社会の変化につれて変わる価値観と変わらない価値観

人は、「知」によって道具、言葉、農業、人文科学、自然科学を進展させ、社会制度、物質世界を変化させてきました。物質世界の変化は、人の「体」に心地よい世界をもたらすと共に、地球温暖化、核戦争という人の「心」を不安にする世界をもたらしました。

社会制度や物質世界の変化は、人が心、知、体を使って生きる舞台である社会を変化させ、舞台の変化に応じて社会の価値観、個人の価値観を変えてきました。

人は各自の価値観を実現して喜びを感じるために生きていますが、社会に不安や不満が満ちている状態では人々の「心」は退行し、独立性を失って社会に依存する傾向が強まります。

人々の心が退行するのに乗じて利己的な支配者層が台頭し、社会をさらなる混乱に導き、地球温暖化あるいは核戦争によって人類を滅亡させる事態が生じないとも限りません。

このようなときこそ、社会の変化につれて変わる価値観と変わらない価値観を峻別し、変わらない価値観を大切にして各人が自分の価値観を確立し、各人の価値観の共通項である社会の価値観が歪められることを防がなければならないと思います。

変わらない価値観

創造主の価値観である永続的な存在を具現化するために、人間に託された変わらない価値観は、 先ず生きること、そして 人類が生き続けるために役立つことを目標にして行動し、その過程と結果に喜びを感じることではないでしょうか。

変わる価値観

各時代を生きる人々が、自ら設定する自分の価値観は、変わらない価値観に反しない範囲内にあっても、その時代の社会によって変わります。

例えば、戦乱時代は、民主主義という社会制度を見出す以前の君主主義社会であったため、君主とともに戦いに勝つことが、その国民(人類)が生き続けるために有益な集団の価値観であり、国民の価値観も勝つために敵人を殺すことに置かれたのでしょう。

しかし、ある人にとっては、戦いに勝つことより大切なことがあり、敵人を殺すことに迷いがあったかもしれませんが、集団の価値観に圧倒されて戦いに勝つことが自分の価値観であると自らを盲信させていたのでしょう。

自然科学の発達によって社会が物質的に豊かになると、この集団の価値観の盲信を疑う心から民主主義が誕生したように思います。民主主義では、変わらない価値観をベースにして個人の特性に応じて利己的でない自分の価値観を自らが設定し、自分の価値観の実現のために楽しみながら行動し、望外の結果として「ありがとう」と誰かに認められることに喜びを感じることができます。

社会の進歩と退行

社会の進歩は、変わらない価値観をベースにして自分の価値観を自らが設定し、その実現のために行動をできる人の数がより多くなることではないでしょうか。

社会の退行は、自分の価値観を自ら考えて設定することを放棄し、社会の価値観に迎合させる人の数が増加することのように思います。

進歩する社会の各人の価値観の共通項である社会の価値観が利己的な支配者層によって歪められないためにも、各人は自分の価値観をしっかり確立し大切にしなければならないと思います。

集団の支配者層の価値観は、その集団の少なくとも過半数の人の役にたつことを実行することにありますが、利己的な支配者層の価値観は、変わらない価値観に反して、自分と利益を共有する集団のごく一部のみに役立つように行動することにあると思います。

現代社会の退行は阻止しなければならない

社会に不安や不満が満ちている状態では人々の「心」は退行し、独立性を失って社会に依存する傾向が強まると言われています。人々の「心」が退行すると社会も退行します。

人類は、狩猟、農耕、工業、高度情報化の各社会を生き続け、平和と戦争を繰り返してきました。高度情報化社会が進行する現代は、各国において社会に不安や不満が充満し、人々が自己中心的になっているような気がします。人々の「心」の退行を防ぐためには、不安や不満の要因を解消することが必要であると思います。

現代社会に充満している不安や不満の要因として、以下のようなものがあります。

・地球温暖化

・核戦争の可能性

・格差社会の拡大

・米国の相対的国力の低下に伴う覇権主義の台頭

・高度情報化による人の権利、能力侵害

・グローバリゼーションのマイナス面

・人文科学、自然科学の発達に対応できていない宗教の無力化

・民主主義を誤解した利己的な個人主義

・人の生き方についての幼少時からの教育不足

人類が社会の退行を続けて核戦争や地球温暖化などで自ら滅亡することは、創造主の価値観に反することであり、大多数の人が望まず、絶対に起こしてはなりません。人類の存在は、誕生があったことから無限ではないでしょうが、終焉は創造主の意思に従いたいものです。

各人が利己的な「心」を抑え、自分の価値観を自らの意思で設定し実行することによって、現代社会の価値観を、武力ではなく知力によって、世界中の人々が「心」を躍動させて生きる喜びを謳歌できる社会の実現に向けることができると思います。

さらに、自己中心的な指導者の出現を阻止し、社会の価値観が創造主の価値観に反したものになることを防ぐことができます。

現代社会の不安や不満の要因の多くは、2千5百年前においても論語などで行われていた「心」の教育がなおざりにされていることから生じている気がします。「人は何のためにどのように生きるのか」などの「心」の教育を社会全体で行うことの必要性を痛感します。

