「考える葦」でありたい

1.はじめに

地域紛争、歴史に学ばない大国の覇権争い、格差社会、宗教・民族対立、弱者虐待、など世界には、人の無知、弱さ、自己過信を根源とする不幸が渦巻いています。これは人類が創造主から賜った「各自が頭の中に築いた概念の世界を言葉で共有するという概念共有能力を誤って使っている結果のように思います。

一人では弱いホモ・サピエンスが概念共有能力を使って協力し地球上で最大勢力となったとき、その概念共有能力で自らを種々の集団に分別し、我が集団の価値観が正しいと、利己的利益追求に概念共有能力を誤用し、多くの不幸を生み出している気がします。

この概念共有能力を本来の「皆が人生を楽しむための力」として使うためには、特に、自分の頭で考える必要性が少なくなったデジタル化社会においては、幼少時からその正しい使い方を教えられ、各人がそのよい面と悪い面とを認識し、常に自らで考えることを意識しつつ概念共有能力を活用することが必要であると考えます。

人間以外にも集団を作る動物はいますが、これらは食べ物を得るなどの生きるために必要な範囲でのみ排他的になり、人間のように共有する概念の世界で集団を排他的に形成し、強力な概念共有能力を誤用して全滅するまで利己的利益を追求する冒涜者はおりません。

2.デジタル化社会の弊害

デジタル化社会は、人類が概念共有能力を使って創造した便利な道具ですが、本来人間が持っている能力を退化させるという大きなマイナス面を持っていることを強く認識する必要があると思います。

その一つは、人が「自ら考えること」を放棄し、「検索」して得た情報を自らが考えたことであると錯覚することではないでしょうか。ウエブサイトには正しいと思える回答が用意されており、人はその回答に賛同すると、それを自らのものとし自分の概念社会の一部に組み込み、その回答に賛同する人々の間に排他的な同質意識が生じます。

さらに、人々の思考停止が進むと、ワープロの使用で漢字を忘れるのと同じように、感性や観察力が低下し、人や物の個性のアナログ的な微妙な違いが識別できなくなり、デジタル的に区分したラベルを貼って個性の違いを認識しているつもりになります。この傾向はデジタル化社会が進むにつれて一層深刻になります。

3.若い時から共有したい生き方

概念共有能力は、自爆テロ、特攻隊などのような間違った価値観も刷り込まれるという負の面を備えています。少なくとも次に述べる人生を有意義に過ごすための生き方は、間違った価値観を刷り込まれることもなく、人生を充実して楽しく生きるために有効であると考えます。従って、このような生き方を若い時から共有するために、家庭、学校、社会で話し合い、伝承することは、より多くの人が充実した人生を楽しく過ごすことができる平和な社会を作るために有意義であると考えます。

3-1 人は、言葉(数字、記号も言葉に含まれる)を使って約束事(言葉も約束事)を決めることによって、各自の頭の中に無限に拡大可能な概念の世界を構築することができ、その概念の世界を言葉で共有する能力(概念共有能力)を授かっていること。

3-2 生きることは、自分の欲求に基づいて設定した目標を達成する過程と結果のセットで喜びを感じること。

目標達成過程での努力や工夫不足で結果が伴わなかったとき、嘘などをついて結果だけ達成したときなどに喜びはありません。嘘が悪いのは結果のみを求めるものであり、本人の真の喜びに繋がらないものだからでしょう。 しかし、非常に悔しく悲して喜びを伴わない結果であっても、必死に工夫し考えて努力した上での結果であれば、創造主の目的には叶ったものと思います。

理想の目標に向かう道程に沿って時々の自分の目標を立て、それに向かう努力の結果として達成感を味わうことの積み重ねの中で、大きな目標を達成できれば望外の喜びとなるのではないでしょうか。

3-3 自分が自由を望むのと同様に他人も自由を望むことを認めることが基本ルールであること。同様に、他人の痛み、悲しみの分かる子供に育って欲しいものです。

人はそれぞれ個性があり、能力、興味、行いたいことが異なります。これらの相異を互いに認め合い、各自が自由に個性を発揮する中で協力して共通目的を達成すると喜びも大きくなります。

3-4 人は弱いものであることを自覚して行動を戒めること。

自分の欲求、能力、立場などに基づいて自分の価値感を築き、その価値観に基づく目標に向かって行動するのが原則ですが、これを常に実行するには、かなり強い自己肯定感を備える必要があります。

失敗したときなど自信を無くし、他人の賛同、後押しが欲しくなるものです。しかし、この他人の賛同、共感は己の目標を努力して達成した結果に対する賞賛であって、他人の賞賛を目標として努力するものではありません。この点、共同作業は多くの人が目標を共有するので、肯定感が強くなり安心して行動できます。

3-5 人生は長いようで短いこと。

多くのことを学び、自分の能力を十分使ってより大きい目標を達成すると、より大きな喜びとなります。失敗することも学ぶことの一つです。大きな目標達成は、小さな目標達成の積み重ねの先にあります。これらを一生の間に楽しみながら充実して実践するには、時間を無駄にする余裕は無いでしょう。

4.おわりに

第二次世界大戦が終わって未だ100年が経過していない時期に、ナショナリズムが台頭し、大国がそれぞれの同盟国を囲い込もうと画策しています。デジタル社会の弊害は、英国のブレグジット選挙、米国の大統領選挙などに見られるように世界的な問題であります。

このようなときこそ、弱い人間が力を得て傲慢にならず、思いやりを忘れないために、パスカルの「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で 最も弱いものである。だが、それは考える葦である」を、もう一度考える必要があると思います。

憲法改正に国民的参加

1.はじめに

日本国憲法の改正の必要性は認められてはいるものの、現在ではとりたてて緊急性がないこと、改正すること自体が、戦争できる国への逆戻りを意味するとの不安、例えば自衛戦争のみ認めるとの条文が将来に拡張解釈される怖れなどから急転開することはないように思います。しかし、このような怖れの無い改正案を多くの国民が考えて準備しておくことは必要であると考えます。18世紀に生まれた民主主義は、自分が自由を求めるのと同様に世界中の他人の自由も認めることを原点としています。このとき自他の自由がぶっつかって争いが生じないようにし、互いに協力してより多くの国民が幸せに生活できる国のあり方を定めたものが憲法であると考えます。このような憲法の改正の内容自体に、多くの国民の思いや意見が反映されることが望ましいと思います。SNSに投稿される多数の人々の意見や感覚をAIで処理し、商品開発や経済活動に利用することが行われています。今回、この手法を憲法改正に利用することを提案します。

