二律背反が示唆すること

カントは、四つの二律背反を人間の理性で理解できないこととしています。

一 時間、空間は有限か、無限か

二 物体はどこまでも細かく分割できるか、できないか。

三 人間は自由意志で風習から独立できるか、できないか。

四 創造主は存在するか、しないか。

人は二律背反の両者と上手くつき合うことによって成長できるということも、人生において大きな二律背反のようです。

何事にも焦らず、怠けず、諦めず。

自分の能力にとって狭すぎず広すぎない舞台で、焦らず、怠けず、諦めずに自分の価値観を追い求めることができればすばらしいと思います。自分の志に向かって一歩一歩、各ステップでの身近な目標を達成できた喜びを味わいながら、楽しい人生を若い時から実感できるのではないでしょうか。死後に無限の幸せを永久に手に入れるとの思いは想像できません。

数字の1は、物体ではありませんが、どこまでも細かく分割できます。観念の世界は無責任で気楽です。

カントの没年は1084年であり、核分裂の発見は1938年ですので、カントも原子の核は想像できなかったでしょうが、生物の細胞は顕微鏡で見ていたかもしれません。現代、物質を構成する最小の単位とされている素粒子も将来さらに分割され、創造主の世界にたどりつくような気がします。

究極的に、自分の価値観を優先するのか、集団の価値観を優先するのか。

人間は肉体的にも、精神的にも集団に属してしか生きられず、集団を統治する何らかの体制がないと争いを止められない集団動物であることは、長い人類史からみて真実のようです。これは、何にも負けないように戦って生き続けることを宿命として創造主から授かった性の副産物であり甘受しなければならないでしょう。

こんななかで、君主のために生きる。市民の総意を価値観にする。宗教の教えが正しい。国のために生きる。政党の価値観が絶対だ。基本的人権が最優先する。など様々な試みがなされてきました。未だに正解は見つからず模索が続くのでしょう。

多くの人々の生き方を眺めるとき、自分のしたいことの実現に向かって努力し、結果を出している人は、結果が世俗的に小さなことであっても、いきいきと楽しく生活されています。これも帰納法的に真実のようです。

世界の現状、指導者を一望するとき、不適格な指導者の価値観が強く反映する集団の価値観に従う国民の多くが、不満足な生活を強いられているように感じます。

集団の価値観が個人の価値観に大きい影響を与えることも事実です。集団や他人の役に立つこと、認められることを成したいと欲するのは自然な欲望です。

争い、利己心、嫉妬、嘘などが、生き続けるための性の負の面として現れることも真実として受け止めなければならないでしょう。

これらを考えると、集団のためにではなく、人が生き続けるために役に立つと思える自分のしたいことを目標に定め、達成する喜びを感じることが、宿命を果たしたときに創造主から授かるご褒美ではないでしょうか。

この褒美をもらう各人の権利が、いかなる他人も、集団も奪うことができない基本的人権のように思います。

人々が楽しく生き続けるためには、自分の目標を追い求める各人の生き方を認め合い、助け合い、人類の存続を脅かす敵に対しては協力して戦うことがベースになるのではないでしょうか。

創造主は、存在を身体と知能と心で表現し実感することを人間に託されたと推察しますので、創造主は存在されるのではないかと思います。

苦労が大きいほど、成長できて喜びも大きくなるという真実も、我慢とご褒美の二律背反でしょうか。

人が生き続けることとは

心理学者アブラハム・マズローの欲求5段階説によると、人間の持つ5つの欲求を、生命を維持する生理的欲求から、安全に生きる安全欲求集団に帰属する社会的欲求、他人に認められる承認欲求自分の理想を実現する自己実現欲求へと、生き続ける上で基礎的な欲求から高尚な欲求に向かって順位けしているように思います。

しかし、このように欲求を順位付けすることは、人々が「心」を躍動させて生きる喜びを謳歌することの障壁になっているような気がします。

人間は一生の間、5つの欲求を順位付けすることなくずっと持ち続けています。

寧ろ、生きるために大切な欲求という観点では優先順位が逆転します。そこで、欲求5段階は、生命を維持する欲求から自分の理想を実現する欲求へと、生き続ける上で必要性の高い方から低い方に順位付けしたものと考えると「心」の負担が軽くなると思います。

生命を維持する欲求

人間は生き続けること(「無」の対極の「有」である存在)を創造主から委託されていると思います。

したがって、生きるベースである生命を維持する生理的欲求は人にとって一番大切なものではないでしょうか。また、人間は世代を繋いて生き続けるものですので、子孫を残す欲求も自然なことと思います。

人が他人の生命を奪うことは、他人が自分と同様に一番大切にしている欲求の実現を奪うことであり、さらには、人類の存続を否定することにつながり、絶対に許されることではありません。

安全に生きる安全欲求

人間は存在を具現化するために多様性と変化を備えて生き続ける生きものです。生き続けるためには安全な環境が不可欠であり、人間は安全欲求を生まれながら備え、本能と知能で安全か危険かを察知することにより安全欲求を満たしていると思います。

戦争や貧困状態は安全な環境を破壊し、安全欲求を拒否して多くの人々の生命を奪い、人間の存在意義を根底から否定します。このような劣悪状態の解消を、後述する承認欲求を満たすための重要テーマとしてとらえ、多くの人々が「知」と「心」と「身体」を駆使して協力し弛まぬ努力で徐々にでも解決していきたいものです。

戦争や貧困などで安全欲求すら満たされない状態で生命を奪われた極めて多くの人々の無念を思うとき、我が現状に感謝して生き続けたいです。

集団に帰属する社会的欲求

人は両親はじめ多くの人々のサポートがあって生き続けることができるものであり、集団に帰属する欲求を遺伝子に刷り込まれています。

虐めの常套手段である仲間外しや無視は、人間にとって3番目に大切な集団に帰属する欲求の実現を妨害し、最悪の場合は人の生命を奪う行為であります。仲間外しや無視は、戦争同様に罪深いことであり、人として絶対に許されない行為だと思います。

他人に認められたい承認欲求

人間は両親はじめ多くの人のサポートなしでは生きることができない社会的動物ですので、生来、人の役に立って認められると喜びを感じる承認欲求を持っています。承認欲求を満たす能力と実現する状況に運良く恵まれた人々が社会に貢献し、社会が人の貢献を認める共存関係を築くことによって人間は豊かに生活できるようになってきたと思います。

しかし、例えば社会に迷惑を掛ける行動の動画をSNSに投稿して承認欲求を満たそうとするような未熟者の行為を無くすためには、他人あるいは社会が人を認めて尊敬するのは、その人が習得した能力で他者に貢献したときに限られ、かかる貢献を認められると人は嬉しく感じるということを子供の頃にしっかり教える必要があります。

