民主制は独裁制より人民のための政治制度

昨今の経済成長率が民主制のG7より独裁制の中国の方が高いこと、中国のコロナ感染症対策が功を奏していること、G7において経済格差が拡大していること、まん延防止等重点措置実施区域の路上で酒盛りをする日本の若者を見るとき、独裁制もよいのかなとの声を耳にします。

しかし、独裁制は人民を身体的に生きる集団動物化する政治制度であり、民主制は、人民に精神的な生きる喜びを感じる場を与え、人間の存在意義を具現化する政治制度であることを強く再確認する必要があると思います。

民主制

民主制は人民の大多数に生きる喜びを感じ得る場を与える人民による人民のための政治制度と言えるでしょう。

この民主制が成り立つのは、経済が発達し、人々が身体的に生きることを保障され、各人が自己実現などの精神的満足感を求めて生きる環境が整備されたときだと思います。「衣食足りて礼節を知る」とはよく言ったものです。

民主制の弱点

アテネの民主制時代を生きたプラトンは、民主制が崩壊するのは独裁者を宿す人民の知識不足、自由偏愛にあると2400年も前に警告しています。

人民の意思に従って政治が行われる民主制のベースには経済発展がありますが、経済発展に伴って商才のある人民は富裕層になり、富まない人民の大部分は大衆層になります。

当初は人民である富裕層と大衆層が統治しますが、富裕層と大衆層との利害が衝突し大衆層を煽動する独裁者が漁夫の利を得て独裁者になるという悲劇がギリシャ以来歴史上繰り返されています。

アテネの民主制は経済発展を支えた奴隷の犠牲の上に成り立っており、奴隷を含めた大多数の人々に生きる喜びを感じる得る場を提供できるものでなく民主制と言い難い面もあります。

しかし、プラトンの警告は、産業革命による経済発展がもたらした近代民主制にも当てはまると思います。

現代民主制においても、政治に大衆層より富裕層の意思が強く反映する傾向があり、富裕層と大衆層との利害が衝突しています。

そして、富裕層は株式の配当金や売買益などで富みの蓄積を図り、大衆層との間の所得格差を構造的に拡大させています。

大衆層の所得を増やして所得格差の拡大を阻止すると主張する独裁者を許容する気運が醸成されつつある気がします。

独裁制は、人民の大多数が自らの意思に従って行動できす、人間の存在意義を具現化できる政治制度でないことをメディアや有識者が常に声をあげて大衆に語りかける必要があります。

民主制の弱点

富裕層、大衆層が民主制を守るという大局的見地に立って民主制の弱点を補う仕組みを社会制度として取り入れておかなければ、文明の進んだ現代においても独裁制を求める弱さが人間の性にあります。

民主制は人民が政治制度を制定し実行するために権力を設定します。

民主制の理念では、自由を極めて尊重します。

この場合の自由は、福沢諭吉がlibertyを自らをもって由となすと訳したように、自らの意思に従って行動することへの自由あり、自分の才能や環境に適合した目標を設定、達成することに喜びを感じて生きる自由であると思います。

自由には、権力による束縛からの自由という側面もあると言われますので、権力は民主制の実施に必要のものに限定すべきでしょう。

しかし昨今、多くの人が民主制の実施に必要な権力からの自由まで求めている気がします。

民主制は、人民が各人の価値観を相互に尊重しその実現の場を提供する政治制度ですので、例えば、まん延防止等重点措置実施区域の路上で酒盛りをする人に対する罰則規定があっても民主制の理念に反しないと思います。

さらに、民主制が尊重する平等についても、人は生来、知力、体力、興味、感性、容姿、環境などが異なることを無視した悪平等が横行し、却って自らの意思に従って行動する自由を制限している気がします。