2.SNSとAIの利用

日本を愛し、日本国民が幸せに生きるための憲法改正に興味がある人は大勢います。芸術、物作り、研究、スポーツなどに興味があり、政治にあまり関心が無い人も多くいます。政治に興味が無くても、自分が興味のある分野をとおして、人およびその人の集まりである日本のあるべき姿を語る人は多いでしょう。そのような各人が考える日本のあるべき姿をSNSで比較的簡単に多数集めることが可能になりました。憲法改正に興味のある大勢の人が協力すれば、各人が求める日本の姿をSNSで集める仕組みを作り、集まった情報から大勢の日本人が望む日本の姿を表す憲法の素案をつくるAIを開発できるような気がします。これには多くの努力と費用が必要ですが、世界初のSNSとAIによる憲法作成プロジェクトであり、挑戦する価値があると思います。

3.自分の求める日本の姿を誰もが自由に語る社会風土の醸成

自分の求める日本の姿を、誰もが、何時でも、何処ででも、自由に考え語る社会風土と、それを実現可能とする仕組みを確立しておくことは、人々の自由と平和と幸せを永続的に維持するために、大切なことであると考えます。このような観点からもSNSとAIによる改憲案を読みたいものです。そのためには、誰もが簡単に安心して自分の求める日本の姿を投稿することができ、情報操作を防止して情報を正確に把握し、分析できるシステムの実現が不可欠です。

4.国民が求める国の姿リアルタイム可視化システム

政治に対する無関心と無知は、特に、国が経済的あるいは国際的危機に陥ったときに、国を不幸に導く野心家の台頭を導きます。そして、国の逆境時において一時の感情的な判断に左右されないために、長い期間に亘って国民が継続的に求める国の姿をリアルタイムに表すものが必要です。政治に関する無関心と無知を克服し、感情的な判断で国を危うくしないためにも、SNSとAIで国民が求める国の姿を誰もがアクセス可能に可視化するシステムは有効であると思います。

大勢の人から情報を気軽に得るために、例えば、一回の質問はバイアスの掛かっていない選択肢が記載された短いアンケートにするなど工夫が必要です。国民の求める日本の姿は、憲法改正に限る必要はなく例えば、税制、皇室、自衛隊、都道府県制、福祉、各種個人の権利の制限、二院制、死刑、教育、婚姻、育児、宗教、情報開示など極めて多くのテーマがありますが、一回のアンケートは一問に限り、長い期間を掛けて情報を集める覚悟が求められます。

5.おわりに

最近、情報操作、漏洩、安易な自己表現などのSNSの悪い面、および自分の頭で考えなくなる、人の仕事を奪うなどAIの負の面が顕在化し、功罪相半ばする感があります。しかし、SNSとAIは人類が発明した便利な道具であり、道具に使われることなく、便利に使いこなす必要があると思います。自分の求める目標を達成する自由を他人にも認めながら、自分の目標を実現して生きる喜びを実感するという最も人間らしい色々な場面での基本ルールをSNSとAIとをうまく使って作りたいものです。

自己肯定感

1.はじめに

昨年の暮れ、ゲノム編集された双子の赤ちゃんが誕生しました。DNAはその人の体格、性格、能力などの資質を書いた設計図であると言われています。ヒト受精卵は一個の細胞であり、そのDNAに変更を加えられた人は、その存在を原点で否定され、自己肯定感を持てなくなることはないでしょうか。自己肯定感は人が生きることのべースであり、互いに尊重し合うことが社会の基礎ルールであるとき、病気治療に限定するとしても、核兵器の轍を踏まないためにも、ヒト受精卵の遺伝子操作に慎重過ぎることはないと考えます。また、自己肯定感を持てなくてテロやヘイトクライムに走る若者が世界で増えているように感じたので、自己肯定感について考えてみました。

2.自己肯定感

人の資質は生まれたときから差があります。この差が多様性や変化をもたらし、人類を存在させる創造主の意思と想像します。そして、自己肯定感は、各人がこの差を受入れ、自分の現在の状態を素直な気持ちで把握した上で、自分の現在と将来の存在に意義を感じることだと思います。

2.1 価値観と自己肯定感

人は、自分の価値観をその興味、能力、環境など現在の状態に応じて形成し、それを具現化するために、創造力、努力などその持てる能力を駆使し、些かな成果と自分の進歩を見出したときに、生きる喜びを感じるように思います。

この自分の価値観を形成し具現化する土台が自己肯定感ではないでしょうか。そして、自分の価値観に基づいて目標を設定し、その目標を達成する過程と結果に喜びを感じることを繰り返すうちに自己肯定感を強めていく気がします。

自己肯定感が弱いと、自分の現状を正確に把握することができず、正しい自分の価値観を形成することができません。また、その価値観に基づいて目標を設定したとしても、その目標達成の努力中に小さい困難に会っただけで、設定した目標や努力に迷いを感じ、目標達成を挫折してしまいます。

逆に、自己肯定感が強すぎると、独りよがり、向上心の拒否、自身喪失に繋がり、自分の正しい現状把握ができず目標設定を誤り、場合によっては攻撃の矛先を他人に向けて、いじめ、人種差別などの要因になります。いじめは、被害者の自己肯定感をズタズタにする精神的な殺人であり、加害者もその自己肯定感の歪みを露呈して自分を精神的に殺す二重殺人のようなものです

2.2 自己肯定感を大切にする社会

昨今、記憶力、思考力については、ビッグデータやAIに置き換え可能な領域が増大しています。こんな時代に対応するためにも、人が存在し続けるエネルギーになる「生きることに喜びを感じる」感性を大切にする社会を作ることが求められている気がします。

大好きなことを見つけてそれに集中している人の自己肯定感は強いです。しかし、何かを模索している人の自己肯定感は脆いものです。小さな失敗、他人の批判などによって揺らぎます。人の興味、行いたいことは様々であり、その肯定感の拠り所も千差満別です。従って、資質の異なる多くの人が適切な自己肯定感を持てるように努力し、協力し合い、また、他人の自己肯定感を尊重し、損なわないようにすることが大切だと思います。