昨今、病巣のように世界中に拡散している、自分の利益のために権力を乱用する指導者は、社会に貢献することなく自分の存在を誇示する未熟者と同じような行為を行っているのではないでしょうか。

自分の理想を実現する自己実現欲求

幸運にも前述の各欲求を満たすことができ、自ら望む場合は、人は自分の能力、個性、興味にマッチした自分の価値観を形成し、その価値観に基づいて設定した目標を達成する過程と結果に存在意義と喜びを感じるように思います。

自分の価値観は、人間が遠い未来に亘って生き続けるために役立つことに価値を認め、他人の価値観も尊重するものでなければなりません。

人間は多様性と変化のある存在を具現化するために「心」、「知」、「身体」において千差万別であるので、各人の目標も多種多様であります。

そして、自分の理想を実現した結果が人の役に立ち、人々から感謝され認められると、さらなる喜びを感じると思います。

既成の価値観を逆転の発想で少し観点を変えて見るだけで随分気が楽になったように感じるのは私だけでしょうか。

社会の変化につれて変わる価値観と変わらない価値観

人は、「知」によって道具、言葉、農業、人文科学、自然科学を進展させ、社会制度、物質世界を変化させてきました。物質世界の変化は、人の「体」に心地よい世界をもたらすと共に、地球温暖化、核戦争という人の「心」を不安にする世界をもたらしました。

社会制度や物質世界の変化は、人が心、知、体を使って生きる舞台である社会を変化させ、舞台の変化に応じて社会の価値観、個人の価値観を変えてきました。

人は各自の価値観を実現して喜びを感じるために生きていますが、社会に不安や不満が満ちている状態では人々の「心」は退行し、独立性を失って社会に依存する傾向が強まります。

人々の心が退行するのに乗じて利己的な支配者層が台頭し、社会をさらなる混乱に導き、地球温暖化あるいは核戦争によって人類を滅亡させる事態が生じないとも限りません。

このようなときこそ、社会の変化につれて変わる価値観と変わらない価値観を峻別し、変わらない価値観を大切にして各人が自分の価値観を確立し、各人の価値観の共通項である社会の価値観が歪められることを防がなければならないと思います。

変わらない価値観

創造主の価値観である永続的な存在を具現化するために、人間に託された変わらない価値観は、 先ず生きること、そして 人類が生き続けるために役立つことを目標にして行動し、その過程と結果に喜びを感じることではないでしょうか。

変わる価値観

各時代を生きる人々が、自ら設定する自分の価値観は、変わらない価値観に反しない範囲内にあっても、その時代の社会によって変わります。

例えば、戦乱時代は、民主主義という社会制度を見出す以前の君主主義社会であったため、君主とともに戦いに勝つことが、その国民(人類)が生き続けるために有益な集団の価値観であり、国民の価値観も勝つために敵人を殺すことに置かれたのでしょう。

しかし、ある人にとっては、戦いに勝つことより大切なことがあり、敵人を殺すことに迷いがあったかもしれませんが、集団の価値観に圧倒されて戦いに勝つことが自分の価値観であると自らを盲信させていたのでしょう。

自然科学の発達によって社会が物質的に豊かになると、この集団の価値観の盲信を疑う心から民主主義が誕生したように思います。民主主義では、変わらない価値観をベースにして個人の特性に応じて利己的でない自分の価値観を自らが設定し、自分の価値観の実現のために楽しみながら行動し、望外の結果として「ありがとう」と誰かに認められることに喜びを感じることができます。

社会の進歩と退行

社会の進歩は、変わらない価値観をベースにして自分の価値観を自らが設定し、その実現のために行動をできる人の数がより多くなることではないでしょうか。

社会の退行は、自分の価値観を自ら考えて設定することを放棄し、社会の価値観に迎合させる人の数が増加することのように思います。

進歩する社会の各人の価値観の共通項である社会の価値観が利己的な支配者層によって歪められないためにも、各人は自分の価値観をしっかり確立し大切にしなければならないと思います。

集団の支配者層の価値観は、その集団の少なくとも過半数の人の役にたつことを実行することにありますが、利己的な支配者層の価値観は、変わらない価値観に反して、自分と利益を共有する集団のごく一部のみに役立つように行動することにあると思います。

現代社会の退行は阻止しなければならない

社会に不安や不満が満ちている状態では人々の「心」は退行し、独立性を失って社会に依存する傾向が強まると言われています。人々の「心」が退行すると社会も退行します。

人類は、狩猟、農耕、工業、高度情報化の各社会を生き続け、平和と戦争を繰り返してきました。高度情報化社会が進行する現代は、各国において社会に不安や不満が充満し、人々が自己中心的になっているような気がします。人々の「心」の退行を防ぐためには、不安や不満の要因を解消することが必要であると思います。

現代社会に充満している不安や不満の要因として、以下のようなものがあります。

・地球温暖化

・核戦争の可能性

・格差社会の拡大

・米国の相対的国力の低下に伴う覇権主義の台頭

・高度情報化による人の権利、能力侵害

・グローバリゼーションのマイナス面

・人文科学、自然科学の発達に対応できていない宗教の無力化

・民主主義を誤解した利己的な個人主義

・人の生き方についての幼少時からの教育不足

人類が社会の退行を続けて核戦争や地球温暖化などで自ら滅亡することは、創造主の価値観に反することであり、大多数の人が望まず、絶対に起こしてはなりません。人類の存在は、誕生があったことから無限ではないでしょうが、終焉は創造主の意思に従いたいものです。

各人が利己的な「心」を抑え、自分の価値観を自らの意思で設定し実行することによって、現代社会の価値観を、武力ではなく知力によって、世界中の人々が「心」を躍動させて生きる喜びを謳歌できる社会の実現に向けることができると思います。

さらに、自己中心的な指導者の出現を阻止し、社会の価値観が創造主の価値観に反したものになることを防ぐことができます。

現代社会の不安や不満の要因の多くは、2千5百年前においても論語などで行われていた「心」の教育がなおざりにされていることから生じている気がします。「人は何のためにどのように生きるのか」などの「心」の教育を社会全体で行うことの必要性を痛感します。

人は何故いつまでたってもかわれないのか

1.はじめに

心には、喜び、誠実さ、目標への情熱、思いやり、自己肯定感などのプラス面と、悲しみ、嘘、怠惰、利己、悲観などのマイナス面があります。

マイナス面の心は、喜びを感じながら「生きる」と言う欲求が満たされないときにプラス面の心が屈曲して出るもので、強い生命力が逆説的に表現されたものでしょう。

今の社会、マイナス面の心の発露が多く、いつまでたっても紛争を戦争で解決しようとする人々、利己的な社会の指導者、格差、弱者虐待、ひきこもり等の蔓延を見ていると、人はいつまでたっても変われないものなのかなと、なかば諦めそうになります。