経済発展をもたらし近代民主制の産みの親ともいえる資本主義についても自由の尊重が過剰で経済格差をもたらしている気がします。

例えば、企業に高配当を要求し、貴族が自分の荘園から年貢を徴収したように、高配当金を徴収する旧態依然な富裕層の利己的行為を規制することは、民主制のベースとなる自由経済を脅かすものではないと思います。

独裁制

独裁制は、ある一個人、少数者または一党派が絶対的な権力を持って独裁者層を形成し、独裁者層およびその協力者からなる支配者層のための利益を大多数の被支配者層を犠牲にして追求する政治制度いえるでしょう。

戦争、社会の混乱、経済の困窮などの緊急事態時に出現し、緊急事態の消滅した後も支配者層が権力を離さなく存続することが多く見られます。

独裁制が悪い理由

今年5月の全国人民代表大会閉幕後に、李克強首相が、中国には平均月収が1000元(1万5000円)前後の中低所得層が6億人いると述べたように、国民の約半分が貧困層です。

中国では、鄧小平が始めた社会主義市場経済によって経済発展し、人民の一部は独裁者層が立てた政策の実行者になることによって市場経済従事者層化し、他部は貧困者層化したと思われます。

これにより、中国は独裁者層、それに協力する市場経済従事者層、貧困者層から構成されていると思います。

市場経済従事者層の自己目標達成への自由を求める欲求は強くなったと思いますが、残念ながら独裁者層と共存共栄の関係にあり、絶対王制を倒して政府を樹立した民主制国民の自由への希求には質的にも量的にも及ばないでしょう。

そして、独裁者層は、市場経済従事者層から徴収した税の多くを独裁者層で分配し、一部を社会に鬱積する不満解消のために市場経済従事者の低所得層および貧困者層に分配するという構図が見えてきます。

中国独裁者層は、覇権を国家目標に掲げ、人心の統一を図っています。

6億人もの貧困者層に生きる喜びを実現する場を提供することなく、戦争を前提とする覇権争いに人民の目を向けさせている独裁制は、各人が多様性のある個性に基づいて「生きる喜び」を具現化し「存在すること」を創造主とともに共感するという人間の存在意義に悖る政治制度ではないでしょうか。

独裁制は、人民に望まれて出現したとしても、年月が経つと独裁者層が利己的になり人民の権利を蹂躙するのが人間の性であり、歴史的にも証明されています。

人間は先ず肉体的な存在を確保できた後に精神的な生きる喜びを求めるものなので、政治制度と経済活動は分離し難いものです。

従って、政経分離と一見説得力のある言葉で正当化して独裁体制国と長期的な戦略なしに貿易することは慎むべきだと思います。

市場経済従事者層の貿易から得た利益が独裁者層に流れ独裁制の維持に利用されることを考慮しなければならなしでしょう。

近代民主制は、人民の大部分が自らの意思に従って行動し生きる喜びを感じることができる場を整備するために、独裁制など旧来の政治制度に変わって登場したものであり、少なくとも名前の知れた文化人が独裁制を認めるような無見識をメディア等で披露しないで欲しいものです。

より多くの人が生きる喜びを感じるために

技術革新と資本主義が進むにつれて、貧富の差が許容範囲を遙かに超えて民主主義を揺るがす格差社会となっています。

新約聖書のマタイ伝に「持てる者はますます富み、持たざる者は更に失う」とあります。しかし、前者と後者の格差の要因は、根本的に異なるところにあると思います。

格差社会は、資本やICT技術が多くの人々から仕事をする喜びを量的、質的に奪った社会の構造変化に基づく問題であるにも拘わらず、社会が個人に責任を転嫁しこれらの人々を精神的、物質的に支援してこなかったことにあると思います。

マタイ伝の言葉は、心の持ち方を教えているのであり、自分を含めた回りの現状を素直に見聞きして受入れ、正すべきは正して生活すれば物心両面で豊かになるが、己の欲に捕らわれた自己中心的な人は精神的に成長せず他人から疎んじられて物心両面で貧しくなると語っているのではないでしょうか。