人は何故いつまでたってもかわれないのか

1.はじめに

心には、喜び、誠実さ、目標への情熱、思いやり、自己肯定感などのプラス面と、悲しみ、嘘、怠惰、利己、悲観などのマイナス面があります。

マイナス面の心は、喜びを感じながら「生きる」と言う欲求が満たされないときにプラス面の心が屈曲して出るもので、強い生命力が逆説的に表現されたものでしょう。

今の社会、マイナス面の心の発露が多く、いつまでたっても紛争を戦争で解決しようとする人々、利己的な社会の指導者、格差、弱者虐待、ひきこもり等の蔓延を見ていると、人はいつまでたっても変われないものなのかなと、なかば諦めそうになります。

否否、核戦争や地球温暖化など現世代の人々の心の未成熟で人類が滅亡の方向に進むことは断じて阻止し、対策を講じなければなりません。人々が心のプラス面を成熟させて生きる喜びを謳歌することが人類の存在意義ではないでしょうか。

2.心を成熟させることが人生の目標

人は、「体」、「知」、「心」の各能力を備えて誕生します。生まれた時は、身体は小さく、何も知らず、生まれたことに感動することもありませんが、全能力とも強い生命力を持っています。

体は、一世で生、老、病、死を経験します。そして、老いた体は若い体より生命力が弱くなります。

知は、前の一世の知識、思考を土台に積み上げていくことができるものであり、特に科学技術は、ここ何世代かに渡って急速に進歩してきました。

18世紀後半にイギリスの鉱山で使用されていた馬車鉄道が、250年ほど後に東京名古屋間で疾走するリニア新幹線までに進化することは、知識が何世代かに渡って急速に積み重ねられた結果だと思います。

知は心の発露に従って自分の価値観を実現するための一つの道具であります。科学技術の進歩につれて生活が便利かつ忙しくなってきましたが、多忙感の中に何か大切なものを置き忘れてきたような気がします。

心は、一世毎に白紙状態からプラス面を伸ばして成長を繰り返すもので、前の一世の心の成熟は参考にはできますが、その上に積み重ねて進歩することはできません。

孔子は、「・・・吾れ十有五にして学に志し、・・・」と言いましたが、2550年ほど経った現在でも、心を「15才で何かに志す状態」まで成長させている若者が如何ほどいるでしょうか。

心は自分の価値観を実現して人から喜ばれることにより琢磨され、これによって自分を信じ、人から信頼される状態まで成熟し、さらなる努力によって維持向上できるものと思います。このように、各人が心の成熟を目標にしてそれぞれ異なる道を歩み、ときに喜びを感じることが、まさしく各自の生きざまのような気がします。

2-1 心と知のバランス

産業革命以降に何世代に渡って急速に積み重ねられた知の結晶であるハイテク社会に一世毎の心の成長で対応するためには、幼少時から心の教育を家庭や社会で行って心の成長を促進する必要があると思います。

人は真、善、美を識別する潜在能力を備えて生まれてきますが、真、善、美を具体的に感受し表現する能力である心は、学習によって成長していくものであると思います。

しかし、今、何のためにどのように生きるのか、愛情や信頼や志とは何かなどの心に関する教育が十分になされていない気がします。

幼児教育・保育の無償化だけでなく、幼少時から心の教育を家庭や社会で行うことが必要だと思います。

心を鍛錬して成功した実業家、芸術家、スポーツ選手など各界の成功者が各地の小学校などで心について講演する仕組みを作ると、多くの親子が聴講して心の大切さを親子で素直に認識することができるようになると思います。

社会の価値観を権力、経済、勝利至上主義から協調、芸術、フェアウェイ精神に少しシフトすることも有効ではないでしょうか。

また、民主主義や子供の心の教育に百害あって一利なしの利己的で不誠実な政治家を選出しないことも必要でしょう。

2-2 心と体のバランス

体の状態は一世中に変化します。

心の発露に従ってそのときの体の状態に応じた目標を設定して活動することが、体とバランスした心の成長であると思います。

3.おわりに   

スウェーデンの16歳の少女グレタ・トゥンベリは、子どもの未来を地球温暖化で奪わないでくださいと呼びかけています。ノーベル平和賞受賞の女性活動家マララ・ユスフザイは、少女に教育を与える運動を続けています。

日本のスポーツ界などでも若い選手が心を鍛錬して活躍するケースが増えています。心の大切さを啓蒙、認識する機会を増やして、老若男女を問わず多くの人々が心の成熟を目標にして自分の価値観の実現のために行動するようになれば、生きる喜びに満ちた社会を永続できるでしょう。