人は集団行動動物ですので、他人のために役に立ちたい、他人に認められたいとのゲノム情報がDNAに記録されているようです。従って、他人から褒められると存在を認められたと思い、自己肯定感が強くなり、逆に、他人から批判されると存在を否定されたと感じ自己肯定感が弱くなります。日本では他人をあまり褒めないので、日本人の自己肯定感は弱いと言われています。他人の良いところを褒める習慣を作って皆が生きる喜びを感じる社会を実現したいものです。しかし、誇張した褒め言葉、おべっか、忖度は、相手に強すぎる自己肯定感を持たせることになり、多くの人に迷惑を掛ける可能性があるので注意が必要です。

また、若い人が、その能力を正確に把握するための参考意見を親身になって考え、その人が現在の状態を素直な気持ちで把握して適切な自己肯定感を持つことに協力できる雰囲気が望まれます。

3.おわりに

ビッグデータやAIによって人間の能力の価値が相対的に低下し、SNSなどによって多人数間で情報の共有化が容易になった社会において、適切な自己肯定感を持つことが難しくなってきました。それに対応するために、自己肯定感を大切にする社会の実現、正しい自己肯定感を持つことの大切さを幼少時に教えることが重要と思います。また、「何のために生きるのか」などの哲学的なことを子供の頃から自分の頭で考える社会環境が必要ではないでしょか。

哲学的な考え方の大切さ

1.はじめに

数ヶ月前に本屋さんの店先に、“イェール大学で23年連続の人気講座「死」とは何か”と言う題名の本が山積みされているのに衝撃を受け、その場で購入して読んでみました。衝撃を受けたのは、有名大学で答えの見つからない自問についての講座を長年続けていること、そして優秀な代々の学生がそのような自問に大きな興味を持っていることでした。因みに、著者のシェリー・ケーガン教授は、死後の世界はないと断言しています。創造主が存在するか否かについての記述はありませんでした。

いじめを経験した等のつらい思いをした学生以外は、「死とは何か」、「何のために生きるのか」などについて考えることは少ないと思います。答えの出ない、一銭の得にもなら無いことに時間を使うくらいなら、例えば就職に有利な講義を聞いた方が賢明だというのが、今の日本の親も喜ぶ一般的な選択ではないでしょうか。

ところが、フランスにおいても自分の頭でしっかりとものごとを考え、意見を持ち、論理的に説明できるようになるために哲学的な思考方法が重視され、高校では哲学が必須だということを知り、折しも2020年教育改革で思考力重視の方針が出されていますので、哲学的な考え方の大切さについて考えました。

2.日本での取り組み

平成27年5月28日に日本学術会議哲学委員会哲学・倫理・宗教教育分科会が、(提言)「未来を見すえた高校公民科倫理教育の創生 ─〈考える「倫理」〉の実現に向けて─」を発表し、高校教育での「倫理」がその本来の役割を果たすようにするため、従来の〈知識中心の「倫理」〉 教育から、〈考える「倫理」〉としての倫理教育への転換、を提言しています。

さらに、哲学者の思想や理論を知識として学ぶのではなく、哲学的に思考/対話するための方法および構えの模索が一部の小中学校で実験的に行われています。このような動きは哲学界にはあるようですが、教育界全体延いては社会全体に広がっているようには思われません。

しかし、現実社会では、答えの出しにくい問題を考えて時間と労力をとられるより、信用できそうな人、あるいは周りの人の答えに従う傾向が強いと思います。答えを自分の頭で考えて出すより、正しいとされている答えを多く記憶している方が仕事を早く処理できる場合も多々あります。多くのことを記憶できると、見識が広くなって正しい判断ができ、話題も多くなります。しかし、周りの答えや記憶に頼りすぎ、それが習慣化されすぎると、効率重視社会、インターネット社会の進行につれて常識では考えられない余りにもお粗末な事件が頻発するようになりました。

3.哲学的思考の意義

ハーバード大学等の試験で「あなたは何者ですか」との問いが定番となっているそうですが、この問いに対しては自分の価値観をしっかり持っていないと答えられません。この問いは、人はそれぞれ得意とする能力、興味、立場、環境等を異にする存在であることを大前提としています。先ず、この違いを客観的に把握し、その中で自分の成りたい人、やりたいこと等の目標を立てて、その目標に向かって行動するなかで自分の価値観を構築し、自分の価値観に従って生きることが幸せな生き方であることを前提としています。このように、自分の人生を意義深いものとするために、「自分は何者か」と問うて自分を客観的に見つめることが重要です。

インターネット社会において、ネットいじめ、ネット詐欺が横行し、いくつかの国では悪意情報が民衆を煽動し国政に混乱をもたらしていると言われています。これは情報が氾濫し容易に入手可能になるにつれて、個人での情報の価値判断が困難となり、安易に多数判断に同調する傾向が増大したことと、多くの人が情報の意味や真偽を自分の頭で考える習慣を放棄したためと思います。このような情報過多社会の弊害を無くすためにも哲学的な思考方法を子供の頃から家庭や学校で教える必要があります。

最近、子ども虐待、弱者殺人、煽り運転、SNSへの愚かな投稿など非人道的でヒステリックな犯罪が多発しています。このような幼稚で思慮分別の足りない大人を生む社会的風土は、「自己肯定感がなぜ必要か」など物事を哲学的に自分の頭で考える教育をしてこなかったための産物といえるのではないでしょうか。

4.おわりに

人は千差満別であるからこそ世の中に変化があり、個別的、地理的、時間的に相違、変化することに人間の存在意義があることを大前提とすると、その相違、変化を各人が自分の頭で考えて自分の価値観を構築し、自分の人生を有意義なものとするために、哲学的な思考方法を子供の頃から教える必要があると思います。

生と死

1.はじめに

神様を信じ死後の世界があるとする人、無神論者、あるいは創造主は存在するが死後の世界はないとする人など様々な人生論があります。私は前にも述べましたように、創造主は存在するが死後の世界はないと考えています。しかし、死後の世界がないと考えたとき、自分の価値観に従って頑なに生きることに疑問を感じましたので、限りある期間を自分らしく生きて喜びを追い求めることの大切さを考えてみました。

