人はなぜ、苦しみながら生きるのでしょうか。
それは罰でも偶然でもなく、宇宙のあり方そのものに由来します。
神的存在は、自然法則のもとで変化する宇宙を内包し、消滅の可能性を抱えながら、「無」に対峙して「存在」を持続しています。
人間は、その宇宙に存在し、各人が固有の資質を持ち、自然法則および超自然的法則のもとで現実世界を生きています。
そして、超自然的法則に従って生きるよう誘引されながらも、その法則に背く行為を選び得る自由意思を持ちます。
神的存在が「存在」している状態は、決して安定した状態ではありません。「無」に還らず、常に在り続けることには、本質的な厳しさがあります。
人間が生きることに苦しみが伴うのは、その厳しさが生の条件として現れているからです。
とりわけ、現実世界の中で自由意思を行使して自らの目的を見いだすという難題が与えられています。
目的を定め、苦しみに耐えて目的を達成する過程に喜びを感じること、それ自体も超自然的法則のもとで行われます。
この法則は、「存在」を持続させる方向性を示すだけで、完全ではなく不条理を招くことがあります。
完全であれば現実世界での多様性ひいては人間の存在意義がなくなります。
これにより、神的存在が活性を失い、「存在」の持続が弱体化するからです。
現実世界において、利己主義者は、本来は「苦労が喜びへと結びつく」という超自然的法則を、他者の苦しみを自らの利益に転化する方向へと歪めます。
強者が弱者を支配することを当然のように振る舞い、多くの人が、喜びへと結びつかない苦しみを強いられています。
奇跡的な救済は起こりません。
超自然的法則に反して人を救うことは、法則そのものを否定し、超自然的法則を内包する神的存在を「無」へ還すことになるからです。
それでも希望はあります。
多くの人が自らの目的を見いだし、苦労を引き受け、その中で喜びを得るとき、利己主義者の目論みは力を失います。
人が苦しむのは、神的存在がその「存在」を持続するためです。
そして人が喜びを得るのは、その厳しさを引き受け、自覚的に生きた証なのです。
