならない行為」は、動機が義務的であるので、義務行為と言えるでしょう。

「行ってはならない行為」は、その行為が有害であるという動機で禁止するので禁止行為とします。

欲求行為は、心理学者アブラハム・マズローの欲求5段階説など種々研究されていますが、自分の能力や興味に基づいて自らが設定した目標に向かって行動し達成したときに実感する存在意義や喜びは、人間の生きることへの動機とも言えるでしょう。

創造主が人間に望まれることは、各自の善い欲求行為を互いに認めて尊重し、協力してより多くの人が楽しく生きることだと思います。

従って、欲求行為でも、例えば、薬物使用や詐欺など自分や他人の善い欲求行為を害する行為は悪い欲求行為でしょう。

人間の知的活動を模して創作されたコンピューターは、出荷時には、学ぶ能力や外部からの要求を取捨する能力を基本ソフトに記憶されているだけですが、学習させることによって、例えば人工知能のように驚くほどの能力を有するようになります。

コンピューターが偶然に出現し得たものではないのと同様に、人類は突然変異で誕生したものではなく、創造主の人間と共に喜びを共感したいという動機から創造されたものであると推測します。

義務行為は、望むか望まないかに拘わらず自分、他人、あるいは集団や国家のために行なわなければならない行為です。

例えば、つらい練習をすること、疲れているときに老人に席を譲ること、当番で掃除をすること、税金を払うことなどが義務行為でしょう。

禁止行為は、例えば悪い欲求行為、脱税、侵略などのように自分、他人、自国あるいは他国にとって有害な行為です。

ロシアのウクライナ侵略は、プーチン独裁者の利己的な行為が4千4百万人強のウクライナ人の善い欲求行為を蹂躙し、創造主の意思に反する禁止行為であることは明々白々です。

ゼレンスキー大統領やウクライナ兵および市民は、独裁者の悪と戦うために行なわなければならない戦闘義務を、愛するウクライナ国を守りたいという善い欲求行為に昇華して勇敢に戦っているように思います。

逆に、ロシア兵は、戦闘義務を独裁者から強要され、禁止行為であるにも拘わらず、創造主の意思に反して戦わなければならないという悲劇に見舞われている気がします。

ウクライナに勝利を

基礎的な学習内容 その2

今回は、学習課目の道徳、体育、芸術や美術、社会や理科における基礎的な学習内容を提案します。

文部科学省は、児童生徒が生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けるために、道徳教育の充実を図っているとしています。

生徒が道徳性を知識として学習することも大切ですが、好きなことの知識や経験を積んで脳内の概念の世界を拡大していく楽しみ、成長段階に応じて設定した目標を達成する喜び、多様性ある人々と協力し物事を成す喜びなどを体験学習することによって道徳性が血肉となるものと思います。

これには、子供が築いた概念の世界の話を聞き、目標設定のアドバイスをし、色々な人と接触する機会を作るなど、多様性ある子供の身体、知能、心を使った個性に応じた実体の世界での活動がベースになると思います。

先祖から引き継いだ生命を大切に思う心は、本能だけでなく、各人の活動から得られる喜びや感動などによって育まれるものと思います。

昨今の権威主義下での弱者の軽視、民主主義下での強者の尊大をみるとき、生きる喜びや感動を創造主と共に共感する生甲斐を若者に体感させたいものです。

体育で学習する対象は、主として身体を目的に合わせて効率的に動作させる能力です。

例えば、徒競走で生徒が早く走っている状態は、「実体の世界」での出来事で、生徒は脚や手などの筋肉を上手く使って疾走します。

しかし、ゴールした後に先生が生徒に、「膝をもう少し上げた方がもっと速く走れるよ。」とアドバイスしたとすると、それは先生の「概念の世界」で生徒が走っているフォームについて述べたものです。

生徒が前より速く走るという目標を立て、先生のアドバイスや自分の概念の世界に蓄積した速く走るための情報に従ってフォームを修正し、実体の世界で練習を繰り返し、次回の徒競走でもっと速く走る喜びを体感することが体育で学習することだと思います。

