より多くの人が生きる喜びを感じるために

技術革新と資本主義が進むにつれて、貧富の差が許容範囲を遙かに超えて民主主義を揺るがす格差社会となっています。

新約聖書のマタイ伝に「持てる者はますます富み、持たざる者は更に失う」とあります。しかし、前者と後者の格差の要因は、根本的に異なるところにあると思います。

格差社会は、資本やICT技術が多くの人々から仕事をする喜びを量的、質的に奪った社会の構造変化に基づく問題であるにも拘わらず、社会が個人に責任を転嫁しこれらの人々を精神的、物質的に支援してこなかったことにあると思います。

マタイ伝の言葉は、心の持ち方を教えているのであり、自分を含めた回りの現状を素直に見聞きして受入れ、正すべきは正して生活すれば物心両面で豊かになるが、己の欲に捕らわれた自己中心的な人は精神的に成長せず他人から疎んじられて物心両面で貧しくなると語っているのではないでしょうか。

現代の格差社会

江戸時代、人工の90%以上を占めた平民は、各人が百姓、職人、商人、漁師として自らの仕事を通して物質的、精神的に社会と繋がるとともに、互助精神や仕組みを社会に構築し格差を緩和していたと思います。

しかし、現代は、巨大資本や高度情報通信技術が個人の仕事を量的、質的に奪い取り、仕事を奪った少数派が富を独占し、奪われた多数派が貧困に面するだけでなく、仕事の質的変化によって自己表現する機会を失い、社会に役立つという満足感を奪われたような気がします。

この格差は、カネがカネを生む資本主義、情報がカネを生むICT社会では、構造的に生じるものであり、個人の努力で打破できるものではありません。

世界においても同じように格差が拡大し、人々の社会との繋がりが希薄になり、社会情勢が不安定になっています。

しかし、今まで国家や社会は、働けるのに働こうとしない者に対して新約聖書で述べられている「働かざる者、食うべからず」との価値観を、働きたくても働けない人に押付けて支援するどころか精神的に苦しめてきたような気がします。

「持てる者はますます富み、持たざる者は更に失う」

聖書の言葉は、「生きる喜び」を行動で実感した人はその行動を繰り返して「生きる喜び」をますます感じ、そのように行動しない人は人生に不満を募らせていくことを教えているように思います。

ちなみに、新約聖書には、「与えよ、さらば与えられん」と述べられています。

創造主は存在するが、死後の世界はないと思っている筆者の解釈ですが、個人の力では如何ともしがたい苦境に陥っている人々に社会や個人が手を差し伸べると、創造主は、「困っている人の役に立てて嬉しい」との感情をご褒美として与えてくださると述べているように思います。

仕事を奪われた人々の「生きる喜びの奪還」

(1)各人の価値観の転換

・各人の価値観の原点を「自分の能力に相応しい目標を達成する喜びを求めて生きる」に置くことにあると思います。

・各自に与えられた能力は千差万別です。自分の好きなこと、能力に合ったことを見つけ、各成長ステップの目標を達成して進歩していくことが「生きる喜び」であると思います。

好きで能力に合ったことでも上手くなるためには、多くの困難を克服し、大いなる努力を必要とするので、達成した喜びが小さくなることはないでしょう。人生はそう甘くはありません。

・仕事のみに「生きる喜び」を求める考えは古くなりました。多くの仕事は量、質的に変化しています。仕事以外にも社会や人の役に立つ行為(社会貢献活動など)はたくさんあります。

(2)国家の価値観の転換

・社会貢献活動をもっと高く評価する施策をとる必要があると思います。

人は、自分が目標を達成したときに自ら喜びを感じると共に、目標達成の結果に他人が喜ぶと嬉しく思います。仕事以外での社会貢献に社会はもっと謝意を表してもよいでしょう。

・自由競争原理は残したままで、税による富の再分配が必要です。

米国では保有資産で上位0.1%の層が下位90%と同等の富を所有していると言われています。

この現状が続けば民主主義、資本主義は破綻すると考えたのでしょうか、ジョージ・ソロス氏など19人の米大富豪が、「米国は道徳、倫理、経済上から我々の資産へ課税する責任がある」とし、自ら大富豪への増税を訴えています。

・国家の価値観の原点は、国民が楽しく生きる環境を整備することです。そのためには、何万人の役に立つことをできる能力者を育成することが大切であるとともに、数人の役に立つことをできる人が「生きる喜び」を感じられる環境作りも必要です。

・仕事という言葉には、社会への繋がり、集団への帰属意識が伴っています。従って、国家は国民にベーシックインカムを支払うと共に、社会的弱者の保護を考慮した規制緩和など諸策を講じて新しい仕事の創出に努める必要があると思います。