早く知る方がより人生を楽しめる 

ラグビーに人生をみる

1.はじめに

今話題のラグビーが人生に酷似していることに驚きと興味を感じました。先ずラグビーは、各選手の役割が大きく異なっており、各選手はその専門職を自分の体力や能力を勘案して選択し、それになることを目標にし、身体と知能を鍛錬して選手の座を獲得し、日本チームという集団の一員になったと思います。各選手は、今回の大会でベスト8になるという集団の価値観を共有し、チームの役に立つという自分の目標を意欲と自信と助け合いで不安や困難を克服して達成したのでしょう。そして、各試合で国民の応援に後押しされて実力を発揮しチーム一丸となってベスト8を勝ち取り、国民に感動を与えるとともに賞賛され、各選手は大きな喜びと満足感を獲得したと思います。以下に、人生の楽しみ方をラグビーから学んでみました。

2.自分の存在意義の体感

人間は脳内に概念の世界と自分の価値観を自由に構築します。そして、正しい自分の価値観を実現する過程と結果に生きる喜びを感じることで、自分の存在意義を体感したとき、「生んでくれてありがとう」と言いたくなるようです。

自分の価値観は、創造主の意に反しない限り正しいものであり、自分が成したいこと、自分の成りたい姿、生き様など自分が実現したい或は憧れるものに対する欲求度合いだと思います。

創造主が人間に望まれることは、各自の正しい価値観を互いに認めて尊重し、協力してより多くの人が楽しく生きることではないでしょうか。従って、自分が望むことでも多くの人が生きづらくなる価値観は正しいものとは言えないでしょう。

個人が価値観に基づいて立てた目標は、美味しいものを賞味すること、趣味を楽しむこと、学芸、産業、スポーツ等において自分が実現したいことを成すこと等、色々なものがあります。

中でも自分の目標達成を他人が喜んでくれたときは、その他人の役に立てたことが確認でき、かつ自分が認められたことを実感できて嬉しさも倍増します。

いずれの場合も、目標を達成するための行動に喜びや悔しさを感じること、いわば目標達成サイクルを繰り返す中で、より多くに人に役に立つ或は喜びを与えることができる能力を順次取得し、自分としてもより大きい喜びを得ることができるようになると思います。

人生は短いようで長いです。子供の頃から意識して大小様々な目標達成サイクルを繰り返えすうちに、自分の大きな目標に向かって成長しながらその時々の生活を楽しめる気がします。

3.人の存在を成立させる主要素

各人が人間として生きる世界は、次に述べる主要素から成り立っていると思います。

鉱物や動植物から構成される物質の世界

・各人が脳内に築き多くの他人と共有している共通概念の世界

・各人が自分自身を存在している者として意識する自己

・物質の世界での各人の身体

・各人が認知能力(思考力、創造力、言語力など)を駆使し、物質の世界の認識、或は既存の共通概念の世界をベースにして脳内に築いた自分の概念の世界 

・各人が非認知能力を駆使し自己の行動に対して動機付けする各人の心

4.人の存在を成立させる各主要素の係わり合い

・人の存在の舞台になるのが、鉱物や動植物から構成される物質の世界です。

・共通概念の世界は、人類が存続するために授かった強力な能力(手段)ですが、人の存在の舞台にはなれません。

・自己は、自分の価値観を形成し、それを実現するための行動と結果に喜びや悔しさを感じる主体です。

・身体は、自分の価値観を物質の世界で具現化するための手段です。

・自分の概念の世界は、自分が脳内に自由に築いた概念の世界であり、自分だけの部分と他人と共有する共通部分があります。創造主は「生の多様性」を求められるので、人は独自の価値観を大切に思い、その実現に大きな喜びを感じるのではないでしょうか。

・各人の心には、自己を支える心、自分の価値観を具現化するのに役立つ心、共通概念の世界で多くの人と協力し、多くの人が共有する価値観を具現化するのに役立つ心があると思います。

心は、いわゆる非認知能力ですが、自分の価値観を具現化するための行動に喜びや悔しさを感じることを繰り返すことによって向上し強くなると思います。

自己を支える心は、自己肯定力、自信、自制心などです。しかし、人は迷いや失敗などで自信を無くし、自分を見失うことがあります。このようなときに、励ましや褒め言葉をもらうと自分の価値観の正当性を再確認でき、その具現化に向かって行動することができます。 

自分の価値観を具現化するのに役立つ心は、目標達成の意欲、情熱、忍耐力、自己抑制力などです。 

共通の価値観を具現化するのに役立つ心は、社交性、敬意、思いやり、感謝などです。 

5.価値観の具現化 

自己は、認知能力を使って自分の概念の世界に日々努力して構築した情報を活用しながら身体で意欲的に行動し、物質の世界において自分の価値観を具現化するために精励します。自分の価値観の具現化といえども周りの人々の親切な協力無くして達成することはできません。また、自分の価値観でもある共通の価値観の具現化には、それに関わる多くの人々が、社交性、思いやり、敬意などを潤滑剤にして協働することが必須です。 

