生きる喜びに優劣はあるか

創造主は、「無」の対極の「有」である「存在すること」を身体と知能と心で現出することを人間に託されたと思います。

人間による生きる喜びの現出に創造主が直接影響を与えてしまっては、創造主は自らの存在を人間の生きる喜びによって確認することはできません。

人間は、生存する本能(身体)、大脳内に概念の世界を構築し他人と共有する能力(知能)、自分の存在意義を確認できると嬉しいという感情(心)をつの生きる力として授かりました。

そして、必然と偶然が不規則に織り成し絶えず変化する舞台で、人々は生きる喜びを実現するという役割を果たすために何世代にもわたって努力を繰り返しているのではないでしょうか。

生きる喜びの現出は安易なものではなく、各人生は一回限りであり、かつ生老病死の四苦があるなかで、各人が知恵を絞って努力することによって実現できるものであると思います。

各人の生きる喜びの相違

各人の生きる喜びは、各人が自分の才能や環境に適合した自分の目標を小さいものから種々設定し、自分の才能を活かして創意工夫を繰り返し、苦労の末に順次達成することにあると思います。

変化がないこと、同じであることは、「無」と同じであるので、創造主は、各人の才能や環境を、生来、異ならせ、各人の生きる喜びが千差万別になるようにされたと思います。

「存在すること」を身体と知能と心で千差万別に現出するという観点からは、各人の多種多様な生きる喜びは全て同じでしょう。

三つの生きる力は、本来、苦労の末に感受できる生きる喜びを現出するために授かったものであるので、活力旺盛で、さまざまな体様で出現します。

そして、暴走すると、生存する本能は、暴食、色欲、強欲などとして現れ、知能は、虚偽、盲信、思想統一などとして現れ、感情は、嫉妬、憤怒、傲慢などとして現れます。

例えば、多くの人は他人より偉くなること、金持ちになることなどを目標に設定し、結果のみを求めて奮闘しています。

これは、存在を認められると嬉しくなるという本性の発露であり、創造主から委託された生きる喜びの現出の動機付けになるでしょうが、人には自分に適合した目標があることを忘れている気がします。他人との比較に捕らわれた目標の設定では、創造主が求められる生きる喜びを現出できないでしょう。

本能が与えてくれる快楽は、目標達成によって手に入る喜びのように、自信に繋がり、他人に賞賛されることはないでしょう。

身体と心が伴わない知能だけの活動では、理屈ばかりで、熱意と苦労が伴わず、生きる喜びは現出できないでしょう。

自分に適合した目標の達成によって生きる喜びを実感するために

達成した目標が自分に適合していない、目標の達成を他人が評価しない場合など、目標を達成した喜びを実感できない場合もあるでしょう。

目標は自分が成したいことを自分の才能や環境に合わせて自ら設定することによって本気でチャレンジできる気がします。

目標を達成して喜びを実感し、自分の存在を確認するのは、先ず自分ではないでしょうか。この喜びの実感を大切にして自信を深め人生を豊かなものにしたいものです。

人々は、他人の目標達成の結果や努力に感動や謝意を感じたときに、賞賛や信頼を他人に与えます。

目標を如何に設定するか

人間は、創造主から託された生きる喜び(存在の確認)を現出するための知恵を先の世代から受け継ぎ、今の世代で時代に合わせて実践し、後の世代に受け継ぎます。

目標を如何に設定・達成して生きる喜びを現出するかについては、回りの大人や先生が先人の知恵を学び、現代の舞台にアレンジして実践し、それを子供達に躾け、教え、子供の頃からの価値観に定着させる必要があると思います。

これを続けることによって、他人の価値観に左右されることなく、自分の才能や環境に適合した目標を設定、達成することに喜びを感じて生きことを重視する社会の価値観が形成され、人々は自分の生きる場所を見つけ、自信を持って自分の生きる喜びを現出できると思います。

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