2.死後の世界の意義

先ず、死後の世界の存否を証明するものは無いように思います。しかし、私が死後の世界はないと考える理由は以下の通りです。人間は、言葉によって頭の中に自由に世界を築くことができ、その世界を言葉で他人と共有する能力を創造主から授けられていると考えます。死後の世界も共有する人々の間で頭の中に築いた世界ではないでしょうか。したがって、共有する人々の集団が異なれば死後の世界も変わってきます。人はよりよい死後の世界に行くために生きるとすると、今を生きていることを大切に思う気持、感謝の気持が弱くなり、生きる意義を見失うのではないでしょうか。また、死後の世界を現世の救い、或は道徳的に生きるための脅しとみるとき、人の生き方に対する影響が強くなりすぎ、精神の自由を拘束し過ぎるように思います。

3.死後の世界がないとするとき、人は大別すると次の二つの生き方をするように考えます。

一つは、怖いものがなくなったとばかりに自己中心的に或は他人を殺してまで自分の欲を追い求める刹那的な生き方です。

もう一つは、人生は時間が限られているからこそ、物事に取り組む真剣さが増し、目標を達成したときの喜びが深くなることを学び体感して人生を楽しむ生き方です。

刹那的な生き方は、得る楽しみが長続きせず、成功しても人々の賞賛を得ることができません。刹那的に生きている人も、そのような生き方をしたいと初めから望む人はなく、将来の夢が持てないなど何らかの理由でそのような生き方をせざるを得なくなってしまったものと考えます。

これに対し、達成感を求める生き方は、各人が持つ願望に従って、人それぞれに与えられた独創力、記憶力、意志力、体力、環境などを傾注する必要があるだけにそれぞれが立てた目標を達成したときの各自の喜びが深くなり、目標も次から次に出てくるように思います。人生は、時間に限りがあるからこそかえって安易な刹那的な生き方に走らず自分の価値観を貫く困難な生き方に意義があるように思います。とは言っても、夢中になって行なっているだけで楽しいこと、5感に感じるだけで心安らぐこと、比較的に簡単に達成感を味わえることなど多くの楽しみが人生には散りばめられているので、限りある期間にそれらも大いに楽しまなければもったいないように考えます。

4.創造主の存在

死後の世界はないと考える私が、創造主は存在すると考える理由は以下の通りです。人間のような高度な脳力と感情を有する複雑な生き物が偶然に生じたと考えることはできません。そして、その人間でさえ、たった一つの細胞からなる単細胞生物を作ることができません。

存在しないことは、なにも無いことであり、全く変化のない状態であり、その意味では完全な状態と言えるかもしれません。逆に、存在するということは不安定であり、それ故に不完全であり、存在するためには、変化し続ける必要があります。この変化を継続するために創造主は宇宙や人間を創造されたと考えます。壮大ではあるが宇宙の変化だけでは億年単位で見ると変化が小さくなってきて、植物、動物、人間がさらなる変化を求めて創造されてきたように思います。

従って、人間も限られた期間を変化して存在する不完全なもの、人類全体としては創造主の意志で生を授かっていると考えます。人の生きる目的は創造主の永続的な存在の一翼を担うものであるので、永続的なものに繋がることが求められます。このことから、人間は刹那的な生き方でなく、熱情と時間を注いだ永続的な生き方により多くの価値と喜びを見いだすのではないでしょうか。そして、この役目を効率的に果たせる期間として寿命があり、何かできたときは喜びを味わい、苦しいときは、時には創造主にお祈りしながら役割を果たし、枯れ葉が落ちるように死んでいくように思います。より多くの人が幸せに生きることで、存在することの喜びの総和が大きくなり、創造主により大きなエネルギーをもたらすのではないでしょうか。この観点から、より多くの人が誇りをもって自由に活動できる社会を築くことが求められている気がします。これと反対に、人を殺すこと、多くの人を殺す戦争は創造主の心に背く行為であり、人々に喜びをもたらすどころか人類の存在を否定する自虐行為に過ぎません。

5.おわりに

自分の立てた目標に向かって行動し、目標を達成した喜びをバネに次の目標に向かって挑戦することを、成功、失敗を経験しながら繰り返し、自分の価値観に従ったより高い目標に向かって行動できるように変わっていくことを根幹におき、人生に散りばめられた楽しみも味わいながら、限られた期間を有効に生きることができれば、人生を幸せに生きたと言えるような気がします。

何を求めて生きるか

1.はじめに

人は行動するとき、意識してか無意識かに拘わらず、何らかの成果を求めています。生きることは、この行動することの連続です。各行動は、行動しているときの充実感、行動を終えたときの満足感が違い、この違いは、行動する者の成果への欲求度合い、行動の困難性、社会への貢献と社会からの評価などが関係するように思います。生まれてから死ぬまでの限りある期間であり、成長、成熟、老化と身体が変化する一生の中で、行わなければならない時期に、如何なる成果を求めて、どのような行動を行えば、生き甲斐のある人生を送ることができるのかに興味を持ちましたので、若い人が若い内に考えられるとよいと思って投稿しました。

2.何かを求める行動の種類

(1) 基礎生活をするための行動

基礎生活をするためには、例えば、立つ、座る、歩く、手を動かす等の行動が不可欠です。健康時には、無意識に行動しており、この行動に満足感を味わうことはほとんどありません。しかし、病気や怪我をすると、歩けるようになること、手を動かせるようになることが求める成果となり、この同じ行動に喜びを感じます。

(2) 肉体的快感を得るための行動

美食、嗜好物、スリル、セックス、物等から得られる快感という成果を求める行動も楽しい行動の一つです。しかし、快感は、変化が少なく、受動的で精神的高揚も少ないので、マンネリ化します。快楽主義に陥ると、人生でもっと大切なものを見失ってしまう危険性があります。また、社会への貢献はほとんどないでしょう。

(3) 精神的満足を得るための行動

芸術鑑賞、旅行、読書等から得られる、知識、精神的高揚、心のやすらぎ等の成果を求める行動です。受動的ですが、得られた成果を他の行動に活かすことができます。読書等は、自分の志を達成するための行動の一環として行われることもあります。

(4) 他人の承認を求める行動

他人から認められるという成果を求める行動です。他人に認められたい、尊敬されたいという欲求は、人間誰もが本来もっている欲望であると考えます。しかし、他人に認められることを主目的とした行動は他人の喜びを願ってする行動ではありません。自分の志を達成することを主目的とし、成果が他人に喜びをもたらして感謝された行動とは、たとえ他人の評価を意識していたとしても、雲泥の差があると思います。