より多くの人々が「生きる喜び」を感じることができる、人権と自由と平和を担保する新民主主義を人々が一致協力しICTを活用して創出しなければなりません。

創造主の価値観、人間の価値観、国家の価値観

世界各国のコロナ対策の違い、トランプ大統領の利己的な振る舞い等を見ていると、人間と国家と創造主との関係を改めて考える良い機会になりました。

経済活動を優先すればコロナウイルス感染者が増加し、コロナウイルス対策を優先すれば経済が悪化し、何れかに偏り過ぎると国民の命を犠牲にするとの二律背反に直面し、国家は国民の命を守るために存在するが、自己中心的な指導者の下では国民の命を守ることができないことを再確認しました。

また、近時、人間は創造主から与えられた価値観と乖離した自己中心的な価値観、例えば経済最優先、競争延いては戦争も肯定しかねない価値観に基づいて行動していることへの警鐘のように思いました。

創造主の価値観

「無」と対峙する「有」である創造主は、自然や人間の営みを無作為に変遷させることによって、「有」を実体として具現化し、存在を実感されているのではないでしょうか。

変化が無いこと又は作為的或いは規則的な変化では、創造主は「有」を確認することができないと想像します。従って、変遷が無作為であることは必須です。しかし、変遷の先に滅亡があっては存在を実感できなくなるので、創造主は自然や人間の営みの中に、存続に必要な基本ルールだけは仕込まれたように思います。

人間の価値観

而して、創造主が人間に仕込まれた基本ルール、換言すれば人の遺伝子に組み込まれた基本的な価値観は、先ず、「生きる喜び」であり、それを達成するための「生きる力を習得する喜び」および「他人と協力する喜び」です。

創造主は、人間に多様性に富んだ大きな変遷を具現化させるために、脳内に自分の概念の世界と価値観を自由に構築する、謂わば、概念形成能力を与えられたと思います。

しかし、人間は、この概念形成能力を我欲のために使用し、基本的な価値観からずれた価値観を追い求めていることが多い気がします。

「生きる喜び」は、自分の価値観に基づく目標に向かって行動することです。自分の目標を我欲や世俗的な価値観に基づいて設定しては、「生きる喜び」を実感することはできません。

生きる力は、身体的能力、知的能力、心的能力であり、「生きる喜び」を実現するための手段です。ところが、生きる力は強いことが望ましいので、「生きる力を習得する喜び」も基本的な価値観になります。

そして、生きる力の強さを計るために、各種能力について他人との比較、競争が行われます。

自分の能力向上の尺度としての競争は良いのですが、最終目標が能力向上ではなく勝つことになると、他人も同じ基本的な価値観を有するということが忘れられ、心的能力である協調性や優しさが弱体化します。

現在の利己中心的な風潮や虐めの根源はこの辺りにありそうな気がします。

他人や集団と協力することは、一人では弱い人間が生き延びるために不可欠なことであり、協力して役に立ちたいとの価値観を遺伝子に刷り込まれ、「他人と協力する喜び」も基本的な価値観になったと思います。

他人に協力して認められると嬉しいものですが、他人と協力することが目標ではありません。各自がそれぞれの価値観に従って立てた同じ目標を達成するために仲間と協力する喜びも、「生きる喜び」を実現するために極めて重要であり、基本的な価値観になったのでしょう。

他人や集団の価値観に従うだけでは、自分の個性に基づいた「生きる喜び」を実感することができず、人々の千差万別な能力で多様性に富んだ生きる喜びを実現するという創造主の意図に反することになります。

国家の価値観

国家の基本的な価値観は、各人が「生きる喜び」を実現するためのベースである命や環境を守ることであります。

しかし、国家も人の命や環境を守るために与えられた権力を誤用し、国家の基本的な価値観からずれた価値観を追い求めているケースが多いような気がします。

多くの民族、慣習、宗教等が存在し、さまざまな理由で近しい人々が集団延いては国家を形成して、国民に「生きる喜び」を実現する場を保障することは、人間に多様性に富んだ大きな変遷を具現化させるという創造主の意図に沿うものです。

ところが、次に述べるような場合は、国家の基本的な価値観に基づいた政治が行われていないと思います。

・国家が国民の思想統一を計る。

例えば、中国のように十数億の人々が国家という一つの価値観をもった有機体になることは、生きる喜びの十数億の多様性を期待する創造主の意図に反します。

社会秩序や地球環境などを、「生きる喜び」を具現化する良い場に維持できない。

例えば、地球温暖化対策に消極的なトランプ大統領は、国家や人間の基本的な価値観に無知であり、指導者の資格がないでしょう。また、一部の米国民は銃で自分の命を守ることを誇りとするのではなく恥とし、暴力排除を国家に委託できる社会を築くことに注力して欲しいです。

