自分の価値観

はじめに

人は、自らの興味、能力、立場などにもとづいて自分の価値観を築きます。この価値観に従って立てた目標に向かって行動する過程や成果に喜びや悔しさを感じ、生きていることを実感します。これを司るのが人の心ではないでしょうか。そして、心を支えるのが、生命を維持するための身体と、思考や記憶を行うための脳と、他人と情報を交換するための言葉であると思います。人は、自分の人生や行動を支配し、集団社会の価値観に影響を与える自分の価値観をどのように築くのか興味を持ちました。自分の価値観は、どのように生きるかという大きなテーマから、今日のパーティにどの服を着ていくかなどの日常の選択まで千差万別です。

概念の世界(人が脳内に築いた虚構の世界)

今話題のホモ・サピエンスの認知革命において、人は概念の世界をその脳内に築く能力と、この概念の世界を築いて他人に伝えるのに適した新しい言葉を持ちました。これによって、人は、概念の世界を自由に築き、多くの人に伝えて共有し協力して行動することができるようになりました。この概念の世界を築いて共有するという能力は、遺伝子に記憶されたとされています。しかし、人は、概念の世界を中身の深さおよび広さにおいて創造主の制約を受けることなく自由に脳内に築くことを許されたと思います。

身体の世界にも、生存欲、食欲、性欲などについての価値観があり、生存にプラスになることに価値を認めていますが、ここでは概念の世界における価値観について話をすすめます。概念の世界においても、身体の世界の影響を受けること、およびホモ・サピエンスが概念の世界を共有するという能力を授かって互いに協力し生き残ったという事実から、「人類が協力して生き残るのに役に立つこと」に価値があるということを自分の価値観の原点にすると想像します。この原点は創造主の人類についての思いであると思います。

このように、ホモ・サピエンスは、その「弱さ」を補うために概念の世界を与えられ、「協力」して強くなりました。しかし、「協力」は「弱さ」をカバーして「強さ」をもたらしたものですが、「強さ」と「弱さ」を表裏一体に秘めています。協力の強さは、例えば、「人の役に立ちたい」という自分の価値観を持つ人々が協力して「人の役に立つ」ための一つの目標に向かって行動した場合、大きな成果を期待することができるとともに、協力した人々に大きな充足感をもたらすでしょう。協力の弱さは、人は個の弱さゆえに、自分の価値観を犠牲にして集団の価値観に従って集団に協力する傾向があることだと考えます。例えば、集団の価値観が間違っているときに、良識ある人々が集団から排除される怖れから思考停止し、自分の価値観を隠して集団に協力し、悲惨な結果をもたらした多くの事例があります。

間違った価値観

人は、自分の価値観を、自分の興味、趣味、能力、利害、立場、環境に応じて、他人の価値観や集団の価値観の影響を受けながら自由に形成することを許されています。従って、人は、間違った教育によって、あるいは弱さ、私欲や保身に流されて、創造主の意に反して間違った自分の価値観を持つことがあります。間違った教育によって若者が間違った価値観に洗脳される恐ろしさは、日本海軍の特攻隊、ナチスドイツのヒトラー・ユーゲント(青少年組織)、イスラム国の若者、カルト教団の信徒など多くの例があります。

人は、創造主の価値観に反する間違った価値観に基づいて立てた目標に向かって活動したときは、喜びや充足感を得ることはできません。また、自分の価値観に従わずに他人あるいは集団の価値観に盲従して行動することは、保身、責任回避、怠惰などを優先する間違った価値観に従って行動することになります。ましてや、間違った集団の価値観に従って行動した場合は、集団に協力するどころか自分にも集団にも不幸をもたらすことになります。