6.おわりに

小学校の先生同士が虐めを行っている日本。憤りを過ぎて、一部の現象とはいえここまできたかと呆れてしまいます。人の養成には長い時間が掛かります。待ったなしです。人生の意義、正しい価値観、自分は何のために生きるかなどについて小学校から教え、自ら考える風土を社会全体で涵養することが急務と思います。

人の心は非認知能力

体と知能と心のコラボした喜び のために

  1. はじめに

いじめ、虐待、ひきこもり、煽り運転、若者の無気力、自殺など心の病を原因とする不幸な社会現象は一向に減少せず、むしろ増加し、悪化しているように感じます。これは、人の心の教育が不足し、自分・他人への肯定感が弱くなり、生き方、生きる喜びを見失った人の数が増加したためではないでしょうか。知能などの認知能力は熱心に教育されていますが、人の心である非認知能力はあまり意識的に育成されていませんので、非認知能力とその育成の必要性を考えてみました。

 2.認知能力と非認知能力

2-1認知能力は、記憶、思考、理解、計算、学習、言語、判断などを行う能力で、脳内に概念の世界を築いて他者と共有する人間固有の強力な生きるための能力です。

2-2最近、非認知能力の大切さが唱えられています。OECDは、非認知能力として目標の達成能力(忍耐力・自己抑制・目標への情熱)、他者との協働能力(社交性・敬意・思いやり)、感情のコントロール能力(自尊心・楽観性・自信)を挙げています。

換言すれば、非認知能力は、自己肯定感、目標への情熱、意欲、忍耐力、思いやり、感謝の気持ち、協調性などを発揮する人の心であり、生きる指針を示す価値観を形成する能力です。また、非認知能力が高いほど、所得やキャリアが高くなると多数の研究結果が指摘しています。

2-3非認知能力の中でも、感情のコントロール能力は、自尊心や自信を含むことから自己肯定感に近いように思います。自己肯定感は、人が生きる上で土台になるものです。

一般的に、現在の子供達の自他への肯定感の低下について、「自分は自分であっていいんだ」という感覚が低いために些細なことで傷つきやすく、また「他者は信頼できる存在だ」という感覚が低いために対人関係で過剰に気をつかったり、逆に攻撃的になりやすい、とされています。

自分の肯定、すなわち自分の存在があって、はじめて目標の達成、他者との協働が成立すると考えると、自己肯定感は、身体を認知能力(知能)と非認知能力(心)で行動させて、目標を達成する過程と結果に喜びを感じるという人間の存在(生きる)意義を実現するための土台であると思います。

これらを勘案して自己肯定能力を、自分の現状を正当に認識し、目標の姿の土台として肯定する能力と定義しました。自己肯定能力は、自己肯定感を強く持つことができるようにするための能力です。

揺らぐ土台の上には、何も建てられないのと同じように、揺らぐ自己を土台にしては、目標すら設定することができません。

正しい自己肯定能力は、自分の今日の姿をダメな姿と思わずにそのまま認めて、目標とする向上した姿の土台であると意識するだけのことであり、子供達に早期に意識付けすることが必要であると思います。このとき、自分だけが正しいと思う意識付けをしないようにする注意も必要でしょう。

現在の自分の価値観や目標が正しいか否か判断するときも、自分の現状を肯定して土台にし、現在の知識や思考力などを使って熟考した上で、必要があれば変更することになります。

2-4他者肯定感

他者も同じ人間であり、自分と同様の人の心を持っていることを、子供同士が楽しく遊び、喧嘩して痛みを感じる中から自ら学び、あるいは大人がしっかり教えて認識させることにより、子供は他者肯定感を持つようになると思います。

 3.非認知能力の育成

非認知能力を伸ばす子育て方法の詳細は、専門家に委ねるとし、ここでは非認知能力発達の弊害になる環境について述べます。

非認知能力は、主として子供の時に発達し、繰り返すことによって比較的容易に習得できるものであります。 非認知能力は10代後半まで鍛えられると言われていますが、 生涯に亘って各自が進歩させていく、楽しく生きるために力と考えます。

人の心は非認知能力であり、畢竟、生きる喜びを実感する能力であると思います。従って、大人でも非認知能力を意識し、目標に向かって行動することを繰り返すことによって非認知能力が 鍛えられ、自分の価値観に基づいて立てた目標達成の過程と結果に存在意義と喜びを一層感じるようになると思います。

特に、親が多忙などで幼少時に非認知能力の教育を十分受けられずに成人した人が、非認知能力を意識し鍛えることで、無気力、ひきこもり等の解消、自らの生きる喜びの発見に繋がるように思います。