否否、核戦争や地球温暖化など現世代の人々の心の未成熟で人類が滅亡の方向に進むことは断じて阻止し、対策を講じなければなりません。人々が心のプラス面を成熟させて生きる喜びを謳歌することが人類の存在意義ではないでしょうか。

2.心を成熟させることが人生の目標

人は、「体」、「知」、「心」の各能力を備えて誕生します。生まれた時は、身体は小さく、何も知らず、生まれたことに感動することもありませんが、全能力とも強い生命力を持っています。

体は、一世で生、老、病、死を経験します。そして、老いた体は若い体より生命力が弱くなります。

知は、前の一世の知識、思考を土台に積み上げていくことができるものであり、特に科学技術は、ここ何世代かに渡って急速に進歩してきました。

18世紀後半にイギリスの鉱山で使用されていた馬車鉄道が、250年ほど後に東京名古屋間で疾走するリニア新幹線までに進化することは、知識が何世代かに渡って急速に積み重ねられた結果だと思います。

知は心の発露に従って自分の価値観を実現するための一つの道具であります。科学技術の進歩につれて生活が便利かつ忙しくなってきましたが、多忙感の中に何か大切なものを置き忘れてきたような気がします。

心は、一世毎に白紙状態からプラス面を伸ばして成長を繰り返すもので、前の一世の心の成熟は参考にはできますが、その上に積み重ねて進歩することはできません。

孔子は、「・・・吾れ十有五にして学に志し、・・・」と言いましたが、2550年ほど経った現在でも、心を「15才で何かに志す状態」まで成長させている若者が如何ほどいるでしょうか。

心は自分の価値観を実現して人から喜ばれることにより琢磨され、これによって自分を信じ、人から信頼される状態まで成熟し、さらなる努力によって維持向上できるものと思います。このように、各人が心の成熟を目標にしてそれぞれ異なる道を歩み、ときに喜びを感じることが、まさしく各自の生きざまのような気がします。

2-1 心と知のバランス

産業革命以降に何世代に渡って急速に積み重ねられた知の結晶であるハイテク社会に一世毎の心の成長で対応するためには、幼少時から心の教育を家庭や社会で行って心の成長を促進する必要があると思います。

人は真、善、美を識別する潜在能力を備えて生まれてきますが、真、善、美を具体的に感受し表現する能力である心は、学習によって成長していくものであると思います。

しかし、今、何のためにどのように生きるのか、愛情や信頼や志とは何かなどの心に関する教育が十分になされていない気がします。

幼児教育・保育の無償化だけでなく、幼少時から心の教育を家庭や社会で行うことが必要だと思います。

心を鍛錬して成功した実業家、芸術家、スポーツ選手など各界の成功者が各地の小学校などで心について講演する仕組みを作ると、多くの親子が聴講して心の大切さを親子で素直に認識することができるようになると思います。

社会の価値観を権力、経済、勝利至上主義から協調、芸術、フェアウェイ精神に少しシフトすることも有効ではないでしょうか。

また、民主主義や子供の心の教育に百害あって一利なしの利己的で不誠実な政治家を選出しないことも必要でしょう。

2-2 心と体のバランス

体の状態は一世中に変化します。

心の発露に従ってそのときの体の状態に応じた目標を設定して活動することが、体とバランスした心の成長であると思います。

3.おわりに   

スウェーデンの16歳の少女グレタ・トゥンベリは、子どもの未来を地球温暖化で奪わないでくださいと呼びかけています。ノーベル平和賞受賞の女性活動家マララ・ユスフザイは、少女に教育を与える運動を続けています。

日本のスポーツ界などでも若い選手が心を鍛錬して活躍するケースが増えています。心の大切さを啓蒙、認識する機会を増やして、老若男女を問わず多くの人々が心の成熟を目標にして自分の価値観の実現のために行動するようになれば、生きる喜びに満ちた社会を永続できるでしょう。

生きるための価値観

1.はじめに

昨今、自分の利益、自分の属する集団、自国の利益のためにのみ権力を誤用して憚らない間違った価値観を持つ指導者が世界各地で病巣のように拡散しています。

集団の価値観は、間違った価値観を持つ指導者の影響を受けて間違ったものになる可能性があります。

人間は集団に属さないで生きることは不可能であり、自分の属する集団の価値観に即して自分の目標を設定、達成して集団の役に立つことに喜びを感じて生きるものと思います。

反面、人間は脳内に自分の概念の世界と価値観を自由に構築し、自分の価値観に即した目標の達成に喜びを感じます。

集団の価値観が間違ったものとなり、自分の価値観と異なるものになると、人は生きる喜びを見失います。特に、集団が国であると、国民は、生きる場所を失う恐れから間違った国の価値観に表面的に染まっていきます。

このような不幸を防ぐために、正しい価値観を持つ人々は、弱い人間が集団を作って生き延びてきたように、正しい価値観の集団を作って間違った価値観の集団に勝たなければなりません。

2.正しい価値観と間違った価値観

2-1 個人の正しい価値観

創造主の意思(価値観)は存在し続けることであると想像します。

人類にとって存在し続けることは、将来において生存するために役に立つことを現在において行うことであると考えます。

従って、個人の正しい価値観は、人が明日あるいは未来に生き続けるために役立つことを良しとする判断だと思います。

この価値観に従って人間は、人の役に立てる能力を得るために努力し、貢献できたことを自らの喜びとし、感謝されると嬉しいのではないでしょうか。

家庭や趣味などにおける個人的な活動、政治、経済、学術、芸能、スポーツなどにおける社会的な活動によって、家族や人々の生活を豊かにし、あるいは楽しくしたいと望む心はこの価値観から生まれる気がします。

さらに、人間は欲望、能力、生活環境などの個性が千差万別であり、個性に応じて脳内に自分の概念の世界を自由に構築します。そして、自分の概念の世界に自分の価値観を形成し、自分の価値観を実現する過程と結果に生きる喜びを感じるものだと思います。

これを加味すると、個人の正しい価値観は、人が明日あるいは未来に生き続けるために役立つと自らの個性に応じて設定した自分の成すべきこと又は、成りたい姿を追い求めることではないでしょうか。

逆に、他の人々を抹殺して個人の利益のみを求める価値観は、他の人々が明日あるいは未来に生き続けることを妨害するものであり個人の間違った価値観といえるでしょう。

また、何れの一方を選んで成すべきかと迷った場合、人がより遠い未来まで生き続けるために役立つ方を選択することが正しい価値観だと思います。

2-2 集団の正しい価値観

集団(国、企業、各種チーム、家庭など)の正しい価値観は、集団が正しい目標を達成するためにそれに属する個人に課す価値基準だと思います。

集団の正しい価値観は、個人の正しい価値観を否定するものであってはならないので、個人の正しい価値観と矛盾することがなく、集団に属する個人は集団の目標を自分の目標とし、それを達成するための努力と成果に大きな喜びを感じるのではないでしょうか。