(5) 愛情を求める行動

他人または動物から愛情を注がれるという成果を求める行動です。この欲望は人間誰もが本来もっていると考えます。犬を抱くと、お返しに頬を舐めてくれます。世の中、ギブアンドテイクが原則です。

(6) 愛情を注ぎたい行動

人間社会にアガペーの愛はあるのでしょうか。例えば、命の危険をかえりみずに、愛する者を助ける行動は、たとえ二次的な気持があったとしても、愛情を注ぐという行動だと思います。

(7) 志の実現を求める行動

人は、社会に貢献するために成したいこと、成りたい人を志として持ち、志の実現という成果を求めて行動します。行動する者は、成果達成への熱意、行動の困難性、社会への貢献と社会からの評価が高い程、行動や成果に対してより大きい充足感や喜びを感じるのではないでしょうか。

人生には生涯を掛けて求める成果だけでなく、人の役に立つという成果あるいは趣味的に求める価値ある成果が沢山あります。これらの成果も達成するまでに要する苦労、時間、必要な能力、他人からの感謝の気持などに応じて成果達成に対する満足感や嬉しさが異なります。

(8) 創造主の褒美を求める行動

如何なる成果を求めるかは各人に委ねられていますが、成果達成への熱意、行動の困難性、成果の社会や他人への貢献と社会からの評価、他人からの感謝によって、達成感、満足感の質、大きさに違いがあります。この違いが創造主からの褒美の差のように思います。

3.生涯のどの時期に如何なる成果を求めて行動するのか

(1)人生プラン

生涯のどの時期に如何なる成果を求めて行動するかは、人生をより実りある楽しいものにするために大切な人生プランだと思います。人は、何を成果として求めて行動するかを任されていますので、自分の価値判断、興味、能力、環境などに基づいて、社会に貢献するために自分が人生で成したいこと、成りたい人を志として心に描き、その志を実現するために人生の各ステージで成すべきこと、得るべきことを、各ステージでの求める成果として行動することは有効であると思います。

この志を実現するための行動に、人の役に立つという成果あるいは趣味的に求める価値ある成果を達成するための行動を適当に散りばめて行えば、人生をより充実して楽しく過ごすことができるような気がします。

古代中国では、人生を四つの季節に区分し、青春では勉学に励み、朱夏では志の実現を目指しながら社会や家族のために働き、白秋では前の二つの季節で学んだことを活かして自分の内面を芳醇させ、玄冬では終活するとしています。各季節に年齢をあてはめることは個人差、時代差があり、あまり意味がないと思いますが、適当な時期に適切な行動をする大切さを教えています。特に、若い時に色々なことを学んで実り多い人生の準備をすることを説くのは古代から変わらない教えです。今回のテーマのようなことを、若いときに学校または家庭で教わることも、実り多い人生を実現するための一助になると考えます。

(2)人生プランの路線変更

志を持って大いに努力をしたが成果が得られない場合はあります。しかし、最初から志を小さくする必要はないと考えます。自分の価値基準、興味、能力、環境などを勘案して、最善と思われる志をたて、腹を括って努力し行動すれば、欲しい成果を手中にできるでしょう。しかし、それでも報われなかったときは、そのステージで、その時点での自分の価値基準、興味、能力、環境などを再構築し志を変更し、覚悟を決めて努力し行動すれば、自分に適した成果を手中にできると考えます。人生は、限りある期間の中で如何に多くの喜び、充実感を手に入れるかを主要な目的としていると考えますので、先の志を達成できなかったことを引きずるような時間的余裕は無く、新しい志を目指して達成感を楽しめばよいでしょう。

4.おわりに

人生は時間に限りがあり、死は万人に訪れます。しかし、死を忌み嫌っているだけでは、実り多い楽しい人生をプランして実現することは難しいと考えます。若い時に、死を直視し、限りある期間に何を求めて生きるかということを学び考えることが、今、求められているような気がします。さらに、人生には志の実現という成果だけではなく、求める価値のある魅力的な成果が山ほどあります。これらの成果も、限りある期間に適当に散りばめて求めれば、人生を幸せ感に満ちたものにできるのではないでしょうか。

国という集団社会の正しい価値観の脆さ

1.はじめに

英国のEU離脱、トランプ大統領が進める一国行動主義、ヨーロッパ各国で台頭する民族ナショナリズムを見るとき、国という集団社会の正しい価値観の脆さを痛感します。集団社会、特に国の価値観は、国が危機に面したとき、混乱状態に陥ったときなど、野心家の影響を受けて間違った価値観になり、戦争に至ることさえあります。このような悲劇を阻止するためには、正しい価値観を持った国民が、協力して国の価値観が間違った方向に進むことを阻止しなければなりません。そのときにベースになる、正しい国の価値観とは何か、国の価値観は、どのようなときに、どのようにして変容されるか、正しい国の価値観を維持するために何が必要か、について考えてみました。

2.国の正しい価値観

国の正しい価値観の主要な項目は、主権在民、人権尊重、我が国のアイデンティティを明確にした国際協調主義、自衛軍保持ではないかと考えます。国の体制は資本主義が最善とは考えませんが、支配層が固定する可能性の高い社会主義等では、人間の性としてエゴと腐敗が起きるのは必然であり、国民の人権尊重が永続的には保証されないと考えます。主権在民で国の政治を行い、国民が共有する我が国のアイデンティティを大切にしながら国際協調して国際問題を解決するなかで、我が国の主権を侵害する国に誇りをもって対抗するために自衛軍を持つことは、現在の世界情勢から見て正しい国の価値観ではないでしょうか。

3.国の価値観は如何なるときに、如何にして変容されるか

(1)国が危機(外敵、内敵、経済的)に面したときに、ときの支配者層が変容。

例えば、日本の明治維新は、外国の脅威に対抗するために、徳川主権から天皇主権に移行し、国の価値観のベースとなる明治憲法を制定しました。しかし、国民は天皇の民とされ、権利や自由は法律の範囲内において保障されたが、不十分なものが多かったと思われます。

(2)戦勝国の価値観を敗戦国に導入

第2次世界大戦後に、天皇主権から人民主権に移行し、全国民が国の価値観の形成に参加できるようになったと考えます。苦い歴史も直視し正しい国の価値観形成に活かすという個人の価値観は正しいように思います。