3-1コンピュータゲーム、SNSの蔓延

子供達が仲間と遊ばないでコンピュータゲームやSNSに夢中になっています。二人で並んでコンピュータゲームをしても、一人でするよりましであるにしてもコミュニケーション不足です。非認知能力の発達には子供達同士で遊ぶことが有効であることは、種々の研究で明らかにされています。

eスポーツを学校の部活動に入れることをよしとするような教育界の猛省を期待します。

3-2家庭教育不足

忙しい世の中、両親の子供との関わり合い、教育が不足気味です。この対策に学校の認知能力教育専門の先生が非認知能力の育成や心のケアを親に代わって行うことは、質、量の面において不可能でしょう。非認知能力の育成を専門とする先生を各幼稚園や学校に数人配置することが必要であると思います。待機児童の解消も数合わせだけですませることなく、心の教育面も含めて考えて欲しいものです。

3-3学校教育不足

非認知能力は如何なる能力か、非認知能力が人間の生き方にどのような影響を与えるか、非認知能力を伸ばすためには如何なることをするとよいか、などを知識として行動として教育する必要があると思います。

学校教育が受験勉強の影響を受け、認知能力の教育を偏重していることも、全体的な教育のあり方の中で見直す必要があると思います。

 4.おわりに

幼児教育の成果がでるまでには長い年月が掛かります。非認知能力の高い人々が社会を構成し、心の病を原因とする不幸な出来事が激減し、大多数の人が、自分の価値観に従って設定した目標に向かって身体を知能と心によって行動させ、「身体と知能と心のコラボした喜び」を実感できる社会にしたいものです。

コンピューターゲームはスポーツといえるか

1.はじめに

コンピューターゲームを部活動に取り入れる高校が増加し、高校対抗のコンピューターゲーム全国大会が、全国eスポーツ選手権と銘打って千葉県で8月に開催されます。このような動き、或はコンピュータが生活に役立つ道具としての領域を越えて人の人たる領域を侵犯していくとき、人々が概念の世界のみで生息するように習慣付けされ、「自ら考えた欲しいものを遂に得たときに感じる生身の感動と喜び」を徐々に忘れ去り、人の存在意義を見誤っていくことを危惧します。

2.コンピューターゲームのスポーツ誤認動向

2022年に中国で開催されるアジア競技大会ではコンピューターゲームが正式種目になります。

JOCはコンピューターゲームをスポーツとして正式に認めておらず2022年のアジア競技大会のeスポーツ日本代表選手は、現時点ではJOCが派遣する日本代表ではないとしています。

以前アジア競技大会で囲碁が正式競技として採用された際は、JOCは当時設立された囲碁の団体(全日本囲碁連合)を承認団体として認可していたといいます。囲碁をスポーツとするアジア競技大会の見識を疑います。

IOCは2018年12月8日にコンピューターゲームをオリンピックのメダル種目として採用するという議論は、時期尚早であるとの見解を示しました。IOCは見解で時期尚早とした理由として、ゲームの内容に暴力や差別を含むことなどを挙げましたが、競技性の高いゲームは伝統的スポーツに比肩する身体能力を必要とするとしています。また、日本eスポーツ連盟は、ゲーム遂行の操作を指先だけではなく体の他部位の運動も必要する最新ゲームでは、伝統的なスポーツと同様に身体能力が必要であるとし、IOCへの加盟要件が整ってきたとしています。

千葉国体の開催に合わせて、全国都道府県対抗eスポーツ選手権が千葉県で10月に開催されます。

3.スポーツの定義

3-1. オリンピック憲章では、オリンピズム(オリンピック精神)の根本原則を「オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させる生き方の哲学である。・・・スポーツをすることは人権の1つである。・・・」とし、スポーツを直接定義していません。しかし、このような記載からオリンピック憲章でのスポーツは、肉体と意志と精神のすべての資質を高め、バランスよく結合させるために資する行為であると理解します。

3-2. スポーツについて、例えば、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典では、「競争と遊戯性をもつ広義の運動競技の総称。激しい身体活動や練習の要素を含む。・・・本来,人間が楽しみと,よりよき生のためにみずから求め自発的に行なう身体活動であり,ルールを設けそのなかで自由な能力の発揮と挑戦を試み,最善を尽くしてフェアプレーに終始することを目標にする。・・・」と定義しています。

3-3. してみれば、スポーツとは、身体を意志、思考、記憶力などの精神活動を活用して鍛え、身体と精神を調和して健全に発展させることによって、楽しみや生きがいを実感できる人生を実現するための一手段であると思います。

4.eスポーツの定義

4-1. 日本eスポーツ連盟によれば、「eスポーツ(esports)」とは、「エレクトロニック・スポーツ」の略で、広義には、電子機器を用いて行う娯楽、競技、スポーツ全般を指す言葉であり、コンピューターゲーム、ビデオゲームを使った対戦をスポーツ競技として捉える際の名称。」としています。すなわち、コンピューターゲーム、ビデオゲームを使った対戦をスポーツ競技として捉えただけのものであり、スポーツであるとは言っていません。

4-2. スポーツでないコンピューターゲームにeスポーツと名称を付けてスポーツと混同させた日本eスポーツ連盟に責任がありますが、コンピューターゲームを語るときにeスポーツと謂ったマスコミも、言霊の宿る言葉で自分の考えを伝えるプロとして反省の余地があるのではないでしょうか。

