ウクライナに勝利を

ウクライナ戦争がウクライナ勝利で早く終結することを希求するなかで、戦争犯罪者に凋落したプーチン独裁者への憤り、人間の弱さに対する虚しさと強さに対する期待、国家権力が国民に与える利害を思いながら、人間が行う行為とその動機について考えました。

人間は生きるための判断基準と学習能力を生まれつき備えています。

例えば、産まれて間もない赤ちゃんも甘いミルクは飲みますが、渋いお茶は吐き出して二度と口にしません。

このことから、行為の動機となる個人の価値観は、生きることに有益な行為は善、有害な行為は悪であるという生来の価値基準が根底にあると思います。

人間は、このような判断基準と学習能力をベースにして自ら行動し、学習し、他人や社会から教えられ、行為に対する自分の価値観を築きます。

人間の行為は、動機によって「行うことを欲する行為」、「行わなければならない行為」、「行ってはならない行為」に区別されると思います。

「行うことを欲する行為」は動機が欲求であるので欲求行為と呼びます。

「行わなければならない行為」は、動機が義務的であるので、義務行為と言えるでしょう。

「行ってはならない行為」は、その行為が有害であるという動機で禁止するので禁止行為とします。

欲求行為は、心理学者アブラハム・マズローの欲求5段階説など種々研究されていますが、自分の能力や興味に基づいて自らが設定した目標に向かって行動し達成したときに実感する存在意義や喜びは、人間の生きることへの動機とも言えるでしょう。

創造主が人間に望まれることは、各自の善い欲求行為を互いに認めて尊重し、協力してより多くの人が楽しく生きることだと思います。

従って、欲求行為でも、例えば、薬物使用や詐欺など自分や他人の善い欲求行為を害する行為は悪い欲求行為でしょう。

人間の知的活動を模して創作されたコンピューターは、出荷時には、学ぶ能力や外部からの要求を取捨する能力を基本ソフトに記憶されているだけですが、学習させることによって、例えば人工知能のように驚くほどの能力を有するようになります。

コンピューターが偶然に出現し得たものではないのと同様に、人類は突然変異で誕生したものではなく、創造主の人間と共に喜びを共感したいという動機から創造されたものであると推測します。

義務行為は、望むか望まないかに拘わらず自分、他人、あるいは集団や国家のために行なわなければならない行為です。

例えば、つらい練習をすること、疲れているときに老人に席を譲ること、当番で掃除をすること、税金を払うことなどが義務行為でしょう。

禁止行為は、例えば悪い欲求行為、脱税、侵略などのように自分、他人、自国あるいは他国にとって有害な行為です。

ロシアのウクライナ侵略は、プーチン独裁者の利己的な行為が4千4百万人強のウクライナ人の善い欲求行為を蹂躙し、創造主の意思に反する禁止行為であることは明々白々です。

ゼレンスキー大統領やウクライナ兵および市民は、独裁者の悪と戦うために行なわなければならない戦闘義務を、愛するウクライナ国を守りたいという善い欲求行為に昇華して勇敢に戦っているように思います。

逆に、ロシア兵は、戦闘義務を独裁者から強要され、禁止行為であるにも拘わらず、創造主の意思に反して戦わなければならないという悲劇に見舞われている気がします。

ウクライナに勝利を

基礎的な学習内容 その2

今回は、学習課目の道徳、体育、芸術や美術、社会や理科における基礎的な学習内容を提案します。

文部科学省は、児童生徒が生命を大切にする心や他人を思いやる心、善悪の判断などの規範意識等の道徳性を身に付けるために、道徳教育の充実を図っているとしています。

生徒が道徳性を知識として学習することも大切ですが、好きなことの知識や経験を積んで脳内の概念の世界を拡大していく楽しみ、成長段階に応じて設定した目標を達成する喜び、多様性ある人々と協力し物事を成す喜びなどを体験学習することによって道徳性が血肉となるものと思います。

これには、子供が築いた概念の世界の話を聞き、目標設定のアドバイスをし、色々な人と接触する機会を作るなど、多様性ある子供の身体、知能、心を使った個性に応じた実体の世界での活動がベースになると思います。

先祖から引き継いだ生命を大切に思う心は、本能だけでなく、各人の活動から得られる喜びや感動などによって育まれるものと思います。

昨今の権威主義下での弱者の軽視、民主主義下での強者の尊大をみるとき、生きる喜びや感動を創造主と共に共感する生甲斐を若者に体感させたいものです。

体育で学習する対象は、主として身体を目的に合わせて効率的に動作させる能力です。

例えば、徒競走で生徒が早く走っている状態は、「実体の世界」での出来事で、生徒は脚や手などの筋肉を上手く使って疾走します。

しかし、ゴールした後に先生が生徒に、「膝をもう少し上げた方がもっと速く走れるよ。」とアドバイスしたとすると、それは先生の「概念の世界」で生徒が走っているフォームについて述べたものです。

生徒が前より速く走るという目標を立て、先生のアドバイスや自分の概念の世界に蓄積した速く走るための情報に従ってフォームを修正し、実体の世界で練習を繰り返し、次回の徒競走でもっと速く走る喜びを体感することが体育で学習することだと思います。

体育は、身体、知能、心を使って目標設定、実行、達成のサイクルを比較的分かりやすく容易に繰り返すことができるように思います。

芸術で学習する対象は、人が心に抱く思いや感情です。

表現者の思いや感情は、その生死に拘わらず、文芸、美術、音楽、演劇・映画などの媒体を介して鑑賞者の概念の世界に復元されます。

表現者は、自分が抱いた思いや感情を実体の世界で表現して鑑賞者の共感を得るために感性と表現力を磨きます。

鑑賞者は、表現者の思いや感情に共感するため、或いは表現力を学ぶために表現物を鑑賞します。

学習科目の社会では、例えば、多様性ある人々の個性を個人および社会に有効に活かす仕組みなど、個人と社会の関係について考えることが求められます。

また、過去に人間が行ってきたことを歴史として書物や文化遺産などで学習し、各自の概念の世界に復元します。

歴史を学ぶ一つの意義は、独裁政治や戦争などの過去の過ちを繰り返さないためにあると思います。

しかし、歴史は人々の概念の世界に築かれた過去の出来事であるので、利己的な為政者や思想家などに歪曲されないように注意しなければなりません。

理科では、実体の世界の物事の性質を学習し、あるいは発見し、言葉や記号や数式で各自の概念の世界に復元します。

そして、物事の性質を利用し、実体の世界において、例えば産業に役立つ技術や病気を治す医療などを開発します。

生徒が、上述のような学習の出発点のようなことを分かりやすい言葉や例題などによって理解すると、自分の概念の世界を広げていく面白さを知り、興味を持ったことについて主体的に学習するようになると思います。

国民の幸福度が低く、国力の相対的低下が危惧される日本において、親や社会の価値観を押付けることなく、子供が持っている興味や才能を気づかせる教育をすることによって、各自の個性に応じた豊かな概念の世界を築き、チャレンジ精神や幸福度の高い国民が増加するのではないでしょうか。