(3)支配体制の抑圧に反発して被支配者層が変容

例えば、フランス革命では、財政危機に陥ったフランスにおいて市民や農民が中心になって王政を廃止し共和制を樹立しました。ナポレオン、毛沢東、スターリンのように革命家が独裁者に変身する例が多いことは、正しい国の価値観を維持するためには、不断の努力が必要であるとの警鐘でしょうか。

(4)煽動者、野心家が権力を得て変容

例えば、ヒットラーは、不景気に喘ぐ議会制民主主義のヴァイマル共和国で、社会経済的に低い階層の民衆の迷い、感情、恐れ、偏見、無知に訴えて権力を取得し、民主主義を一極集中独裁指導体制変容しました。

(5)科学的、文化的な変化が起きたとき、その変化に対応して国民が変容

例えば、臓器移植技術の進歩により、脳死で臓器移植が可能になりました。命の尊厳に伴い死刑廃止の国が増加しました。社会的弱者の声を反映した多様性を尊重するなかで、LGBTの権利が尊重されました。生死観の変化に対応して一定条件下での安楽死が容認される可能性もあると考えます。

4.正しい国の価値観を維持するために何が必要か

(1)主権在民、人権尊重を求める以上、各国民が正しい自分の価値観を確立し、変容されようとする国の価値観に関する情報を取得して自ら考察し、変容の良否を判断して表明すべきではないかと考えます。少なくとも日本を良くしたいと考えている人々が、このような態度をとることによって日本が悪しき価値観に支配されることを防止できるのではないでしょうか。

(2)迷い、不安、無関心は、情報不足から生じる場合が多く、政策等に関する情報開示、マスコミの良識は、正しい国の価値観を確立・維持するための根幹と思います。

(3)権力の一局集中が国の価値観を悪しき方向に導くことは、歴史的に多くの事例が証明しているので、絶対に防がなければならないと考えます。

(4)国という集団社会の価値観を正しく維持するためには、各国民が正しい自分の価値観を持つことが必須であります。そのためには、自ら考える力や他人を思いやる心を身につけるとともに、教養、得意分野を延ばす若者教育がきわめて大切であることを、確固たる国の価値観として確立し、真に実行することが不可欠と考えます。

5.おわりに

昨今、国際情勢が複雑化するなかで、世界各地で起こっている出来事を見るとき、何が正しい国の価値観であるかを判断すること、正しい国の価値観を維持することの難しさを感じます。歴史上、国が悪しき価値観を持つに至った背景には、多くの国民の消極的な賛同、あるいな迷いが根底にあったとも言われています。このような歴史的教訓からも、正しい国の価値観を維持するためには、各人が自分の価値観を確立した上で、集団社会の価値観に従うことの安息観や目先の利益を求める欲を自制し、変容されようとする国の価値観について、自らの頭で考察して判断し、その見解を表明する必要があるように思います。多くの人々の自分の価値観が相互作用する多様性が正当性を見つけて収斂し、時代に合った正しい国の価値観を形成すると考えます。

どう生きるかはあなたに委ねられている

1.はじめに

7月の投稿で、人間は存在すること、生きることに価値があり、死後の世界は存在しないようにも思われると記載しました。それでは、何のために生きるのかという疑問が生じ考えた結果、人は心の求めることを行って楽しむために生きるのではないかとの我ながらの結論にいたりました。

2.何のために生きるかはその人の自由

おおよそ6万年の間に、約1000億人が証明してきたように、人が生まれるということは、その人が限られた期間を生きるということです。人がその一生をどのように過ごすか、何のために生きるかは、本人が決めることであると考えます。そして、どのような生き方であろうとも、生きることは結果として後生の人に何らかの影響を与え、生きることをつないでいくことだと思います。

他人から言われた通りに生きる方が楽なこともあるかもしれません。しかし、その人が心の求めることを行って生きる方が、その一生を大いに楽しむことができると考えます。心の求めることを行って楽しむためには、努力や苦労も伴うので、無理なくほどほどの楽しみを求める選択をする自由もその人に委ねられています。このことは、漁港近くに単身赴任したときに、料理を学んで美味しい魚料理を楽しむか、インスタント食品で我慢するかの違いに似ています。料理を学んで美味しい魚料理を楽しむのと同じように、心の求めることを行って限られた期間の一生を大いに楽しむのが生きる意義のような気がします。

3.心の求めること

人は生まれながら得意とする能力、生活環境を異にしており、心の求めることも千差万別であると思います。すなわち、得意分野が相違するとともに、幼少時代から家族や、まわりの人々の価値観の影響を受けて、自らの能力、興味、価値観を形成するなかで、心の求めることが定まっていくものと考えます。

幼児は、両親の資質、まわりの人々や生活環境の影響を受けて興味を抱く対象を絞っていくようですが、なに不自由なく育てられ依頼心過剰になった子供には、心の求めることを追い求める強さを教え、恵まれない環境で育てられ独立心過剰になった子供には、人はだれもが、心の求めることを追い求めていることを教えるのも大切だと思います。

4.心の求めることを行うときの楽しさの大きさ

心の求めることを行うときの楽しさの大きさは、心の求めることを成し遂げる困難さ、心が求める強さ、心の求めることを行うときの熱心さ、行う時間の長さ、達成度合いによって異なると思います。人は、その心の求めることについて、何をどの程度求めるかを任されています。したがって、人は、そのときの自分の価値判断、興味、能力、環境などに基づいて心の求めることを定め、追い求めて楽しめばよいように考えます。

5.おわりに

例えば、バイオリンの英才教育は、親が子供のバイオリンの才能を見つけ、音楽環境を整え、子供自らがバイオリンを心の求めることに定めることにより、やっと成功への門戸を開くことができます。しかし、このような幸運な子は極めて稀であります。現在、日本だけでも約100万人の赤ちゃんが毎年生まれており、才能、周りの人々や環境に100万通りの違いがあり、選択の自由なく好ましくない環境に送り出された子もいます。このような子供も、人は心の求めることを行って楽しく生きればよいことを知れば、虐める子や引きこもる子も減るような気がします。

自分の価値観に従って生きるの実践

1.はじめに

先月号で、「自分が決めた価値観に従って真摯に生きていけば創造主と喜びを共感できると思うと、命ある時間を大切にし、多くの人と喜びや苦しみを共有し、日々充足感をもって人生を楽しめるような気がします。」と述べました。言うは易く行うは難しといいますが、自分の価値観に従って生きるという実行の難しい生き方を見事に実践されたのが、樹木希林さんのように思えたので、彼女の語録をたよりに、この生き方の実行方法を考えてみました。