人間は集団の正しい価値観を自分の価値観とし、集団の役に立てる能力を得るために努力し、集団の目標達成に貢献できたことを自らの喜びとし、集団から感謝されることを誇りに感じるのではないでしょうか。

2-2 集団の間違った価値観

一集団が他の集団を抹殺して一集団の利益のみを追求する集団の価値観は、人類が明日あるいは未来に生き続けることを妨害するものであり集団の間違った価値観だと思います。

人類は集団を作って生き延びてきたものであり、集団は優れた指導者に統率されて外敵に勝利して存在し続けることができたのでしょう。そして、人は集団に属さないで生きることは不可能であるので、集団の価値観に従って集団の役に立つことを望むのではないでしょうか。

しかし、集団の価値観は、間違った価値観を持つ指導者の影響を受けて間違ったものになる可能性があります。

このような例は、核兵器の保有を競う核保有国、軍指導者が暴走した第2次世界大戦前の日独伊、手段を選ばず経済的成果のみを追求する一部の企業体、勝つことのみを求める利己的な指導者を擁する一部のスポーツ団体など枚挙にいとまがありません。

各個人は日々の生活に追われ、明日を生きるために役立つことを優先しがちですが、指導者には人々がより遠い未来まで生き続けるために役立つことを見抜いてその実現のために行動する能力が不可欠であると思います。

3.おわりに

集団の価値観が間違った方向に進まないようにするためには、正しい価値観を持つ人々が常に声を上げ、集団の価値観を正しい方向にリードし続け、正しい価値観を持つ人を指導者に選定するとともに、各人が自ら考えて自分の正しい価値観を持ち、それに従って行動することが原点であるように思います。

最後に、香港人の正しい価値観を守るために、間違った価値観を持つ指導者層に対して集団となって戦った香港の民主党の圧勝に心から敬意を払いますが、なお今後の動向を見守りたいと思います。

早く知る方がより人生を楽しめる 

ラグビーに人生をみる

1.はじめに

今話題のラグビーが人生に酷似していることに驚きと興味を感じました。先ずラグビーは、各選手の役割が大きく異なっており、各選手はその専門職を自分の体力や能力を勘案して選択し、それになることを目標にし、身体と知能を鍛錬して選手の座を獲得し、日本チームという集団の一員になったと思います。各選手は、今回の大会でベスト8になるという集団の価値観を共有し、チームの役に立つという自分の目標を意欲と自信と助け合いで不安や困難を克服して達成したのでしょう。そして、各試合で国民の応援に後押しされて実力を発揮しチーム一丸となってベスト8を勝ち取り、国民に感動を与えるとともに賞賛され、各選手は大きな喜びと満足感を獲得したと思います。以下に、人生の楽しみ方をラグビーから学んでみました。

2.自分の存在意義の体感

人間は脳内に概念の世界と自分の価値観を自由に構築します。そして、正しい自分の価値観を実現する過程と結果に生きる喜びを感じることで、自分の存在意義を体感したとき、「生んでくれてありがとう」と言いたくなるようです。

自分の価値観は、創造主の意に反しない限り正しいものであり、自分が成したいこと、自分の成りたい姿、生き様など自分が実現したい或は憧れるものに対する欲求度合いだと思います。

創造主が人間に望まれることは、各自の正しい価値観を互いに認めて尊重し、協力してより多くの人が楽しく生きることではないでしょうか。従って、自分が望むことでも多くの人が生きづらくなる価値観は正しいものとは言えないでしょう。

個人が価値観に基づいて立てた目標は、美味しいものを賞味すること、趣味を楽しむこと、学芸、産業、スポーツ等において自分が実現したいことを成すこと等、色々なものがあります。

中でも自分の目標達成を他人が喜んでくれたときは、その他人の役に立てたことが確認でき、かつ自分が認められたことを実感できて嬉しさも倍増します。

いずれの場合も、目標を達成するための行動に喜びや悔しさを感じること、いわば目標達成サイクルを繰り返す中で、より多くに人に役に立つ或は喜びを与えることができる能力を順次取得し、自分としてもより大きい喜びを得ることができるようになると思います。

人生は短いようで長いです。子供の頃から意識して大小様々な目標達成サイクルを繰り返えすうちに、自分の大きな目標に向かって成長しながらその時々の生活を楽しめる気がします。

3.人の存在を成立させる主要素

各人が人間として生きる世界は、次に述べる主要素から成り立っていると思います。

鉱物や動植物から構成される物質の世界

・各人が脳内に築き多くの他人と共有している共通概念の世界

・各人が自分自身を存在している者として意識する自己

・物質の世界での各人の身体

・各人が認知能力(思考力、創造力、言語力など)を駆使し、物質の世界の認識、或は既存の共通概念の世界をベースにして脳内に築いた自分の概念の世界 

・各人が非認知能力を駆使し自己の行動に対して動機付けする各人の心

4.人の存在を成立させる各主要素の係わり合い

・人の存在の舞台になるのが、鉱物や動植物から構成される物質の世界です。

・共通概念の世界は、人類が存続するために授かった強力な能力(手段)ですが、人の存在の舞台にはなれません。

・自己は、自分の価値観を形成し、それを実現するための行動と結果に喜びや悔しさを感じる主体です。

・身体は、自分の価値観を物質の世界で具現化するための手段です。

・自分の概念の世界は、自分が脳内に自由に築いた概念の世界であり、自分だけの部分と他人と共有する共通部分があります。創造主は「生の多様性」を求められるので、人は独自の価値観を大切に思い、その実現に大きな喜びを感じるのではないでしょうか。

・各人の心には、自己を支える心、自分の価値観を具現化するのに役立つ心、共通概念の世界で多くの人と協力し、多くの人が共有する価値観を具現化するのに役立つ心があると思います。

心は、いわゆる非認知能力ですが、自分の価値観を具現化するための行動に喜びや悔しさを感じることを繰り返すことによって向上し強くなると思います。

自己を支える心は、自己肯定力、自信、自制心などです。しかし、人は迷いや失敗などで自信を無くし、自分を見失うことがあります。このようなときに、励ましや褒め言葉をもらうと自分の価値観の正当性を再確認でき、その具現化に向かって行動することができます。 

自分の価値観を具現化するのに役立つ心は、目標達成の意欲、情熱、忍耐力、自己抑制力などです。 

共通の価値観を具現化するのに役立つ心は、社交性、敬意、思いやり、感謝などです。 

5.価値観の具現化 

自己は、認知能力を使って自分の概念の世界に日々努力して構築した情報を活用しながら身体で意欲的に行動し、物質の世界において自分の価値観を具現化するために精励します。自分の価値観の具現化といえども周りの人々の親切な協力無くして達成することはできません。また、自分の価値観でもある共通の価値観の具現化には、それに関わる多くの人々が、社交性、思いやり、敬意などを潤滑剤にして協働することが必須です。 

