三つの価値観

はじめに

社会の価値観に大きく反しない範囲で、創造主の価値観に反することなく形成した自分の価値観に従って行動することが、生きることではないでしょうかと、問いかけましたので、これら三つの価値観について、それぞれの成り立ち、意味をもう少し考えてみました。

創造主の価値観

NHKスペシャル人類誕生で話題になりましたが、ホモ・サピエンスが地球上で唯一の人類として76億人もが生き残っている理由を、その「弱さ」とそれを補うために進化させた「協力」としています。

ホモ・サピエンスのいとこ筋と言われるネアンデルタールは、言葉も話し、ほぼ互角の知能と屈強な身体を有していたようですが、他人が互いに協力して社会集団を営むための能力を備えていなかったといわれています。

ホモ・サピエンスは、五感で直接感じることができない概念の世界を頭の中に無限に築く能力を遺伝子に授かったように思います。この概念の世界を言葉で共有することによって他人が互いに協力するために必須である相手の心の内を推測し、確認することができます。概念の世界に自分や集団社会の成りたい姿とそれに向かう道程を描いて現実の世界をそれに向かって進歩させてきたのでしょう。これに対しネアンデルタールは、現実の世界における対応能力はホモ・サピエンスより優れていたようですが、概念の世界を築いてそれを相手に言葉で伝える能力が低かったのではないでしょうか。

ところで、ホモ・サピエンスは、概念の世界を築いて他人に伝える能力とともに如何なる価値観を遺伝子に授かったのでしょうか。他人と協力して生きるという価値観のように思われます。

集団社会の価値観

集団社会には、人類社会、国、職場、家族など様々な形態があります。国の価値観は、憲法、法律や慣習で具現されます。慣習は集団社会の昔からの価値観に従って守られてきた掟、決まり事と思われます。家族の価値観は、昔は親父の一言で決まったようですが、今は誰の発言が大きいのでしょうか。

集団社会の価値観は、その集団に属するより多くの人が幸せに生きていけるような社会を作ることがベースにあると思われます。従って、集団社会の価値観は時代、社会を取り巻く外部の環境、内部の状況などによって変化します。

ところで、このような集団社会の価値観は絶対に正しいのでしょうか。例えば、死刑制度は正しい価値観に基づくものでしょうか。より多くの人が幸せに生きていけるような社会を築くことが集団社会の価値判断の要であり、同じ集団社会に属する人達の間には価値観を共有するという暗黙の了解が存在するなかで、同じ集団に属する他人の命を創造主の価値観に反して奪った犯罪者に自らの命で贖罪させる死刑制度は許されるように思われます。

また、戦国大名が戦で多くの首を取った武将に褒賞を与えたことは、創造主の価値観に反しないでしょうか。ホモ・サピエンスの生息数、地域が拡大するにつれて集団社会の数が増え、価値観の異なる集団社会の間で争いが生じるのは当然の成り行きでしょう。価値観の異なる集団社会の間で、戦線を布告した状態で戦が生じたとき、相手の立場に立って考えると、「殺さないと殺される」が相手の心の内と思われます。したがって、戦場という特殊な場所で敵を殺すことは創造主の価値観に反しないと考えます。

しかし、集団社会の価値観が常に正しいとは限りません。例えば、ナチス・ドイツが行った反ユダヤ政策は、ユダヤ人の生きる権利を奪っただけでなく、ドイツを犯罪国に導き、ドイツ人の心に大きな傷跡を残しました。社会に対する発言力が大きい人が、自己の利益を優先する悪しき価値観に基づいて行動すると、集団社会の価値観を創造主の価値観に反する方向に偏向させる大きな力となります。このような悪しき価値観に基づく行動を糾弾するとともに、多くの人々が、自分が不快に思うことは相手に対して行わないという価値観に基づいて具体的に自己表現すれば、集団社会の価値観が悪しき方向に偏向することを阻止することができると思います。

自分の価値観

ホモ・サピエンスは、概念の世界を築いて他人に伝える能力と、協力して生きるという価値観を授かり、頭の中の世界を他人と共有して互いに協力することを強みにし、6万年ほど前にアフリカを離れて世界中に拡散して生き延びてきました。このような成功体験から、ホモ・サピエンスは帰属する集団社会や仲間の役に立つこと、仲間の喜ぶこと、仲間と協力して物事を成すことにますます価値を認めるようになり、かかる価値観に即して設定した目標を達成したときに大きな喜びを感じるのではないでしょうか。さらには、社会に貢献した人を尊敬し、そのような人になりたいと思うのでしょう。

しかし、概念の世界を築く能力を持ったゆえに、嘘をつく者、役に立つことを行ったように振る舞い、尊敬されることのみを求める者、偽りの世界を作って詐欺を働く者などが出現するようになったと思われます。

人は家族集団から人類集団まで大小いくつかの集団社会に属します。従って、大きい集団の役に立つべき行動を小さい集団のために行うと、利己主義的な行動となり、大勢の仲間から非難され、尊敬と信頼を失うこととなります。地球規模の環境問題や世界の平和に取り組むことなく、自国の選挙情勢に汲々とする米国大統領は、人類の役に立ことを行っておらず尊敬するに値しないばかりでなく、米国延いては人類の価値観を創造主の価値観に反する方向に導いているのではないかと危惧しています。

おわりに

したがって、集団社会の価値観に盲従することなく、自分の価値観をその能力、興味、立場等に基づいて確立し、他人が不快に思わないように心してその価値観に基づいて自己表現すれば、楽しく生きることができるのではないでしょうか。さらに、多くの人が毅然としてこのような生き方を実現することによって集団社会の価値観が悪しき方向に偏向することを阻止することができるように思います。最近の地球規模の異常気象、地震・噴火の多発、自分や自国の利益を優先し過ぎる悪しき価値観を持つ多くの指導者の出現をみるとき、ホモ・サピエンスが創造主から見限られないように、遺伝子に組み込まれた弱者の強さ「協力」を発揮してホモ・サピエンスの価値観に基づいた行動を皆が行うときではないでしょうか。