2.自分の価値観に従って生きるの実践

(1)理性で興味のあることを追い求める価値観は、自信を持って何年も実践できると考えます。

「女優、俳優っていうのをこーんなにやっているとは思わなかった。・・・」、「セリフがあまりない役をずーっとやってきたから、自分で存在感を示していくしかなかった。・・・自分で作っていかないとなりたたない人生をおくってきたから。」

芝居に興味があって好きだったのでしょう。しかし、感情的、肉体的に好きなことは、日常生活での一時の味付け、憩いの場にはなるでしょうが、価値を置きすぎると人生を危うくしそうな気がします。

(2)自分の能力で達成できることを追い求める価値観は、達成感と自信という喜びを期待できると考えます。人には生まれながら得意とする能力に違いがあることは周知のことです。

運動が苦手な樹木さんは、小学6年生の水泳大会で、“歩き競争”を選んで、1,2年生を相手に1等賞になって周囲の同級生から軽蔑されながらも賞品をもらったことを回想して、「これで私はきっと味をしめたんだね。いいんだ、これでって。そのまま来ちゃったわね。私の人生。」

(3)自分の置かれた立場で追い求めることができる価値観は、誰を恨むでもなく人生を楽しくしてくれると思います。

「あのね、・・・年をとるっていうのは絶対におもしろい現象がいっぱいあるのよ。だから若い時には当たり前にできていたものが、できなくなること、ひとつずつをおもしろがってほしいのよ。」

(4)自分の決めた価値観を一番尊重し、長い期間、自分を信じて追い続けるこが、新しい発見、苦労の克服、自信、充実感につながるのではないでしょうか。

「他人と比較しない。世間と比較しないこと。比較すると這い上がれないので。挫折するので。」

(5)他人の目、評価を気にすることは、自分ではなく、他人の価値観に従って行動することになると考えます。他人の評価は、自分が己の価値観に従って行動した結果に対し、他人が表す賛同の意ではないでしょうか。自分の志は大切ですが、人生を楽しむことに軸足を少し移すことも必要かもしれません。

「やったことがほんのわずかだもの。やり残したことばっかりでしょう、きっと。一人の人間が生まれてから死ぬまでの間、本当にたわいない人生だから、大仰には考えない。」

(6)共通の価値観を仲間と追いかけることは、楽しさを倍増するかもしれません。

原田映画監督が樹木さんの追悼記で、―樹木さんは「わが母の記」の撮影最終日、棺に横たわる母を撮る段になり「しめっぽいのは嫌ね。」と言いました。私も同感でした。「だったらこういうの、どう?」と樹木さんが話してくれたアイデアを映画ではそのまま使っています。次女が「入れ歯見つかった?」と姉に尋ね、妹は「どこ探しても見つからないのよ」と答えて映画は終わるのです。―と書いています。

価値観を仲間と追いかける目的は、互いの技量を勉強することであり、相手に勝つことではありません。その辺を間違うと、特に、勝負事の場合、勝負にこだわり過ぎて仲間との関係がぎくしゃくするかもしれません。

(7)命ある時間を大切にし、自分の価値観を求め続けることは、白秋、玄冬の理想の生き方のように思います。

「人間も、十分生きて自分を使い切ったと思えることが、人間冥利に尽きるということだと思う。自分の最後だけは、きちんとシンプルに始末することが最終目標。」

(8)創造主と喜びを共感できる価値観は幸せをもたらすでしょう。

「今日、用事があること(きょうよう)を『今日用』と言っているんですけど、神さまがお与えくださった『今日用』に向き合うことが毎日の幸せなのよね。・・・」

3.おわりに

樹木希林さんは、「薬剤師になるつもりが挫折し、スネかじりで居られたので、ある日、戦後初めて研究生を文学座が募集という新聞記事を見てふっと応募したんですよ。新劇は合わなかったですよ。・・・大した役はつかなかったんですけど。」と回想しています。その後、離婚拒否、女優として活躍、左目の失明、癌、老いと色々な各ステージで独自の価値観を築いて実践するなかで成長を続け、目標もだんだん大きくなって魅力的に成熟されたように思います。

自らの興味、能力、立場は自分を形作る主要なものであり、それらに基づく価値観を実行することは、自己実現であり、命のある限り追い求めるのが望ましい姿であります。ところが、昨今、若者の自殺や引きこもりが多いのは、自分の価値観の形成と実行に不自然な力が掛かっているのではないでしょうか。

小さく産んで大きく育てると言います。自分の価値観も自分の成長につれて自然に大きく崇高にしていくものであり、自分の価値観実現の努力と結果に充足感、他人の評価がついてくるものと考えます。自分の価値観を大切にし、仲間と関わりながら命ある限り追い求めれば、創造主の共感を得ることができると思います。

 

 

自分の価値観

はじめに

人は、自らの興味、能力、立場などにもとづいて自分の価値観を築きます。この価値観に従って立てた目標に向かって行動する過程や成果に喜びや悔しさを感じ、生きていることを実感します。これを司るのが人の心ではないでしょうか。そして、心を支えるのが、生命を維持するための身体と、思考や記憶を行うための脳と、他人と情報を交換するための言葉であると思います。人は、自分の人生や行動を支配し、集団社会の価値観に影響を与える自分の価値観をどのように築くのか興味を持ちました。自分の価値観は、どのように生きるかという大きなテーマから、今日のパーティにどの服を着ていくかなどの日常の選択まで千差万別です。

概念の世界(人が脳内に築いた虚構の世界)

今話題のホモ・サピエンスの認知革命において、人は概念の世界をその脳内に築く能力と、この概念の世界を築いて他人に伝えるのに適した新しい言葉を持ちました。これによって、人は、概念の世界を自由に築き、多くの人に伝えて共有し協力して行動することができるようになりました。この概念の世界を築いて共有するという能力は、遺伝子に記憶されたとされています。しかし、人は、概念の世界を中身の深さおよび広さにおいて創造主の制約を受けることなく自由に脳内に築くことを許されたと思います。