6.おわりに

小学校の先生同士が虐めを行っている日本。憤りを過ぎて、一部の現象とはいえここまできたかと呆れてしまいます。人の養成には長い時間が掛かります。待ったなしです。人生の意義、正しい価値観、自分は何のために生きるかなどについて小学校から教え、自ら考える風土を社会全体で涵養することが急務と思います。

人の心は非認知能力

体と知能と心のコラボした喜び のために

  1. はじめに

いじめ、虐待、ひきこもり、煽り運転、若者の無気力、自殺など心の病を原因とする不幸な社会現象は一向に減少せず、むしろ増加し、悪化しているように感じます。これは、人の心の教育が不足し、自分・他人への肯定感が弱くなり、生き方、生きる喜びを見失った人の数が増加したためではないでしょうか。知能などの認知能力は熱心に教育されていますが、人の心である非認知能力はあまり意識的に育成されていませんので、非認知能力とその育成の必要性を考えてみました。

 2.認知能力と非認知能力

2-1認知能力は、記憶、思考、理解、計算、学習、言語、判断などを行う能力で、脳内に概念の世界を築いて他者と共有する人間固有の強力な生きるための能力です。

2-2最近、非認知能力の大切さが唱えられています。OECDは、非認知能力として目標の達成能力(忍耐力・自己抑制・目標への情熱)、他者との協働能力(社交性・敬意・思いやり)、感情のコントロール能力(自尊心・楽観性・自信)を挙げています。

換言すれば、非認知能力は、自己肯定感、目標への情熱、意欲、忍耐力、思いやり、感謝の気持ち、協調性などを発揮する人の心であり、生きる指針を示す価値観を形成する能力です。また、非認知能力が高いほど、所得やキャリアが高くなると多数の研究結果が指摘しています。

2-3非認知能力の中でも、感情のコントロール能力は、自尊心や自信を含むことから自己肯定感に近いように思います。自己肯定感は、人が生きる上で土台になるものです。

一般的に、現在の子供達の自他への肯定感の低下について、「自分は自分であっていいんだ」という感覚が低いために些細なことで傷つきやすく、また「他者は信頼できる存在だ」という感覚が低いために対人関係で過剰に気をつかったり、逆に攻撃的になりやすい、とされています。

自分の肯定、すなわち自分の存在があって、はじめて目標の達成、他者との協働が成立すると考えると、自己肯定感は、身体を認知能力(知能)と非認知能力(心)で行動させて、目標を達成する過程と結果に喜びを感じるという人間の存在(生きる)意義を実現するための土台であると思います。

これらを勘案して自己肯定能力を、自分の現状を正当に認識し、目標の姿の土台として肯定する能力と定義しました。自己肯定能力は、自己肯定感を強く持つことができるようにするための能力です。

揺らぐ土台の上には、何も建てられないのと同じように、揺らぐ自己を土台にしては、目標すら設定することができません。

正しい自己肯定能力は、自分の今日の姿をダメな姿と思わずにそのまま認めて、目標とする向上した姿の土台であると意識するだけのことであり、子供達に早期に意識付けすることが必要であると思います。このとき、自分だけが正しいと思う意識付けをしないようにする注意も必要でしょう。

現在の自分の価値観や目標が正しいか否か判断するときも、自分の現状を肯定して土台にし、現在の知識や思考力などを使って熟考した上で、必要があれば変更することになります。

2-4他者肯定感

他者も同じ人間であり、自分と同様の人の心を持っていることを、子供同士が楽しく遊び、喧嘩して痛みを感じる中から自ら学び、あるいは大人がしっかり教えて認識させることにより、子供は他者肯定感を持つようになると思います。

 3.非認知能力の育成

非認知能力を伸ばす子育て方法の詳細は、専門家に委ねるとし、ここでは非認知能力発達の弊害になる環境について述べます。

非認知能力は、主として子供の時に発達し、繰り返すことによって比較的容易に習得できるものであります。 非認知能力は10代後半まで鍛えられると言われていますが、 生涯に亘って各自が進歩させていく、楽しく生きるために力と考えます。

人の心は非認知能力であり、畢竟、生きる喜びを実感する能力であると思います。従って、大人でも非認知能力を意識し、目標に向かって行動することを繰り返すことによって非認知能力が 鍛えられ、自分の価値観に基づいて立てた目標達成の過程と結果に存在意義と喜びを一層感じるようになると思います。

特に、親が多忙などで幼少時に非認知能力の教育を十分受けられずに成人した人が、非認知能力を意識し鍛えることで、無気力、ひきこもり等の解消、自らの生きる喜びの発見に繋がるように思います。

3-1コンピュータゲーム、SNSの蔓延

子供達が仲間と遊ばないでコンピュータゲームやSNSに夢中になっています。二人で並んでコンピュータゲームをしても、一人でするよりましであるにしてもコミュニケーション不足です。非認知能力の発達には子供達同士で遊ぶことが有効であることは、種々の研究で明らかにされています。

eスポーツを学校の部活動に入れることをよしとするような教育界の猛省を期待します。

3-2家庭教育不足

忙しい世の中、両親の子供との関わり合い、教育が不足気味です。この対策に学校の認知能力教育専門の先生が非認知能力の育成や心のケアを親に代わって行うことは、質、量の面において不可能でしょう。非認知能力の育成を専門とする先生を各幼稚園や学校に数人配置することが必要であると思います。待機児童の解消も数合わせだけですませることなく、心の教育面も含めて考えて欲しいものです。

3-3学校教育不足

非認知能力は如何なる能力か、非認知能力が人間の生き方にどのような影響を与えるか、非認知能力を伸ばすためには如何なることをするとよいか、などを知識として行動として教育する必要があると思います。

学校教育が受験勉強の影響を受け、認知能力の教育を偏重していることも、全体的な教育のあり方の中で見直す必要があると思います。

 4.おわりに

幼児教育の成果がでるまでには長い年月が掛かります。非認知能力の高い人々が社会を構成し、心の病を原因とする不幸な出来事が激減し、大多数の人が、自分の価値観に従って設定した目標に向かって身体を知能と心によって行動させ、「身体と知能と心のコラボした喜び」を実感できる社会にしたいものです。

身体と知能のコラボした生きる喜び

1.はじめに

民主主義国家における富の分配の過度の不平等とポピュリズムの台頭、社会主義国家における支配者層の独裁と腐敗、死者数8千万人とも言われる第2次世界大戦から75年も経っていないときに台頭しつつある覇権争いをやむなしとする気配、国民の生活を蹂躙する地域紛争、宗教・民族対立、銃乱射・弱者虐待など狂気としか思えない行為が、世界中に蔓延しています。

これは集団社会の価値観が、人間が創造主から授かった生来の価値観から許容範囲を超えて乖離し、各人が正しい自分の価値観を間違った集団社会の価値観の影響を受けて間違った自分の価値観に刷りかえつつある結果ではないでしょうか。