5.コンピューターゲームがスポーツでない理由

4-1. スポーツは、設定した目標の達成を目指して身体と精神が連動した身体運動で表現する技の実演であります。このため、その技に理想とされる体の動きの理想イメージを脳内に描き、理想イメージを実現できるように身体を鍛錬し、自分固有の身体特徴に合わせて理想イメージを何度も修正し、晴れの舞台で実力を発揮できるように練習を繰り返し、精神的強さも鍛えておかなければなりません。

コンピューターゲームは、ゲーム遂行の操作を指先だけでなく体の他部位を使用したとしても、技を主として身体運動で表現するものではありません。

4-2. スポーツは自分の頭で考えて自分にとって理想的な身体運動のイメージを脳内に築き、それを実現するためにどの筋肉をどのように鍛え、どのように使うか頭を使って工夫する必要があります。技を実演するときにも、状況に合わせて頭を使って身体運動に変化を加えることが求められます。

これに対し、コンピューターゲームは、他人が作成した概念の世界で、決められた動作のイメージを素早く選択するだけであり、頭を使って深く考えていると逆に負けてしまいます。コンピュータ-ゲームは人の考える力を退化させ、正しい判断力を奪っていく虞もあります。

4-3. スポーツには視力が大切です。そのため視力を鍛えることも行われています。

人間の目は水晶体の周囲の「毛様体筋」が緊張したり、ゆるくなったりしてピントを調節しますが、コンピューターゲームのようにスクリーンにピントを合わせた状態が長時間続くと毛様体筋が緊張し続け目が疲れて近視の原因になります。

4-4. スポーツは、身体(物質の世界)と脳(概念の世界)を調和して発展させ、技を身体で表現するものであります。

これに対し、コンピューターゲームは、概念の世界のみにおいて、身体をほとんど使わず脳をフル回転させて競うものであります。これにより、脳はコンピューターゲームに容易に洗脳され、自ら考えることを放棄して中毒症状を呈することが起きると思われます。

4-5. スポーツは、最終とする目標を達成するために、多面的な努力が必要です。例えば、身体を鍛える数段階の目標、理想のイメージを描く目標、自分の理想のイメージに到達するまでの複数段階の目標、精神的弱さを克服する複数の目標などがあります。そして、これらの目標を一つずつ努力して達成したときに得られる多くの喜びと感動が有ります。

これに対し、コンピューターゲームは、一つのコンテンツを長く続ける性格のものではなく、商業的理由や飽きられないために新しいコンテンツを次から次に注ぎ込んで新しい目標を設定するもののようです。

このように、コンピューターゲームでは、大きな目標達成は小さな目標達成の積み重ねの先にあり、これらを一生の間に楽しみながら充実して実践するという「人の心」を育てる場を提供することはできません。

5. おわりに

WHO(世界保健機関)がゲーム障害を、ゲームに熱中し、利用時間などを自分でコントロールできなくなり、日常生活に支障がでる病気として、国際疾病分類に加える見通しとしているときに、コンピューターゲームを高校の部活動に取り入れることは、若者の精神的、肉体的な健全な発育を任務とする教育者が行ってはならないことではないでしょうか。

また、スポーツでないコンピューターゲームをオリンピックのメダル種目に認定することは、目先の利害に惑わされることなく、声を大にして阻止すべきものと思われます。

「考える葦」でありたい

1.はじめに

地域紛争、歴史に学ばない大国の覇権争い、格差社会、宗教・民族対立、弱者虐待、など世界には、人の無知、弱さ、自己過信を根源とする不幸が渦巻いています。これは人類が創造主から賜った「各自が頭の中に築いた概念の世界を言葉で共有するという概念共有能力を誤って使っている結果のように思います。

一人では弱いホモ・サピエンスが概念共有能力を使って協力し地球上で最大勢力となったとき、その概念共有能力で自らを種々の集団に分別し、我が集団の価値観が正しいと、利己的利益追求に概念共有能力を誤用し、多くの不幸を生み出している気がします。

この概念共有能力を本来の「皆が人生を楽しむための力」として使うためには、特に、自分の頭で考える必要性が少なくなったデジタル化社会においては、幼少時からその正しい使い方を教えられ、各人がそのよい面と悪い面とを認識し、常に自らで考えることを意識しつつ概念共有能力を活用することが必要であると考えます。

人間以外にも集団を作る動物はいますが、これらは食べ物を得るなどの生きるために必要な範囲でのみ排他的になり、人間のように共有する概念の世界で集団を排他的に形成し、強力な概念共有能力を誤用して全滅するまで利己的利益を追求する冒涜者はおりません。

2.デジタル化社会の弊害

デジタル化社会は、人類が概念共有能力を使って創造した便利な道具ですが、本来人間が持っている能力を退化させるという大きなマイナス面を持っていることを強く認識する必要があると思います。

