二律背反が示唆すること

カントは、四つの二律背反を人間の理性で理解できないこととしています。

一 時間、空間は有限か、無限か

二 物体はどこまでも細かく分割できるか、できないか。

三 人間は自由意志で風習から独立できるか、できないか。

四 創造主は存在するか、しないか。

人は二律背反の両者と上手くつき合うことによって成長できるということも、人生において大きな二律背反のようです。

何事にも焦らず、怠けず、諦めず。

自分の能力にとって狭すぎず広すぎない舞台で、焦らず、怠けず、諦めずに自分の価値観を追い求めることができればすばらしいと思います。自分の志に向かって一歩一歩、各ステップでの身近な目標を達成できた喜びを味わいながら、楽しい人生を若い時から実感できるのではないでしょうか。死後に無限の幸せを永久に手に入れるとの思いは想像できません。

数字の1は、物体ではありませんが、どこまでも細かく分割できます。観念の世界は無責任で気楽です。

カントの没年は1084年であり、核分裂の発見は1938年ですので、カントも原子の核は想像できなかったでしょうが、生物の細胞は顕微鏡で見ていたかもしれません。現代、物質を構成する最小の単位とされている素粒子も将来さらに分割され、創造主の世界にたどりつくような気がします。

究極的に、自分の価値観を優先するのか、集団の価値観を優先するのか。

人間は肉体的にも、精神的にも集団に属してしか生きられず、集団を統治する何らかの体制がないと争いを止められない集団動物であることは、長い人類史からみて真実のようです。これは、何にも負けないように戦って生き続けることを宿命として創造主から授かった性の副産物であり甘受しなければならないでしょう。

こんななかで、君主のために生きる。市民の総意を価値観にする。宗教の教えが正しい。国のために生きる。政党の価値観が絶対だ。基本的人権が最優先する。など様々な試みがなされてきました。未だに正解は見つからず模索が続くのでしょう。

多くの人々の生き方を眺めるとき、自分のしたいことの実現に向かって努力し、結果を出している人は、結果が世俗的に小さなことであっても、いきいきと楽しく生活されています。これも帰納法的に真実のようです。

世界の現状、指導者を一望するとき、不適格な指導者の価値観が強く反映する集団の価値観に従う国民の多くが、不満足な生活を強いられているように感じます。

集団の価値観が個人の価値観に大きい影響を与えることも事実です。集団や他人の役に立つこと、認められることを成したいと欲するのは自然な欲望です。

争い、利己心、嫉妬、嘘などが、生き続けるための性の負の面として現れることも真実として受け止めなければならないでしょう。

これらを考えると、集団のためにではなく、人が生き続けるために役に立つと思える自分のしたいことを目標に定め、達成する喜びを感じることが、宿命を果たしたときに創造主から授かるご褒美ではないでしょうか。

この褒美をもらう各人の権利が、いかなる他人も、集団も奪うことができない基本的人権のように思います。

人々が楽しく生き続けるためには、自分の目標を追い求める各人の生き方を認め合い、助け合い、人類の存続を脅かす敵に対しては協力して戦うことがベースになるのではないでしょうか。

創造主は、存在を身体と知能と心で表現し実感することを人間に託されたと推察しますので、創造主は存在されるのではないかと思います。

苦労が大きいほど、成長できて喜びも大きくなるという真実も、我慢とご褒美の二律背反でしょうか。

自己肯定感

1.はじめに

昨年の暮れ、ゲノム編集された双子の赤ちゃんが誕生しました。DNAはその人の体格、性格、能力などの資質を書いた設計図であると言われています。ヒト受精卵は一個の細胞であり、そのDNAに変更を加えられた人は、その存在を原点で否定され、自己肯定感を持てなくなることはないでしょうか。自己肯定感は人が生きることのべースであり、互いに尊重し合うことが社会の基礎ルールであるとき、病気治療に限定するとしても、核兵器の轍を踏まないためにも、ヒト受精卵の遺伝子操作に慎重過ぎることはないと考えます。また、自己肯定感を持てなくてテロやヘイトクライムに走る若者が世界で増えているように感じたので、自己肯定感について考えてみました。