身体の世界にも、生存欲、食欲、性欲などについての価値観があり、生存にプラスになることに価値を認めていますが、ここでは概念の世界における価値観について話をすすめます。概念の世界においても、身体の世界の影響を受けること、およびホモ・サピエンスが概念の世界を共有するという能力を授かって互いに協力し生き残ったという事実から、「人類が協力して生き残るのに役に立つこと」に価値があるということを自分の価値観の原点にすると想像します。この原点は創造主の人類についての思いであると思います。

このように、ホモ・サピエンスは、その「弱さ」を補うために概念の世界を与えられ、「協力」して強くなりました。しかし、「協力」は「弱さ」をカバーして「強さ」をもたらしたものですが、「強さ」と「弱さ」を表裏一体に秘めています。協力の強さは、例えば、「人の役に立ちたい」という自分の価値観を持つ人々が協力して「人の役に立つ」ための一つの目標に向かって行動した場合、大きな成果を期待することができるとともに、協力した人々に大きな充足感をもたらすでしょう。協力の弱さは、人は個の弱さゆえに、自分の価値観を犠牲にして集団の価値観に従って集団に協力する傾向があることだと考えます。例えば、集団の価値観が間違っているときに、良識ある人々が集団から排除される怖れから思考停止し、自分の価値観を隠して集団に協力し、悲惨な結果をもたらした多くの事例があります。

間違った価値観

人は、自分の価値観を、自分の興味、趣味、能力、利害、立場、環境に応じて、他人の価値観や集団の価値観の影響を受けながら自由に形成することを許されています。従って、人は、間違った教育によって、あるいは弱さ、私欲や保身に流されて、創造主の意に反して間違った自分の価値観を持つことがあります。間違った教育によって若者が間違った価値観に洗脳される恐ろしさは、日本海軍の特攻隊、ナチスドイツのヒトラー・ユーゲント(青少年組織)、イスラム国の若者、カルト教団の信徒など多くの例があります。

人は、創造主の価値観に反する間違った価値観に基づいて立てた目標に向かって活動したときは、喜びや充足感を得ることはできません。また、自分の価値観に従わずに他人あるいは集団の価値観に盲従して行動することは、保身、責任回避、怠惰などを優先する間違った価値観に従って行動することになります。ましてや、間違った集団の価値観に従って行動した場合は、集団に協力するどころか自分にも集団にも不幸をもたらすことになります。

集団社会においては、集団に属する個人の価値観が地域的に時間的に多数集まって互いに影響を与えながら取捨選択され、集団の価値観として集約されて人々の観念の世界で共有されます。集団社会は、家族、職場、国など大小様々な集団で形成されます。集団(社会)の価値観は、より多くの人が幸せになることを目指して、集団の社会的、文化的、経済的な発展につれて変化してきたと思います。しかし、集団の価値観は、集団が他の集団と反目したとき、天災、疫病などで存続の危機に面したとき、悪い価値観を持った指導者層に支配されたとき、経済的に困窮したときなどに、創造主の価値観に反した間違ったものになる危険を含んでいます。

正しい価値観

人は創造主の価値観に合った正しい自分の価値観を形成し、それを実現するための活動をしたときは、払った努力の質と量および目標の達成度に応じて喜びや充足感、他人の共感を得ることができます。人は概念の世界を脳内に自由に築いていくことを許されているので、人の強さは弱さと表裏一体であることを常に念頭に置き、正しい自分の価値観を自ら学び、あるいは親近者や良き先輩から教えを受けるように心掛ける必要があると考えます。教育によって正しい価値観が築かれる例として、吉田松陰の松下村塾で学んだ多くの門下生、家庭教師のアン・サリヴァンに教えられたヘレン・ケラーなど枚挙にいとまがありません。正しい価値観を学ぶには、偉人の伝記など参考になる本を読む、魅力のある多くの友人、先輩、師と交友する、歴史から学ぶなど色々な方法があります。しかし、正しい自分の価値観は、己の人生の要となる大切なことであるので、己の興味、能力、環境などに基づいて、学んだことを参考にし、自らの心と頭で真剣に考えて形成するしかないと考えます。例えば、小学生のときは、サッカー選手になるために夢中に練習し、中学を卒業する頃にレギュラー選手になれなくて、そのときの興味、能力、環境などに基づいて見直した自分の正しい価値観に従って選んだ職業およびそれに適した学校を選択し、社会にでるときの自分の価値観に基づいて職場を決め、生き方を変えたいとき又は定年時にそのとき再考した自分の価値観に従ってその後の生き方を決めれば、人生の各ステージにおいて自らが決めた正しい自分の価値観に従って充足感を楽しみながら活動できるように思います。

正しい集団社会の価値観は、集団に属する多くの人々が幸せになることのように考えます。したがって、多くの人が正しい自分の価値観に従って行動する集団の価値観は正しいものになると思います。しかしながら、集団社会の価値観は、集団が存続危機に面したときなど、利己的な価値観を持つ人の影響を受けて間違った価値観になることがあります。このような悲劇を阻止するためには、集団に協力することは弱さを秘めていることを忘れずに、正しい価値観を持つ人々が、保身に走らず、思考停止することなく、集団の価値観が間違った方向に進む過ちを協力して阻止しなければならないと考えます。また、このような過ちを繰り返さないためにも、歴史を正しく記録し、歴史から学ぶことが重要であると思います。

創造主と共に生きる

人は、概念の世界を自らの思いで作るので、概念の世界においては、創造主から独立して生きているといえるでしょう。そして、自分の価値観に従って立てた目標に向かって行動したことにより充足感を覚えると、創造主の共感を得たように思うのではないでしょうか。目標に向かって払った努力の質と量および目標の達成度合いに応じて味の異なる充足感を得るように思います。高い目標に向かって大きな努力している人に、偶然のように創造主の手が差し伸べられたように感じる事例が少なからずあります。このように、人は命のある限り創造主と共に生きるような気がします。

高野山の真言宗においては、人の日常の行為や生活は「身体活動」、「言語活動」、「精神活動」から成り立っており、「真言」を唱えて仏と一体化することが必要であると説いています。真言宗での「身体活動」が身体に、「言語活動」が新言語に、「精神活動」が脳に相当し、「真言」を唱えて仏と一体化することが、自分の価値観に従って行動し充足感を得ることに対応するように思います。

おわりに

自分が決めた価値観に従って真摯に生きていけば創造主と喜びを共感できると思うと、命ある時間を大切にし、多くの人と喜びや苦しみを共有し、日々充足感をもって人生を楽しめるような気がします。