集団社会においては、集団に属する個人の価値観が地域的に時間的に多数集まって互いに影響を与えながら取捨選択され、集団の価値観として集約されて人々の観念の世界で共有されます。集団社会は、家族、職場、国など大小様々な集団で形成されます。集団(社会)の価値観は、より多くの人が幸せになることを目指して、集団の社会的、文化的、経済的な発展につれて変化してきたと思います。しかし、集団の価値観は、集団が他の集団と反目したとき、天災、疫病などで存続の危機に面したとき、悪い価値観を持った指導者層に支配されたとき、経済的に困窮したときなどに、創造主の価値観に反した間違ったものになる危険を含んでいます。

正しい価値観

人は創造主の価値観に合った正しい自分の価値観を形成し、それを実現するための活動をしたときは、払った努力の質と量および目標の達成度に応じて喜びや充足感、他人の共感を得ることができます。人は概念の世界を脳内に自由に築いていくことを許されているので、人の強さは弱さと表裏一体であることを常に念頭に置き、正しい自分の価値観を自ら学び、あるいは親近者や良き先輩から教えを受けるように心掛ける必要があると考えます。教育によって正しい価値観が築かれる例として、吉田松陰の松下村塾で学んだ多くの門下生、家庭教師のアン・サリヴァンに教えられたヘレン・ケラーなど枚挙にいとまがありません。正しい価値観を学ぶには、偉人の伝記など参考になる本を読む、魅力のある多くの友人、先輩、師と交友する、歴史から学ぶなど色々な方法があります。しかし、正しい自分の価値観は、己の人生の要となる大切なことであるので、己の興味、能力、環境などに基づいて、学んだことを参考にし、自らの心と頭で真剣に考えて形成するしかないと考えます。例えば、小学生のときは、サッカー選手になるために夢中に練習し、中学を卒業する頃にレギュラー選手になれなくて、そのときの興味、能力、環境などに基づいて見直した自分の正しい価値観に従って選んだ職業およびそれに適した学校を選択し、社会にでるときの自分の価値観に基づいて職場を決め、生き方を変えたいとき又は定年時にそのとき再考した自分の価値観に従ってその後の生き方を決めれば、人生の各ステージにおいて自らが決めた正しい自分の価値観に従って充足感を楽しみながら活動できるように思います。

正しい集団社会の価値観は、集団に属する多くの人々が幸せになることのように考えます。したがって、多くの人が正しい自分の価値観に従って行動する集団の価値観は正しいものになると思います。しかしながら、集団社会の価値観は、集団が存続危機に面したときなど、利己的な価値観を持つ人の影響を受けて間違った価値観になることがあります。このような悲劇を阻止するためには、集団に協力することは弱さを秘めていることを忘れずに、正しい価値観を持つ人々が、保身に走らず、思考停止することなく、集団の価値観が間違った方向に進む過ちを協力して阻止しなければならないと考えます。また、このような過ちを繰り返さないためにも、歴史を正しく記録し、歴史から学ぶことが重要であると思います。

創造主と共に生きる

人は、概念の世界を自らの思いで作るので、概念の世界においては、創造主から独立して生きているといえるでしょう。そして、自分の価値観に従って立てた目標に向かって行動したことにより充足感を覚えると、創造主の共感を得たように思うのではないでしょうか。目標に向かって払った努力の質と量および目標の達成度合いに応じて味の異なる充足感を得るように思います。高い目標に向かって大きな努力している人に、偶然のように創造主の手が差し伸べられたように感じる事例が少なからずあります。このように、人は命のある限り創造主と共に生きるような気がします。

高野山の真言宗においては、人の日常の行為や生活は「身体活動」、「言語活動」、「精神活動」から成り立っており、「真言」を唱えて仏と一体化することが必要であると説いています。真言宗での「身体活動」が身体に、「言語活動」が新言語に、「精神活動」が脳に相当し、「真言」を唱えて仏と一体化することが、自分の価値観に従って行動し充足感を得ることに対応するように思います。

おわりに

自分が決めた価値観に従って真摯に生きていけば創造主と喜びを共感できると思うと、命ある時間を大切にし、多くの人と喜びや苦しみを共有し、日々充足感をもって人生を楽しめるような気がします。