2.天地創造

2-1 創造主は「自身の存在」の意義を実感するために、壮大な宇宙を「物質の世界」として創造されたのではないでしょうか。

2-2 そして、無機物から有機物を生成する植物が繁茂する美しいプラネットに地球を環境整備し、「存在すること」の意義と喜びを深く実感するとともに、動物や人間が活動する舞台を用意されたように思います。

2-3有機物を食する身体と生きる本能を備える、人間以外の動物を創造して、「存在すること」の喜びを、「身体の生きる喜び」として「物質の世界」で実感することを動物達に託されたように思います。

2-4創造主は、身体と知能を備える人間を創造して、「存在すること」の喜びを「身体と知能のコラボした喜び」として「物質と概念の共存世界」で一層重厚に実感することを人間に託されたのではないでしょうか。知能は身体の一部である大脳の働きですが、思考、記憶、想像、言語理解などの認知能力だけでなく、協調性、自制心、やり抜く力、感謝する力などの非認知能力も含みます。

人間は、「物質の世界」での出来事、見聞したこと、書物から学んだこと、想像したこと、やりたいこと、なりたい自分の将来像などを知能によって「概念の世界」として大脳内に構築するとともに、「概念の世界」を他人と共有する「概念共有能力」を授かっています。

3.人間の生来の価値観

「存在すること」の喜びを実感するために、人間は生まれたときから次に述べる生来の価値観を創造主から授かっていると思います。

3-1 生きること。人間は概念の世界を形成する大脳を備えると共に、人間以外の動物と同様に、身体と生きる本能を備えているので、身体の生きる喜びを感じる限り生きることが求められる気がします。しかし、大切な自分の価値観に反することをしなければ殺されるような場合は、生きることを自らの手で絶つことを許されるような気もします。

3-2 人の役に立つこと。「概念共有能力」を授かっていることは、人間が集団社会で生存することを意味し、生来、人の役に立って認められると喜びを感じます。子供は、お母さんに喜んでもらうために肩をたたきます。長崎の爆心地の焼き場に立つ少年は、あのような状態でも亡くなった弟を背負っています。

最近スポーツ界で活躍する若いスポーツ選手数人から、観衆に喜んでもらうことを嬉しくありがたく思うとのコメントをテレビでよく聞きます。

3-3 自分の価値観に基づく欲求を実現するために設定した目標を達成する過程や目標達成における喜びや充実感

人間は、知能によって「概念の世界」に描いた例えば、自分のやりたいことや将来像、理想のパーフォーマンスという目標に向かって「物質の世界」の身体を知能によって「物質と概念の共存世界」で行動させる過程や目標達成において「身体と知能のコラボした喜び」を実感すると思います。

4.間違った集団社会の価値観

4-1 他人と比較して全人格を評価すること。

好き嫌い、得手不得手、才能、個性は千差満別であるがゆえに、各人が感じる生きる喜びに多様性があり、創造主は「存在」をより深く実感できるように思います。他人と比較して評価されることにより、人、特に若年層は個性を摩滅され、生きる喜びを消耗します。

他人との比較は、自分の技を他人の技と比較して習得程度を確認することに止めたいです。人格まで評価することは百害あって一利なしです。

4-2 レッテルを貼って分類

ブランド指向は、自分の個性、感性を鈍化させ、価値観の向上を阻害します。これにより、生きる喜びの多様性が損なわれます。特に、人にレッテルを貼る人は、自分のみが正しいと思う傾向があり、調和性、誠実性が少し足りないような気がします。

不得手な分野においてブランドを一応の目安にすることは許されるでしょうが、捕らわれることは、正しい自分の価値観を放棄する一歩となるでしょう。

4-3 結果偏重主義

好きなこと、やりたいことを自分なりの目標を立ててコツコツと続けることによって、大きな結果は伴わなくても、創造主が人間に託された身体と知能のコラボした喜びは得ることができると思います。少年よ大志を抱けを否定するわけではなく多様性の尊重をベースにしたいです。

4-4 拝金主義                                                                                               

お金は価値を計る知能(概念)の世界の存在であり、身体による行動を伴わない場合があります。お金だけを求めても、身体と知能がコラボした喜びを得ることはできません。

4-5 事なかれ主義

集団社会の価値観が間違っていても、人はそれに従う方が安易に生活できる場合が多いでしょう。特に、不況時において間違った集団社会の価値観に支配された国が挑発するとき、戦争を是認する煽動に対して各人が弱さを克服して反対できる集団社会の価値観を確固たるものとしなければなりません。

4-6 貢献心の希薄。

生来の人の役に立ちたい心が、生きることの難しさに押されて、自分のことしか考えられない状況に陥っているのでしょうか。他人の良いところを褒めて後押しするだけでも随分楽しく生きられるようになる気がします。

4-7 自分の属する集団が他の集団より優秀であるとの錯誤。

創造主が「存在」を深く確認するために創造された人間は、身体と知能(概念の世界を築いて共有する能力を含む)を授けられ、集団社会を築いて生きることが生来の性質と思います。

しかし、人類が地球を制覇したときから、複数の集団社会において築かれた各集団社会の価値観について自分の集団社会のものだけが正しく、従って自分の集団は他の集団より優秀であるとの間違った集団社会の価値観を概念共有能力を使って自分の集団社会に形成することが頻発しています。

そして聖戦と称して無意味な戦争を繰り返し、創造主が一人ひとりに託された「生きる」喜びを実感することなく何億もの人々が無念の内に命を絶たれています。創造主の価値観に反して、「生きる」を否定して人を殺す戦争に聖戦などありえません。

5.正しい集団社会の価値観の形成

間違った自分の価値観を持った人が大多数を占める集団社会は、その間違った価値観が集団社会の価値観となり、若年層の自分の価値観の形成に影響を与えるだけでなく、各人が正しい自分の価値観をその間違った集団社会の価値観に刷りかえていくという現象が起こります。

間違った価値観の集団社会においては、良識ある多数の人々が、弱さ、卑欲、無知を克服して正しい自分の価値観を形成して公表し、その多数の人々の持つ正しい自分の価値観を正しい集団社会の価値観にする努力が求められます。香港人の正しい集団社会の価値観を中国政府の価値観に従わせようとする企てに反対して香港でデモをする人々にエールをおくりたいです。

親や教育者は、子どもが正しい自分の価値観を形成することに大きく関わっていることを肝に銘じ、人は何のために生きるか、何のために勉強するかなどの哲学的なことも分かりやすく教える必要があると思います。

テレビ放送作成者には、視聴率至上主義でなく、正しい自分の価値観の形成に資する情報を多くの人々に提供するという観点から、間違いのない事実提供と、公正な啓蒙活動を望みます。