体育は、身体、知能、心を使って目標設定、実行、達成のサイクルを比較的分かりやすく容易に繰り返すことができるように思います。

芸術で学習する対象は、人が心に抱く思いや感情です。

表現者の思いや感情は、その生死に拘わらず、文芸、美術、音楽、演劇・映画などの媒体を介して鑑賞者の概念の世界に復元されます。

表現者は、自分が抱いた思いや感情を実体の世界で表現して鑑賞者の共感を得るために感性と表現力を磨きます。

鑑賞者は、表現者の思いや感情に共感するため、或いは表現力を学ぶために表現物を鑑賞します。

学習科目の社会では、例えば、多様性ある人々の個性を個人および社会に有効に活かす仕組みなど、個人と社会の関係について考えることが求められます。

また、過去に人間が行ってきたことを歴史として書物や文化遺産などで学習し、各自の概念の世界に復元します。

歴史を学ぶ一つの意義は、独裁政治や戦争などの過去の過ちを繰り返さないためにあると思います。

しかし、歴史は人々の概念の世界に築かれた過去の出来事であるので、利己的な為政者や思想家などに歪曲されないように注意しなければなりません。

理科では、実体の世界の物事の性質を学習し、あるいは発見し、言葉や記号や数式で各自の概念の世界に復元します。

そして、物事の性質を利用し、実体の世界において、例えば産業に役立つ技術や病気を治す医療などを開発します。

生徒が、上述のような学習の出発点のようなことを分かりやすい言葉や例題などによって理解すると、自分の概念の世界を広げていく面白さを知り、興味を持ったことについて主体的に学習するようになると思います。

国民の幸福度が低く、国力の相対的低下が危惧される日本において、親や社会の価値観を押付けることなく、子供が持っている興味や才能を気づかせる教育をすることによって、各自の個性に応じた豊かな概念の世界を築き、チャレンジ精神や幸福度の高い国民が増加するのではないでしょうか。

基礎的な学習内容

今月は、先月投稿した共生主義日本国の教育システムを通して、若い人が学ぶと人生をより楽しむことができると思われる基礎的な学習内容を提案します。

例えば、母親が娘に留守番を頼むときに、「あなたの側にいる実体の母は出かけるけれど、あなたの頭の中にはあなたが覚えた母の顔や臭いが概念の世界の母としているから、淋しくなると思い出して我慢してね。」、「あなたと兄さんの頭の中にいる二人の母さんは、似ていると思うけど、どれ位違うのかな。」等の会話を通して概念の世界を幼い子供に徐々に理解させていくことができる気がします。

幼い子供が概念の世界を理解することは難しいと思いますが、様々な工夫と経験を活かして時間をかけて理解させることが必要と思います。

人間が他の動物と大きく異なる点は、5感で感じた「実体の世界」での物事を記憶し、脳内に「概念の世界」を構築し、各自の概念の世界を言葉、絵図、音などを使って他人と共有することができることです。

人は身体、知能、心の三要素から成りたち、個々に相違する三要素に基づいた個性を有します。

そして、個人の成長段階での個性に適合した目標を設定し、この目標達成に喜びを実感しながら、三要素の総合力を成長させていくことが人の生きる意義の大きな一つであり、そのことを人はより若い時に知ることで人生をより楽しくできると思います。

生徒は学校で、国語、算数、理科、社会、体育、音楽、美術など多くの科目を学習します。

各科目で学習する対象の大まかな特徴と学習した対象をどのように利用するかについて知ると、生徒は主体的に学習するようになると思います。

人間は実体の世界における物事、例えば物、物の状態や動き、人の感情などを記憶し、記憶した物事で自分の概念の世界を構築します。

言葉は、先ず自分と他人とが同時に見聞きすることができる実体の世界における物事を表現する符号として自分と他人との間で共有されます。

そして、自分と他人は、言葉を仲介にして自分の概念の世界の物事A1と他人の概念の世界の物事A2が実体の世界における物事Aに対応するものであると認識します。

このようにして言葉は、各自がその概念の世界に記憶した現実の世界での物事や自分が創作した小説や思想などの創作物を他人の概念世界に持ち込んで共有することを可能にします。

しかし、自分と他人では同じ物事Aでも理解や興味が異なるので、自分の概念の世界の物事A1と他人の概念の世界の物事A2は同一にはなりません。

国語は、物事を約束に従って言葉で表現することを学ぶ科目ですので、理論的な面もあります。しかし、国語の対象である言葉は変化する社会の出来事や微妙な人間の感情などを表現するために変化し矛盾を内包せざるをえなくなることもあり、国語は非理論的な面もあるのでしょうか。

言葉は、現実の出来事だけでなく心の産物である感情を他人と共有するための大きな手段ですので、国語では、言葉の使い方だけでなく、他人を思いやる気持、志に向かう勇気など人の心も併せて学習できるようにするとよいのではないでしょうか。

算数で学習する対象は、概念の世界において数を約束に従って理論的に取り扱うことです。

数も実体の世界での物の個数、長さ、重さ、時間などの量を表現する言葉の一つとして各自の概念の世界に形成されるものです。四則演算も実体の世界での「加える」、「減じる」、「同じ量を複数回加える」、「一つの量を等分割する」を概念の世界において数字と符号+,-,×,÷を使って形成したものです。