・戦争を肯定し武力を背景に国家間の紛争解決を図る。

人の命を守るために形成した国家がその権力で殺し合いを強要し人類を滅亡に導くことは、「生きる喜び」を具現化して「有」を創造主とともに実感するという人間の根本を否定するものであり、許しがたい矛盾です。

・「生きる喜び」を実現できない貧困層が存在するほど国家財政が悪い、或いは、国民間に経済格差がある。

自分の価値観に従って生きるためには、最低生活の保障は必要です。

・指導者が利己的に国家権力を使う。

多くの人は、権力や富を手に入れると利己的になるので、国民は政治に関心を持って発言する必要があると思います。

・国民が質の高い教育を受けられない。

各国民が人間の基本的な価値観に基づく行動を繰り返すことによって成長することを学び、実行することが強い国家の基礎です。

人々が、国家に命や生活環境の保護を委託し、各人が生きる力を習得し、他人や集団と協力して、「生きる喜び」を具現化できる社会を築きたいものです。

生きる喜びに優劣はあるか

創造主は、「無」の対極の「有」である「存在すること」を身体と知能と心で現出することを人間に託されたと思います。

人間による生きる喜びの現出に創造主が直接影響を与えてしまっては、創造主は自らの存在を人間の生きる喜びによって確認することはできません。

人間は、生存する本能(身体)、大脳内に概念の世界を構築し他人と共有する能力(知能)、自分の存在意義を確認できると嬉しいという感情(心)をつの生きる力として授かりました。

そして、必然と偶然が不規則に織り成し絶えず変化する舞台で、人々は生きる喜びを実現するという役割を果たすために何世代にもわたって努力を繰り返しているのではないでしょうか。

生きる喜びの現出は安易なものではなく、各人生は一回限りであり、かつ生老病死の四苦があるなかで、各人が知恵を絞って努力することによって実現できるものであると思います。

各人の生きる喜びの相違

各人の生きる喜びは、各人が自分の才能や環境に適合した自分の目標を小さいものから種々設定し、自分の才能を活かして創意工夫を繰り返し、苦労の末に順次達成することにあると思います。

変化がないこと、同じであることは、「無」と同じであるので、創造主は、各人の才能や環境を、生来、異ならせ、各人の生きる喜びが千差万別になるようにされたと思います。

「存在すること」を身体と知能と心で千差万別に現出するという観点からは、各人の多種多様な生きる喜びは全て同じでしょう。

三つの生きる力は、本来、苦労の末に感受できる生きる喜びを現出するために授かったものであるので、活力旺盛で、さまざまな体様で出現します。

そして、暴走すると、生存する本能は、暴食、色欲、強欲などとして現れ、知能は、虚偽、盲信、思想統一などとして現れ、感情は、嫉妬、憤怒、傲慢などとして現れます。

例えば、多くの人は他人より偉くなること、金持ちになることなどを目標に設定し、結果のみを求めて奮闘しています。

これは、存在を認められると嬉しくなるという本性の発露であり、創造主から委託された生きる喜びの現出の動機付けになるでしょうが、人には自分に適合した目標があることを忘れている気がします。他人との比較に捕らわれた目標の設定では、創造主が求められる生きる喜びを現出できないでしょう。

本能が与えてくれる快楽は、目標達成によって手に入る喜びのように、自信に繋がり、他人に賞賛されることはないでしょう。

身体と心が伴わない知能だけの活動では、理屈ばかりで、熱意と苦労が伴わず、生きる喜びは現出できないでしょう。

自分に適合した目標の達成によって生きる喜びを実感するために

達成した目標が自分に適合していない、目標の達成を他人が評価しない場合など、目標を達成した喜びを実感できない場合もあるでしょう。

目標は自分が成したいことを自分の才能や環境に合わせて自ら設定することによって本気でチャレンジできる気がします。

目標を達成して喜びを実感し、自分の存在を確認するのは、先ず自分ではないでしょうか。この喜びの実感を大切にして自信を深め人生を豊かなものにしたいものです。

人々は、他人の目標達成の結果や努力に感動や謝意を感じたときに、賞賛や信頼を他人に与えます。

目標を如何に設定するか

人間は、創造主から託された生きる喜び(存在の確認)を現出するための知恵を先の世代から受け継ぎ、今の世代で時代に合わせて実践し、後の世代に受け継ぎます。

目標を如何に設定・達成して生きる喜びを現出するかについては、回りの大人や先生が先人の知恵を学び、現代の舞台にアレンジして実践し、それを子供達に躾け、教え、子供の頃からの価値観に定着させる必要があると思います。

