1.はじめに
神様を信じ死後の世界があるとする人、無神論者、あるいは創造主は存在するが死後の世界はないとする人など様々な人生論があります。私は前にも述べましたように、創造主は存在するが死後の世界はないと考えています。しかし、死後の世界がないと考えたとき、自分の価値観に従って頑なに生きることに疑問を感じましたので、限りある期間を自分らしく生きて喜びを追い求めることの大切さを考えてみました。
2.死後の世界の意義
先ず、死後の世界の存否を証明するものは無いように思います。しかし、私が死後の世界はないと考える理由は以下の通りです。人間は、言葉によって頭の中に自由に世界を築くことができ、その世界を言葉で他人と共有する能力を創造主から授けられていると考えます。死後の世界も共有する人々の間で頭の中に築いた世界ではないでしょうか。したがって、共有する人々の集団が異なれば死後の世界も変わってきます。人はよりよい死後の世界に行くために生きるとすると、今を生きていることを大切に思う気持、感謝の気持が弱くなり、生きる意義を見失うのではないでしょうか。また、死後の世界を現世の救い、或は道徳的に生きるための脅しとみるとき、人の生き方に対する影響が強くなりすぎ、精神の自由を拘束し過ぎるように思います。
3.死後の世界がないとするとき、人は大別すると次の二つの生き方をするように考えます。
一つは、怖いものがなくなったとばかりに自己中心的に或は他人を殺してまで自分の欲を追い求める刹那的な生き方です。
もう一つは、人生は時間が限られているからこそ、物事に取り組む真剣さが増し、目標を達成したときの喜びが深くなることを学び体感して人生を楽しむ生き方です。
刹那的な生き方は、得る楽しみが長続きせず、成功しても人々の賞賛を得ることができません。刹那的に生きている人も、そのような生き方をしたいと初めから望む人はなく、将来の夢が持てないなど何らかの理由でそのような生き方をせざるを得なくなってしまったものと考えます。
これに対し、達成感を求める生き方は、各人が持つ願望に従って、人それぞれに与えられた独創力、記憶力、意志力、体力、環境などを傾注する必要があるだけにそれぞれが立てた目標を達成したときの各自の喜びが深くなり、目標も次から次に出てくるように思います。人生は、時間に限りがあるからこそかえって安易な刹那的な生き方に走らず自分の価値観を貫く困難な生き方に意義があるように思います。とは言っても、夢中になって行なっているだけで楽しいこと、5感に感じるだけで心安らぐこと、比較的に簡単に達成感を味わえることなど多くの楽しみが人生には散りばめられているので、限りある期間にそれらも大いに楽しまなければもったいないように考えます。
4.創造主の存在
死後の世界はないと考える私が、創造主は存在すると考える理由は以下の通りです。人間のような高度な脳力と感情を有する複雑な生き物が偶然に生じたと考えることはできません。そして、その人間でさえ、たった一つの細胞からなる単細胞生物を作ることができません。
存在しないことは、なにも無いことであり、全く変化のない状態であり、その意味では完全な状態と言えるかもしれません。逆に、存在するということは不安定であり、それ故に不完全であり、存在するためには、変化し続ける必要があります。この変化を継続するために創造主は宇宙や人間を創造されたと考えます。壮大ではあるが宇宙の変化だけでは億年単位で見ると変化が小さくなってきて、植物、動物、人間がさらなる変化を求めて創造されてきたように思います。
従って、人間も限られた期間を変化して存在する不完全なもの、人類全体としては創造主の意志で生を授かっていると考えます。人の生きる目的は創造主の永続的な存在の一翼を担うものであるので、永続的なものに繋がることが求められます。このことから、人間は刹那的な生き方でなく、熱情と時間を注いだ永続的な生き方により多くの価値と喜びを見いだすのではないでしょうか。そして、この役目を効率的に果たせる期間として寿命があり、何かできたときは喜びを味わい、苦しいときは、時には創造主にお祈りしながら役割を果たし、枯れ葉が落ちるように死んでいくように思います。より多くの人が幸せに生きることで、存在することの喜びの総和が大きくなり、創造主により大きなエネルギーをもたらすのではないでしょうか。この観点から、より多くの人が誇りをもって自由に活動できる社会を築くことが求められている気がします。これと反対に、人を殺すこと、多くの人を殺す戦争は創造主の心に背く行為であり、人々に喜びをもたらすどころか人類の存在を否定する自虐行為に過ぎません。
5.おわりに
自分の立てた目標に向かって行動し、目標を達成した喜びをバネに次の目標に向かって挑戦することを、成功、失敗を経験しながら繰り返し、自分の価値観に従ったより高い目標に向かって行動できるように変わっていくことを根幹におき、人生に散りばめられた楽しみも味わいながら、限られた期間を有効に生きることができれば、人生を幸せに生きたと言えるような気がします。