2.自己肯定感

人の資質は生まれたときから差があります。この差が多様性や変化をもたらし、人類を存在させる創造主の意思と想像します。そして、自己肯定感は、各人がこの差を受入れ、自分の現在の状態を素直な気持ちで把握した上で、自分の現在と将来の存在に意義を感じることだと思います。

2.1 価値観と自己肯定感

人は、自分の価値観をその興味、能力、環境など現在の状態に応じて形成し、それを具現化するために、創造力、努力などその持てる能力を駆使し、些かな成果と自分の進歩を見出したときに、生きる喜びを感じるように思います。

この自分の価値観を形成し具現化する土台が自己肯定感ではないでしょうか。そして、自分の価値観に基づいて目標を設定し、その目標を達成する過程と結果に喜びを感じることを繰り返すうちに自己肯定感を強めていく気がします。

自己肯定感が弱いと、自分の現状を正確に把握することができず、正しい自分の価値観を形成することができません。また、その価値観に基づいて目標を設定したとしても、その目標達成の努力中に小さい困難に会っただけで、設定した目標や努力に迷いを感じ、目標達成を挫折してしまいます。

逆に、自己肯定感が強すぎると、独りよがり、向上心の拒否、自身喪失に繋がり、自分の正しい現状把握ができず目標設定を誤り、場合によっては攻撃の矛先を他人に向けて、いじめ、人種差別などの要因になります。いじめは、被害者の自己肯定感をズタズタにする精神的な殺人であり、加害者もその自己肯定感の歪みを露呈して自分を精神的に殺す二重殺人のようなものです

2.2 自己肯定感を大切にする社会

昨今、記憶力、思考力については、ビッグデータやAIに置き換え可能な領域が増大しています。こんな時代に対応するためにも、人が存在し続けるエネルギーになる「生きることに喜びを感じる」感性を大切にする社会を作ることが求められている気がします。

大好きなことを見つけてそれに集中している人の自己肯定感は強いです。しかし、何かを模索している人の自己肯定感は脆いものです。小さな失敗、他人の批判などによって揺らぎます。人の興味、行いたいことは様々であり、その肯定感の拠り所も千差満別です。従って、資質の異なる多くの人が適切な自己肯定感を持てるように努力し、協力し合い、また、他人の自己肯定感を尊重し、損なわないようにすることが大切だと思います。

人は集団行動動物ですので、他人のために役に立ちたい、他人に認められたいとのゲノム情報がDNAに記録されているようです。従って、他人から褒められると存在を認められたと思い、自己肯定感が強くなり、逆に、他人から批判されると存在を否定されたと感じ自己肯定感が弱くなります。日本では他人をあまり褒めないので、日本人の自己肯定感は弱いと言われています。他人の良いところを褒める習慣を作って皆が生きる喜びを感じる社会を実現したいものです。しかし、誇張した褒め言葉、おべっか、忖度は、相手に強すぎる自己肯定感を持たせることになり、多くの人に迷惑を掛ける可能性があるので注意が必要です。

また、若い人が、その能力を正確に把握するための参考意見を親身になって考え、その人が現在の状態を素直な気持ちで把握して適切な自己肯定感を持つことに協力できる雰囲気が望まれます。

3.おわりに

ビッグデータやAIによって人間の能力の価値が相対的に低下し、SNSなどによって多人数間で情報の共有化が容易になった社会において、適切な自己肯定感を持つことが難しくなってきました。それに対応するために、自己肯定感を大切にする社会の実現、正しい自己肯定感を持つことの大切さを幼少時に教えることが重要と思います。また、「何のために生きるのか」などの哲学的なことを子供の頃から自分の頭で考える社会環境が必要ではないでしょか。

生と死

1.はじめに

神様を信じ死後の世界があるとする人、無神論者、あるいは創造主は存在するが死後の世界はないとする人など様々な人生論があります。私は前にも述べましたように、創造主は存在するが死後の世界はないと考えています。しかし、死後の世界がないと考えたとき、自分の価値観に従って頑なに生きることに疑問を感じましたので、限りある期間を自分らしく生きて喜びを追い求めることの大切さを考えてみました。