6.おわりに

各人が多様な個性、能力を活かして「物質と概念の共存世界」で行動し、創造主から託された「身体と知能のコラボした生きる喜び」を実感したいものです。

そのためには、自分の価値観ひいては集団社会の価値観を創造主から与えられた生来の価値観に沿うように軌道修正し、各人が自分の価値観に従って設定した目標に向かって身体を知能によって「物質と概念の共存世界」で行動させて、「身体と知能のコラボした喜び」を実感できる社会を築く必要があると思います。

創造主は何故存在するのか

  1. はじめに

私は、創造主は存在するが死後の世界はないと考えます。死後の世界がないとすると、死に対する救いがなくなるだけでなく、懐かしい人に会えなくなる、運の悪い人が救われない、悪人を野放しにするなどの弊害が起こりそうです。

しかし、死後の世界はないと覚悟を決めると、創造主、自分自身、或は世の中のために自分にできる範囲で精一杯活動することができ、限りある人生をより充実して楽しめそうな気がします。

 2. 創造主の存在

どこまでいっても超微粒子もエネルギーも変化も全く何もない「無の世界」を、頭の中で想像することはできます。

しかし、人や宇宙は変化しつつ存在します。想像を絶するほど高度で緻密で雄大であり偶然に存在することなどあり得ない人や宇宙は現に存在します。

してみれば、「存在の世界」は、「無の世界」の対極に実在し、「存在の世界」においてエネルギーや光を構成する量子の素となるような、存在の最も基礎となる、謂わば、物質以前の存在素があるのではないでしょうか。

創造主は、存在素で構成された究極の量子コンピュータのようなものであり、「存在の世界」の存在意義、すなわち創造主の価値観を示すものと想像します。

存在素だけが実在する「存在の世界」では、創造主の価値観も「概念の世界」だけの価値観となり、存在の意義をより強く実感できるようにするために、創造主は存在素から先ず宇宙を創造して「存在の世界」に「物質の世界」を誕生させ、続いて植物、動物、人間を順次創造されたのでしょう。

 3. 人間の創造

創造主は、存在の意義をさらに深く重厚に実感するために、高性能な量子コンピュータのような大脳(概念の世界)と身体(物質の世界)を有する人間を創造して「物質と概念の共存世界」を誕生させたと想像します。

従って、人間は、創造主の価値観を個人の価値観(自分の価値観)や社会の価値観(集団の価値観)に反映させ、創造主の価値観を「物質と概念の共存世界」において具現化したとき、存在すること(生きること)を創造主とともに実感して喜びを感じるのではないでしょうか

人間は、自分の価値観、それに基づく欲求(したいこと、なりたい自分像)、社会の価値観、「物質と概念の共存世界」における出来事、フィクションなどを「概念の世界」に構築し他人と共有するために、大脳と言葉(数字、図を含む)を授かりました。

「概念の世界」に形成した自分の価値観を「物質と概念の共存世界」で実現するために身体を授かり、欲求の達成に設定した目標に向かって身体を行動させるために、脳と身体との間で体性神経系を介して情報交換し、身体が生き続けるために、脳と身体との間で自立神経を介して情報交換するという神秘を備えています。

そして、例えば目標を達成する過程や目標達成において充実感や喜びを生身で実感する心を持っています。大脳は「概念の世界」を築きますが、「物質の世界」の物体でもあり、充実感や喜びを「物質と概念の共存世界」で生き生きと感受する心でもあります。

このように創造された人間は、限られた期間を自分の価値観に従って生きることにより、創造主の価値観を「物質と概念の共存世界」において具現化し、存在することの意義を創造主とともに実感することができれば他に望むものはないと考えます。

 4. 人間の価値観

人間は誕生したとき、新品のコンピュータのシステムプログラムように、創造主の価値観の原理が遺伝子に記憶されているように考えます。例えば、生きたい、知りたい、何々のようになりたい、何々ができるようになりたい、人の役にたちたいなどの欲求と、欲求に向かって行動する充実感と、欲求達成の喜びなどです。

各人は、創造主の価値観の影響を受けながら、自分の興味、能力、環境などに応じて自分の価値観を形成し、自分の価値観に基づく欲求を達成するために、例えば、血圧を下げる、本を読む、医者やサッカー選手になる、毎日練習する、お手伝いするなどの目標を設定して行動します。

しかし、人間は大脳内に「概念の世界」を自由に形成することができるので、場合によっては、創造主の価値観と異なる価値観を大脳に刷り込まれてしまい、自らの存在を否定し、或は他人の喜びを奪ってしまいます。従って、親、学校、社会が子供に創造主の価値観を正しく教育することは、全ての人が喜びを実感して生きるために、極めて重要で、決しておろそかにしてはならないことと考えます。

フィクションやコンピュターゲームなどの「概念の世界」の色合いが濃い作品も、「物質と概念の共存世界」で作成されたものであり、自分の価値観に従って楽しむことができます。しかし、これら作品に洗脳されない、中毒にならないなどの注意が必要です。

人間は、「物質と概念の共存世界」に生きているので、自分の価値観に基づく欲求は、「物質の世界」または「概念の世界」に偏った欲求でなく、両方の世界に跨がる心の求める欲求である方が、欲求達成の充実感や喜びが重厚なものになるでしょう。

 5. 社会の価値観

社会の価値観は、社会を構成する個人の価値観の共通項のようなもので、例えば、創造主の価値観に反しない他人の価値観を尊重すること、他人の価値観の実現を奪う行為に社会が懲罰を与えること、複数の人々の間で各人の価値観に基づく欲求が衝突するとき、欲求の達成度を互いに譲り合うこと、足るを知ること、社会に貢献した人を多くの人が尊敬すること、すばらしい文化、自然遺産を大切にすることなど多数の価値観があります。

社会に貢献した人、各分野で実績を残した人は、本人は死後どこにも存在しませんが、社会の「概念の世界」に存在し続けます。

今はどこにもいない先祖を祀り、先祖が生前に行ったことに思いをはせ、自分が今存在することに感謝することは、「存在の世界」の創造主の価値観に沿うものと思います。

また、社会の価値観が創造主の価値観と異なる価値観とならないためには、人間の弱さを十分認識した上で、各人が正しい自分の価値観を持つことができ、自己肯定感を持って自分の価値観を実現できる社会の仕組みと環境を整えることが必要です。

 6. おわりに

「概念の世界」だけでのすばらしい生き方は、理想ではありますが絵に描いた餅であり、喜びや感動を伴いません。「物質と概念の共存世界」で、自分の価値観に基づく欲求実現に設定した目標を達成する過程や目標達成において生身で実感できる充実感や喜びこそが人間に託された創造主の価値観を具現化したものと思います。限りある人生を、自分の価値観の実現のために自己肯定感を持ってまっとうしたいものです。