これを続けることによって、他人の価値観に左右されることなく、自分の才能や環境に適合した目標を設定、達成することに喜びを感じて生きことを重視する社会の価値観が形成され、人々は自分の生きる場所を見つけ、自信を持って自分の生きる喜びを現出できると思います。

人は何故いつまでたってもかわれないのか

1.はじめに

心には、喜び、誠実さ、目標への情熱、思いやり、自己肯定感などのプラス面と、悲しみ、嘘、怠惰、利己、悲観などのマイナス面があります。

マイナス面の心は、喜びを感じながら「生きる」と言う欲求が満たされないときにプラス面の心が屈曲して出るもので、強い生命力が逆説的に表現されたものでしょう。

今の社会、マイナス面の心の発露が多く、いつまでたっても紛争を戦争で解決しようとする人々、利己的な社会の指導者、格差、弱者虐待、ひきこもり等の蔓延を見ていると、人はいつまでたっても変われないものなのかなと、なかば諦めそうになります。

否否、核戦争や地球温暖化など現世代の人々の心の未成熟で人類が滅亡の方向に進むことは断じて阻止し、対策を講じなければなりません。人々が心のプラス面を成熟させて生きる喜びを謳歌することが人類の存在意義ではないでしょうか。

2.心を成熟させることが人生の目標

人は、「体」、「知」、「心」の各能力を備えて誕生します。生まれた時は、身体は小さく、何も知らず、生まれたことに感動することもありませんが、全能力とも強い生命力を持っています。

体は、一世で生、老、病、死を経験します。そして、老いた体は若い体より生命力が弱くなります。

知は、前の一世の知識、思考を土台に積み上げていくことができるものであり、特に科学技術は、ここ何世代かに渡って急速に進歩してきました。

18世紀後半にイギリスの鉱山で使用されていた馬車鉄道が、250年ほど後に東京名古屋間で疾走するリニア新幹線までに進化することは、知識が何世代かに渡って急速に積み重ねられた結果だと思います。

知は心の発露に従って自分の価値観を実現するための一つの道具であります。科学技術の進歩につれて生活が便利かつ忙しくなってきましたが、多忙感の中に何か大切なものを置き忘れてきたような気がします。

心は、一世毎に白紙状態からプラス面を伸ばして成長を繰り返すもので、前の一世の心の成熟は参考にはできますが、その上に積み重ねて進歩することはできません。

孔子は、「・・・吾れ十有五にして学に志し、・・・」と言いましたが、2550年ほど経った現在でも、心を「15才で何かに志す状態」まで成長させている若者が如何ほどいるでしょうか。

心は自分の価値観を実現して人から喜ばれることにより琢磨され、これによって自分を信じ、人から信頼される状態まで成熟し、さらなる努力によって維持向上できるものと思います。このように、各人が心の成熟を目標にしてそれぞれ異なる道を歩み、ときに喜びを感じることが、まさしく各自の生きざまのような気がします。

2-1 心と知のバランス

産業革命以降に何世代に渡って急速に積み重ねられた知の結晶であるハイテク社会に一世毎の心の成長で対応するためには、幼少時から心の教育を家庭や社会で行って心の成長を促進する必要があると思います。

人は真、善、美を識別する潜在能力を備えて生まれてきますが、真、善、美を具体的に感受し表現する能力である心は、学習によって成長していくものであると思います。

しかし、今、何のためにどのように生きるのか、愛情や信頼や志とは何かなどの心に関する教育が十分になされていない気がします。

幼児教育・保育の無償化だけでなく、幼少時から心の教育を家庭や社会で行うことが必要だと思います。

心を鍛錬して成功した実業家、芸術家、スポーツ選手など各界の成功者が各地の小学校などで心について講演する仕組みを作ると、多くの親子が聴講して心の大切さを親子で素直に認識することができるようになると思います。

社会の価値観を権力、経済、勝利至上主義から協調、芸術、フェアウェイ精神に少しシフトすることも有効ではないでしょうか。

また、民主主義や子供の心の教育に百害あって一利なしの利己的で不誠実な政治家を選出しないことも必要でしょう。

2-2 心と体のバランス

体の状態は一世中に変化します。

心の発露に従ってそのときの体の状態に応じた目標を設定して活動することが、体とバランスした心の成長であると思います。

3.おわりに   

スウェーデンの16歳の少女グレタ・トゥンベリは、子どもの未来を地球温暖化で奪わないでくださいと呼びかけています。ノーベル平和賞受賞の女性活動家マララ・ユスフザイは、少女に教育を与える運動を続けています。

日本のスポーツ界などでも若い選手が心を鍛錬して活躍するケースが増えています。心の大切さを啓蒙、認識する機会を増やして、老若男女を問わず多くの人々が心の成熟を目標にして自分の価値観の実現のために行動するようになれば、生きる喜びに満ちた社会を永続できるでしょう。