2.死後の世界の意義

先ず、死後の世界の存否を証明するものは無いように思います。しかし、私が死後の世界はないと考える理由は以下の通りです。人間は、言葉によって頭の中に自由に世界を築くことができ、その世界を言葉で他人と共有する能力を創造主から授けられていると考えます。死後の世界も共有する人々の間で頭の中に築いた世界ではないでしょうか。したがって、共有する人々の集団が異なれば死後の世界も変わってきます。人はよりよい死後の世界に行くために生きるとすると、今を生きていることを大切に思う気持、感謝の気持が弱くなり、生きる意義を見失うのではないでしょうか。また、死後の世界を現世の救い、或は道徳的に生きるための脅しとみるとき、人の生き方に対する影響が強くなりすぎ、精神の自由を拘束し過ぎるように思います。

3.死後の世界がないとするとき、人は大別すると次の二つの生き方をするように考えます。

一つは、怖いものがなくなったとばかりに自己中心的に或は他人を殺してまで自分の欲を追い求める刹那的な生き方です。

もう一つは、人生は時間が限られているからこそ、物事に取り組む真剣さが増し、目標を達成したときの喜びが深くなることを学び体感して人生を楽しむ生き方です。

刹那的な生き方は、得る楽しみが長続きせず、成功しても人々の賞賛を得ることができません。刹那的に生きている人も、そのような生き方をしたいと初めから望む人はなく、将来の夢が持てないなど何らかの理由でそのような生き方をせざるを得なくなってしまったものと考えます。

これに対し、達成感を求める生き方は、各人が持つ願望に従って、人それぞれに与えられた独創力、記憶力、意志力、体力、環境などを傾注する必要があるだけにそれぞれが立てた目標を達成したときの各自の喜びが深くなり、目標も次から次に出てくるように思います。人生は、時間に限りがあるからこそかえって安易な刹那的な生き方に走らず自分の価値観を貫く困難な生き方に意義があるように思います。とは言っても、夢中になって行なっているだけで楽しいこと、5感に感じるだけで心安らぐこと、比較的に簡単に達成感を味わえることなど多くの楽しみが人生には散りばめられているので、限りある期間にそれらも大いに楽しまなければもったいないように考えます。

4.創造主の存在

死後の世界はないと考える私が、創造主は存在すると考える理由は以下の通りです。人間のような高度な脳力と感情を有する複雑な生き物が偶然に生じたと考えることはできません。そして、その人間でさえ、たった一つの細胞からなる単細胞生物を作ることができません。

存在しないことは、なにも無いことであり、全く変化のない状態であり、その意味では完全な状態と言えるかもしれません。逆に、存在するということは不安定であり、それ故に不完全であり、存在するためには、変化し続ける必要があります。この変化を継続するために創造主は宇宙や人間を創造されたと考えます。壮大ではあるが宇宙の変化だけでは億年単位で見ると変化が小さくなってきて、植物、動物、人間がさらなる変化を求めて創造されてきたように思います。

従って、人間も限られた期間を変化して存在する不完全なもの、人類全体としては創造主の意志で生を授かっていると考えます。人の生きる目的は創造主の永続的な存在の一翼を担うものであるので、永続的なものに繋がることが求められます。このことから、人間は刹那的な生き方でなく、熱情と時間を注いだ永続的な生き方により多くの価値と喜びを見いだすのではないでしょうか。そして、この役目を効率的に果たせる期間として寿命があり、何かできたときは喜びを味わい、苦しいときは、時には創造主にお祈りしながら役割を果たし、枯れ葉が落ちるように死んでいくように思います。より多くの人が幸せに生きることで、存在することの喜びの総和が大きくなり、創造主により大きなエネルギーをもたらすのではないでしょうか。この観点から、より多くの人が誇りをもって自由に活動できる社会を築くことが求められている気がします。これと反対に、人を殺すこと、多くの人を殺す戦争は創造主の心に背く行為であり、人々に喜びをもたらすどころか人類の存在を否定する自虐行為に過ぎません。

5.おわりに

自分の立てた目標に向かって行動し、目標を達成した喜びをバネに次の目標に向かって挑戦することを、成功、失敗を経験しながら繰り返し、自分の価値観に従ったより高い目標に向かって行動できるように変わっていくことを根幹におき、人生に散りばめられた楽しみも味わいながら、限られた期間を有効に生きることができれば、人生を幸せに生きたと言えるような気がします。