その一つは、人が「自ら考えること」を放棄し、「検索」して得た情報を自らが考えたことであると錯覚することではないでしょうか。ウエブサイトには正しいと思える回答が用意されており、人はその回答に賛同すると、それを自らのものとし自分の概念社会の一部に組み込み、その回答に賛同する人々の間に排他的な同質意識が生じます。

さらに、人々の思考停止が進むと、ワープロの使用で漢字を忘れるのと同じように、感性や観察力が低下し、人や物の個性のアナログ的な微妙な違いが識別できなくなり、デジタル的に区分したラベルを貼って個性の違いを認識しているつもりになります。この傾向はデジタル化社会が進むにつれて一層深刻になります。

3.若い時から共有したい生き方

概念共有能力は、自爆テロ、特攻隊などのような間違った価値観も刷り込まれるという負の面を備えています。少なくとも次に述べる人生を有意義に過ごすための生き方は、間違った価値観を刷り込まれることもなく、人生を充実して楽しく生きるために有効であると考えます。従って、このような生き方を若い時から共有するために、家庭、学校、社会で話し合い、伝承することは、より多くの人が充実した人生を楽しく過ごすことができる平和な社会を作るために有意義であると考えます。

3-1 人は、言葉(数字、記号も言葉に含まれる)を使って約束事(言葉も約束事)を決めることによって、各自の頭の中に無限に拡大可能な概念の世界を構築することができ、その概念の世界を言葉で共有する能力(概念共有能力)を授かっていること。

3-2 生きることは、自分の欲求に基づいて設定した目標を達成する過程と結果のセットで喜びを感じること。

目標達成過程での努力や工夫不足で結果が伴わなかったとき、嘘などをついて結果だけ達成したときなどに喜びはありません。嘘が悪いのは結果のみを求めるものであり、本人の真の喜びに繋がらないものだからでしょう。 しかし、非常に悔しく悲して喜びを伴わない結果であっても、必死に工夫し考えて努力した上での結果であれば、創造主の目的には叶ったものと思います。

理想の目標に向かう道程に沿って時々の自分の目標を立て、それに向かう努力の結果として達成感を味わうことの積み重ねの中で、大きな目標を達成できれば望外の喜びとなるのではないでしょうか。

3-3 自分が自由を望むのと同様に他人も自由を望むことを認めることが基本ルールであること。同様に、他人の痛み、悲しみの分かる子供に育って欲しいものです。

人はそれぞれ個性があり、能力、興味、行いたいことが異なります。これらの相異を互いに認め合い、各自が自由に個性を発揮する中で協力して共通目的を達成すると喜びも大きくなります。

3-4 人は弱いものであることを自覚して行動を戒めること。

自分の欲求、能力、立場などに基づいて自分の価値感を築き、その価値観に基づく目標に向かって行動するのが原則ですが、これを常に実行するには、かなり強い自己肯定感を備える必要があります。

失敗したときなど自信を無くし、他人の賛同、後押しが欲しくなるものです。しかし、この他人の賛同、共感は己の目標を努力して達成した結果に対する賞賛であって、他人の賞賛を目標として努力するものではありません。この点、共同作業は多くの人が目標を共有するので、肯定感が強くなり安心して行動できます。

3-5 人生は長いようで短いこと。

多くのことを学び、自分の能力を十分使ってより大きい目標を達成すると、より大きな喜びとなります。失敗することも学ぶことの一つです。大きな目標達成は、小さな目標達成の積み重ねの先にあります。これらを一生の間に楽しみながら充実して実践するには、時間を無駄にする余裕は無いでしょう。

4.おわりに

第二次世界大戦が終わって未だ100年が経過していない時期に、ナショナリズムが台頭し、大国がそれぞれの同盟国を囲い込もうと画策しています。デジタル社会の弊害は、英国のブレグジット選挙、米国の大統領選挙などに見られるように世界的な問題であります。

このようなときこそ、弱い人間が力を得て傲慢にならず、思いやりを忘れないために、パスカルの「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で 最も弱いものである。だが、それは考える葦である」を、もう一度考える必要があると思います。

哲学的な考え方の大切さ

1.はじめに

数ヶ月前に本屋さんの店先に、“イェール大学で23年連続の人気講座「死」とは何か”と言う題名の本が山積みされているのに衝撃を受け、その場で購入して読んでみました。衝撃を受けたのは、有名大学で答えの見つからない自問についての講座を長年続けていること、そして優秀な代々の学生がそのような自問に大きな興味を持っていることでした。因みに、著者のシェリー・ケーガン教授は、死後の世界はないと断言しています。創造主が存在するか否かについての記述はありませんでした。

いじめを経験した等のつらい思いをした学生以外は、「死とは何か」、「何のために生きるのか」などについて考えることは少ないと思います。答えの出ない、一銭の得にもなら無いことに時間を使うくらいなら、例えば就職に有利な講義を聞いた方が賢明だというのが、今の日本の親も喜ぶ一般的な選択ではないでしょうか。