コンピューターゲームはスポーツといえるか

1.はじめに

コンピューターゲームを部活動に取り入れる高校が増加し、高校対抗のコンピューターゲーム全国大会が、全国eスポーツ選手権と銘打って千葉県で8月に開催されます。このような動き、或はコンピュータが生活に役立つ道具としての領域を越えて人の人たる領域を侵犯していくとき、人々が概念の世界のみで生息するように習慣付けされ、「自ら考えた欲しいものを遂に得たときに感じる生身の感動と喜び」を徐々に忘れ去り、人の存在意義を見誤っていくことを危惧します。

2.コンピューターゲームのスポーツ誤認動向

2022年に中国で開催されるアジア競技大会ではコンピューターゲームが正式種目になります。

JOCはコンピューターゲームをスポーツとして正式に認めておらず2022年のアジア競技大会のeスポーツ日本代表選手は、現時点ではJOCが派遣する日本代表ではないとしています。

以前アジア競技大会で囲碁が正式競技として採用された際は、JOCは当時設立された囲碁の団体(全日本囲碁連合)を承認団体として認可していたといいます。囲碁をスポーツとするアジア競技大会の見識を疑います。

IOCは2018年12月8日にコンピューターゲームをオリンピックのメダル種目として採用するという議論は、時期尚早であるとの見解を示しました。IOCは見解で時期尚早とした理由として、ゲームの内容に暴力や差別を含むことなどを挙げましたが、競技性の高いゲームは伝統的スポーツに比肩する身体能力を必要とするとしています。また、日本eスポーツ連盟は、ゲーム遂行の操作を指先だけではなく体の他部位の運動も必要する最新ゲームでは、伝統的なスポーツと同様に身体能力が必要であるとし、IOCへの加盟要件が整ってきたとしています。

千葉国体の開催に合わせて、全国都道府県対抗eスポーツ選手権が千葉県で10月に開催されます。

3.スポーツの定義

3-1. オリンピック憲章では、オリンピズム(オリンピック精神)の根本原則を「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。・・・スポーツをすることは人権の1つである。・・・」とし、スポーツを直接定義していません。しかし、このような記載からオリンピック憲章でのスポーツは、肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させるために資する行為であると理解します。

3-2. スポーツについて、例えば、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典では、「競争と遊戯性をもつ広義の運動競技の総称。激しい身体活動や練習の要素を含む。・・・本来,人間が楽しみと,よりよき生のためにみずから求め自発的に行なう身体活動であり,ルールを設けそのなかで自由な能力の発揮と挑戦を試み,最善を尽くしてフェアプレーに終始することを目標にする。・・・」と定義しています。

3-3. してみれば、スポーツとは、身体を意志、思考、記憶力などの精神活動を活用して鍛え、身体と精神を調和して健全に発展させることによって、楽しみや生きがいを実感できる人生を実現するための一手段であると思います。

4.eスポーツの定義

4-1. 日本eスポーツ連盟によれば、「eスポーツ(esports)」とは、「エレクトロニック・スポーツ」の略で、広義には、電子機器を用いて行う娯楽、競技、スポーツ全般を指す言葉であり、コンピューターゲーム、ビデオゲームを使った対戦をスポーツ競技として捉える際の名称。」としています。すなわち、コンピューターゲーム、ビデオゲームを使った対戦をスポーツ競技として捉えただけのものであり、スポーツであるとは言っていません。

4-2. スポーツでないコンピューターゲームにeスポーツと名称を付けてスポーツと混同させた日本eスポーツ連盟に責任がありますが、コンピューターゲームを語るときにeスポーツと謂ったマスコミも、言霊の宿る言葉で自分の考えを伝えるプロとして反省の余地があるのではないでしょうか。

5.コンピューターゲームがスポーツでない理由

4-1. スポーツは、設定した目標の達成を目指して身体と精神が連動した身体運動で表現する技の実演であります。このため、その技に理想とされる体の動きの理想イメージを脳内に描き、理想イメージを実現できるように身体を鍛錬し、自分固有の身体特徴に合わせて理想イメージを何度も修正し、晴れの舞台で実力を発揮できるように練習を繰り返し、精神的強さも鍛えておかなければなりません。

コンピューターゲームは、ゲーム遂行の操作を指先だけでなく体の他部位を使用したとしても、技を主として身体運動で表現するものではありません。

4-2. スポーツは自分の頭で考えて自分にとって理想的な身体運動のイメージを脳内に築き、それを実現するためにどの筋肉をどのように鍛え、どのように使うか頭を使って工夫する必要があります。技を実演するときにも、状況に合わせて頭を使って身体運動に変化を加えることが求められます。

これに対し、コンピューターゲームは、他人が作成した概念の世界で、決められた動作のイメージを素早く選択するだけであり、頭を使って深く考えていると逆に負けてしまいます。コンピュータ-ゲームは人の考える力を退化させ、正しい判断力を奪っていく虞もあります。

4-3. スポーツには視力が大切です。そのため視力を鍛えることも行われています。

人間の目は水晶体の周囲の「毛様体筋」が緊張したり、ゆるくなったりしてピントを調節しますが、コンピューターゲームのようにスクリーンにピントを合わせた状態が長時間続くと毛様体筋が緊張し続け目が疲れて近視の原因になります。

4-4. スポーツは、身体(物質の世界)と脳(概念の世界)を調和して発展させ、技を身体で表現するものであります。

これに対し、コンピューターゲームは、概念の世界のみにおいて、身体をほとんど使わず脳をフル回転させて競うものであります。これにより、脳はコンピューターゲームに容易に洗脳され、自ら考えることを放棄して中毒症状を呈することが起きると思われます。

4-5. スポーツは、最終とする目標を達成するために、多面的な努力が必要です。例えば、身体を鍛える数段階の目標、理想のイメージを描く目標、自分の理想のイメージに到達するまでの複数段階の目標、精神的弱さを克服する複数の目標などがあります。そして、これらの目標を一つずつ努力して達成したときに得られる多くの喜びと感動が有ります。

これに対し、コンピューターゲームは、一つのコンテンツを長く続ける性格のものではなく、商業的理由や飽きられないために新しいコンテンツを次から次に注ぎ込んで新しい目標を設定するもののようです。

このように、コンピューターゲームでは、大きな目標達成は小さな目標達成の積み重ねの先にあり、これらを一生の間に楽しみながら充実して実践するという「人の心」を育てる場を提供することはできません。

5. おわりに

WHO(世界保健機関)がゲーム障害を、ゲームに熱中し、利用時間などを自分でコントロールできなくなり、日常生活に支障がでる病気として、国際疾病分類に加える見通しとしているときに、コンピューターゲームを高校の部活動に取り入れることは、若者の精神的、肉体的な健全な発育を任務とする教育者が行ってはならないことではないでしょうか。

また、スポーツでないコンピューターゲームをオリンピックのメダル種目に認定することは、目先の利害に惑わされることなく、声を大にして阻止すべきものと思われます。