概念の世界で「10進数」、「0」、「負の数」、「四則演算」、「関数」などが創作され、その後、これらと理論的に矛盾を生じない新しい考え方が次々に創作されました。

各自が概念の世界に構築した数に関する考え方や法則は、実体の世界でグラフや式として紙等に記載することによって他人の概念の世界に容易に取り込むことができます。

また、数は実体の世界で物の個数、長さ、重さ、時間などの量を示すだけでなく、異なる種類の量から別種類の量を算出し、或いは異なる種類の量の関連性を表すことができます。

例えば、数は、物体が移動した距離を表す数を移動に要した時間を表す数で割った数によって物体の移動速度を表すことができます。

今回は紙面の都合上これまでとし、主として身体を学習の対象にする体育、心を対象にする音楽や美術、実体と概念の世界の物事を対象とする理科や社会については次号に回します。

共生主義日本国の学習システム

国の学習システムは国家の根幹を成すものであり、各国ともより優れた学習システムを模索して試行錯誤を繰り返しています。

国力は、国の経済、政治、軍事、文化、福祉などの総合力です。

従って、学習システムにおいて国家の実益を優先し過ぎると短期的には国力が高揚しますが、長期的には国民が疲弊し幸福感が低下して国力が低下すると思います。

共生主義日本国の学習システムは、各国民が自分の目標達成に喜びを感じて生きるための能力を習得するとともに、日本の国力高揚におおいに資するものでなければなりません。

学習システムには、家庭・学校・社会での教育、自己学習、社会風土からの示唆などがあります。

人間が誕生後最初に受ける教育は、家庭教育です。

両親の深い愛情と後ろ姿は、人の生きる大きな力になります。

さらに、両親が躾、生まれ持った才能を活かして生きることの喜び、忍耐力、自他個性の尊重などの基礎能力を子供に授けることは、国民育成の基礎であるとの社会通念を醸成する必要があると思います。

日本の学校教育は、2020年教育改革で思考力重視の方針が出されていますが、まだまだ道半ばの状態ではないでしょうか。

何のために生きるか、勉強するのか、言葉(数字を含む)によって頭の中に構築し言葉によって他人と共有する概念の世界と現実の世界との関係について考えるなど、若い時に自分の頭で考えて論理立てする思考力を鍛えることは、国民が生まれ持った才能を活かして楽しく生きる能力を習得すると共に、国家が科学技術、産業、政治、文化など全ての面で国力を向上するのに有効であると思います。

また、例えば、図工が95点で、国語、算数が40点のA生徒より、図工、国語、算数が60点のB生徒の方が、成績を上位とするような順位付けには弊害がないでしょうか。

A生徒の方がB生徒より劣っていると受け止めかねない評価をすることは、人間の才能は生来多様であることを忘却した人格無視の気がします。

A生徒については、図工においてトップクラスと評価し、国語、算数については社会常識として必要な程度の知識は身につけましょうとコメントすることで、A生徒は、自分の才能で力強く生きる能力を伸ばし、国家に貢献する国民に育つと考えます。

自己学習は、生まれ持った才能を活かして成し遂げたい目標を達成するという欲望を工夫と努力で追い求めるうちに学習することだと思います。

学校教育として、ドイツのように小学校卒業時に、就職を前提とする基幹学校、実務的な職業教育を受けるための実科学校、大学進学のためのギムナジウムから一つを選択する3分岐型教育は、10才で自分の才能を見極めることの困難さ、早くから進路を振り分けることで教育格差、ひいては所得格差が拡大するなどの弊害が生じているようです。

これらを踏まえて共生主義日本国では、中学校に自分の才能、成したいことを見極めるためのカリキュラムを用意し、進路を自ら決定した生徒は、成したいことに応じて選択した例えば、科学、職人、芸術、スポーツなどのコースで学習するというような、個人の生甲斐および国益に供する教育制度の創設が望まれます。

コース選択の誤りに気付いた場合、学生時代はコース変更を可能とし、社会に出た後は選択し直したコースで学習できる福祉政策と関連づけることも必要だと思います。

個人は社会風土からも多くのことを示唆され、自分の価値観の形成に大きな影響を受けます。

現在日本の社会風土は、多様性より均質性を志向する傾向が強いように感じます。

しかし、人間の素質や生活環境は生まれつき個人差があり、各人の成したいことは多種多様です。

自分の成したいことを目標に定め、生まれ持った才能を活かして目標達成に努力することは、社会的評価に関係なく、自分にとっては工夫と喜びの詰まった生きた証になると思います。

勿論、目標達成の成果が他人や社会に貢献し、感謝や称賛を受ければ、喜びは一層大きなものとなるでしょう。

また、安全志向で保守的な国民性からでしょうか。日本社会では、失敗を怖れて冒険しない、敗者復活が困難であると一般的に言われています。

このような日本社会の弱点も多様性を尊重する教育を受けた人々によって改善されていくと思います。

各国民が生まれ持った才能を活かして能動的に生きる国家は、経済的、文化的に豊かで堅牢な国家になると確信します。