現代の格差社会

江戸時代、人工の90%以上を占めた平民は、各人が百姓、職人、商人、漁師として自らの仕事を通して物質的、精神的に社会と繋がるとともに、互助精神や仕組みを社会に構築し格差を緩和していたと思います。

しかし、現代は、巨大資本や高度情報通信技術が個人の仕事を量的、質的に奪い取り、仕事を奪った少数派が富を独占し、奪われた多数派が貧困に面するだけでなく、仕事の質的変化によって自己表現する機会を失い、社会に役立つという満足感を奪われたような気がします。

この格差は、カネがカネを生む資本主義、情報がカネを生むICT社会では、構造的に生じるものであり、個人の努力で打破できるものではありません。

世界においても同じように格差が拡大し、人々の社会との繋がりが希薄になり、社会情勢が不安定になっています。

しかし、今まで国家や社会は、働けるのに働こうとしない者に対して新約聖書で述べられている「働かざる者、食うべからず」との価値観を、働きたくても働けない人に押付けて支援するどころか精神的に苦しめてきたような気がします。

「持てる者はますます富み、持たざる者は更に失う」

聖書の言葉は、「生きる喜び」を行動で実感した人はその行動を繰り返して「生きる喜び」をますます感じ、そのように行動しない人は人生に不満を募らせていくことを教えているように思います。

ちなみに、新約聖書には、「与えよ、さらば与えられん」と述べられています。

創造主は存在するが、死後の世界はないと思っている筆者の解釈ですが、個人の力では如何ともしがたい苦境に陥っている人々に社会や個人が手を差し伸べると、創造主は、「困っている人の役に立てて嬉しい」との感情をご褒美として与えてくださると述べているように思います。

仕事を奪われた人々の「生きる喜びの奪還」

(1)各人の価値観の転換

・各人の価値観の原点を「自分の能力に相応しい目標を達成する喜びを求めて生きる」に置くことにあると思います。

・各自に与えられた能力は千差万別です。自分の好きなこと、能力に合ったことを見つけ、各成長ステップの目標を達成して進歩していくことが「生きる喜び」であると思います。

好きで能力に合ったことでも上手くなるためには、多くの困難を克服し、大いなる努力を必要とするので、達成した喜びが小さくなることはないでしょう。人生はそう甘くはありません。

・仕事のみに「生きる喜び」を求める考えは古くなりました。多くの仕事は量、質的に変化しています。仕事以外にも社会や人の役に立つ行為(社会貢献活動など)はたくさんあります。

(2)国家の価値観の転換

・社会貢献活動をもっと高く評価する施策をとる必要があると思います。

人は、自分が目標を達成したときに自ら喜びを感じると共に、目標達成の結果に他人が喜ぶと嬉しく思います。仕事以外での社会貢献に社会はもっと謝意を表してもよいでしょう。

・自由競争原理は残したままで、税による富の再分配が必要です。

米国では保有資産で上位0.1%の層が下位90%と同等の富を所有していると言われています。

この現状が続けば民主主義、資本主義は破綻すると考えたのでしょうか、ジョージ・ソロス氏など19人の米大富豪が、「米国は道徳、倫理、経済上から我々の資産へ課税する責任がある」とし、自ら大富豪への増税を訴えています。

・国家の価値観の原点は、国民が楽しく生きる環境を整備することです。そのためには、何万人の役に立つことをできる能力者を育成することが大切であるとともに、数人の役に立つことをできる人が「生きる喜び」を感じられる環境作りも必要です。

・仕事という言葉には、社会への繋がり、集団への帰属意識が伴っています。従って、国家は国民にベーシックインカムを支払うと共に、社会的弱者の保護を考慮した規制緩和など諸策を講じて新しい仕事の創出に努める必要があると思います。

より多くの人々が「生きる喜び」を感じることができる、人権と自由と平和を担保する新民主主義を人々が一致協力しICTを活用して創出しなければなりません。