ところが、フランスにおいても自分の頭でしっかりとものごとを考え、意見を持ち、論理的に説明できるようになるために哲学的な思考方法が重視され、高校では哲学が必須だということを知り、折しも2020年教育改革で思考力重視の方針が出されていますので、哲学的な考え方の大切さについて考えました。

2.日本での取り組み

平成27年5月28日に日本学術会議哲学委員会哲学・倫理・宗教教育分科会が、(提言)「未来を見すえた高校公民科倫理教育の創生 ─〈考える「倫理」〉の実現に向けて─」を発表し、高校教育での「倫理」がその本来の役割を果たすようにするため、従来の〈知識中心の「倫理」〉 教育から、〈考える「倫理」〉としての倫理教育への転換、を提言しています。

さらに、哲学者の思想や理論を知識として学ぶのではなく、哲学的に思考/対話するための方法および構えの模索が一部の小中学校で実験的に行われています。このような動きは哲学界にはあるようですが、教育界全体延いては社会全体に広がっているようには思われません。

しかし、現実社会では、答えの出しにくい問題を考えて時間と労力をとられるより、信用できそうな人、あるいは周りの人の答えに従う傾向が強いと思います。答えを自分の頭で考えて出すより、正しいとされている答えを多く記憶している方が仕事を早く処理できる場合も多々あります。多くのことを記憶できると、見識が広くなって正しい判断ができ、話題も多くなります。しかし、周りの答えや記憶に頼りすぎ、それが習慣化されすぎると、効率重視社会、インターネット社会の進行につれて常識では考えられない余りにもお粗末な事件が頻発するようになりました。

3.哲学的思考の意義

ハーバード大学等の試験で「あなたは何者ですか」との問いが定番となっているそうですが、この問いに対しては自分の価値観をしっかり持っていないと答えられません。この問いは、人はそれぞれ得意とする能力、興味、立場、環境等を異にする存在であることを大前提としています。先ず、この違いを客観的に把握し、その中で自分の成りたい人、やりたいこと等の目標を立てて、その目標に向かって行動するなかで自分の価値観を構築し、自分の価値観に従って生きることが幸せな生き方であることを前提としています。このように、自分の人生を意義深いものとするために、「自分は何者か」と問うて自分を客観的に見つめることが重要です。

インターネット社会において、ネットいじめ、ネット詐欺が横行し、いくつかの国では悪意情報が民衆を煽動し国政に混乱をもたらしていると言われています。これは情報が氾濫し容易に入手可能になるにつれて、個人での情報の価値判断が困難となり、安易に多数判断に同調する傾向が増大したことと、多くの人が情報の意味や真偽を自分の頭で考える習慣を放棄したためと思います。このような情報過多社会の弊害を無くすためにも哲学的な思考方法を子供の頃から家庭や学校で教える必要があります。

最近、子ども虐待、弱者殺人、煽り運転、SNSへの愚かな投稿など非人道的でヒステリックな犯罪が多発しています。このような幼稚で思慮分別の足りない大人を生む社会的風土は、「自己肯定感がなぜ必要か」など物事を哲学的に自分の頭で考える教育をしてこなかったための産物といえるのではないでしょうか。

4.おわりに

人は千差満別であるからこそ世の中に変化があり、個別的、地理的、時間的に相違、変化することに人間の存在意義があることを大前提とすると、その相違、変化を各人が自分の頭で考えて自分の価値観を構築し、自分の人生を有意義なものとするために、哲学的な思考方法を子供の頃から教える必要があると思います。

2020年教育改革に思う

人の心を大切に思い、心を豊かにすることが教育の根幹であると思います。自分が己の心を大切に思うのと同じように、他の人もその心を大切に思うことを尊重することも含んでいます。

人の体力は機械に追い抜かれ、昨今は、記憶力、思考力もビッグデータ、AIに抜かれた感があります。しかし、人の心は達成感、向上欲、愛、喜び、サービス心、忍耐力、悲しみ、などの様々な感情を生身に湧き上がる感覚として感じることができます。そして、高段者がAIに敗れた将棋、碁、日本人が最近はじめて10秒を切った100メートル競走などは、人間同士の技の競い合いにおいて、高みへの挑戦、心の葛藤、喜び、悔しさなどがあり、それを通して心を豊かにできるところに意義があると思います。しかし、AIロボットは、ある条件が揃えば嬉しい表情をし、別の条件下では悲しい表情をすると、仕組まれていますが、肌身でこのような感情を感じることはありません。

2020年教育改革で思考力重視の方針が出されていますが、記憶力と思考力とは、両者相俟って豊かな心を築くものであり、一方に偏りすぎないように配慮すべきと考えます。人の頭脳は、記憶された情報を思い起こし、学術、技術、芸術、スポーツなどにおける思考・創造活動を無意識の内に行っていると言われています。従って、必要な情報がインターネットから容易に検索可能であるとしても、豊富な知識、経験が頭脳に記憶されていることによって高度な思考力も発揮できるのではないでしょうか。